現代唯物論の対象となるものを物質論・認識論・科学論・文化論・の四部門に分けて見た。存在が物質であり、之を認識するのが認識であり、その認識が科学に組織されるのであり、そして科学は文化に包括される、と考えたからである。夫々の部門に適当な論文を配置して統一を与えた。
各部門がこれ等の論文で要を尽しているなどとは到底思われない。寧ろ当然載るべき個処の論文が載っていない場合の方が多い。云わば之は、私の原子番号の内で今後の発見をまつ処のものである。論文は学究的乃至解説的なものを主とする。数年前のものもあるが加筆して編集した。
「空間論」は昔から多少纏めて見たいと思っていたので、之までどの論文集にも再録しなかったけれども、今の処ではいつ眼鼻がつくとも判らないので、ここに加えることにした。之は私を唯物論へ導く働きをしたものの一つで、思い出のあるものだが、空間問題は数年来理論的材料が増加しているので、私の論文が数年分後れた考察となったのは已むを得ない。いつか機を見て物にしたいと思っている題材である。――なおこの書物に現われた内容上形式上の甚だしい不備の点は、いつか恢復しなければならぬと考えている。
最後の論文(一〇、現代唯物論と文化問題)は新しく書いたもの。他のは『岩波講座』(「哲学」・「生物学」・「教育」)・『唯物論研究』・『理想』・『改造』・『中央公論』・其の他に一旦載ったものである。――なおこの書物の内容は、私の他の著書と密接な関係がある。奥付裏の著作表*を参照されるなら幸である。
一九三六・一二
一九三六・一二
東京
戸坂潤
[#改ページ]吾々の社会生活は、いつも一定の歴史的に与えられた生産関係内で行なわれている。そして今日の生産関係は就中物質的技術過程に制約される処が愈々多い。社会人としての今日の吾々は、この物質的技術過程を通して初めて、自然に対する高度の具体的な交互作用を有つことが出来る。処が技術というものは、多くの人達が比較的常識的にではあるが特徴的に説明する限り、或る意味に於ける科学の応用又は科学そのものでさえあり、而も技術がその本来の形態と本来の意味とに於ては物質的技術でなければならない限り、それは代表的には自然科学の応用又は自然科学そのものだとさえ云わねばならぬ。だから結局、自然科学乃至技術が今日の生産関係に対する交互関係は、生産関係にとって終局的な決定関係ではないにしても、極めて重大な決定関係にあると云うことが出来る。
で、こうした生産関係の上に立てられている政治組織や諸文化体系は、今日何処の国、どの国民にとっても、自然科学乃至技術の組織・自然科学乃至技術の範疇体系・から独立であることが出来ないばかりではなく、積極的にこの範疇体系との連帯関係・共軛性・を保持し又は回復しなければならない宿命におかれている。
自然科学乃至技術とのこうした連帯関係・共軛性・の下に今日にまで発展して来た哲学は、世界にただ一つ、所謂欧州哲学だけなのである。支那や印度の哲学は、今日吾々が自然科学と呼んでいる処の系統にぞくする自然科学、即ちそれが社会に於ける生産関係にまで物質的技術として応用され得る筈の性質を持った自然科学、そういう本当の意味での自然科学とは、無関係な方向へ向かって発育したために、遂に社会の生産関係の発達と歩調を合わせて行くことが出来なくなり、その結果が今日、わずかに死んだ文献学的な歴史的文化型として残ることになって了ったのである。今日或る国などで、こういう死んだ古典的文化型を復活させようという運動があるとすれば、夫は科学的な意図からではなくて、何か非科学的で観念的な、イデオロギー的な、意図からに過ぎない。
さて、こういう欧州哲学がギリシアの植民地から発生したことは今更云うまでもないことであるが、今吾々に問題になるのは、ギリシア古代哲学が、殆んど凡ての場合、根本物質が何かという問題から出発したという点である。
少なくともソフィスト乃至ソクラテス以前のギリシア哲学――それは一般に自然論又は自然哲学と云われている――の発展は、根本物質とは何かという、最も原始的な併し最も根本的であるだろう問題の解決の苦心の跡である。なる程それがソクラテス等の手によって、又後には色々の種類の道徳論者達の手によって、又更に後になると教父達や神学者達によって、更に近世になっては自我哲学者や精神哲学者によって、哲学の舞台の背後に押しやられたようにも見えるが、併しそれは単に部分的な場合だけを見た人にとってそう見えるにすぎないのであって、その現象の総連関の裏を見えがくれに貫いて来ているものは、やはり「物質の問題」であったと云わねばならぬ。
形相や観念や又夫から系統を引く自我とか精神とか意識とかいう問題も、「物質の問題」との根本的な交互作用がなかったならば、全く気の抜けた閑話題に過ぎなかっただろう。物質の問題は、哲学の歴史の凡てを貫く、最も本格的な根本問題の一つであったし、そして大切なことには、それが又今日では、愈々益々そういうものとして自覚し直されつつあるように見えるという事情である。――そう考えればこそ、唯物論と観念論という対立が、夫々の例に於ける無限の相違と根本的な諸対立とにも拘らず、最も基本的な対立と見られる理由も出て来る。
物質の問題が哲学の根本問題だということは併し、実は、物質というものが他でもない「存在」の概念だったからである。根本物質が水であるとか(タレス)、空気であるとか(アナクシメネス)、火であるとか(ヘラクレイトス)、無限者であるとか(アナクシマンドロス)、等々と云われる場合、物質という概念と存在という概念とは少しも別なものではない。パルメニデスが存在という範疇を初めて規定しようとしたのは、取りも直さず、物質を水や空気や又無限者等々として規定する代りに、単に物質を存在そのものとして規定したに過ぎない。――ギリシア古代自然哲学が一般に存在と考えたものは、今日から云えば物質であったというまでで、実は物質という範疇が初めから独立して考えられていたわけではなく、従って、之と存在という範疇との区別などは問題にはならなかった。これは物質という範疇の発展に於ける注意すべき第一段階である。
だが、パルメニデスに於て、物質が存在という範疇で云い表わされ始めると同時に、之に対立して、ともかくも無という概念が日程に上って来る。存在は、物質は、云うまでもなく在る・有であって、従って無ではない。かくて物質は存在・有として、無に、対立させられることとなる。初め別に何の対立をも知る必要のなかった無邪気な物質は、今や、とに角無と仮に呼ばれる処の対立者を予想せざるを得なくなる。之は物質の歴史の第二段階である。
デモクリトスになると、存在・物質・は無意識的に無に対立させられる。無とはこの場合空間・場所・と考えられる。アトムという物質は空間という無に於て運動するものとして規定されるのである。
処で、この代表的な唯物論者の主張の内に、物質という概念の根本的な変革が、観念論的変革が、用意されていたことは意外である。と云うのは、分つべからざる(それが A-tom という言葉の意味だ)最後の物質・存在・の単位として、アトムは必然に一定形態を、一定形式を、一定形相を、持たざるを得ない。で存在することは今や幾何学的な形を持つことを意味するようになる。即ち物質は単に物質であることによっては必ずしも存在ではなくなり、ただ夫が一定形態を持った物質である時初めて存在の名に値いする。存在の存在たる所以は、存在の本質・存在のウシヤ=実体・は物質にあるのではなくて形に存する、ということになる。かくて物質と存在とは分離し、存在は形として、之に反して物質は形のないものとして、存在の対立物の側にまわされる。物質概念の発展に於けるこの第三段階は特に注目を要する。
と云うのはこの段階に相当するものが取りも直さずプラトンその人であり、プラトンこそ観念論の古典的典型たる「イデア論」の組織者と見做されているからである。夙くはソクラテスの理想主義や晩年にはピュタゴラス学派の数理論と共に、プラトンをこのイデア論に導いたものは、却って今云ったデモクリトスの原子論だったのである。
若年及び壮年のプラトンに取っては、ギリシア哲学の古典的課題であったこの物質の問題は、あまり興味を惹かなかったように見えるが、ピュタゴラス的見解を宇宙論にまで体系づけようとした晩年の彼は、嫌でもこの最後の問題に触れなければならなかった。彼はイデア自身が横たわるべき床、イデアの位置として、場処・空間・という観念を導き出したが、之が後にアリストテレスによれば、「プラトンのマテリエ」と呼ばれるものであって、夫がわが物質の概念の再興だったのである。
だがここで物質の概念が、先に云ったような根本的な地位の変化を受けなければならなかったと共に、当然それから結果することでもあるのだが、根本的な意味の変化をも受け取らねばならなくなった。物質はだから今や、物質と呼ばれる代りに質料と呼ばれる。かくてプラトンの質料は無そのものなのである。
プラトンに於ける物質の概念、質料としての無という概念、の本質は、極めて解釈の困難な併し約束に富んだものなのであるが、それはギリシア哲学ではあまり健全な発展を遂げることが出来なかったようである。少なくともアリストテレスによっては、この概念は、あらぬ形の問題にまで引きずられて行った。と云うのは彼によれば質料とは単に可能性という範疇に他ならないものになって了ったからである。尤もプラトンの質料・無・は、まだ有・存在・ではないという意味での可能性の一つの場合に這入るわけであるが、それであるからと云って、何も質料と可能性とを同一視しなければならぬことにはならない。なぜなら単に可能性という範疇には、質料――それは元来物質という概念の変形だった――のもつ物質らしい意義が蔽い隠されて了っているからである*。
* ギリシア哲学に於ける物質の問題の歴史に就いては Baeumker, Problem der Materie in d. griechischen Philosophie が纏ったものである。
かくて物質の概念は、古代自然哲学からプラトンのイデア論に至るまでに、存在の概念から無の概念にまで、転化して来た。だが古代ギリシアの唯物論的世界観が観念論的世界観によって置き換えられねばならなかった社会的必要があったと見るならば、この変化は寧ろ当然過ぎることではないだろうか。
その後、ルネサンスを経て自然科学が勃興し成熟するまで、欧州の哲学の本流に於ては、物質の概念は久しく不遇の位置に置かれていた*。実験的生理学や実験的物理学の発達によって、物質という概念が新しく造り上げられたのを機会にして(そして吾々はそこにデモクリトスの所謂機械的世界観、実は唯物論的世界観の、及びアトミスティークの、様々な古典復帰を見るのであるが)、物質の概念は再び哲学の本流に於ける王座の位置を、又は少なくとも完全な市民権を、漸くにして取り戻した。そこにはホッブズ、スピノザ(之には尤も露骨に物質の概念があるのではないが)を初め、十八世紀のフランス唯物論者・十九世紀のドイツ唯物論者・の物質の哲学を見ることが出来る**。フォイエルバハは物質を自然として(ここではスピノザとシェリングとからの影響を見逃してはならぬ)前面に持ち出したが、マルクスとエンゲルスとは之を最も具体的な概念にまで加工した。
* アリストテレス以後自然哲学は、即ち物質問題の哲学は、アラビアの哲学として伝承される。ルネサンスの自然哲学の直接の材料となったものは之である。例えば Albertus Magnus などは一面に於てアラビア自然哲学の有力な紹介者だったと見ても好いだろう。アラビア哲学及び其の後に於ける物質問題の発展に就いては、Lasswitz, Geschichte d. Atomistik, 2Bde. を見よ。
** L. Feuerbach, Geschichte der neueren Philosophie 参照。
さて吾々は、物質という哲学的概念――物理学乃至一般に自然科学に於ける範疇としての夫は又別に考察すべきである――が今日何でなければならぬかを吟味する順序になる。処で、前に挙げた、古代ギリシア自然哲学に於ける物質概念の発展の三段階は、この場合典型的な意味を有っているのである。尤も吾々は何も、物質の問題がギリシアに於て典型的な解決に到着したとは考えない。そうでなかったということをこそ、すでに述べたのだった。それは今日に至るまでの哲学問題一般の発達を抜きにしては、即ち今日に於ける物質問題の具体性を抽象し去っては、何の解決へも齎される筈はない。――だが、そのためには恰も、古典的な問題発展形態が、原始的な手懸りとなることが現に出来るというのである。
物質という哲学概念は第一に存在の概念であり、それが第二に無に対立する存在の概念となり、第三に、無の概念自身となるという、過去に於ける歴史的展開は、同時に、今吾々が追跡しようとする理論的展開の順序にもほぼなるだろう。ただ、ギリシアに於ける物質概念のこの歴史は遂に解決を持つことが出来ず、「プラトンの質料」の概念に至って行き詰って了ったに反して、吾々の場合は何か合理的な解決に行かねばならず、又行き得るだろうという違いがあるだけである。
哲学史を通じて物質という概念はありと凡ゆる様々な意味で用いられている。特に夫が至極ポプュラーな概念として大量的に用いられ始めたのは、恐らく十八世紀のフランス唯物論者達の啓蒙活動に負う処が多いと思うが、処がこの唯物論者が主として、当時世界観の新しい観点になるまでに台頭しつつあった実証的な自然科学――生理学乃至物理学――を一般理論の根柢としていたのであったから、哲学史の上でも、物質と云えば直ぐ様自然科学的物質、即ち前に述べた物理学的物質、に限るもののように考えられ勝ちであったことは事実である。だが吾々は、これをもっと根柢的に、一般的に、恰も哲学的物質の或る特殊の場合に他ならぬものと考えねばならなかった。
で哲学的に云って、物質とは常に、第一に存在自身を云い表わす概念でなければならぬ。尤も存在という言葉には二つの一応区別されて然るべき意味があるので、一つは存在するもの・存在物・存在者・であり、之が存在の――最も物質的な――最後の意味でなければならないが、併し同時に、之からの或る抽象体として存在すること・「存在する」・というもう一つの意味を区別することが、分析の上で必要だと考えられる。
最近の存在論(Ontologie)――それは嘗て形而上学と全く同じものを意味した――という概念は、今日では一定の偏極された意味にまで集中されて、何か専ら「存在すること」としての存在の理論のことだということになっているが、この場合でも実は何かの存在者を背景に想定しているのでなければ、存在論の実際の体系は出来上らない。例えばM・ハイデッガーは人間という存在者を、又彼の拠って立っている古典であるアリストテレスは自然という存在者を、背景に持っており、そのような存在者からその本質・実体・という抽象態を取り出して、その分析を存在論の体系にしているのである。だから存在論は寧ろ当然なことながら、「存在すること」に関する理論であるよりも、却って元来「存在者」に関する理論であったのであり、それ故にこそ初めて所謂「存在すること」の理論にもなれたわけなのである。
「存在すること」に関する理論は、存在論であるよりも寧ろ論理学のものでなくてはならないだろう。そこでは存在者に就いて、それが存在するものである所以の「存在」という概念を、そうした範疇を、まず第一に、と云うのは「存在者」を分析するための方法から云って第一番に、検討しなければならない。
さて、何物かが――それは今の処抽象的に云えば何でも好い筈だが――存する又はしない、何ものが存在者である又はない、そういうこと自身を決定する処の、存在という範疇、それがすでに物質という範疇に他ならないのである。但し、この意味での物質は決して物質の意味ではない。後のもののための単なる一つの前段階的な抽象態にしか過ぎないことを忘れてはならぬ。だが、今大事なことは、こうした抽象体[#「抽象体」はママ]自身がすでに物質でなくてはならぬという点である。
存在というものを、「存在者」から抽象された「存在すること」・「存在する」・に於て捉えようとした代表的なものは、最も手近かではヘーゲルであった。彼が存在(Sein)と呼んでいるヘーゲル哲学体系の第一範疇は、他でもない、思考の自己規定――措定・テーゼ・――そのものを意味するに他ならぬ処の「ある」ことであって、文法的に云えばコプラ(繋辞)が名詞形になったものであり、決して何等かの観念とか又は所謂物質とかの存在を意味するものではない。そういう点でこの存在は全く論理学上の概念だと云ってもいいのである。
処がヘーゲルの論理学乃至論理は、云わば純論理的論理又は論理の論理でしかなく、論理と論理が実はそれを追跡すべきである存在者とが、同一哲学風に自同関係に置かれて了っているから、論理的判断のコプラであった例の「存在」という第一範疇が、同時に存在者自身の端初となっているわけで、存在者は要するに論理的判断のコプラとしての「存在」から出て来るかのように見えて来ざるを得ない。人々はだから之を「発生論理」といって批難することも出来るわけである。
存在者はヘーゲルの方法によってはコプラ「ある」に帰着せしめられる。コプラとしての「存在」・「ある」・は云うまでもなく、何も物質という言葉で云い表わされる理由を有たない。そしてヘーゲルによれば、存在者というものも亦そうした「ある」に帰着するというのだから、存在者としての存在も亦、何等物質という概念と関わりを持ち得ない。ヘーゲルに於ては「物質」とは死んだ生命のないもののことを意味する言葉で、存在とは凡そ何の関係も持てない。――事実ヘーゲルに於て強いて存在者を求めるならば、夫は物質などであるどころではなく、正に精神・理性・イデー・というような「活きた」非物質的な概念によって云い表わされる処のものでしかない。
でヘーゲルの場合に於て明らかなように、「存在する」(「存在」の今の場合の抽象態)ということ自身が「物質」だという主張は、すでに観念論に対する唯物論にだけ固有なものであるということを忘れてはならぬ。観念論と唯物論とを区別するものは、簡単に云って了えば、存在者が――「存在すること」がではない――或る特定な意味で、観念であるか物質であるかにあるわけであって、存在者(観念又は物質)からの単なる抽象態に過ぎない「存在する」という論理的範疇だけからは、実は「存在する」ということが物質と呼ばれて好いか悪いかは決って来ない。だが観念論が「存在すること」をばどう考えたか、それがどういう困難を持つか、という点を検討して見ると、少なくとも夫だけで、存在=「存在する」という第一範疇が、なぜ物質乃至質料――哲学的範疇としては二つは同じものであるべきだ――の名で呼ばれねばならぬかが判るだろう。
というのは、観念論の典型的なものは、存在者並びに存在することをばイデアとして云い表わす(イデア主義= Idealismus =観念論)。即ち今の場合、観念論の典型的なものによると、存在することとは他でもない、イデア=形相(形式)ということである。この規定は云うまでもなく質料乃至物質に対立する。でこういう形相としての存在に対立して初めて、物質(質料)は存在どころではなく、それの正反対物である無と同一視される。之は存在乃至物質に就いての観念論的な概念なのである。
処がすでに「プラトンの質料」に於て見たように、典型的な観念論による存在の論理にとっても、単に形相(存在)だけでは、結局問題が――宇宙論の問題が――解けないので、形相(有)をそのまま受け容れる処の無が規定されなければならないのであった。併し無が本当に無ならば、パルメニデスの云った通り、夫は元来初めから問題になり得ないものである筈だ。それが問題になることが出来、否、それが問題にならざるを得なかったのは、だから実は、所謂存在(有)という概念だけでは、本当の存在(有)の概念そのものが解決出来なかった証拠でなくてはならぬ。存在は形相では片づかず、却って無と考えられた質料を必要とする。而も形相はこの質料の床の上で初めて形相ともなることが出来る。存在をして存在たらしめるものは所謂存在(形相)ではなくて、却って無(質料・物質・)だということになる。実は、「プラトンの質料」なるものも単なる無などではないので、却って無限に豊富な、何等かの固定した形相(夫が観念論による存在の概念だ)によっては云い表わされ得ないような、もりあふれる存在だったのである*。そうすれば、存在が優越的な意味で何故物質と呼ばれねばならぬかが、判って来た筈だ。
* プラトンの対話篇『ティマイオス』に於けるこのプラトン的質料の解釈に就いては V. Brochard, Le Devenir dans la Philosophie de Platon(邦訳・岩波『哲学論叢』二〇号)を見よ。――なお「存在」の概念の分析では、和辻哲郎教授の『人間の学としての倫理学』は、凡そ反唯物論的な見解の見本として注目に値いする。存在という言葉は、その字の意味から云って「人間」を意味する他はないというのである。なる程「倫理学」にとってはそういうことが必要と見える。
さて物質という概念を、さし当り、抽象態に於て、このように「存在すること」自身の概念だとすると、ここから二つの重大な性質が見出されることになる。
第一は物質の自己運動に就いて。物質の自己運動ということは常識的な表現では極めて見易い事実であると云える。天体は、宇宙は、何も他に俟つ処なく――別に宇宙の外に之を動かしたり創造したりする神や神々がいるのではないから――自分で運動しているということは明らかだ。併しそれでは今の場合の分析の拠り処とならないので、存在することとしての物質という概念が、すでにそれだけで、運動という概念を結果するということが、問題なのである。
夫は他でもない。物質とは所謂存在(有)と所謂無との、云わば媒介概念だったのである。所謂有は所謂無に於て初めて所謂有となることが出来る。無論有は無でないが故に有であり、無は有でないからこそ無である、否寧ろ無でさえないのであるが、存在することの真相は、この有の内にもなければ、無論又無にもないので、とりも直さず、有が無によって初めて有であり、従って無によって初めて有となる、という点に横たわっている。この意味では有は無から出て来る他にその存在理由・根拠・根柢・を持たぬ。で本当の存在、物質とは、かかる存在と非存在との総合統一であり、それが実は運動ということに他ならない。
