寒月氏は今年七十歳を以て二月廿三日に永逝した。本間久雄氏から、予の知るところの寒月氏を傳へて呉れと依頼を受けたので、ほんとにたゞ予の知れる限りの寒月氏――予の知らぬ他の方面の寒月氏も定めし多いだらうが、それに就ての臆測や聞取りなぞを除いて――を有りのまゝに思出づるまゝに記す。人の事をしるすに、
氏の極若い時は無論予は知らぬ。然し氏から聞いたところでは、氏は極若い時は當時の所謂文明開化の風の崇拜者で、今で云へば
然し予が氏を知つた時分は、氏は既に日本趣味の人であつた。今でこそ燕石十種は刊本にもあるが、其頃は寫本のみであつたし、大册六十册の完本は非常に珍稀であつた。それで氏はそれを圖書館で毎日毎日氣長に樂み/\影寫してゐられた。毎日借覽する本が定まつてゐるので、圖書館の出納係から云へば、まことに手數のかゝらぬ好い閲覽人で、いつとなく燕石十種先生といふ綽名をつけられたが、予輩の如き卒讀亂讀者流の出納係に手數をかけること夥しい厄介ものとは違つて、館の人とも自然に
繪は椿岳氏から學ばれたのか何樣か知らない。が、後に至つて自然と何處か椿岳氏と血脈
讀書はヘチ堅いものの方へは向はれ無かつたが、美術、文學、隨筆、雜書方面へは中
廣く渉られ、文學は徳川期、美術は奈良あたりまで、
手強いものが有つた。世間慾が盛んで、書畫骨董でも取扱つた日には、學問も文字も相當にあり、愛嬌も有り聰明怜悧の人であつたから、慥に巨萬の富を獲るに足るのであつたが、それでゐて其樣な事で利を得る人を冷眼に見るやうな傾が有つて、そんな事を敢てしなかつたところは、一ツは生活難が無かつた爲でもあらうが、氏のおもしろい氣風のところであつて、傲岸の氣味の無いでも無かつた依田學海氏などの氏を打寛いだ好い友人とした所以であつた。文學に於ても矢張り其氣味があつて、根深く手を染めてゐれば、多數で無いにせよ、必ずや一部二部は此人で無ければ書けないといふやうなものを留めたのに相違無いのに、西鶴ばりの「百美人」だのなんだのといふのを一寸書いた位で終つて仕舞つたのは、それも却つて其一生が幸福で有つた證據で芽出度には相違無いが、少し殘りをしい氣がする。俳諧なぞも芭蕉以後のイヤにショボたれたやうなのは嫌ひで、宗因風の所謂檀林がゝつたのを、我流でホンのよみすてに吟出するに止まつたから、永機なぞと知合つたにもかゝはらず、俳諧もおもちやにするに過ぎなかつた。エラがつて、おれの俳諧は眞劍だなぞと云ひながら、好い句も作れぬばかりで無く、審美眼さへまだ碌に開いてゐないやうな人
とはまるで行き方が違つてゐて、勝手に遊んでゐたといふ風なので、句も行水は其日
の湯くわん哉

の湯くわん哉といふやうなのが多い。寫實の句になると猶更抛り出したやうなのが好きで、
見おろすや音羽の瀧に三人ならぶ
は何樣だい、なぞと自ら笑つてゐるといふ調子であつた。かつて聯句を試みたことが有つたが、すべて其調子だから、何も彼も構ふものでは無いので、其の自由自在で、おもしろいことと云つたら無かつた。其代り所謂宗匠に視せると、宗匠は
禪にも或時代には參したのであるが、參禪などしない中から寒月流の一家の悟りを開いてゐるのだから、そして又恐ろしい禪師に出會するやうな機縁も無かつたのであるから、
洒落てゐる。本所の五百羅漢寺で或時問答をしたのを、丁度誘引されて傍觀した事があるが、思ひ出しても涙がこぼれるほどおもしろかつた。禪師が侍者を具して威張り込んで椅子にかけてゐると、僧俗が
な物がゴテゴテ有る、中にも古い佛像などが二ツや三ツで無く飾つてあつたので、外國婦人の事だから眼を人類學を研究するなぞといふ然樣いふ肩の張つた譯では無かつたらしいが、原人土器採集や比較などにも興味を有して、數
近在へ出掛けられたが、予は土器いぢりは好まなかつたから餘り知らぬ。然し一日、土器破片を氏が模造してゐるのを見て、實に其の好事に驚いた。何千年前の土器の破片を模造して、そして樂しんで居る人が、他に何所に有らう。すべて此樣な調子で自ら氏の一生を通じて、氏は餘り有るの聰明を有してゐながら、それを濫用せず、おとなしく身を保つて、そして人の事にも餘り立入らぬ代りに、人にも厄介を掛けず人をも煩はさず、來れば拒まず、去れば追はずといふ調子で、至極穩やかに、名利を求めず、たゞ趣味に生きて、樂しく長命した人で有つた。晩年の氏は、予が貧困多忙でおちついて遊ぶ暇が少くなつたために不知不識訪問して閑談を樂むの機會が乏しくなり、又住所も遠ざかつたので、傳聞に其無事なのを知つて居た位に過ぎなかつたから、よくは知らぬが、矢張り例に依つて例の如くおとなしく面白く世を送つてゐられた事とおもふ。中年頃の氏が藏書に富んで、そして其を予輩等に貸與することを悋まず、無邪氣にして趣味ある談話を交換することを厭はれ無かつたことは、今猶追懷やまざることである。
(大正十五年四月)