物質――但し今は存在者から抽象態としての「存在する」という意味での物質――の今云ったような運動は、物質という何等かの存在者があって、それが外から、何かによって、例えば物体とか主体とか神とかその他によって、動かされるのではなく、それが物質であり存在であるというだけの点から同時に運動である・運動する・というのであったから、吾々は之を物質の自己運動と呼ぶ他はない。尤も物質の自己運動というと、例えばタレスの物活論というような最も素朴な幼稚な思想ででもあるように考えられるかも知れないが、今は例えば水という存在者が存在であるとかないとか云っているのではなく、従って水という何かの素材があって、之に運動力が備わっているとかいないとかいうようなことを主張するのではない。問題は存在・物質・という範疇の固有な内部的論理的構造を分析することにあるので、その内部的論理的構造が自己運動というものを云い表わしているというのである。
物質が自己運動を持たねばならぬということは併し、物質・存在・が弁証法的なものだということの他の何ごとでもない。弁証法というものは或る人々によると単なる客観と考えられるような存在=存在者だけに就いては考えられないもので、存在とその認識との間とか、客観と主観との間とか、又は主客相関的なものとしての存在の主観面と客観面との間とか、にしか見出せないものだと云う。で単なる客観的存在としての自然が、それだけで弁証法的だと主張するような自然弁証法の概念は、弁証法そのものの性質から云って成立しない、とそういう人達は云うのである。なる程自然的存在がどれ程運動しようと変化しようと、それだけで夫を弁証法的だと呼ぶことは神秘的な命名法にしか過ぎないだろう。だが、こうした自然的運動・変化・を弁証法的と呼ぶことは、一般に物質そのものの弁証法というものの認識から来る必然的な一つの結果なのであって、そういう結果として見る時、この運動乃至変化は自然弁証法の意味を持たなければならないのである。
自然弁証法というものは、物質・存在・の概念が自己運動の概念だということを意味する処の、物質の弁証法の必然的な一つの結果でなくてはならぬ。そしてこの物質・存在・の弁証法は、今まで見て来た通り、何も主観や主体や観念やを必要とするものではなかった。――之に主観的・観念的・契機を付け与えることは、今の場合である限り、不可能ではないだろう。だがそういう方法は後で困った結果を惹き起こすだろう。後になって夫を見ようと思う。
物質という今まで云って来ている概念の内に見出される第二の重大な性質は、次に、物質のこの自己運動・この自己発展・に際して現われる。というのは、物質に於ては内容から形式が生れるのであって、その逆ではない、という性質が必然的なのである。
形式(形相と云っても好い)だけを存在又は存在者の原理と考えようとする傾向は、多くの観念論の特色である形式主義に他ならないが、形式主義は必然的に内容と形式との二元論に陥るか(例えばカント)、又は両者の広義の調和説に陥る他はない(例えばアリストテレスの目的論・スピノザの平行論・ライプニツの予定調和説・等)。この困難を免れるには、形式から出発する代りに、即ち形式を「端初」――夫が「原理」と訳されるのである――とする代りに、内容から、質料から、即ち物質から出発しなければならない。この唯物論的内容主義・質料主義・が、物質という概念そのものから来る必然的な結果の一つだ、ということが大事である。
物質に於て、内容は次のようにして形式を生産して行く。内容Aがその自己運動・自己発展・によって、自分自身の内から或る一定の抽象態を抽出する。運動というものが弁証法的である限り、かかる自己抽出は必然的である。この抽出物が形式aであり、ここでAは形式aの内容だったということになる。処が形式aは単に内容Aの形式であるばかりではなく同時にAからaが抽出されたという新しい状態(A-a と書こう)に対する形式的内容でもなくてはならぬ。即ちこの際内容Aは形式aを抽出することによって、すでに内容 B={A+(A-a)} にまで発展しているのであり、それは同時に又、次の形式の内容だったということにならねばならぬ。以下之に準じて、内容は形式を生産して行く。そして又之によって内容が発達して行く。――なる程形式が一旦抽出されればそれが次の内容を生産するようにも見え、従って内容と形式とは交互作用に於て相互に生産し合うというように見えるかも知れないが、そういう交互作用そのものが、実は内容から生産されるのだということを忘れてはならぬ。
内容と形式とのこうした生きた動的な連関は、全く物質の特性の他のものからは来ない。そういう点から、この関係はいつも物質的と呼ばれる理由がある。例えば社会の根本構造に於て、内容に相当するものは生産諸力で、形式に相当するものが生産諸関係であるが、両者の相互関係を決定するものは、いつも終局に於て内容としての生産諸力であるから、その生産諸力そのものが自然・物質・に直接基いているということを他にしても、なお之は取りも直さず物質的生産諸力であり、従って之によって生産される・決定される・生産諸関係は、精神界に対比した限り物質的であることを他にしても、なお社会の物質的基礎となるわけなのである。――現実的なものはいつも内容又は内容から来る処のものである。一般に現実的なものが物質的と呼ばれ得る所以はここにあるのである。
以上は、存在者から抽象された「存在すること」としての存在、を云い表わす限りの物質の概念の分析であったが、抽象態としての存在が、その本源である具体的な存在に、即ち存在者にまで、還らなければならないのと全く同じに、物質の観念は抽象態としての「存在すること」を意味する段階から、それの本源である具体的な存在者自身を意味する段階にまで進まなければならない。
なぜそこまで進まなければならないかは、次の点を考えて見ればすぐ判る。というのは、もし今までの段階に止まっていると仮定するなら、物質に就いて見出しておいた例の二つの重大性質、物質の弁証法的自己運動と、物質の現実的な内容性・形式生産性・とが、実はどうにでも――観念的にでも唯物論的にでも――解釈できるような不定なもののままで残されることになるだろうからである。
例えばフィヒテに於ける自我の純粋活動も一種の弁証法的自己運動だし、ヘーゲルに於ける理性の自己実現も一種の現実的な内容性・形式生産性・をもつと考えることが出来るだろう。そうすると二つとも、物質のもつ固有な性質である必要は別にないことになって了うだろう。――だから、物質は、自分が物質である所以をば、今迄の段階ではまだ充分に発揮していなかったのである。物質が物質の面目を充分に現わすためには、物質は「存在する」ことの概念から、「存在者」を意味するものにまで、溯源して行かなければならぬ。――一般に本当の唯物論と自由主義的な「存在論」・「人間学」・等々との峻別点はここにある。
では何が代表的な存在者であるか。――近世哲学の特色は、認識論の名の下に、主観と客観との或る種の対立を仮定して出発することである。そしてその際、客観とは多くの場合、自然や物その他であるが、主観は之に対して、意識・観念(自覚・自我・理性・精神・イデー・等々)・を意味しているのが常である。元々、少し古い時代には Subjekt なるものは今日の言葉で云えば却って客観的な主体を意味し、Objekt は単に主観的な表象を意味したにさえ過ぎなかったのが、近世の所謂主客対立という根本仮定に来ると、Subjekt は主観、Objekt は客観、ということに変って来たのである。それは人々の知っている通りである。
処でこうした主客対立の仮定に際しては、いずれの場合でも結局、主観が客観に対して常に優位を持っているということが根本的な特色であるという点を注意しなければならぬ。積極的に真向から主観(即ち意識・観念・等々)の優位を説く処の観念論は云うまでもなく、主観と客観とを二つのものの相関関係に於て同格に取り扱うと称する云わば Real-Idealismus = Ideal-Realismus、主客未分の直接経験から出発すると称する各種のマッハ主義其の他も亦、一種の主観優位説(それが観念論のことだ)なのである。元来意識乃至観念と自然物其の他とは、決して同格などではあり得ないのであり、なぜそれが同格であるかは多分どこからも証明出来ないことだと思うが、之を同格にするためにこそ、意識乃至観念を特に主観という概念にまで、そして自然其の他を特に客観という概念にまで、抽象化す必要があるのであった。処で主観と客観というこの抽象的な対立物の関係に直して了うことは、結果から云えばなる程両者の同格を云い表わすことではあるが、その動機から云えば、実は他でもない観念論の、主観優位説の、根本要求から来たものなのである。
主観客観の対立を仮定するということは、主観なるものと客観なるものとが、同時に与えられているという仮定である。之は全く一つの仮定であって、主観という又客観という概念そのものから当然そうでしかあり得ないだけのことである。――処が客観的な存在者である処の自然や物と、主観的な存在者である概念や意識とは、決して同時に与えられたものだなどとは仮定出来ない。なぜなら、現に事実上両者は同時に与えられたものではないからである。実証的な知識は、意識や観念よりも先に自然や物がなければならなかったことを、吾々に教えているからである。両者はもはや同格などではない。
併しこう云うと「批判的」な哲学者達は無論反対するだろう。哲学上の議論をしている時に、抑々哲学によって初めて基礎づけられるべき実証科学の立場を、予め持ち込んで来るなどということは許されない、それはアプリオリの混同だ、そう云って彼等は非難するのが常である。だが今の問題は主観と客観というような哲学的抽象物に就いてではなくて、意識(観念)と自然(物)という現実的な従って又実証的な事物に就いてである。ここでは哲学は哲学のアプリオリに立ち、実証科学は実証科学の別なアプリオリに立つ、と云っただけでは済まされないので、これ等のアプリオリがアポステリオリにどう具体的に連関しているかが問題であり、そして又アプリオリとアポステリオリとの現実的連関が問題なのである。批判哲学の行なう「批判」には、この問題に対して何の用意も出来ていないのである。
さてこう省察して来ると、何が存在者乃至存在物の代表者であるかという点が決定出来ることになる。それは観念(主観という抽象物はそれから蒸溜されたものに過ぎない)ではなくて、宇宙的時間の上でそれより先に「あった」処の自然的存在物(客観という概念は実は之からの哲学的抽象物に他ならなかった)でなくてはならぬ。だが之は実は唯物論のテーゼに過ぎぬ。
では自然的存在物から、どうやって意識というような存在者を導き出すことが出来るかと人々は反問するだろう。だが吾々は、そういう風な何か勝手な導き出しを敢えてしようとは思わない。また出来るとも思わない。併し何よりも先に、自然的存在物それ自身が、宇宙の歴史を通じて、意識を、即ち自覚や理性や自由という存在状態乃至条件を、導き出して来ているのである。吾々は単に、自然的存在物それ自身のこの自然史的運動を、理論的抽象の形で、追跡し反復しさえすればよいわけである。――代表的な存在者を自我だとかイデー・精神・だとか人間だとか考えると、そういうものから自然的存在物を導き出さなければならぬことになるが、そうすると宇宙の歴史的秩序に逆行するので、その場合に則るべき客観的な秩序が見出せないから、例えばフィヒテの Anstoss とか、ヘーゲルに於けるイデーの自己疎外とかいう、困難な関係が出て来るわけで、こうしたものは結局精巧に工夫されてはあるが併し主観的で勝手な、一種の仮定の外へ出ることは出来ない。
さて、代表的な存在者をこう考えるならば、こういう存在者こそ充分な意味で客観性を有っているということが出来る。観念的論理学で云う処の主観の単なる対立物としての「客観」なるものは、要するに主観的な客観性をしか持たないものであり、従って本当には充分に客観的であり得なかった。客観の本性=客観性は、主観を超越し主観から独立だという点にあると云われるが、それは客観が宇宙時間の上で主観よりも先であったということ以外に、何等の現実的な根拠を有たないのである。この根拠を忘れると、客観を主観から独立なものだと云いながら、いつの間にか之を主観の内に持ち込んで来るというような、観念論の定石に陥ることにならざるを得ないだろう(ヘーゲルの絶対観念論・其の他各種の「絶対」何々主義・を見よ)。
今や物質が、客観的存在者(自然・物・)となったのである。
初め物質は単なる「あること」であった。そこでもすでに物質の現実性と弁証法性とが指摘された。だがそこではまだ、物質に対する「観念論」的解釈の余地が完全に除かれてはいなかった。それがここまで来て初めて、唯物論的に定着されたのである。物質(自然・物・)は客観的である。だから又、物質のかの現実性と呼ばれたものは自我や意識や人間の現実性であってはならなかったので、正に客観的な現実性のことだったのでなければならず、物質の弁証法性と呼ばれたものは、観念の内部や又は主観と客観との交互関係などに於ける弁証法であってはならなかった筈で、取りも直さず第一に客観的な弁証法のことでなければならなかったのである。
人によっては、客観的な存在者が、主観や主観的な契機から独立に、弁証法的だというようなことは、何か神秘的な仮定にしか過ぎないと考える。単純に考えれば一応全くその通りだろう。だが物質という概念の分析――それを吾々は二段に分けて行なう必要があった――は、それが別に神秘的な仮定でないばかりでなく、却って必然的な帰結でなければならないことを示しただろうと思う。――もし今迄述べて来たような順序を踏んで考えないとすれば、自然には本来の意味での自然弁証法というものはあり得ないということになるだろう。単なる客観には弁証法はないということになるのである。哲学的抽象物としての所謂「客観」なるものには、なる程弁証法の根柢は見出せないだろう。実は「主観」に就いてもこの点は同様でなければならない。だがそれは、実は「客観」がまだ主観的であって決して客観的になり切っていないからで、本当に客観的な存在者は、それが真正の客観性を有つが故に初めて弁証法的であるのである。
物質という哲学的範疇は以上のように分析されるが、之からもう一つの大事な性質を惹き出しておかなくてはならぬ。――今迄は物質が「存在」「存在者」であることの分析であって、要するに物質の存在性に就いて述べて来たのであったが、之と必然的に連関して出て来るのは、物質の認識可能性という問題である。
一体物質――それは唯物論的にしか理解されない概念だ――の認識は、普通模写説と呼ばれる考え方によって説明される他に道を有たない。なぜなら物質は結局かの唯物論的な(観念論的なではない)客観性をその本質とする筈であったが、認識がこの――真正な――客観性によって説明される限り、一般に模写説と呼ばれていいからである。
尤も模写という概念自身が観念論によっては少しも理解されていないので、従って模写説の理解と批判とは、観念論によっては全く出鱈目なあり合わせのものに過ぎないが、それを反駁することは吾々の今の目的ではない。ただ次のことだけは云っておきたいと思う。物質の客観的で必然的な自然史的発展(それは当然充分に吟味された意味に於て因果的なのだが)によって、自然的存在から意識(自覚・理性・自由・等々を有つ)が発生して来た以後、この意識と自然とが元来同一だったということが、或る一定の仕方で自覚されるということ(「想起・ムネーシス」と云ってもいいだろう)、夫が認識であるが、この際認識は、自然と意識とが同一であった過去の一点に向かって因果を時間的に溯源することが事実上出来ないので、非因果的に、直接に、存在物と意識とを短絡させて了うのである。回り道を抜きにして短絡するというこういう直接さが、認識というものを他の存在諸関係から区別する特色であって、直接だから、そのまま写すという意味を持って来るので、それが一般に「模写」と呼ばれるものなのである。丁度物質という概念が他でもない「存在」ということそのものを云い表わすものであると同じに、模写という概念は、「認識」ということ自身の概念なのである。写すとか見るとかはかかる無媒介な過程だ。
だがこの模写が実際に行なわれるに際しては、認識(即ち模写)は決して直接的認識=直観に止まるのではない。そこには極めて複雑な「論理」――認識過程――があり、それがそれで又歴史的な展開を持っているのである。――処が、それにも拘らず、どのような複雑な論理もその材料・所与・の上に立って初めて根柢を得るわけで、そうした――まだ抽象的な――根柢をなすものは、本当に感性的な直観(感覚・知覚・等々)なのである。物質の認識可能性は何より先に、まずここに現われなければならぬ。
物質のこの最も直接な認識可能性を、カントが、物そのものが吾々の感性を触発する、という言葉で以て云い表わしたことは、有名な事実であると共に、極めて意味の深いことだと云わねばならぬ。物そのもの(物自体)とは、別に何も特別な哲学的用語などではなく、単に物を物として取り上げるための概念に過ぎないので、どのような常識でも又どのような哲学でも、之を想定していないものは殆んどないと云って好い。カント自身之を理論的に処理出来ないものだと云いながらも、初めから之を想定せざるを得なかったが、之は後の「哲学者」達が色々と捏ね回したように、カントの批判的見解の不徹底や何かを意味するよりも先に、却って彼の哲学の健全な真実さを示しているのだという点を注意しなければいけない。――カントによれば(彼の使った言葉はとに角として)、少なくとも、物――物質――が吾々の感性によって、まず第一に模写される、という事実が大切だったのである。
だがカントの物自体の概念が、所謂批判主義の結局の精神から云って、科学的な概念として使用されることが出来ず、批判主義の一貫した体系に於ては少しも積極的な役割を有っていないことからでも判るように、之は他の諸概念から絶対的に絶縁された抽象的な固定概念になって了っている。例えば物そのもの――物の本質――と現象とは、一向科学的に媒介されて理解されてはいないし、又物そのものと真理の客観性との間には少しもハッキリした関係が設定されていない。――でそうなれば、結局、物質のかの認識可能性の第一歩に対して、科学的説明を放擲して了っていることになるわけである。というのは、感性の認識論上の役割、それは人間の最も物質的な活動=実践の第一歩としての役割だが、この役割が全く忘れられて了って、感性は単に受動的な受容性の能力にしか過ぎなくなり、独自の自発性を有たぬものと考えられる。実際カントでは自発性を有つものは感性ではなくて悟性乃至理性なのである。こうして、カント哲学の根柢にも横たわっていると考えられる模写理論の代りに、所謂構成主義が科学的前面に現われる。
構成主義の特色は、一方に於て、認識が成立するに際して主観が演じる積極的な役割――主観の自発性――を前面に押し出したことであり、そうして、主観のこうした主動的な活動は実はやがてその実践的な活動の内に包摂されるべき筈のものだとすれば、この特色は、単に物質――それが物・物の本質・物自体・のことである――の無条件的な直観的・観照的・な認識をしか問題とすることの出来ぬ客観主義に対して、構成主義が如何に優越したものであるかを示しているだろう。だがそれと同時に、構成主義の他の一つの特色は、この構成という認識手続き――直観形式・範疇・図式・等を媒介とする直観と概念との結合の手続き――が、例の固定化され絶対化された「物自体」と全く独立に、「観念性」に於てのみ、成り立つと考えられる、という点に存する。これによって主観に対する物質の客観性は問題の圏外へ逸し去り、真理の客観性は、客観そのものではなくて、全く主観の一定条件だけに依存することになる。物・客観・――物質が夫である――とは関係なく、主観の観念的な必然性と普遍性とによって、真理は、物質の認識は、客観性を得るというのである。物そのものをカントのように絶対化し固定化した上では、解決がこの道以外に出られないのは当然だろう。
物質――物の本質・物自体・――は認識され得ない不可知論的概念ではあり得ない筈だ。なぜならその認識可能性は、何よりも初めに、吾々人間の感性によって、直観・知覚・等々によって、実証されていたからである。吾々は感性にぞくする直観・知覚・等々を通じて、第一次的に、物そのものに接近する、即ち物そのものを認識し始める。そして、次に第二次的に、範疇を構成し、図式を定式化し、之等を適用することによって、更に物そのものにより近く歩み寄る、即ち物そのものの認識をより客観的にし具体的にする、そういう風に物自体という観念を把握することが必要であり、夫が又最も自然なのである。現象界は、単なる現象ではなくて、いつも本質――物そのもの――の現象でしかない筈であり、現象の統一的把握は当然現象の本質的把握に導く筈であり、即ち本質の把握にまで、物自体の把握にまで、導かれねばならぬ筈ではないか。もし物自体という観念を――他の如何なる場合にでもそうなのだが――その現象形態から絶縁し孤立化し固定化す(そういうことが正にカントの云う通り形而上学的なのである)のでない限り、吾々は当然、そうしなければならないだろう。
次の物質の空間的時間的本質について。
カントはその先験的な観念論の実験的(彼はそう呼んでいる)根拠として、現象形式としての空間と時間とが、物そのものの有つ固有な性質ではなくて、主観に備わる直観の形式だと考える他に可能性がないという点を挙げている。即ち、直観の材料である感覚が、時間空間という直観の形式によって整理統一されて、初めて知覚と呼ばれる直観内容が生じるのであるが、この時間空間が純粋直観・先天的直観・直観形式・形式的直観・等々として、吾々主観の先天的形式に外ならぬというのである。――現象が本質(物そのもの)の現象ではなくて、只の現象である限り、即ち物の現象と物の本質との間に何の科学的連関も設定されていない限り、少なくとも現象の形式である点では疑いのない空間と時間とが、物そのものの有つ性質であり得ないのは当然である。
だが吾々に従って、もし物自体――物質――が形而上学的存在として捉えられるのではなく、それが実際に吾々主体にまで現象し、又吾々がこの現象の多様を貫いて之にまで復原出来るべきである処の、物の本質として、この物自体を捉えるならば、即ち物自体をカントの「物自体」としてではなくて吾々に従って「物質」(哲学的物質)として捉えるならば、そうした物自体乃至物質――物の本質――が時間や空間という根本性質を有っているのだ、と考えることが出来ないという理由は消滅する。
なる程物自体は、それが現象する以前の物の本質であるなら、そして時間空間が現象の現象形式である以上、物自体は時間空間と無関係である筈だと一応考えられるが、併し物自体はいつまでもこうした段階に止まってはいないということが、恰も形而上学者の見遁した大事な関係だったのである。実は、物自体はそれが時間空間の形式を取って現象するという処に、やがてその本質の展開があるのであり、吾々はかかる時間空間という認識形式によるのでなければ物自体を把握することが出来ないというのが、単に吾々主観の条件であるだけではなくて、この主観によって認識され得る物自体の根本性質でもなければならぬのである。吾々は物をば、時間空間的なものとして認識することによって、それだけ他ならぬその物の本質――物そのもの――へ接近し、物自体の認識をそれだけ具体化すのである。そういう意味で、時間と空間とは、それから時間と空間との結合である運動も亦すぐそれに続いて、物そのものの、物質の、固有な根本性質だと云うことが出来る。
尤も、時間と云っても空間と云っても、言葉は一つでも様々な概念の異った諸段階を実際には示している。例えば物理学でいう時間と心理学の夫、又歴史学でいう時間は、それぞれ別な規定を持つだろうし、又常識で時間と考えられているものも、これ等のものと必ずしも同じだとは云えないだろう。空間の概念に就いてもこの点で少しの変りもない。運動という概念であってもそうなのである。その詳しい区別は、別な機会に分析したいと思うが、とに角単に空間や時間や運動と云っても、その意味は一義的ではないということは細心な注意に値いするだろう。
今は併し、問題は物質――物の本質・物そのもの・物自体・――であったから、そして今の場合の時間空間(又運動)・はこうした物質――哲学的物質――の固有な性質だというのだから、おのずからこの際の時間・空間・(又運動)・の概念も或る一定の場合を指さねばならぬ筈である。
だから今仮に之等のものを、それが哲学的範疇としての物質の根本性質だという理由で、哲学的時間・哲学的空間・哲学的運動・と呼ぶことにしよう。「哲学的」の代りに本質的と呼んでもいい、なぜなら之等は決して現象から発生するものではなかったからである。――哲学的運動という言葉は、今日では多分あまり大きな誤解を招かないだろう。吾々は社会運動とか精神運動とか云って、運動の概念を物理学的運動から解放することに慣れている。世人が一般的に運動という時には、広く事物の変化を指しているように見える。処がこうした広義の而も含蓄ある意味での変化が、今云った哲学的・本質的・運動に他ならない。
だが空間になると事態はそれ程容易ではない、空間によって世人は大抵、まず第一に物理学的空間を考えるだろう。而も更に困ることは、哲学者達は之まで、こうした狭隘な空間概念に対抗するために、殆んどありと凡ゆる形態の「哲学的」空間概念を工夫して来ているという歴史である。だからここでは哲学的空間という概念が、すでにそれだけで様々な特殊の内容を有たされているのである。吾々がいう本質的空間とはこうした諸「哲学的」空間概念とは無論決して一致しないのである。
時間になると事態はもっと悪化する。ここでは哲学は時間の概念を独占しようとさえ企てる。心理学でいう時間はまだ本当の時間ではない、まして物理学でいう時間の如きは時間の単なる影にしか過ぎない、本当の時間――「時」――は永遠との連関においてしか理解されることは出来ない、そういうものが哲学の時間で、ただ一つの許されたる時間概念だと哲学者達は主張するのである。――だが吾々がいう哲学的・本質的・時間とは、決してそういうものではないのだ。
時間・空間・運動・の概念は、概念としては、様々な領域に於て様々に異った形態を取っているのであり、従って又事物としても様々な領域に色々の形式で現われている。それは見易い一つの事実に過ぎない。で、これ等の概念は、即ち又これ等の本質的な諸性質は、様々な現象形態を有っているというべきである。処で、こうした様々な現象形態が、どれも時間であり空間であり又運動である限り、そこには一貫した一つの空間・時間・運動・がなくてはならぬ。時間や運動が多分複数で表象されるだろうことは、単に部分的な、即ち一現象形態に限られた、時間や運動を表象するからであって、時間や運動の本質としての唯一性を否定することにはならぬ。この唯一性が一等ハッキリと出ているものは空間である。吾々は何と云っても、つまりただ一つの――客観的に共通の――この現実的な一空間をしか知らないだろう。
で、こうした唯一性を有った時間・空間・運動、諸形態の下に現象している諸時間・諸空間・諸運動・の夫々を一貫する本質としての時間・空間・運動、夫々が、この哲学的な空間・時間・運動・なのである。
哲学的物質はその本質上の諸性質――形而上学は不幸にも之を本体の属性(Attributum, Eigenschaft, Beschaffenheit)と呼ぶことによって動きが取れなくなったのだが――として、空間・時間・運動・をもつ(この三つのものは物質に於て云わば三位一体をなしている)。だが之は又、物質の例の認識可能性に際して、物質の認識の過程を説明する処の諸性質ともならなければならぬ筈だろう。――実際、時間や空間はその意味に於てこそ、直観や知覚に結びつけられて説かれるのであり(カントはその一例に過ぎなかった)、運動などに至っては、古代の哲学者達は之を認識の過程そのものと考えたが、それは意味のないことではなかったのである。アトム論者は知覚をば、物質が主観に与える運動だと説明している。弁証法の一半がエレアのゼノンの運動論から出来てることも有名である。
[#改段]
空間というもの、又は空間という概念は、殆んど凡ゆる科学乃至理論の中に、問題となって現われて来る。例えば絵画や彫刻、演劇やキネマに就いてさえも、その理論の内に空間が可なり大切な問題となって現われるだろう。一体吾々が視・触り・聴く・この世界――実在界――そのものが悉く、空間的な規定を離れることが出来ない。吾々は日々の生活を完全にこの空間の支配下に送っているのである。だから、空間の問題が殆んど凡ゆる理論又は科学の問題として取り上げられるということに、実は何の不思議もない。それは凡ゆる領域に浸潤している問題である。だがそれだけに却って、夫は、各方面で夫々独立に、他の方面と無関係に、バラバラの問題として取り上げられ勝ちである。理論乃至科学のどの方面に於ても、空間を専ら正面の問題とする代りに、空間に対して、単に部分的一問題としての資格を与えるに過ぎない。例えば「空間論」というような科学的乃至哲学的専門領域が、歴史的に伝承されて来た事実を吾々は知らない。恰も意識に就いて今日心理学という専門科学が存在するような具合に、空間学とでも云うものが存在するのを吾々は聞かない。
このように分科的な観点に立てば、空間はどこへ行っても部分的な――恐らく多くの人々によれば余り重大ではない――一問題に過ぎないだろう。又理論乃至哲学が仮に分科的であり、従って又教科書的である限り、空間は哲学に取っても亦辺塞的な一問題に過ぎないだろう。それにも拘らず強いて之をテーマとして掲げようとすれば、その問題提出の動機は多分、ディレッタント的興味にあるか、それともエピソード風の余裕にあると、考えられる。
だが理論乃至哲学は、単なる科学と異って、分科的な観点に止まっていてはならぬ。それは統一的な観点に立って科学の諸問題を云わば立体的に分解し再組織しなければならぬ。それは教科書的である代りに、寧ろ云わば百科辞典的な眼を持つことを要求される。――そこで、空間の問題は、それが分科的見地から云って、他に較べもののない程、分散していただけに、一旦統一的な見地に立たされれば、それだけ一層浮き上って目立って来る問題となるわけである。空間の問題は、だから、多くの可なり呑気な哲学者達が想像しているような、部分的な思い付きから来る問題なのではない。――だが吾々がこう云うのには歴史的な根拠があるのである。
古代ギリシアの哲学、特にソクラテス以前の哲学――人々は之を自然哲学と呼んでいるが併し当時は之が取りも直さず哲学それ自身だったことを忘れてはならぬ――は、全く空間の問題の周りを回っていたように見える。吾々は今之に就いて三つの歴史的契機を挙げよう。第一は、存在という範疇を初めて理論の対象とした人と見て好いパルメニデス(前五世紀頃)である。彼によれば存在とは在ると云うことである、「ただ存在のみが在り、無はない。」之は併し決して単純な同語反復なのではない、彼によれば、在るということは、空間的に存在することを意味するのである。この場合、存在はだから空間又は空間的存在と一つと考えられているのである。この云わば空間論的な存在論は併し、決してパルメニデス一人の根本予想なのではない。之は、当時までの、又は当時以後しばらくの、ギリシア人の世界観を、偶々彼が最も特徴的に代表した迄に過ぎない。第二の契機は、所謂ギリシア自然哲学として知られているこの本流――パルメニデスはその最も輝いた中継の祖に当る――から見れば、多少傍系の位置に付けられるだろう処の(併し之は考え方によっては少しも傍系なのではなくて却ってギリシア哲学の宗教からの起源を復原しているのだが)、ピュタゴラス(前六世紀頃)(又はピュタゴラス学徒)である。ピュタゴラスによれば存在の原理は数である。処がこの数なるものが――その神秘的な諸特徴と連関して――全く空間的な規定によって理解されているのである。例えば一とは点であり、二とは線であり、三とは平面である、等々。割合所謂自然哲学から離れていると考えられるこのピュタゴラスの場合であってさえ、存在を空間に関係づけて考察する古代ギリシア人の根本的態度は棄てられていない。――だが第三に、存在を空間又は空間的存在と考えることは、好く見ると一寸困難が潜んでいることに気付くだろう。空間は言葉の通り空しいのだ、その限り夫は存在――有――ではなくて却って無である。存在は空間的であっても、空間自身ではない。かくて存在と空間とが分離・対立・せしめられ、その統一として、存在が空間的存在となって具体化されなければならなかった。デモクリトス(前四世紀頃)の原子説が之である。だが忘れてならないことは、この場合にも依然として存在は飽くまで空間的であったという点である。
ギリシア古代哲学に於ては、存在の概念は空間の概念の周りを回っている。そしてこの古代ギリシア哲学が、人の知る通り、其の後の吾々の一切の哲学の起源であった。この点を忘れないならば、吾々の問題――空間――が、哲学に取って決して部分的な一問題でなかったことが首肯出来るだろう。
だが、それは哲学の歴史のごく初期の時代に限られた現象に過ぎなかった、すでにソクラテス以後のギリシア哲学に於ては、存在はもはや空間的規定の制約を脱して、より無形的な・より精神的な・存在となった、況して近代乃至現代の哲学に於ては、空間は存在のこの特殊の場合の一規定でしかないと見做されるようになった、もはや空間は古代ギリシアの自然哲学に於てのように、単純に哲学の中心問題となることは出来ない、と恐らくそう人々は云うだろう。――或る意味に於ては確かにそうである。ソクラテス以後の哲学、それが又極めて複雑な幾転向・幾変遷・を経て成った、近世から現在にかけての哲学に於ては、事実、空間は体系の中心的位置を占めるどころではなく、時によっては全く問題にさえされずに終っている場合も少なくはない。それが相当真剣な問題であるらしく見えている場合でも、夫を哲学者が殆んど義務的に、体系組織上の必要に迫られて已むを得ず、取り上げるような場合が多いのであって、本当に空間の問題を問題とし、本当に之を解決することによって、哲学的考察を推進させようとした哲学者は、数える程しかない、之は否定出来ない事実である。一言で云えば後世の哲学の世界では、空間の問題は他の諸重大問題――例えば意識であるとか価値であるとか精神であるとか文化であるとか、又もっと古くは神であるとか天使であるとかさえ――と較べて、目立って冷遇されている。
併し問題は恰もそこにあるのである。何故今日まで、哲学の歴史の本筋から見て、わが空間の問題はそのように軽んじられたか、軽んじられねばならなかったか。もし夫がソクラテスから始まったとするなら、このことはどういう哲学と共に始まったことになるのか。処でそれは、存在の規定を、自然的存在(又は含蓄ある意味に於ける物質的存在――後を見よ)の規定を抜きにして、直接に、非物質的、従ってその限り精神的・非感性的・な規定の所有者として、与えようとする態度と共に始まった、と云って好い。存在を物質的――人々は今日哲学的に有効に用いられる範疇としてこの言葉を理解しなければならないが――と考える代りに、それを何か観念的なものとして規定する態度、この存在理論を吾々は一般に観念論と今日呼んでいるが、この観念論的存在理論と共に、空間問題の冷遇は始まったのである。ソクラテス(†399 v. Chr.)はそういう態度の最も露骨な先駆者であった。彼は自然哲学的根本問題・空間的存在の問題・に対して、ソフィストの名にそむかぬ不信任をなげつけた。もっともこの不信任は、プラトン(†374 v. Chr.)の円熟した晩年の作『ティマイオス』(Timaios)に於て結局撤回され、そこでは再び空間(場処)――アリストテレス(†322 v. Chr.)は併しわざわざ之を「プラトン的質料」と云い直した――がイデアの母胎の位置に登せられたのであったが。――空間問題の軽視は、観念論の採用と共に始まったのである。で逆に、空間問題の尊重は元来、唯物論と共に始まったのだということが判るだろう。実際、ギリシア古代哲学は、その哲学の根本態度から云って、含蓄ある意味に於ける唯物論をばその共通の特色としていた。こういう歴史的事実を承認しない人々は併し、恐らく唯物論とか観念論とかいう言葉の有つ部分的な効果に、心を奪われているからだろう。そういう部分的な云わば任意のテルミノロギーを用いる人にとって、デモクリトスさえが――プラトンのイデア論の先蹤だという理由で――観念論者に見えるということは、今の吾々にとって一向に差閊えのないことである(H・コーエンの如き)。
空間の問題は唯物論の浮沈と共に浮沈する。空間は唯物論的世界観乃至哲学体系に立って初めて、正常な視角から、問題とされることが出来る。なる程空間という(事物か物か関係か何かまだ判らないとして)或るものがあるのが事実である以上、人々がどのような視角に立つにしても、夫は一応、義務的にせよ自発的にせよ、問題になり得なければなるまい。だが、単に之を問題に出来るということと、之を正常な視角に於て取り上げることが出来るということとは、同じでない。一体、何かの問題を正常に正面から――側面からなら勝手のことが云える――解決し得るためには、すでにその問題を自発的に取り上げた処の、哲学ならば哲学体系がまず先に横たわっていなければならないが、空間の問題に就いてもこの点に変りがない。空間の問題が正しく問題となり得るのは、従って空間の問題が意味ある解決へ導かれ得るのは、ただ唯物論的立場に於てのみである。――之が之まで見て来た吾々の問題の意味である。と同時に之が之から吾々が見て行くだろう分析や批判の方針となる。
もし仮に吾々が唯物論的立場に立ったとして、諸哲学――但し充分に理論的なものに限るが――の特色を簡単に検出して見たいと思うならば、夫々の哲学体系が空間の問題に対してどのような態度を示したか、又は空間の問題をどのような結論にまで解決したか、を見ても好いだろう。所謂観念論――吾々はこの言葉の下に極端に相反した様々の場合をすら包括することが出来るが――と呼ばれる、無限の多様と差違と距離とを持った諸哲学は、恐らくどれも例外なく、空間の問題に就いて蹉跌しているのを見るだろう。そういう意味で空間の問題は、唯物論の側から見て、哲学を批判する試金石として役立つだろう。之がこの問題の副次的な効用である。
空間の問題は云うまでもなく特殊問題である、夫は全部の問題ではない、併しそれであるが故に、初めてそれは全般に対して意味ある問題となることが出来る。問題という問題は常に特殊問題である、一般的問題とは、この特殊問題が特殊であるが故に却って全体を動かす槓杆となる場合に他ならぬ。理論乃至科学に於ては、この他に一般的問題はあり得ない。問題は常に特殊的であり具体的である。
空間の問題は近世以来、多くは時間の問題と並べて提出されている。人々は之によって、空間が時間と或る意味に於て平行したテーマであることを承認しているのである。空間は夫だけ独立しては問題になれないかのように、又は空間の問題は同時に時間の問題に移行出来るかのように。なる程、時間空間のこの種の平行論には、相当確実な理由はある。空間は物の属性であり、之に平行して時間は心――精神乃至意識――の之また云わば属性(様態と云っても好い)である、と考えられる。物心が問題として平行するように、空間の問題と時間の問題とは平行しなければならない、と考えられるのは尤もである。併し空間も時間も、無論その未知の本質から云って、唯一の空間・唯一の時間・があるだけであるが、吾々が直接問題として提出出来る限りの空間と時間とは、この本質的な空間・時間・の様々な夫々の現象形態にしか過ぎない。物心が問題として平行することは、単に一つの現象形態としての空間と、一つの現象形態としての時間との間の平行関係にしか相当しない。他の現象形態の相互の間にこのような平行関係があるか無いかは、一つ一つの場合に当って見た上でなければ、予め何とも決めてかかることは出来ない。自然が空間的拡りを有つと共に、これに平行して、又、時間的拡りを持つと云った処で、自然のもつ空間も時間も、夫々各々の一つの現象形態に過ぎないから、これを全般の総現象形態の平行にまで押し及ぼすことは、それだけでは出来ない。吾々の意識で内官と外官とが平行しているから、夫々に対応する時間と空間とも亦平行して取り扱われそうに見える場合もあるが、この二つのものが結局比較さえ出来にくい、まして平行などは思いもよらない、関係に置かれていることは、カントの分析を穿鑿するまでもないだろう。
空間と時間とは、異った次元に於て、夫々の現象諸形態を展開し組織するから、二つのものを平行させるにしても、結局同一筆法で以って両者を取り扱うことは出来ない。そうすれば二つのものは少なくとも問題としては平行していないことに他ならぬ。時間と平行するものと仮定して取り扱っても、空間の問題は何も有利な解決を得ないだろう、そうすれば一体、何処に空間の問題を時間の問題と平行させて提出せねばならぬ必要があるのか。――で、その限り吾々は、空間の問題を時間の問題から一応独立に展開しなければならない、夫は時間の問題と一緒に一括して提出されてはならない、そういう問題提出の仕方は極めて皮相な空間問題の形態をしか結果しないだろうから。
併し空間そのものは無論、決して時間そのものと独立なのではない。独立でないどころではなく、空間こそ時間と最も密接に結合している。それではもはや二つのものの平行などが問題ではなくて、二つのものの結合の繋帯こそが問題である。二つのものの平行とは、いつも二つのものの関係に就いての気休めの概念に他ならない。では空間と時間はどう結合するか。
物理学の世界では物質は時間と空間によって規定される、物質は運動する。ここでは空間は、物質乃至運動を媒介として、時間に結合される。之は云うまでもなく時間と空間との結合を示す一つの場合に相違ない。併し今吾々が云おうとしている空間と時間との関係は、今云ったこの関係によってはまだ必ずしも明らかにされない。一体今云った結合の関係は、物理的空間と物理的時間という、空間と時間との夫々一つの現象形態の結合関係でしかない。そこで媒介の労をとる物質も運動も亦、物質の物理学的現象形態――物理学的物質――と運動の物理学的(又は空間的と呼ばれる)現象形態に過ぎないのである。処が物理学的物質は、より広い範疇としての哲学的物質から区別されるし(レーニン『唯物論と経験批判論』一九〇九年を見よ)、空間的運動は、より広い範疇としての運動=変化から区別される(アリストテレス『形而上学』其の他を見よ)。時間は物理的時間以外に、意識の時間(心理学的時間)や歴史的時間という他の現象形態を有っている。丁度それと同じに、空間も亦、物理的空間以外に、多くの現象形態を有つのである。――で、こういう諸現象形態の云わば背後に横たわる空間、本質空間・空間自体、そういう空間は時間(時間自体)と、恐らく運動乃至物質(哲学的運動乃至物質の概念による)を媒介として、結合されるだろう――最後を見よ。で、こういう空間に就いて、時間との平行を云々することは、云い過ぎでなければ云い足りないことだ。
だが空間自体などというものは考えられない。元来空間それ自らが本質――物自体――の現象形態を規定するものではないか、空間は本質ではなくて恰も却って現象形式=直観形式ではなかったか、そう人々は云うかも知れない。併し人々は何故いきなりカントのテーゼに立つことが出来、又立たねばならないのか。カントの空間論こそ、後に吾々が批評しなければならぬ一つの対象なのである。
吾々は空間を、その諸現象形態を分析することを通じて、この諸現象形態の統一者として、認識して行かねばならぬ。空間はそうしないでは直接に無媒介には、決して充分に把握することを許さないからである。尤も云うまでもなく空間はこの場合、一応その直接態に於て把握出来る一面を持ってはいるだろう(夫は次にすぐ述べる)、だがその直接態は要するに事物の一面であって具体的でないと云うのである。――では空間の諸現象形態乃至空間の本質の直接態、と云ったのは何であるか。
現代の空間論者達の間で、意見が一致している恐らく唯一の点は、種々なる空間の区別に就いてであるだろう。多くの人は空間を三つの種類に分類する。第一は直観空間(心理学的空間乃至空間表象)、第二は幾何学的空間(数学的空間)、第三は物理的空間(物理学的空間乃至事実的空間)。この三つのものが空間の夫々の現象形態である。この三つのものは処で、夫々専門の科学――心理学・幾何学・物理学・等々――の労作を経て、その概念が構成されねばならない。処が之等のものはどれも、吾々が日常生活に於て常識的に所有している処の、もはや専門的でない――日常的・常識的・な空間概念に於て一つのものに繋がっている。この日常的・常識的・概念による空間――日常的空間――が、空間そのものの直接態としての抽象なのである。前の三つは之に対して夫々、間接態としての――専門科学的概念構成によって媒介された処の――抽象に相当する。空間の真理は、空間の真の規定は、この間接態と直接態との総合以外にはない。
空間の問題は、心理学・幾何学・物理学・及び哲学・等々の諸科学乃至理論を、横断している。それが分科的な見地からは正当に取り上げられることが出来ず、ただ統一的な見地に立ってのみ解決出来る問題である理由なのである。一体に唯物論の取り上げる問題はそうしたものである。
直観空間・幾何学的空間・物理的空間・日常的空間・吾々は今、之等四つの空間形態を次々に遍歴し、その結果を出来るだけ統一して見よう。
心理学では空間を、空間表象と考える。この空間表象はどうやって他の諸感覚から発生・成立・するか。吾々はシュトゥンプフ(C. Stumpf,
ber den Psychologischen Ursprung der Raumvorstellung, 1873)の叙述を借りて出発しよう。それにはほぼ三種類の考え方が区別される。第一は、空間が任意の単一な感覚内容(Sinnesqualit
ten)から生じたのであって、空間という特殊の感覚内容があるのではないと考える(J・F・ヘルバルト(†1341 の場合)。吾々は眼又は指を動かすことによって一つの続起する表象の系列を得るが、この系列の記憶が取りも直さず空間に他ならない、と云うのである。だが、こういう説明をなし得るためには、人々は已に空間の表象自身を想定していなくてはなるまい。それに又之では、時間表象と空間表象とはどうやって区別されるかが判らない。第二の考え方はA・ベーン(†1903)によって代表される。之によれば空間表象という何か特別な感覚内容があるというのであって、それは或る特殊の感覚――運動感覚――が有つ性質だと考える。時間表象に於ては運動感覚が触覚と結び付いていない、又は結び付いていても、その触覚は運動感覚が変化しても変化しない。之に反して空間表象に於ては、運動感覚が必ず触覚に結び付いており、運動感覚が変化すると共に変化する。空間とは、この触覚の変化が一定の順序を形造る、ということに他ならないと云うのである。併し茲でも亦、空間表象を説明するのに空間表象自身の仮定を用いている、それに又空間の系列は音の感覚の系列の類とどう区別されるのか。
第三の考え方は、空間表象という特別な感覚内容があって、それが少なくとも直接には、感覚から生じるものではない、とする。生理学者E・H・ヴェーバー(†1878)によれば、空間感覚は、特殊の神経や感覚内容の一群に基くのではなくて、一般的に視神経と触神経とに於ける神経の固有な配置によって生じる、夫は一般感覚だと云うのである(感覚圏の説)。併し神経の配置そのものは解剖学的な関係に過ぎない、之が直ぐ様心理学的な空間表象なのではない。ヴェーバーは前者から後者がどうやって生じて来るかを説明していない。それが説明出来たように思われるのは、相変らず空間表象自身を説明の際の仮定にしているからに他ならないのである。
第一・第二・第三・の何れの考え方も斉しく、空間表象の発生・成立・を説明するのに、恰も空間表象そのものを仮定してかかっている。だから以上の三つの考え方は要するに、空間表象の他の諸感覚からの発生・成立・が説明出来ないものだということを、裏書きしているわけである。空間はその意味に於て根源的でなければならない。――之がシュトゥンプフの結論である。
シュトゥンプフとH・ロッツェ(†1881)との空間表象に関する論争は相当有名である。ロッツェは空間上の定位(Lokalisation)を説明するのに、神経が解剖学的に占めるそれぞれの位置に固有な、感覚乃至神経過程が備わっているからだとする(局処徴験の説)。処でシュトゥンプフによれば、ロッツェが考えるこの定位こそ空間表象に他ならない。だからロッツェは局処徴験によって空間表象を説明しようと企てたものであり、而もそれは已に空間表象を仮定しているのだから、説明になっていないということになると、そうシュトゥンプフは批難する。処が実は、ロッツェ自身の云う処によると、恰もこの定位と空間とは同じではないのだから(Lotze, Metaphysik, S.232-phil. Bibl.)、シュトゥンプフのこの批難は当っていない。ロッツェは云っている、「私の試みは」「吾々が如何にして空間表象に来るかを示そうと企てたのでは決してない」。――だから、ロッツェの主張は、シュトゥンプフの解釈とは反対に、却ってシュトゥンプフ自身の主張――空間表象の根源性――を裏書きしているものに他ならない(シュトゥンプフは又カントの空間論が結局空間表象の発生を説明出来ないことをも批難する。併し茲でも亦、カントの主張――空間の観念性・先天性・――は、シュトゥンプフの解釈とは反対に、却ってシュトゥンプフ自身の主張する空間表象の根源性を裏書きしている最も著しい場合なのである)。
シュトゥンプフによれば、このようにして空間表象は根源的である、それは意識内容である他の諸感覚から発生・成立・したものではない。凡ゆる感覚がもはやそれ以上説明出来ない直接さを持っている、それと全く同様に、そしてそれと全く同じ意味で、空間表象も亦直接的である。それは根源的な特有な感覚内容を有っている。――だがシュトゥンプフによれば、この根源的な空間感覚――今簡単のためにそう呼ぼう――も、それだけで独立しては意識されない。丁度他の所謂感覚が強度や持続と結びついて始めて意識に登るように、空間感覚は他の感覚――例えば色彩――と結び付いて初めて意識される。その意味で之は何か全体的な内容の部分的な内容に他ならない。この部分的内容としての空間感覚は併し、今の全体的な内容から、又は他の部分的な内容から、抽象されているという点で、之等のものから区別される。但し抽象と云っても之等のものから絶縁されて了っているのではない、単に外見上他のものから分離されているに過ぎない。之が空間表象が部分的な感覚内容だということの意味であり、又夫が根源的であるということの実情なのである。彼はそう主張する。
ある拡り――空間量――を有った色の塊りは、無論拡りそのものから一応分離されることが出来る。色の塊りは赤とも青ともなれるが、之とは一応独立に、それは大ともなり小ともなる。だが結局色と拡りとは結び付いている、何故なら一定の拡りを有った赤も、その拡りが次第に小さくなって零になる時、同時に無色となるから。こうやって――今の場合――空間感覚は色彩感覚と結合して初めて意識に上ることが出来る、そうシュトゥンプフは説くのである。――だが吾々は考えて見ねばならぬ、色と空間とは決して同格又は同列の地位にあってこのような結び付きを示しているのではない。色の塊りが零になれば色は消える、併し逆に、色が消えれば塊りは零になるか。なる程一定の輪郭を有った形の感覚はこの場合消えて行く、併し空間の拡りは依然として表象として残るではないか。拡りはたとえそれが無色で無形であっても拡っている、ということが空間表象の云わば矛盾した不思議な特性なのである(空間はどこにもない、空である、だがどこにもないということが恰もそれの存在性である)。だから空間表象がいくら色の感覚其の他――触覚・聴覚・等――と結合しなければ意識されないと云っても、空間は色其の他と同格又は同列の地位にあって結び付いているのではない。仮に空間表象がシュトゥンプフの根本的見解の通り、特殊な感覚内容を持つと仮定しても、その感覚内容は他の所謂感覚の感覚内容とは、全く次元を異にしている。一方がもし感覚であるなら他方はその限り感覚ではないことになる。
それに又実は、空間表象は、夫が全体の一個の部分的な内容であると云っただけでは済まされない。何故なら、視覚に於ける空間――視空間(Sehraum)――は視覚の部分的内容であり、触覚に於ける触空間(Tastraum)も触覚の部分的内容であるとして、視覚と触覚とは独立であり得るから、この二つの部分的内容は、それが単に部分的内容であるという限りは、結び付くことが出来ない。処が実際は、触空間も視空間も一つの空間という何ものかへ結び付いているのが事実である、だから空間は夫が視覚や触覚の――感覚の――部分的内容であるとしても、之から離れて横に空間という独自の全体の体系を構成する。視覚や触覚というような諸々の所謂感覚は云わば縦に平行している、処が空間の表象は之等の諸感覚と十字に交わっている。ここから見ても空間表象は視覚や触覚と同じ意味に於ける感覚内容を有つものでないことが判る。
シュトゥンプフは、空間表象が独自の感覚内容を持つことを理由として、その根源性を主張する。処が、吾々によれば、もしシュトゥンプフの空間感覚の主張に止まるならば、空間表象の根源性は成り立たなくなる。空間表象を根源的なものとして知るためには、であるから、空間感覚(又は空間知覚)というような心理学的範疇を乗り越えなくてはならない。このような根本観念に執着している限り、空間の根源性を検出することが出来ない。――空間の概念は、空間表象としてすら、心理学の限界内に止まることが出来ない。――之がシュトゥンプフから出発して到着した吾々の結果であった。
空間表象は、空間感覚又は空間知覚の概念によっては、充分に云い表わされることが出来なかった。では夫は何として云い表わされて好いか。夫が空間直観(Raumanschauung)の概念である。心理的な空間表象が、こうやって哲学的範疇の下に照し出されたものが、直観空間である。
空間を直観として――空間直観として――規定したのは、云うまでもなくカントであった。カントは直観の概念を感覚及び知覚のそれから区別する、直観は概念ではない、概念は表象の多様をその下に含むものであるが、直観は表象の多様をその内に含むという特色を持つ、それは感性的である。併しそうであるからと云って直観は必ずしも感覚を含んでいるとは限らない。感覚を含んだ直観――夫を知覚という――をカントは経験的直観と呼んで、之を純粋直観(reine Anschauung)から区別する。さてカントによれば空間――カントはこの概念をいつも空間表象に連関させて考えている――は第一に、このような純粋直観の一つの場合である。之は一切の感覚的(経験的)所与に先立つと考えられる処の先天的直観(Anschauung a priori)である。処が次に、この先天的直観は、単に感覚的(経験的)所与に先立つばかりではなく、この感覚的(経験的)所与に一定の形態(形式)を与えて之を統一に齎すという意味を有っている。この先天的直観(今は空間)なくしては直観の与えられた多様は統一的な形態(形式)を有つことが出来ない。直観が成り立つためにはその条件として、この先天的直観(今は空間)がなければならない。だからカントの用語例に従うならば、空間は単に先天的直観であるばかりでなく、云わば先験的(transzendentale)直観でもなければならぬ。で空間とは第二に、直観の一定形態を成立させる条件としての直観形式の一つの場合となる。
空間(空間表象)は純粋直観であった。処が夫が直観形式となった。それではこの形式自身は直観であるかどうか。無論直観形式は名の通り、直観の形式であって、また必ずしもそれ自身直観であることを云い表わさない。併しそれだのに夫は直観を云い表わしていなければならない理由が今あった。で直観形式の概念は、質的変化を経て、形式的直観(formale Anschauung)となる。で空間は第三に、このような形式的直観となる。だが直観形式が形式的直観にまで変化するには、直観は自分が依存する形式自身を自分自身の内容にまで巻き込まねばならない。直観はそういう変革を嘗めねばならない。カントはこの場合に際して、直観を概念(悟性)にまで私かに結び付ける。空間という形式的直観は直観でありながら、幾何学の悟性による体系をその内から発展させることの出来る性質を持たされる。空間は「直観の諸公理」――そこに幾何学の根拠があるのだが――として云い表わされる。で、カントによれば、直観空間はそのまま幾何学的空間に移行する。又は両者は元来同一の事物に過ぎない。空間は心理学の限界を踏み越えて哲学の範囲にぞくしたが、今度は哲学の領域をさえ踏み越えて幾何学の世界に這入る。――だがそういう踏み越えはどうして出来たか。カントにとっては空間とは何よりも先に空間表象に結び付けて考えられねばならなかったから。空間は他のどのような空間であるよりも先にまず直観空間であったから。カントにとっては直観空間は空間に関する代表的な概念であった。
この関係はカントに於て、空間の観念性の思想となって現われる。批判主義――批判的観念論――によれば、空間とは、形而上学に於てとは異って、物の一つの性質ではなくて、物が吾々人間に現象する形式(現象形式)、即ち又吾々が物の現象を直観する形式である。それは客観=客体にぞくするのではなくて、吾々の主観にぞくする。ライプニツ(†1716)はこういう空間概念を有った先駆者であった――空間とは同時存在の秩序Ordre であるという。もし之を客体である物自身の性質とすれば、世界が有限であると論証することが出来ると同じ権利で、人々は又それが無限であることをも論証出来るだろうし、世界が無限に分割出来ると証明出来ると同時に、人々は又夫が不可分の単位を持っていると証明することも出来るだろう(之がアンチノミーに相当する)。空間は主観にぞくする。併し之はだからと云って単に主観的なのではない、主観にぞくするのではあるが、凡ての主観に通用するという仕方に於ては却って客観性を有っている。物それ自身から来る客観性ではなくて、主観相互間から生じて来る処の客観性を夫はもつ。之が空間の観念性の意味である。空間が純粋直観・先天的直観・先験的直観・直観形式・現象形式・形式的直観・等々であり得たのは、要するに夫が観念性を有っていたからであった。――以上のようなものが、カントの『第一批判』と『プロレゴーメナ』に於ける空間理論の大綱である。
(カントの直観空間に極めて近い空間概念を与えるものはロッツェである。彼によれば空間は演繹も出来なければ構成も出来ない処の直接者、直観でなければならない。)
カントの空間概念に対する真剣な懐疑は、近世の非ユークリッド幾何学の発見から始まる。カントは空間直観を先天的と考えたが、同時に彼はこれを三次元ユークリッド的空間と考えた。之は単にカントが非ユークリッド幾何学の可能性に思い及ばなかったばかりではなく、意識の事実を一応省察して見れば相当根拠のある事実のように見える。処でカントは――前に云った通り――この直観空間を幾何学的空間と同一と考えている。そして之も亦カントの空間の観念性の主張から見て、一応尤もだろう。だからカントによれば、元来非ユークリッド幾何学は成り立たない筈なのである。処が事実非ユークリッド幾何学が成り立っているから、人々はカントの空間理論を放擲するか、或は少なくとも之を根本的に修正しなくてはならなくなった。
或るカント学徒達(例えばF・メディクスの如き)はそこで、カントの空間をば、直観というような意識の事実関係と見ないで、之を現象成立の論理的――もはや少しも心理上の事実に関わりない――条件だと解釈する。そうして彼は之から次元やユークリッド性という直観的内容を引き去ってしまう。こうすれば成る程、空間という範疇――もはや直観ではない――はユークリッド幾何学にでも非ユークリッド幾何学にでも基礎を与えることが訳なく出来る。――だが無論こういう解釈は、カント自身の企てと何の関係もない。
そこでベッカー(O. Becker, Beitr
ge zur ph
nomenologischen Begr
ndung der Geometrie und ihren physikalischen Anwendung, Jahrbuch VI)は吾々の空間表象に就いて、定位空間(orientierter Raum)と等質空間(homogenen Raum)とを区別する。前者は自己を中心点として云わば集中している空間であるから等質的でなく、その点で後者から区別される。等質空間とは彼によれば、空間曲率 K = 0 であり且つ空間の結合(Konnex)関係が開放的(offen)――無限――であることを意味する、即ち之はユークリッド性を有つ処の空間である、カントの直観空間はこの等質空間に相当する。之に反して非ユークリッド空間は何等かの定位空間と結び付いた処のものなのだと云うのである。――併しこう云って二つに区別して了えば、カントが直観空間を以て他の一切の空間の唯一の根柢とした精神は、全く放擲されて了う。で吾々は、元来ユークリッド性とは何かをもっとよく吟味する必要がある。空間曲率Kが零であるということ――之がユークリッド性の第一規定であった――は、吾々によれば二つの意味を有っている。空間曲率が考えられてないということ、即ち空間曲率が無いということと、空間曲率はあるが夫が+でも−でもなくて丁度0だということと。何れも数学的に表現すれば同じく K = 0 となるが、その論理的意味内容は同じでない。処が空間曲率という概念は全く数学的思惟に基く、それは単なる直観にとっては無縁な筈である。だから直観空間が K = 0 だということは、曲率の数値が零だということではなくて、それが曲率と無縁であるということを、曲率が考えられていないということを、即ち曲率というものが無いということを、云い表わさねばならない筈である。直観空間は曲率と無縁である。処が、この曲率からの独立は、あらゆる曲率の下に恰も直線性となって機能しているのを注意せねばならぬ。と云うのは、直線が曲っていると云われる処の非ユークリッド空間に於ても、直線と曲線との区別は残る。直線を曲線から区別するものは曲率ではあり得ない、何故ならどれも同じ曲率に従っているから。そうすればこの直線性は曲率以外から、曲率と無縁なものから、来ねばならぬ。だからそれは直観空間の性質から来る他はないのである。直観空間は曲率と無縁であるにも拘らず直線性――その意味でユークリッド性――を持つ(ロッツェはこの点を指摘するのを忘れない)。
(同様の仕方で、直観空間の所謂無限性を決定することが出来る)。――之が直観空間の所謂ユークリッド性の実際の論理的意味なのである。
カントの直観空間のユークリッド性をこう理解すれば、夫が直観であることを止めることなくして、而も一切の幾何学の根柢となり得ることが理解出来る。なぜなら、曲率に無縁なこの直観空間に任意の曲率(又有限性・無限性)を付加しさえすればよいのだから、そこには何も矛盾すべきものが含まれていなかったから。――だが忘れてならないことは、直観空間が幾何学の根柢となり得るのは、それに曲率――この数学的思惟内容――が付加する時に限る、即ちそれがもはや単なる直観空間ではなくなる時に限る、ということである。カントは直観空間をばそのままで幾何学の根柢に出来ると考えた。吾々によればそうは行かない。吾々のようにすると、カントの空間論と非ユークリッド幾何学との矛盾を避けることが出来る、と云う迄である。矛盾しないということと同一であるということとは無論別である。
広い意味でのユークリッド性は、零曲率と無限性(二つを合わせて平面性と呼ぼう)の他に、三次元性をも含む。カントの直観空間は三次元に限定されているが、それがどうしてn次元の幾何学の基礎になれるか、之が次の困難である。だが直観空間をそのまま幾何学の根柢とするのでさえなければこの困難はすでに救われている。三次元の直観空間をn次元の他の――幾何学的――空間にまで拡張すれば好いのだから。併しこの拡張は直観自身では不可能である。だからこの場合、直観空間に何かが――丁度先程曲率という数学的思惟内容が加わったように――加わらねばならない。そこには定式(formula)の一般化という数学的思惟が加わるのである(例えば円の三次元式 a1x12 + a2x22 + a3x32 = 1 は円の一般式 a1x12 + a2x22 + a3x32+ …… + anxn2 = 1 に拡張され得るように。
カントは直観空間に私かに悟性を結合して、形式的直観の概念を得たにも拘らず、飽く迄直観空間がそのまま(形式的直観として)幾何学の基礎――幾何学的空間――になれるかのように考えた。凡ての困難はそこにあったのである。吾々によれば直観空間に数学的思惟――之は悟性にぞくする――が加わらなければ、それは幾何学的空間になれない。こうすることがカントを救う唯一の正しい道なのである。――最近ベッカーは、カントの直観空間を、人間生活を中心とした、近接空間だと考える。そういう空間の直観が先験的に――カントの先験性が何か人間学的性格を持たされるのを注意せよ――ユークリッド的なのである。之に反して、人間の生活から遠い非人間的空間は任意に非ユークリッド的であることが出来る、と云うのである(Die apriorische Struktur des Anschauungsraumes, Philosophischer Anzeiger, IV)。こういう人間学は好意によってしか承認されない一つの解釈にしか過ぎないが、結論自身は吾々の見解を裏づけるには一応足りるかも知れない。
だが何故カントは、直観空間と幾何学的空間とを同一視しなければならなかったか。それは彼が直観空間をば、空間の絶対的な――唯一の――代表者と考えたからに外ならない。彼によれば、直観空間は、例えば幾何学的空間から区別された処の一つの空間概念ではなくて、夫が唯一の空間概念なのである。直観空間は空間自体なのである。だから空間は他の何物――例えば客観の性質とか関係とか――でもなくて、正に直観乃至直観の形式でなければならなかった。空間は、であればこそ、観念性――主観に於ける先験性――を有つものでなければならなかった。
処が吾々によれば、直観空間は少なくとも幾何学的空間から区別された。直観空間だけが空間なのではない。それはまだ空間そのもの、空間自体ではあり得ない。それは単に、空間というものの一部分――併しカントの欲した通り恐らく最も直接な最初の一部分――でしかない。それは空間なるものの、最も眼立たしくはあるが、併し要するに一つの、現象形態に過ぎない。この現象形態の云わば背後には、だから、カントの天才的な批判主義の発見にも拘らず、矢張り空間自体が横たわっていなくてはならない。直観空間とは空間自体の、観念論にとっては最も手近かな、現象形態だったのである。
カントが空間に帰属させるあの観念性――主観に於ける先験性――も、であるから、必ずしも直観空間自身から来るとは限らなくなる。それは寧ろ空間自体――夫が何であるかを吾々はまだ見ていないが――から来る筈ではないか。でもし仮に、空間自体が主観にぞくするものではなくて却って客観にぞくするものであったならば、空間の観念性も空間の実在性に基くこととなるから、結局夫は観念性でなくなって了わねばならないだろう。吾々は後に夫を見よう。
空間の問題を心理学に関係して出発させた吾々は、今度は、幾何学に就いて空間の問題を見よう。
幾何学は空間に関する数学である、そう普通の人は常識的に信じているだろう。併しこの言葉は実は、非常に複雑な内容を持っているのである。今日多くの数学者達は、幾何学を却って、所謂空間と考えられるものから全く独立なものと考える。点と云い線と云い面と云っても、無論夫は吾々が経験出来る現実の物体を借りては指摘出来ない、夫は少なくとも物体の或る理想状態――部分のない位置とか(点)幅のない長さ(線)とか――に過ぎない(ユークリッド
前三―四世紀
はそう定義した)。併し近代の幾何学に於ては、それだけではなく、之等の名辞はもはや、こういう経験的乃至直観的な、又言語的な意味内容をさえ全く脱却して了っていると見做される。これは、それ自身定義され得ない単なる或るもの、を云い表わす諸名辞に過ぎないのであって、夫々の名辞はただ他のものとの一定連関の下で初めて他の名辞から消極的に区別されるに過ぎない。而も無内容なこの諸名辞の今云った一定連関――諸公理乃至公理体系――さえが単に、論理的に矛盾を含んでいないという消極的な条件に従ってさえいれば好い、と考えられるのである。幾何学の体系はだから、αからωに至るまで、空間と何の関係もない、ということになる。こういう主張を最も徹底させたのは公理主義――ヒルベルト(D. Hilbert)が今日之を代表する――による幾何学である。だからヒルベルト等によれば諸幾何学はこの――論理的な――公理の採用の仕方の相違に従ってのみ、特色づけられるわけである。幾何学が空間――この空間が何を意味するかは後にして――と無関係だとすれば、要するに幾何学は数学一般に還元され得る他はあるまい。諸幾何学は例えば解析的に数量座標を用いたり(F・クライン†1925)、又は代数的に「群」を用いたりして性格づけられる(リーの如き)。
だが吾々に従えば、幾何学は云うまでもなく一つの特殊の数学であるのだから、夫は、他の数学乃至数学一般に還元出来ない或る根本的な関係を含んでいなければならない筈である。で吾々は、この根本的な関係を様々な幾何学に就いて指摘し、そして次にこの根本的な関係が何であるかを見よう。
幾何学を質的幾何学と量的幾何学とに区別出来る。前者は所謂純粋幾何学(射影幾何学)によって、後者は計量幾何学(座標幾何学)によって、代表されていることは好く知られている。後者は線の長さ・角の大きさ・線の曲度・などの量的性質を含む処の、ユークリッド幾何学乃至非ユークリッド幾何学である。之は結局、数連続と一対一の関係にある座標の上で行なわれる。だがこういう数量座標を根柢に持っているということは、幾何学に取っては何も特有な特色――本質――をなすものではない。所謂純粋幾何学は、こういう幾何学の外部から付着した不純な規定を脱却している意味で、正に純粋幾何学と呼ばれるのである。そして又夫は、幾何学以外から来るに他ならない解析的方法を避けるから、総合幾何学とも呼ばれている。之だけを見ても幾何学の代表的な部分は量的幾何学にはなくて質的幾何学になければならないことが判る。それに、純粋幾何学である射影幾何学は、計量幾何学をも、量的にではなく却って質的に、演繹することが出来る(Vebleno-Young, Projective Geometry, Vol. 1, 2)。その限り計量幾何学――この代表的な量的幾何学――は不用でさえある。
だがこの幾何学的に見て最も不純な――量的な――計量幾何学さえが、数――夫が量を代表する――の体系からは独立な、幾何学的なものを示すことが出来る。元来数には絶対的な単位はない、1は
の二倍と考えられても好い。処が計量幾何学に於ける計量には一つの絶対的単位が与えられている。角の単位π――平角――がそれである。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学とでは、三角形の内角の和は等しくない。併し等しくないと云う以上、角の計量の単位は共通でなければなるまい。それが平角πである。πが併し、もし直径と円周との比――円周率――というような数的関係を表わすに止まるならば、その限り夫はユークリッド幾何学であるなしで夫々異って来る。それは共通の単位ではあり得なくなる。共通の単位であるためにはπは単に円周率ではなくて平角でなくてはならないのである。処が平角は直線性ということと一義性に結合している。そして直線性は元来空間の曲率とは無関係であった――前を見よ。夫はその意味で絶対的である。だから平角πも角の絶対的な単位である。――こういう絶対的な計量単位は数からは出て来ようがない、それは計量幾何学に固有な幾何学的なものでなくてはならない。(以上のような固有に幾何学的なものは、数の代りに群を採っても、出て来る。幾何学を群論によって取り扱おうとする人々は、之を単に群論の総論にぞくするものとして取り扱うのではなくて、特殊の変換群(Transformationsgruppe)の不変量理論(Invariantentheorie)と考えるのだが、変換と云い不変量と云い、位置と図形の概念が無ければ幾何学的意味を持てない。――そしてこの関係は一切の幾何学に就いて通用する。)
すでに計量幾何学さえが数体系から独立な固有に幾何学的なものを持っている。質的幾何学が固有に幾何学的なものを持っていることは云うまでもなく当然である。だが一体それは何であるか。
純粋幾何学(射影幾何学)は数から独立であり、それは又(計量幾何学と同じく)群からも独立であった。純粋幾何学は他の一切の数学の対象からは独立な対象を有っている。で最後の問題は、一般に論理的なもの――数学は凡て之を含まねばなり立たないが――と純粋幾何学に於ける幾何学的なものとの関係が何であるか、に来る。
純粋幾何学で取り扱う点や線や面は、吾々が経験的に又は直観的に持っている夫々の観念と何の関係もなくて好い。従って之等の要素を結び付ける公理も、どういう形を取っても構わない。そして諸公理を一つの体系とする際には――そこで初めて幾何学が成り立つのであるが――、それが矛盾さえ含まなければどういう体系が出来ても構わない。公理主義の精神に従って吾々は一応そう云うことが出来る。では本当に、如何なる公理を如何に選ぶかは、幾何学者の完全な随意に任せられて好いのか。――処が実際には、純粋幾何学は双関関係(Dualit
t)と呼ばれる一つの関係を根柢に横たえている。と云うのは、一切の公理に於て点という名辞と面という名辞とを入れ替えても、公理体系全体は不変に残らねばならないのである。でこういう双関性が成り立つためには、公理体系は、単にその内部に矛盾を含まないと云うばかりでなく、更にそれ以上に或る特定な条件に従わねばならぬ。――例えば二つの点が一つの線を決定し、三つの点が一つの面を決定し、二つの面が一つの線を決定する、という三つの公理に、仮に第四の公理「二つの面が一つの点を決定する」を加えたとすると、之は少しも矛盾を惹き起こさないのだが、それにも拘らず、之は双関性を満足させることが出来ない。なぜならこの四つの公理による体系に於て、点という名辞と面という名辞とを入れ替えて見れば、この公理体系は内部に矛盾を惹き起こすだろうからである。だからこういう矛盾を惹き起こさないためには、即ち双関性が成立するためには、かの第四の公理は「三つの面(二つの面ではなくて)が一点を決定する」でなくてはならない。――こういう次第で、幾何学者が随意の公理を随意な仕方で選んで差閊えがないというのも、事実上は常に何かの制限――例えば双関性を満足させる必要――の範囲内だけに限られていることを注意しなければならない。この事実上の制限は、この公理体系が苟にも幾何学という名で呼ばれ得る、という条件と平行しているのである。公理体系はどのようなのでも出来る、だが勝手なものは幾何学ではない。――之が固有に幾何学的なものに他ならなかった。この固有に幾何学的なものは、論理によっては尽すことが出来なかったわけである。固有に幾何学的なものは、論理的なものの埒外に逸した処のものである。だが吾々は最後にも一つの場合を付け加えよう。質的幾何学は普通純粋幾何学によって代表されるが、なおその他に、位置解析(Topologie)と呼ばれる質的幾何学がある。そこでは他の一切の幾何学の場合と異って、単に空間関係や空間内の図形が問題になるのではなくて、独立した個体としての図形の性質が探究される。個体としての図形が問題であるから、図形が他の図形から切れているか之と接いているかが、そこでは何よりも問題である(之が結合 connexus の概念である)。例えば或る図形の面ならば、その面に折れ目が這入っているかいないかが問題である(そこから面の裏表の区別も亦大切になって来る――メービウスの面)。恐らくは之こそ幾何学の中で最も幾何学らしい領域であるかも知れない。だからH・ポアンカレ(†1912, Derni
res Pens
es)は之だけが本当の純粋幾何学だと考えた。それ故ここでこそ固有に幾何学的なものが最も目立って現われなくてはならぬ。個体としての図形が取りも直さずそれであった。――さて図形の個体というようなもの、之は何かの意味に於ける直観によって与えられるもの、としてしか理解の仕様がない。それは論理的なもの以外から与えられた所与、即ち直観である他ない。かくて、論理的なものの埒外にあった固有に幾何学的なものは、何かの意味に於ける直観にぞくする。――処でこの直観が空間直観なのである。今や直観空間は、幾何学へ、幾何学に固有な――他の数学には見出せない――内容を与える。幾何学は空間直観=直観空間によって成り立つ、とそう云って好さそうに見える。――だが幾何学を他の数学から区別するものだけが、幾何学の凡ての内容をなしているのではない。幾何学が数学である以上、之を成り立たせる一方の支柱は論理的なものになければならない。幾何学という特殊の数学は、直観空間と論理との結合によって初めて成り立つ。直観空間は論理との結合によって自分の制限の或るもの――三次元性や平面性――を乗り越える(カントに於ては、之に反して直観空間は如何に論理と結合しても、依然として元のままの直観空間に過ぎなかった)。こうやって結合したものはもはや直観空間であることは出来ない。それは直観空間とは異った空間、幾何学的空間となる。
幾何学の根柢に横たわるもの、又は結局同じことに帰着するが、幾何学の対象となるもの、それは幾何学的空間である。それはもはや直観空間と同じ意味での直観性を有つことが出来ない。数学上の直観主義(Intuitionismus)――今日之はブラーエル等によって代表される――に従って、もし之を強いて直観と呼びたいならば、夫にはカントの感性的直観の概念ではなくて、例えばE・フッセルルの範疇的直観(kategoriale Anschauung)の概念こそ相応わしいだろう。
幾何学的空間も亦、空間の一つの現象形態に過ぎない。この空間――この範疇的直観――のもつ範疇性や直観性は、幾何学的空間それ自身に淵源するのではなくて、却って之を部分的な現象形態とする空間自体――それが何であるかは後を見よ――から来ると見ねばならぬだろう。
次に物理的空間の問題に這入る。そこでは云うまでなく物理学が参考されねばならず、又その限り幾何学乃至数学が参照されねばならぬ。処で物理的空間は幾何学的空間と直観空間とから、どう区別されるか。
物理的空間という独立した空間形態の存在は、その名が一般的に承認されているようには、承認されていない。或る人々(例えばL・ネルゾン†1927, Kant und nichteuklidische Geometrie)によれば、物理的空間なるものは、幾何学的空間と区別される何の理由も持たない。同一の空間が幾何学者にとっては幾何学的空間であり、物理学者にとってはそれが偶々物理的空間だというまでである、というのである。H・v・ヘルムホルツ(†1894, Schriften zur Erkenntnistheorie)も亦、この区別を承認しない。彼によれば幾何学は凡て、空間内の事実としての諸関係を云い表わすものに過ぎない、幾何学とは物理的幾何学に他ならない。だから吾々の言葉で云えば、幾何学的空間=物理的空間となるのである。だが彼は、この物理的空間(幾何学的空間)を、直観空間からは区別する。彼に従えばカントによるかの先天的な幾何学なるものは、実在界とは何の関係もない処の、その限り純粋な、純粋幾何学に他ならないのである。だから物理的空間――それはまたヘルムホルツに依れば幾何学的空間でもあった、――は直観空間と絶対的に区別される、区別されるだけではない、全く無関係なものなのである。だがこういう主張は――ネルゾンの場合にもヘルムホルツの場合にも――多くカントに対する批難として登場している。而もそれは多くカントに対する誤解から出発している。物理的空間と他の二つの空間との関係を具体的に決定するのに役立つのは再び、結局吾々が夫を承認出来ないにも拘らず極めて優れたカントの理論だろう。
カントに於ては純粋直観――その一つが空間直観であった――は経験的直観の極限と考えられる。と云うのは、経験的直観の内に於ける感覚内容が次第に減じて零になると、それが純粋直観になるのである。直観空間は即ち虚空間(leerer Raum)の意味を有たされている。処で空間内の形とか大きさとかいう規定は、経験に於てアポステリオリに常に与えられ得るものを、アプリオリに表象したものなのであるから、之を「現象の予料(Antizipation)」と呼ぶことも不可能ではない。だから直観空間は感覚を予料している。即ち直観空間の内に這入って来る感覚は、予め空間直観によって予定された限りの感覚でなければならない。かくてカントによって茲に登用される感覚は、直観空間の原理の支配下に完全に従属しているので、之に対して感覚独特の立場を主張することが出来ない。感覚は全く受動的・消極的・な役割をしか演じない。カントが空間表象を、空間知覚としてではなくて特に空間直観と呼ばねばならなかった理由も亦之であった。
吾々が感覚の役割を消極的なものに限定している限り、カントの直観空間の外へ出られない、物理的空間などへは到底行くことが出来ない。処が物理的世界は吾々の感覚に無関係に成り立っていない筈だった。だから直観空間から抜け出して、物理的空間にまで行くためには、吾々は感覚の役割をもっと重く評価する立場に立ち直らなくてはならぬ。
空間に於て感覚が相当積極的な役割を演じているのは、前に触れた、空間知覚乃至空間感覚の概念であったが、これ等の概念が結局再び空間直観の概念に地位をゆずらなければならなかったことは、前に見た。物理的空間へ行くために、空間知覚とか空間感覚とかいうこのような心理学的・単純に経験主義的・な概念を手懸りに出来ないのは、当然である。物理的空間は物質的・客観的・世界に関係している、物理学は現実の世界に就いての学である筈だ。そこでは単なる感覚――それが一応積極的な役割を買って出ても――(乃至知覚)は、そのままでは発言権を持たない。――物理的空間に於ては、感覚の役割はより遙かに積極的でなくてはならぬ。それは直観空間の直観に対立して行動するだけの独立の範疇性と一種の直観性――そう云って好いならば――を有っていなくてはならないのである。
茲に測定(測量)がある。測定とは単に数や量を計量することではなくて、具体的な物質的存在を同じく具体的な物質的存在で以て実験上規定することを意味する。例えば物体の長さ重さ等は標尺又は分度器という物体によって物理的に規定される。そこでは数学的な思惟の計量の代りに、感覚(又は知覚)による物質の実験的計量が横たわる、夫が測定なのである。ここで事物を決定するものは感覚以外の何物でもない、なぜなら物質的事物はただ感覚を介してしか認識――実験・測定・がそれの最も確実な場合――されないから。処で物理的空間はこの測定を根本規定とする。それはこうである。
すでに測定ということが空間的である。人々は事物の空間的規定――長さ・幅・厚さ・等々――を与えるためには云うまでもなく、其の他一切の諸規定――時間・重さ・数量さえ――を与えるためにも、空間を是非とも利用しなくてはならない。例えば時間は時計の針の空間上の角度で計られる。測定ということは空間による測定である。――尤もこの場合ならば、この空間は直観空間であっても好さそうなもので、必ずしも之と区別された物理的空間である必要はないかも知れない。併し物理的空間に於ける測定の役割は、この空間の構成の内部にもっと食い入って之を規定しているのである。どう食い入っているか。
物理的に事物を測定するためには、測定者の立つ立場が常に第一に問題である。と云うのは、汽車が走っているとして、この汽車に乗って測定する者(観測者)の観測の立場と、駅のプラットフォームに立って測定する者の立場とは、物理的に云って一応意味が異っている。一方が走っていれば他方は止まっているのだから、又は(運動は相対的だろうからして)、一方が止まっているとすれば他方は走っているのだから。処がこの二人の観測者――物理学者――は夫々、自分が立っている固有な物理的測定の立場から測定した結果を用いて、二人が同じく観測しようとする存在乃至現象を規定する他に道を有たない。物理学はそうやってしか実験的には成り立たない。処で測定は前に云ったように空間を借りる他はなかったから、物理学者は測定の結果を座標によって云い表わす方法を採る。その座標の原点が今云った物理的測定の立場に他ならぬ。座標とかその原点とかは尤も、そう云っただけでは単に幾何学的空間にぞくしたものとしか考えられまい。処がこの原点は幾何学に於てのように勝手に変換することが出来ない、甲の測定者の立場――原点――はあくまで甲の立場であって、乙の測定者の立場と入れ変えることは、物理的に不可能なのである。かくて物理的に云って、測定者があるだけの幾個もの原点を夫々の中心とした、幾つもの空間が独立して並存する。こういう独立の幾つもの空間は、幾何学に於ては、即ち幾何学的空間としては、ナンセンスに他なるまい。併しそれが物理学に於ては空間の根本的な特色をなすのであった。だからこの空間は、もはや幾何学的空間ではなくて、正に物理的空間なのである。之が物理的空間に於ける測定の本当の役割である。
物理的空間とはこういう測定の原点を意味する。だからこの空間で感覚乃至知覚がどのような積極的な本格的役割を有つかが明らかである。感覚乃至知覚は、測定という手続きを取って、自分自身の原理を以て、物理的空間を構成する。物理的空間はだから、感覚(知覚)乃至測定をその根本規定とすることによって、直観空間から区別される。それが幾何学的空間からも亦、同じ根拠によって区別されることは、先に云った。――以上が物理的空間と他の二つの空間との区別である。
さてこうやって独立の形態を有つ物理的空間は、A・アインシュタインの相対性理論によって、愈々その独特の内容を明らかにされた。物理的空間は元来、先に云ったように物理学者の方法であるのだが――測定が之である――、そのことから必然的に、夫は物理学の対象一般を包摂するという、物理学に於ける普遍的な支配的な位置を占める。この空間は時間(但し物理的時間)・重力・電磁気・物質・等を自分自身の変容に過ぎないものとして包含する。運動などは云うまでもなく、力乃至エネルギーや物質までが、空間的本質を有ったものとなる。物理学は空間を方法とする、その結果その対象一般も亦空間となる。物理学と物理学の対象とは、空間化(幾何学化Geometrisierung)される(この個処に就いては、拙著『科学方法論』参照)。
一切の物理学的対象は空間化乃至幾何学化される。そこで人々は云うだろう、物理学の対象――それは結局物質に帰着するが――は、もはや物質的なものではなくて、空間乃至幾何学的関係というような何か非物質的・観念的(乃至精神的)・思惟的・なものに過ぎない、「物質は消滅した」、数学式だけが残った、と。人々によれば空間化乃至幾何学化とは、物理学的対象の観念化だと云うのである。
だがこういう解釈――之は物理学が与える科学的結果自身ではなくて夫に就いての一つの理論的・哲学的・(?)解釈である――は全く物理的空間の概念に就いての無知から来る。人々は物理的空間を、何か直観空間(それは観念的と考えられた)又は幾何学的空間(それは思惟的である)と同一視する。そこで空間化(所謂幾何学化)とは要するに観念化だということになる。――処が実際は、物理学的対象の空間化は、空間の物質化でなければならない。そういう物質化され得る又は物質化された空間こそ、正に先から云っている物理的空間であり、その故にこそこの空間が他の二つの空間と異っていたのであった。物理的空間は、力の場(Feld)であり、物質である。と云うのはエーテルという概念がこの空間=物質の関係を云い表わすために再び取り上げられねばならないのだ。物理的空間は物質を完全に捨象した虚空間ではない、それは充たされた実空間(voller Raum)である。虚空間ならば物質と全く絶縁されている、物理的空間は、実空間であるから物質と連関し之と統一をなす。尤もそう云っても、物質と空間との区別が、対立が、なくなって了うのではない。物質は空間の内に於て特殊な結節点をなす。L・ド・ブロイやE・シュレーディンガーの最近の波動力学(Wellenmechanik)も、一般の波動が高次の波動にまで結節したものを物質――物質波――と考える。物質は空間に対してこのような特殊性を有っている。それにも拘らず之は空間的な本質を有つ。空間は空間と物質とになって自らを対立せしめる、夫が物理的空間の性質なのである。と同時に之は、物理学的物質の性質でもなければならない。物質は物質と空間とになって自らを対立せしめる。かくて、物理的空間とは物理学的物質に他ならない。尤も、もし両者が自己同一的ならば、もはや物理学的物質の概念以外に、吾々の物理的空間の概念は無用であるかも知れない。そこで吾々は、物理的空間は物理学的物質と、弁証法的統一をなすものだ、と云い直さなければならぬ。
物理的空間(乃至物理学的物質)は、最後に空間の一現象形態に他ならない。空間が物理学的規定の下に現われたものが夫である。ではこの物理的空間――乃至物理学的物質――の云わば背後にある本質空間は何か。吾々は今まで、直観空間に就いても幾何学的空間に就いても、いつもこの問題に行き当って筆を絶って来た。今や大体、この問題の解決の方向を暗示することが出来る。物理的空間は物理学的物質である、だから物理的空間の背後に見られるべきものは又、物理学的物質の背後に見られるであろう処のものである筈だ。物理学的物質の背後に見られるもの、之を吾々はレーニンの言葉を借りて、哲学的範疇としての物質と名づけるならば――一を参照――本質空間はこの哲学的物質に連関して解明出来るに違いない。
そこで最後に、空間の本質の問題に来る、併しその前に、哲学が空間の概念をどういうものとして解釈しているかを吟味しよう。なぜなら吾々は、ここに関係して、空間本質の或る独自の――あまり人々によって注意されなかった――一現象形態を見るだろうから。
吾々は直観空間とか幾何学的空間とか物理的空間とかが、何れも空間という唯一本質の夫々の現象形態に過ぎないだろうことを見た。それは吾々が空間の問題を取り扱おうとすると、空間概念を持とうとすると、どうしても心理学とか幾何学とか物理学とかいう特殊科学の特殊の立場を踏み越えて、一般理論的――哲学的――な立場へ移り行くことを強制される、のを知るからであった。だが吾々は予め之等三つの空間の現象形態に通じる、恐らくそれの根柢に横たわっている、一つの独自な空間概念を持っていなければ、そういうことに気がつく筈はないだろう。人々は心理学的・幾何学的・物理学的・に空間の概念を構成する前に、予め、一つの一般的な空間概念を有っていなくてはならない。それは特殊の専門的科学の知識を有たない内から成り立つ空間概念であるから、非専門的な日常的な空間概念である。だからこれを日常的空間と呼んでおこう。
かの三つの空間が空間自体の部分的現象形態であるならば、これは空間自体の全般的現象形態である。前者等が空間自体の間接的抽象であるなら、日常的空間は空間自体の直接的抽象だと云っても好い。――日常的空間の概念こそ(それが何であるかは次に述べるが)人々が日常生活(それは或る意味で専門的ではなくて常識的だ)に於て活用している最も直接な空間概念である、その他の空間概念は凡て、或る分科的な興味から部分的に発展せしめられた科学の特殊の専門領域を関心の中心として生じた、空間の概念に過ぎない。――之に反して、元来普遍理論を関心とする、統一的な興味から出発する哲学に於ては、多くの空間概念は、この日常的空間を中心としてその周りを回っているとも云うことが出来る。だからこれは云わば哲学的空間なのである。
哲学者はこの空間(Raum)なるものの概念(それは本来日常的な空間概念なのであるが)を色々の他の似た概念で置き換える。例えば複空間(R
ume)(尤もカントが物理的空間をそう呼んだのは正当だったが)とか、空間的なるもの(das R
umliche)(F・ブレンターノ†1917, Psychologie vom empirischen Standpunkt)とか、空間性(R
umlichkeit)(M・ハイデッガー Sein und Zeit, Bd. I, 1927)とかを以て、空間の代りにしようとする。第一は物体の概念と空間の夫とを混同することから、第二は空間的に表象されたものという概念と空間自身の概念との混同から、第三は空間と空間のアナロジーとの混同(故にたとえば色の幾何学
Farbengeometrie
とか音の幾何学
Tongeometrie
とか)から、来る誤りである。だがなぜ人々は、こういう誤りを賭しても空間の概念を他の概念へすり換えねばならなかったか。それは空間という概念を、それに近くて而も尤もらしい他の概念で以て何とか説明して見ようと思うからである。こういう説明欲が嵩じて来ると、空間は神によって説明されようとしたり(ヘンリ・モーア†1687 やニュートン†1727)、光によって説明されようとしたりする(例えば十三世紀の自然哲学者ヴィテロの如き)。この種の説明は昔から決して珍しくない。――併し空間(日常的空間)の概念は、他の概念によって外部から説明されるよりも先に、内部から分析されなくてはならない筈である。日常的空間の概念を分析して発見されることは、それが一つの存在性――空間的存在性――を云い表わすということである。空間に於て存在するものはまだ直ちに空間ではない。少なくとも存在するものが存在することが空間なのである。日常的な空間概念は(空間的)存在者の概念ではなくて、(空間的)存在性の概念である。さて日常的空間のこの存在性の概念は歴史上、様々な名辞によって云い表わされる。第一は何処(ubi)であり、第二は場所(locus)であり、第三は位置(situs)である。だがこの三つのどれをとって見ても、空間の何処であり、空間に於ける場所であり、空間内の位置である他はないように、空間をただ部分的に表現する名辞でしかない。空間の全体を云い表わすことの出来る名辞は思うに第四の spatium(空間)に他なるまい。併し、スコラ哲学の空間論に於けるこの四つの名辞――それは多くアリストテレスから来たのだが――が云い表わすところのものは、それがスコラ的であるだけで、要するに名辞に過ぎないだろう。元来この名辞が云い表わす筈であった空間――存在性――という事態の構造は、こういう名辞では少しも明らかにならない。吾々は今、空間(日常的概念による)の構造を議論は抜きにして簡単に分析しておきたい。
空間の存在性を成立させる第一のものは延長(extensio)である。デカルト(†1650)やスピノザ(†1677)は之を物体的乃至物質的存在の特色(属性)と考えた。延長は次元(Dimension)と連続と長さの三つの分から成り立っているのである。――第一、次元。一般に次元とは、多様が統一されながら、なお且つ全体に対して又夫々の間に独立を保つ場合の、統一の多様を指す。例えば長さや重さや時間の経過等の多様が統一されて、物理学的記述(CGS系統)を与えるが、この場合の長さや重さや時間の経過はどれも、他のものに還元出来ない独立性を有つ分である、その限り夫々は一つの次元なのである。今は之が空間――延長――に就いて行なわれる場合の問題である。日常的概念による空間=延長の次元は処で、特に三次元であることをその特色としている。そしてこの三つの次元は交換し得る(vertauschbar)――等方性(Isotropie)を有つ――と共に、等質的(homogen)であり又直線的乃至平面的(eben)でなくてはならない。――このようなものが延長に於ける次元の特色である。
第二、連続。連続も亦次元と同じく、延長だけに見出されるものではない。数や時間や運動に於ても、連続は成り立つ。だが延長に於ける連続は特殊の性質を持っている。と云うのは、連続は元来どの様な場合でも無限又は無際限の概念に結び付いているが、延長の連続では、この無限乃至無際限が単なる夫ではなくて、特に、閉鎖(geschlossen)していないということ、開放的(offen)であることを意味するのである。吾々は之を見て延長に於ける連続の特殊性を見出すことが出来る。
延長の第三の規定は長さ(距離又は間隔)である。尤も普通長さと云えば、どれ程長いかを一定の尺度で計量されたものの謂である。けれどもそういう計量以前に、計量の尺度などとは無関係に、まず何かが長さを有つか有たないかという一段の規定がある筈である。その上で有つとしたらどの位の長さを持つかが初めて問題になれるだろう。数学的概念を借りて云い表わせば、この場合の長さとは、計量(Messung)に基く長さではなくて、云わば順序(Ordnung)に基く長さであると云うことが出来よう。AがBの左にありBがCの左にあるなら、AB の長さは AC の長さに含まれる。この左右の位置関係を順序と云うのである。
さて吾々はこうやって日常的概念による空間に就いて見出すことの出来る一切の根本規定は、凡て延長に帰着するのを見た。之が日常的空間の事態の構造である。――処で読者は、この分析の結果がカントの直観空間の分析の夫に可成り近いことに気付いただろう。では日常的空間とは、この直観空間のことであるのか、だが直観空間はカントによって、それが日常的概念によるものであることなどを無論少しも問題にされることなくして、分析された。しかし日常的概念に依るものでなければ日常的空間ではない。カントが見た結果が仮に偶々吾々の見たものに近かったにしても、分析の精神――それが行なわれる場面とその目的――は全く異る。カントの分析法はなお心理学的乃至現象学的な範疇を脱しない、それは日常的概念による処の空間(それが日常的空間という概念の意味である)を分析することを意識する代りに、単に直観としての空間を分析しているに過ぎない。吾々は空間を日常的概念に依るものとして又は日常的概念として、日常的概念に於て又は日常的観念によって、分析(夫を仮に概念分析と呼ぼう)する。それは空間を直観として、直観に於て又は直観によって、分析(直観分析――本質の直観 Wesensschau)するのではない。日常的概念による空間は(それが日常的空間ということである)、現象学的(フッセルルが之を代表する)――吾々はカントの今云った特色を之に求める――方法にとっては手懸りのない対象である。それはただ概念分析する哲学的方法にとってのみ初めて解明出来る対象となる。
吾々はこういう分析法を取るからこそ初めて、日常的概念による処の日常的空間(存在性)が有つ性格を正当に把握することが出来る。日常的空間に就いて、その名辞と事態の構造とをすでに見たが、この二つの規定は実は、空間の性格・特性・という第三の規定に向かって指していることによって初めて意味を有ったのである。さて空間――存在性――とは、日常的概念に従えば、Da――特有な客観性――という性格を意味する。吾々は別に、他の概念を用いて、Da- 性格が意味する客観性のこの特有さを説明することは出来ない。それは自分で自分を説明する他に道がない程、根本的な規定なのである。この Da =「そこ」こそが日常的空間の概念の性格である。空間とは物のDa-charakter に他ならない。
処で哲学者達は、その哲学が一つの専門にまで分化して了ったため、もはや空間に就いて日常的概念を有てないまでに、又はそういう日常的概念なるものが存在するのを忘れて了うまでに、専門的・非日常的・非常識的・になる。そこで彼等は空間を、何か論理的なものとして性格づけたり(H・コーエン†1918 によれば空間は「範疇」である)、何か対象論的なものとして性格づけたりする(A・マイノング†1921 は空間を So-sein の範疇に入れる)。それが又何か現象学的なものとして性格づけられた場合を吾々はさっき見た(カントとフッセルル)。だが論理的なものは判断や妥当の性格を有つものであり(E・ラスク†1915 を見よ)、対象論的 So-sein は之に対して仮定(Annahme)――夫は肯定判断と否定判断との中間領域・即ち妥当まで行かない妥当の予備段階・である――の性格を有つ。現象学的なものは又意識の性格を持つのである。処がこれ等判断・妥当・仮定・意識・(其の他まだ数えられるかも知れない)は、夫が正に Da の性格を有たないことをこそ自らの性格としている。だから空間を之等のものに帰着させることは、空間の性格を他のものの性格で置き代えることである。かくては空間は空間でなくなって了う。この種の哲学者にとっては、空間は全く見当違いな仕方で片づけられる。――こういう誤りを犯す原因は併し取りも直さず、空間をば日常的概念によって考えることが出来なかったことに横たわっている。日常的空間という概念を承認しない限り、空間の概念は着実に正当に把握されない。そこに残るものは哲学体系による空間の勝手な説明や、やがては又都合の好い構成でしかないだろう。――ヘルバルトの英知的空間(intelligibler Raum)などはこのような哲学的構成の極端な場合であった。
さてこのような日常的空間の概念、夫は人々が日常生活に於ていつも直接に使用している処の空間の概念であり、之のもつ Da- 性格が直観空間・幾何学的空間・物理的空間・の概念の根柢に横たわる共通者なのであった。だがこの概念によって表わされるものだけが空間の凡てでは無論ない。夫は少なくとも、例の三つの空間の代理をつとめることは出来ないのだから。これも亦空間自体の一現象形態に過ぎない。
さて空間自体と今まで呼んで来たもの、それはでは何であるか。吾々は最後の問題に、吾々の理論の結論に、這入る。
空間が最も直接に現象する日常的空間に於て、空間の性格は Da- 性格として現われた。他の諸空間をして夫々一つの空間形態と考えさせたのも、従って又諸空間形態を同じ空間の概念の下に統一出来たものも、この Da- 性格のおかげであった。空間自体は処が元来、空間の現象諸形態の終局の統一者でなくてはならない筈である。だから、日常的空間の Da- 性格は、比較的忠実に、空間自体の性格を伝えていなくてはならない。
日常的空間概念の Da- 性格は、特有な客観性であった。吾々はここに例えば人間学的な存在(Dasein)――ハイデッガー――などを考えていけない、それならば或る意味で主観的であるかも知れない。吾々の云うのは却って特有な――それは空間自らが説明する他はないが――客観性を指す。それは主観の外に、主観と独立に、在る特有な在り方を指す。こういう客観性をもつものを吾々は、最も含蓄ある意味に於て物質――哲学的物質・質料――と呼んでいる。哲学的物質とは、或る何かの特別な存在の名ではなくて、存在者一般を、又存在するということ・存在性そのもの・を云い表わす。吾々は日常生活に於て、実際こういう物質をたよりにして生活している。無論人々が原子の構造や物理学的な物質理論に通じなくても、人間は今云ったこういう物質にたよって実践生活を営むことが出来るのである。日常的空間はその場合の実践の場面の他ではない。日常的空間の概念はこの意味で物質(哲学的物質――必ずしも物理学的ではない)に就いての一つの概念である。Da- 性格はここから来たのである。
日常的空間に於ける Da- 性格――物質性――から、やがて云わばその背後にある空間自体の性格にまで溯源出来る。空間自体の特色こそが元来、この Da- 性格・物質性・になくてはならないのである。日常的空間の Da- 性格は、これが日常的概念を通ることによって、現象した場合に他ならなかった。――で、ここで Da の性格――それは物質から来る物質性であった――は、何と云っても、空間自体のそれに較べれば、影を不明瞭にする。実際、人々の日常生活に於ては、哲学的物質(それが Da- 性格の根であったが)はただ常識的に漠然としか概念されない。常識的物質概念は、物質なるものが哲学的普遍的範疇にぞくすることを明瞭に自覚出来ない。だからそれは往々、日常的空間と空間の他の諸現象形態との連関――それを与えるものが日常的空間にすでに含まれている物質性であるのだが――を見失ったり、又物理学的物質の概念と混同されて了ったりするのである。――之に反して空間自体の有つ物質性(Da- 性格)は、あくまで明瞭に、窮極的に、意識されなければならない。空間自体の性格は、窮極的な物質性(哲学的範疇としての物質)である。それは物質自身から来る。
もしこう考えて来るなら、空間の性格をその観念性に置こうという思想が、如何に本末を転倒した関心に立っているかが判るだろう。空間は何にも増して、まず第一に客観的でこそなければならない、だのにこの客観性を基礎づけると称して、却って主観のもつ客観性――即ち観念性――にまで退却するのだから、問題の提出の仕方が全く方向を逆にしていることを、之は物語っているわけである。恐らく問題はこの際、空間自身の問題として、空間自身のために選ばれたのではなくて、何か観念論の関心を充たすために、初めから観念論の問題として、選ばれているのだろう。観念論の全体系が空間の観念性の発見によって動機づけられていると、カントは自ら省みてそう云うのであるが、実は恐らくその反対が真理ではないのか。
もし吾々が空間の問題を、正直に正面の問題とするならば、空間の問題はただ唯物論的なものとしてしか解決されない。吾々は、初め、哲学史上の事実に立って之を指摘しておいた。空間の本質は(哲学的)物質(カントは之を不幸にも不可知論的な物自体の概念によって理解したから、之を回避せねばならなかった)に由来した、空間の問題は物質の問題に帰着する、空間論は物質論に帰着するのである。物質論は無論唯物論的にしか解決出来ないではないか。
物理学に於ける物質は、云うまでもなく第一に空間的延長を占め、時間に従って運動することをその根本的な規定としている(運動に就いて、力の概念が必要だと考えられる場合には、力も亦物質の根本的規定に数えられる)。物理学的物質は、物理的空間・物理的時間・物理的運動・をその契機とする。之等の契機の夫々は、夫が契機であるからには、他の契機及び全体(物質)から区別され対立する処のものであるが、同時に又それであるが故に、他の諸契機及び全体と、離れることの出来ない連関に這入っている。だから物理的空間は物理的時間や物理的運動の契機及び物質と、断ち切り難い交流の関係に這入っているのである。物理的空間とは、物理的物質のそういう弁証法的契機であった。之は前にも他の側面から触れておいた。――処で物理学的物質は、哲学的物質――夫がカントでは不幸にも不可知的な物自体であった――の、一つの特殊な、唯物論的に見て最初の、現象に他ならない。だから物理学的物質に就いて云われた今の関係が、日常的空間から空間自体へ推理出来たと同様に、大体そのまま哲学的物質にまで溯源して云われるだろうことは、想像するに困難でない。
実際、哲学的物質の概念内容は、その客観性と運動性とによって特色づけられる。後者は、哲学的運動――変化――と夫に必要な時間(哲学的時間)との二つの契機である。そして前者が取りも直さず空間自体という Da- 性格の契機に他ならない。空間自体とはこの哲学的物質の Da- 性格を担当する処のモメントなのである。空間の性格であるこの性格は、実は元来物質自身の一性格であった、空間とは、この一性格だけが特に抽象された場合に他ならないのである。かくて哲学的物質は、空間自体・哲学的時間・哲学的運動・をその弁証法的契機とすると云ってよい。だから又空間自体は、時間や運動と、又哲学的物質と、弁証法的な連関統一に這入る。それは物理学的物質乃至物理的空間に於ての場合と、全く類推的であったろう。
さて吾々は、空間のこういう弁証法的な触手を手繰ることによって初めて、夫と例えば時間との関係――夫を多くの人々は平行関係と仮定した――をも決めることが出来るだろう。そうでなければ空間の問題はただ漠然と時間の問題と並べられるに過ぎないだろう。
吾々の知っている空間の諸現象形態を通じて、云わばその背後に空間自体・空間本質・が横たわっている。之が云わば、空間の諸現象形態となって現われるのである。空間の現象諸形態が相互の間に連関統一――区別や制約の関係も含む――を持つことが出来るのは、他でもないこの空間本質の賜である。処がこの最後の空間は物質(それを物理学的範疇としてではなく哲学的範疇として理解せねばならぬが)の弁証法的一契機なのである。物質の客観的存在性そのものを云い現わすものが、恰もこの空間であった。かくて空間は物質に帰着する。空間の問題――空間論――は物質の問題に帰着する。夫は唯物論の問題に帰着する。
附記
この文章では分析をごく表面的に止めざるを得なかった。多少材料に立ち入った分析に就いては、次の拙稿を参照されたい。
この文章では分析をごく表面的に止めざるを得なかった。多少材料に立ち入った分析に就いては、次の拙稿を参照されたい。
「物理的空間の成立まで」(『哲学研究』一〇六)、
「物理的空間の実現」(同、一〇七)、
「幾何学と空間」(『思想』五六・五七)、
「範疇としての空間」(『哲学研究』一二七・一二九)、
「性格としての空間」(『思想』七二)、
「空間概念の分析」(同右、八〇・八二)
「物理的空間の実現」(同、一〇七)、
「幾何学と空間」(『思想』五六・五七)、
「範疇としての空間」(『哲学研究』一二七・一二九)、
「性格としての空間」(『思想』七二)、
「空間概念の分析」(同右、八〇・八二)
なお、空間の問題に関する文献の数は殆んど無限であるが、問題の形が様々であるだけ之を統一的に分類することは困難である。今はただ吾々が引用した文献は除いて、ごく重大なものだけを挙げておこう――
一、直観空間に関しては、
一、直観空間に関しては、
Allesch, G. J. von : Zur nichteuklidischen Struktur des ph
nomenalen Raumes (1931).
nomenalen Raumes (1931).Jaensch, E. R. :
ber die Wahrnehmung des Raumes (1911).
ber die Wahrnehmung des Raumes (1911).Marty, A. : Raum und Zeit (1916).
B
hler, K. : Die Gestaltwahrnehmungen, Erster Band (1913) 等。
hler, K. : Die Gestaltwahrnehmungen, Erster Band (1913) 等。
二、幾何学的空間及び物理的空間に関しては、
田辺元『数理哲学研究』(一九二四年)。
Bergson, H. : Dur
e et Simultan
it
(1926).
e et Simultan
it
(1926).Borel, E. : L'espace et le temps (1923).
Einstein, A. : Verschiedene Werke.
Erdmann, B. : Die Axiome der Geometrie (1877).
Lechalas, G. : Etude sur l'espace et la temps (1896).
Lorentz-Einstein-Minkowski : Das Relativit
tsprinzip, 4 Aufl. (1921).
tsprinzip, 4 Aufl. (1921).Mach, E. : Space and Geometry(英訳)(1906).
Reichenbach, H. : Philosophie der Raum-Zeit-Lehre (1928).
Study, E. : Die realistische Weltansicht und die Lehre vom Raume, 2. Aufl., Erster Teil (1923).
Weyl, H. : Raum. Zeit. Materie, 4. Aufl. (1921) 等。
三、一般に空間概念に関するものは、
Baumann, J. J. : Die Lehren von Raum, Zeit und Mathematik, Bd. I, II (1868-9).
Van Bi
ma, E. : L'espace et le temps chez Leibniz et chez Kant (1908).
ma, E. : L'espace et le temps chez Leibniz et chez Kant (1908).Gent, W. : Die Philosophie des Raumes und der Zeit (1926).
do. : Die Raum-Zeit-Philosophie des 19. Jahrhunderts.
Jakubisiak, A. : Essai sur les limites de l'espace et du temps (1927).
Poirier, R. : Essai sur quelque caract
res des notions d'espace et de temps (1932).
res des notions d'espace et de temps (1932).Poppovich, N. : Lehre vom diskreten Raum (1922) 等々。
[#改段]第二部 認識論
新カント学派の人達などは、自然科学や歴史科学に就いて、その基礎づけを与えることを色々と試みて来た。彼等によれば、そういう基礎づけが即ち哲学――批判哲学・批判主義・――なのだから、之は取りも直さず哲学的基礎を与えることになる。M・アードラーなどがマルクス主義にそうした「哲学的基礎」を与えようとしたことはよく知られているだろう。そうした場合に「マルクス主義」と呼ばれているものは併しながら、多くの「哲学者」がそう思い込んでいるように、マルクス主義的社会理論(唯物史観・史的唯物論)のことであり、マルクス主義とは、自然からも思惟からも切り離された歴史的社会という、この一部分に関してだけ通用する理論だと仮定されている。そういう仮定から出発すれば、アードラーの云う通り、マルクス主義なるものは唯物論とは何も関係がない、ということになるのは恐らく必然的である。要するにマルクス主義なるものは、カントの批判主義を社会理論に於て補足するカント哲学の一部分(社会哲学?)にしか過ぎない。マルクス主義は唯物論ではない、即ちマルクス主義はマルクス主義ではない。マルクス主義は哲学的に「基礎づけ」られるとマルクス主義ではなくなる。所謂哲学的基礎とはそうしたものなのである。
哲学は原理の学問だ、それは一切の特殊な偶然的な諸事実の領域に応用されるべき純粋な本質の学である。処がマルクス主義は主として社会乃至歴史(そしてやや不当にも自然や論理にさえ夫が無批判にも拡大されたのだ)に関する特殊な認識に過ぎない、夫は現代の問題や時事問題、又政治問題などという、一つの応用哲学――恐らく一種の実践哲学――にぞくする課題を解くために存する、そう或る人々は考える。だからこうした応用的な特殊な事実の問題を、その原理的・本質的・な問題に還元することによって、それを深めねばならない、それが哲学的基礎づけというものだ、そう彼等は推論するのである。だが――マルクス主義哲学は、それ自身一つの哲学であり、それが一つの独自な世界観に立っているということを注意すれば、今の推論がどんなに変なものであるかが直ぐ判る。マルクス主義がその原理・本質的根柢・を、他処から借りて来なければならぬとすれば、それは何等の哲学でも世界観でもあり得ないではないか。
マルクス主義哲学=弁証法的唯物論は、それ自身独自の歴史的発達と体系組織とを持った一つの哲学の貫かれた系統である。之を何かの所謂「哲学」――夫は一般的にブルジョア観念論と呼ばれて良い――によって継ぎ穂するということは、全く無意味な企てなのである。
では吾々の哲学の「哲学的基礎」という言葉は全く無意味であるのか。必ずしもそうではない。――わが国で社会科学と云えば、それ自身マルクス主義哲学・唯物弁証法・の一部分を意味していることは、人々が好く知っている通りである。と云うのは、之を例えば、社会科学は一つの科学であり、之に反して弁証法的唯物論は之とは区別された一つの哲学である、などと考えることは出来ない。科学と哲学とのそうした無責任な分離は、科学をば世界観的な原理を欠いた単に実証的な知識のよせ集めと考え、そして哲学をば、現実の材料と関係のない単なる形式主義的知識と考えることで、その限り、科学と哲学とをば、弁証法的でも唯物論的でもないものにして了う。この点は社会科学に限ったことではない、自然科学に就いても、その通りにならねばならぬのである(そこには自然弁証法の問題が見出される)。マルクス主義に於ては、一切の「科学」が哲学的なのであり、又哲学的にならねばならない。――併し他方、それにも拘らず、吾々はマルクス主義的認識内容に就いて、如何なる場合にも、内容と形式という二つのモメントを区別することが出来、また区別し得なければならない。そしてこの場合、形式としてのモメントとは他でもない、論理乃至(唯物)弁証法のことなのである。マルクス主義哲学に、更に「哲学的」基礎があるとすれば、それは恰もここにある筈で、而もここを他にしてあり得ない。
但しこの場合、論理(乃至論理学)と呼ばれるものは決して所謂形式論理のことであってはならないのである。なる程形式論理は、それが形式論理主義とも云われるべき一つの立場乃至方法――弁証法を否定しなければ夫は成り立たない――を意味しない限り、一つの要素的な場合として、この論理に含まれているわけであるが、それだけが無論この論理の凡てでもなく又支配的なものでもないので、一般にここで論理と考えられるものは、全く弁証法的論理でなくてはならない。だから論理乃至弁証法が、認識内容に対するその形式としてのモメントだと云うのである。
で、吾々の問題はマルクス主義の・弁証法的唯物論の・認識内容に就いて、それの――形式的モメントとしての――論理乃至(唯物)弁証法としてのモメントを、特に取り出して取り扱う、という形態の下に、初めて問題提出の権利を与えられる。問題はレーニンの考えた意味に於ける認識論にぞくする。
処で、そうした問題提出の仕方をすると、第一に必要な、そして多分最も中枢的な、仕事は弁証法的唯物論に於ける諸根本概念の検討でなくてはなるまい。例えば物質とは何であるか、意識とは何であるか、反動乃至模写とか実践とかは何であるか。又抑々弁証法それ自身は何であるのか。そう云った範疇の分析が何よりもの問題となる。
吾々は弁証法的唯物論の「哲学的基礎」として、物質と模写との概念に限って、範疇論を要素的に展開して見よう。
第一に物質とは何であるか(以下(二)・(三)・は一、「物質の哲学的概念」と多少重複する処があるかも知れない)。
わが国で物質と訳されているものは Materie 又は Stoff である。哲学史に於てはこの二つの言葉は様々な内容を盛られて来ているが、物質という至極ポプュラーな概念になったのは決してそれ程古いことではないので、恐らく十八世紀のフランス唯物論者の啓蒙的活動の結果だと云って好くはないだろうか。従ってこの言葉が主として生理学乃至物理学で云う物質――そういう自然科学の範疇としての物質――を何より先に思い起こさせるという事情は、無理ではない*。更に之が坊間の日常語としては、欲情や所有物や金銭を意味するようになったことには、充分な理由があり、そして実際又、之を蔑視して使っている人達自身も意識していないような、一定の意義がそこに蔵されてもいるのである。
* L. B
chner の Kraft und Stoff (1855) は非常に沢山読まれた書物で、この「シトッフ」がまず今の場合の代表的な物質概念だと云うことが出来よう。
chner の Kraft und Stoff (1855) は非常に沢山読まれた書物で、この「シトッフ」がまず今の場合の代表的な物質概念だと云うことが出来よう。だが、物質に就いての哲学的概念は無論そのような俗語や又は啓蒙的な通り言葉に、完全に制約されて了うことは許されない。自然科学的範疇としての物質であっても、化学の発達や近代物理学の発達によって――原子構造論・量子力学・原子核物理学・等々――、すでに幾世紀か昔のものとは甚だしく異ったものとなっているのは当然だが、そうした「進歩」した物理学的物質の概念によってさえ、哲学的な物質概念は制約されることが出来ない。否寧ろ、物理学のそういう進歩は、物理学的物質の概念が、哲学的範疇としての物質から少なくとも如何に異るかを実証的に示しているに他ならない。
哲学的物質とはでは何か。それは他でもない、全く存在の概念なのである。この場合人々は存在するもの・存在物乃至存在者・を考えることを後回しにして、まず第一歩として、存在すること・「存在する」・という概念を念頭に置かねばならぬ。無論後に見るように、或るものは存在者で、それがなければ、存在するということの概念も一応の具体的な意味に達しないのだが、今の問題はさし当りそういう存在するものに関する理論――存在論其の他――にあるのではなくて、そのためにこそ、それより先に、存在という範疇に関する理論――論理学――が問題なのである。それで、存在するものよりも存在するということが今は手前の問題なのである。――何ものかが存在する又はしない、何ものかが存在者である又はない、そういうこと自身を決定する処の、存在という範疇が何かを、先ず第一歩として考える。で、そうした存在の範疇が、他の何物でもなくて物質だ、というのである。それが本当に物質であるか、又はそうでなくて他の何か――観念とか神とか――と呼ばれるべきであるか、は別としても、とに角今は、物質というこの哲学的概念を、そうした存在――まだ存在物や存在者ではない――として、是非しなければいけない。
今云ったような存在を、論理学的に取り上げた最も手近かな明瞭な場合は、ヘーゲルである。彼が Sein と呼んでいるものは、思惟の自己規定――措定・テーゼ・――そのものとしての「ある」であって、文法的に云えばコプラが substantivum になったものと思えば好い。之が彼の論理の出発をなすのであるが、彼の論理の特色は、所謂客観的論理・存在の論理・であるにも拘らず、論理自身が客観的存在者そのものをカバーして了うことが出来るのだから(人々は之を「発出論理」として特色づける)、要するにそれは純論理的論理・論理の論理・でしかなく、Sein もそういう「論理」の出発としてしか取り出されることが出来ない。と云うのは他でもない、Sein が優越的には判断のコプラとしてしか取り出され得なかったのである。そういう論理的判断のコプラ「ある」が、客観的に・存在上・どういう意味を持つかは、即ちどういう風にあるということを云い表わす、のかは、そこでは問題になれない。ここで問題になれるのは高々、何であるか又は何があるかであって(そして之が不足だということから無に移行する)、どうあることが抑々「ある」ということか、ではない。――ヘーゲルに於ける「ある」は、まだ必ずしも精神やイデーではないだろうが、無論又決して物質でもない。――「ある」・存在・は存在者から区別されねばならなかった、だが、存在者から独立に切り離されて了って考えられた存在は、全く観念上の――純論理学的――規定のことであって、それが存在者の規定としての「存在」・「ある」・だという保証さえどこにもない。
ギリシア人は、ヘーゲルよりもより少なく論理学者であり、より多く存在論者(様々な意味で形而上学者と云っても好い)であった。彼等は存在を存在者・存在物・と考えるのではないが、そうかと云って、単に論理学的な・又は客観論理的な・「存在」には満足しなかった。否そこまで抽象化するだけの論理学的惰性をまだ持っていなかったと云うべきだろう。――彼等は「存在」を形相(形式、形態)と考えた。一定の形を持つということが、一定の姿を現わすということが、要するにイデアが、存在する・ある・ということだったのである。だからこそ実体(本質性)――それは存在者のことではなくて「存在」のことだ――が、一方に於ては普遍者であると考えられると同時に、他方に於ては之に反して個物だとも考えられたのである。ただの――コプラ的な――「ある」が普遍者であることを指し示したり、個物であることを指し示したりする筈はあるまい。
「存在」を単に「存在」――「ある」――として抽象して了う代りに、形相を有つこと(イデア)として理解するこの典型的な観念論にとって、では物質(又は質料)とはどういうものであったか*。
* 観念という言葉は決して古典的なものではない、イデアは必ずしも観念――この意識主観――を意味しない。観念論は元来イデア主義のことであるべきで、必ずしも観念主義のことではない。だから理想主義ともなるのである。
質料(物質)の概念は云うまでもなく形相(形式)の概念に対立する。で、形相が存在ならば、質料(物質)は無でなければならないわけである。エレア学派で問題にされた虚無がプラトンのイデア論の具体化という課題に際して、「プラトンの質料」となったのである。形相(存在)をそのまま受け取り受け容れる無が、アリストテレスによればプラトンの質料(物質)なのである。だが無が本当に無ならばパルメニデスの云う通り、そもそも問題にされ得ないもので、無の概念が必要な場合は、実は所謂有(存在)という概念では有(存在)自身が片づかないことが意識された時に限る。プラトンの質料(物質)も、所謂存在(形相)の概念では片づけ切れないような、それ程迄に圧倒的な盛り盛りした存在が想定されねばならなかったればこそ、必要になる概念だったのである。そう解釈するのがプラトンの無(物質)の最も正しい又最も新しい見解であるようである。
そこでこうなる。存在は本当は形相(形式)としては把握出来ない、それは寧ろ、より高度の概念によって、質料(物質)の概念によって、把握される他はない。質料(物質)は無どころではない、それこそ本当の充ち溢れた存在だ、ということになる(アリストテレスは質料をば可能性という、形相よりももっと低度の、併し矢張り一つの存在と考えた。質料は可能的なものではなくて却って現実的なものでなければならないだろうに)。
この古典的考察は、なぜ存在が他のものではなくて正に物質(質料)でなければならないかを、典型的に示すだろうと思う。物質ということは、存在物・存在者・の性格であって他の何物でもない、がそれは存在物・存在者・そのものではなくても、とに角そのようなものが存在する・ある・ということである。物質というものがあると云うより先に、あるということが取りも直さず物質ということだと云うべきなのである。
それは質料に就いて云えることではあっても、物質に就いて云えることではないと人々が云うなら、彼等は物質を単に例の物理学的範疇と考えているのである。哲学的範疇としての物質は、質料という概念に於て、その最も典型的な古典的抽象形態を有っている、それが哲学の歴史の教える処に他ならぬ。
併し質料(物質)を無と考えねばならなかった古典の必然性には、重大な意味がある。存在は本当の存在(物質)であることによって、単なる存在(形相)ではあり得ないということを、それは証明している。その意味で、存在は単なる存在ではなくて、却って無から根ざしていなくてはならぬ。無から出て来る――そういう云い方を許すとして――のでなければ存在は存在にならぬ。一口で云って了えば、無と存在との統一こそ、本当の存在なのである。物質とは無と存在との統一としての真の存在である。この点が大切だ。
無から存在が出て来るということは神秘的な云い表わしだし、又神秘主義的に云っても決して上手な云い表わしではないが、無とは元来そんな神秘説的な範疇ではない筈なので、全く物質的な・唯物論的な・範疇、物質それ自身に他ならぬ。それが観念論的立場に立つと仮定する時、論理的に解き得ないことになるために、初めて神秘の世界へ追いやられて了うまでであろう。無から存在が出て来る――存在の根拠が無にあるという以上何と云ってもこういう関係は避け難いのだ――ということは、合理的に云えば他でもない、物質(質料)から形相が出て来るということだ。それはすでにアリストテレスが解いた仕方に於て見られるのだが、彼はそのギリシア神学的な目的論を仮定したから、出発点(原理)は終点と一つになり、従って出発点(原理)は終点である形相にまで収斂して了うことが出来たので、物質(質料)から形相への運動を、唯物論的に解き明かすことが出来なかったのである(彼の運動の概念が弁証法的なものとして意識されず、一般に弁証法が彼によって消極的なものと考えられた理由も、ここから来る)。
物質(質料)から形相が出て来る。物質から形式が出て来る。物質が今云った意味での存在であった以上、この運動は必然的である。物質ということは、自己発展することによって自らの形式を造り出して行く処の、運動そのものを意味せねばならないわけである。物質とはその固有な運動によって自分に形式を与えて行くような内容のことなのである。
ここで二つのことが出て来た。物質の自己運動と、物質に於ける内容からの形式の生産。――物質の自己運動と云えば何か物活論風の、最も素朴な思想に過ぎないというかも知れないが、今はタレス流の存在論――存在者は水である等々――が問題なのではなくて、存在・物質・という範疇の固有な内部的構造を分析しているのだという点を忘れてはいけない。今は、水という物質が運動する力を有っているとかいないとか云っているのではない。物質という範疇は、存在が無に、即ちより高度の存在に、依存して成り立つということ、即ち無から存在が出て来るということ、の範疇だという点に就いて語っているのである。そういう意味での無と存在との統一、この形式論理的な矛盾関係の物質上の・事実上の・統一、この弁証法が物質の固有運動だと云っているのである。物質――それが本当の存在だ――は弁証法的なものである、否夫こそが弁証法の根拠なのである。パルメニデスの所謂存在が、如何に非弁証法的なものであったか(それをプラトンは『パルメニデス』に於て取り扱っている)を思い合わせて見ると、この点は好く判る。
物質は形式を生産する内容であるというもう一つの結果。形式だけを存在又はその原理と考えようとする形式主義――多くの観念論はそういう形式主義に帰着する・カントを見よ――は、必然的に内容と形式との二元論に陥るか、又はこの二つのものの何等かの予定調和論――例えば目的論・平行論・所謂予定調和説――に陥るかである。之を免れる道は、今云ったこの結果の他にはなかったのである。物質(これが本当の存在の範疇だ)に於て、内容が形式を生産して行く場合、内容(A)が形式第一を生産することによって、第一の一定形態の内容が出来上り、之によって今まで見出されなかった新しい内容(B)が与えられ、この新しい内容(B)が更に形式第二を生産することによって、更に第二の一定形態の内容が出来、之が更に新しい内容(C)を与える……。内容から形式が出て来る――決定される(単に構造上の決定ではなくて運動によって決定される)――ということは、普通考えられ易いように、形式の独自な作用を無視する結果を伴うものではなく、却って形式の形式としての能動性を内容が造り与えるということである。そうでなければ形式は何等の形式ではなく、従って内容から区別される所以はないだろう。だから二つの関係は一応交互作用なのである、だが実際には交互作用というものは、充分な意味ではどこにもないので、どちらかの一方から作用が始められねばならぬ。同時に始まれば、相殺するだけで交互作用にはなるまい。で交互作用は常に、本当は交互作用ではない。内容が形式を規定するのであって、両者の交互作用それ自身が、内容の所産なのである(人々はその例として生産力と生産関係との関係を考えて見るべきだろう)。――さて内容と形式とのこうした関係は、全く物質の特性の他のものからは来ない。だから一般に、こういう関係は、いつも物質的と呼ばれねばならないものなのである。
以上与えた二つの結果を要約すれば、物質の弁証法性(展開性・活動性)と現実性(内容性)とであった。物質に固有な弁証法的運動は、物質ということが自己展開するということであり、そしてそれは内容から形式が生産されるという構造に於て自己展開するということに他ならず、又そういう力学的構造を有つことが現実性ということの一般的な徴表なのである。
併し、これだけでは物質の最も根本的な規定はまだ出て来ていない。これだけならば人々はどういう種類の弁証法性(展開性・活動性)でも、どういう種類の現実性(内容性)でも、考えることが出来る。例えばフィヒテは自我の純粋活動性を考えたし、ヘーゲルは理性の現実性を主張している。無論そうした意識に於ける活動性や現実性は物質のもの、物質的、ではない。――このように存在の規定がまだ不充分であるのは、併し何故であるか。吾々は存在を存在者・存在物から引き離しただけで、まだ之を存在者・存在物・に連関させて分析していなかったからである。
存在は直ちに存在者ではない、存在を存在者から区別することは、いつも必要である。だがそれを、存在者から全く独立に、存在が規定し尽され得るということだと思うならば、そういう抽象的な、「存在論」は、何等存在の理論ではあり得ない。それは明らかなことで、存在者を意識の主体と考えるか、人間的生と考えるか、或いは又自然と考えるか、等々によって、その「ある」という存在の仕方が異って来ざるを得ない。之を抜きにして一般的に――形式的に――「ある」(存在)だけを取り扱うような存在論は、そしてそういう場合の存在は精々例の判断のコプラのようなものを出ないだろうが、実は歴史上未だ嘗て無かったとさえ云って好い。
では何が優れた意味に於て存在者乃至存在物であるか。優れた存在は物質であったが、物質の本質としてさきに挙げておいた限りの弁証法性と現実性とからは併し、何が存在者乃至存在物の代表的なものであるかは充分には決定出来ぬ。――問題は逆で、何が存在者乃至存在物の代表者かということから、物質という存在の残されたもう一つの、併し最も根本的な規定を、知ることにある。
主観と客観との対立は、ギリシア古典にはないので、吾々は今、さきに用いたギリシア古典から、近世哲学の持っている問題の形態にまで、存在問題の歴史の流れを下ることによって、之を具体化す必要に逼られる。――主観と客観との対立が、今日のように、意識・観念(自覚・自我・理性・精神・等々)と存在物・存在者(物質・自然・世界・等々)との対立を意味するようになったのは、全く新しい現象で、それは意識こそが唯一の主体(それが主観と訳される)だと考える大陸の近世観念論から来ると見て好い(かつては Subjekt は客観的に存在する主体であって、Objekt は之に反して主観的意識に於ける表象の像でしかなかった)。だから主客の対立を仮定する存在理論は、実は初めから主観が客観に対して優位を有つか、或いは少なくとも客観の方は主観に対して優位を有つべきではない、という一般的な――例外は複雑な場合にいつも生まれるが――動機によって動かされている。主客未分とか主客合一とかいう、ありと凡ゆる形態のマッハ主義は、その動機から云ったら無論のこと、その結果から云っても亦、いつも終局に於て、主観優位説(観念論と呼ばれている)なのである。――で、主客対立の仮定に立つ存在理論は、いつも存在者を何かの意味に於ける主観に求める。従って又存在とはいつも何かの意味に於て主観的にあるということでなければならぬと考える。
主客対立の仮定と云ったが、夫は何を意味しているか。それは丁度、右と左が対立しているように、前があれば後がなくてはならないように、父がなければ息子はないが息子がなければ又父ではあり得ないというように、一つの相関関係を仮定することである。だが主客というのはそういう一つの関係を云い表わす概念には相違ないが、そういう関係に這入っている実物は、実は主観や客観というだけでなしに、例えば意識と存在物となのである。哲学者は処が、之を意識と存在物と呼ぶ代りに、或る目的の下に――認識論の名の下に――わざわざ、主観と客観と名づける。なぜかと云えば、観念と存在物とは、すぐ見るように、決して単なる相関関係などにはない、処が之を主観と客観とに直せば、直ちに一つの相関関係となるからである。観念と存在物とは、主観と客観となることによって、主客対立という関係の上で同格となることが出来るからである。正成が生まれてそれから正行が生まれたのに、正成と正行との関係を父子という相関関係に直せば、息子正行がなければ正成も正行の父ではあり得ないという風に、同格にされて了う。之は国民道徳から云っても由々しい誤謬であると同じに、論理的に云っても由々しい誤謬なのである。主観客観の対立を仮定するということが、そういう種類のトリックを意味していることを、今注意せねばならない。
なる程主観と客観とは同格だ、同時に与えられたものと仮定されよう(尤もだからと云って主観が優位だとはならないが)。だが客観的存在物――それを何よりも自然や物が代表する――と、主観的存在者――観念や意識が之を代表する――とは、決して同時に与えられたと仮定されることは出来ず、従って同格だと仮定されることも出来ない。実証的な知識は、意識や観念よりも先に、自然や物がなければならなかったことを、吾々に教えている。実証的な科学は一つのアプリオリに立っていて、そのアプリオリこそ哲学の立場(アプリオリ)によって権利づけられるべきだから、哲学の根本問題を論じている際に、実証科学的(自然的・素朴的)立場を持ち込むことは、Petitio Principii でアプリオリの混同だ、とそう云う批判主義的批判には、今の場合殆んど何の価値もない。一体、ではその二つのアプリオリの間の連関はどう付けられているのか、天国の秩序と地上の秩序とが食い違う時、二つの連関をこの神学はどう付けて呉れるのか。又実証的科学の権利づけをした限り、セザルのものはセザルのものになったのだから、セザルのものはセザルに返さねばならぬのであり、自然物と観念乃至意識との前後の関係に就いては、実証的な知識に従うことこそ必要な筈である。処で、主観客観という哲学固有の概念物の代りに、実証的な自然と意識とを持って来る必要があった以上、主観客観の対立の関係に於ても亦、この実証的知識に於ける前後の関係に従うということが当然だろう。
だが「批判的」な哲学者達は、そういう前後の関係が何故か気に入らないので、賢明にも之を主観客観の同格的対立に引き直おす。そうしておいてやがて今のこの惰性を利用して、逆に主観の方を客観よりも先に持って来ようと企てる。計画は無意識にせよ仲々周到ではないか。
さてこう省察して来ると、何が存在者乃至存在物の代表者かという、吾々の問題が決って来る。それは観念・意識(それから主観という概念が蒸溜されたのだ)ではなくて、宇宙的時間に於てそれより先に「あった」処の、自然的存在物(物)(それから客観の概念が蒸溜された)でなくてはならぬ。
こうした自然的な・或いは素朴とも云われる程明瞭な・優位の標準に対して、哲学者達は無論頭から反対する。併し吾々は彼等が反対する理由(?)乃至は動機を知らないのではない。彼等は自我の自己意識(自覚)や自由という問題を大切にしている。なる程それは大切であるし、又そういうものが自然にはないということも本当だ。それは意識や観念にだけ特有な規定である。飛ぶ石がどんなに自分の運動の必然性を自覚出来ても決して自由にはならない。――併し自己意識や自由ばかりが哲学の問題であるのではない、自然的存在というものも他にあるのであるが、夫はどうして呉れるのか。それの存在は意識の存在――否意識の存在が意識ということであろう――からどうやって導き出せるか。自然的存在物がどうやって意識されるかというそれのもつ意味は、どのようにしてでも意識(乃至意識の存在)から導き出せる。意識から意識を導き出すことは無論わけはない。だが、問題は意識から、存在物の意識ではなくて存在物自身をどう導き出せるかである。この導来の過程に於て、哲学者達に全く勝手な、色々の思い付きを試みるのである。無論それは成功しないから、観念論――観念優位説――は本当には統一的になれないのである。
では自然的存在物からどうやって意識――その自覚性や自由――を導き出すか、と哲学者は反問するだろう。だが、何も吾々がそれを導来して見せなくても、自然的存在物それ自身が宇宙史を通じて、意識の自覚性や自由を導き出している、吾々はそれを nachpr
fen さえすればよい。自然的存在物それ自身の自然史的運動が規準であるから、観念から自然的存在物を導き出す場合のように、結局勝手な思い付きに過ぎないようなものは、そこにはあり得ない。だが実際に吾々の側で――存在物の側に於てではない――どうやって自然的存在物から観念を導き出すかは、認識の問題になるので、今は認識より先に存在乃至存在物の問題だから、之は後に見よう。
で、とにかく代表的存在者は自然的存在者――それが物である――でなくてはならぬ。観念や意識という存在者は、それの分枝として理解される他に道を残さないという結果になる。――この意味に於て存在者・存在物・は、客観である客観的であるということになるのである。主観や主観的存在者は、客観の分枝として理解される他に、連関の道を残さない。もしそうでなかったならば、二つの関係は全く形式的な相関関係か何かとして、仮定されるのが精々だったろう。
さて、すでに、存在の代表的な場合が物質であることを明らかにしておいたが、今度は又、存在物(乃至存在者)の代表的なものが客観であるという結果を得た。而もこの場合、存在なるものは存在物・存在者・のもつ存在性――存在――として初めて具体的に限定されねばならないと云っておいた。――故に、物質は、単に弁証法的(展開性・活動性)と現実性(内容性)とを意味するだけではなく、更により根本的な・具体的な・規定として、客観性でなければならぬ、という結果が必然である。物質的とはだから、第一に客観的ということでなければならぬ。ここまで来ないと、物質の弁証法性も現実性も、不定な任意に抽象的な、内容の隙のある、規定でしかない。本当に現実的なものは客観的なものであると同時に、本当に弁証法的なものは客観的なものでしかない、という結果を吾々は得たのである。――普通、哲学者達は、客観的存在(物質)が何故に弁証法的であるか、を理解し得ない。弁証法と云えば意識と、或いは意識と(客観的)存在との間に、或いは意識と無との間に、しか成り立たないと考える。客観そのものに弁証法があるということは、何か神秘的な託宣ででもあるかのように思っている。今そういう「神秘」が解明されたのである。
之が客観的存在としての物質の弁証法、現実の弁証法、なのである。物質とは客観的に、即ち終局に於ては主観から独立に、即ち意識されると否とに関係なく、又観念主体の自由意志のままには決してならないように、存在することそのことであり、それによって同時にそうした存在物(物)のことでもあると云うのである。現実とは他ならぬそうした物質的存在のことである。カントが取り上げながら解くことの出来ない問題と考えた「物そのもの・物自体」は、この物質という客観的存在者・「物」のことだったのである。
以上は哲学的範疇としての物質であるが、この哲学的範疇は、一切の自然科学の体系の根柢に横たわっており、又一切の社会科学の体系の基礎に横たわっているべき筈のものである。物理学の範疇としての所謂「物質」や、経済学に於ける云わば社会的物質・歴史的物質――生産力と生産関係――は、この範疇を基準として初めて物質の名に値いすることが出来る。
だが、物質――客観――に次いで起きるのは意識・観念――主観――の問題である。というのは、物質(之を簡単のために単に存在と呼んでおこう)と意識との関係の問題である。云い換えれば最も広義に於ける認識の問題になるのである。問題は物質と模写との関係にあるのである。
マルクス主義的認識論、弁証法的唯物論による認識論は、模写説だと云われている。哲学者達によれば、それだからこそマルクス主義哲学は素朴で誤謬そのものだと云うのである。だが云うまでもなく、現代唯物論に於ける所謂模写説は哲学概論にあるような例の素朴的な模写説でないということを、今から予め断わっておこう。併しそれより先に、一体哲学者達は、模写ということをどの程度に分析した上で、之を口にしているのだろうか。模写とは言葉通りに云えば、あるがままに写すことに違いない。けれどもなぜ一体写すということが生じ得るか。否、もっと一般的に、なぜ一体認識というものが起こらねばならないのか。それは認識論にとって無条件に仮定されねばならない事実であるのか。併し事実をもう一歩進んで説明し得ない理論は理論ではあるまい。仮に認識が、客観を主観が認識することだと云うなら、なぜ一体主観が、何等かの仕方で客観を認識するという事情が、発生しなければならないのか。――従来のブルジョア哲学による認識論は、観念の発生を説明するか、或いはすでに発生して了った認識のその後の過程を説明するか、したけれども、認識の発生そのものの説明は全く見逃しているように見える。云う意味は、例えば子供の認識が成人の認識にまで次第に発達史的に発達して行くというのではない、それならば観念の発生なのだ、そうではなくて、認識は一体どういう権利があって発生することが出来たかが問題なのである。どういう事情があって一体認識の権利が発生するのかである。この所謂事実問題と権利問題との媒介にこそ、認識の本当の解明があるべきだ。――処で、模写とは、恰も認識のそうした解明のための概念なのである。それはこうである。
すでに云ったように、観念(まだ夫だけでは認識ではない)は存在の分枝である、存在の自然史的発展の或る時期に、特殊に高度の法則を備えた新しい存在として発生し、それが独特の存在の仕方にまで(自己意識・自我感にまで)発展したものである。処が初めの存在は存在で、観念の発生にも拘らず、無論従来通りの発展のコースを辿りつつある。そこで存在と意識とが対立するという事情が造り出される。主観と客観とがただ対立したり並んだりしているのでは決してない、その対立には一定の物質的・存在的・な歴史と必然性とがあってのことである。
従って主観は客観をただ、対立しているが故に認識するのではない。主観に偶々客観があてがわれたから認識するのではなくて、実は主観が客観からの分枝・派生物・であるが故に、存在上或る意味に於ける同一性が二つのものの間になければならぬのであり、而も観念・意識・は恰もそういう存在上の同一性を、自己という存在に於て自己同一性として自覚し得る特有性を有っていたのであるから、そこで初めて、認識という主観と客観との同一化が一応企てられ得るわけなのである。
だが、今同時に存在する存在と意識との間には、二つが云わば現に対立しているその瞬間だけを取って見れば、存在上の同一性は、実は直接的にはどこにも与えられていない。客観(存在)は主観(意識)から独立に存在するし、主観は客観と関係なく色々な構想力を発揮することが出来る。存在上本当の同一性は、存在と意識とが夫々その歴史を溯って、二つのものが分れようとする過去の分岐点にまで引きもどされた時、初めて再発見されるべきものである(これは哲学者達の例の「主客未分」の状態のことなどではない)。認識がもし本当の――即ち存在上の――自己同一性を自覚したいならば、云わばこの分岐点へまで自分の自然史的時間を溯源しなければならないだろう。処が実際、そういうことは云うまでもなく不可能なのだから、意識は存在との自己同一性を、存在上直接に自覚することを、ここでも亦断念しなければならない。
意識は同時間的にも逆時間的にも、存在との存在上の直接的同一性を自覚することは出来ない。故に要するに夫は、存在との存在上の直接的同一性を自覚することが絶対に不可能なのである。然るに意識は依然として存在上、存在と直接に同一であったことを忘れるわけに行かない。そこで意識は存在上の自己同一性の自覚の代りに、観念上の・意識上の・存在との自己同一性を自覚しようと企てる他はない。無論その際、この同一性の直接性は保留出来る以上保留しなければならぬ筈である。かくて主観からあくまで独立な、即ち存在上現に同一性を有たない、客観的存在をば、意識主観は観念的に直接に同一性をもったものとして発見する。これが認識の成立である。
認識というものもその「成立」からこういう風に理解すると、認識とは、存在と意識との自然史的発生秩序を溯って、過去に於ける主客の分岐点を迂回し、そして自然史的時間を再経過しながら、問題の存在と意識とを再構成して再帰するというような、存在上は不可能である処の回線を節約して、その代りに現にある存在へ観念上直接に短絡して了うということである。これは、意識がどういう経過を辿りつつ存在から分岐して今に至ったかという因果的説明を待つことなしに、――そういう説明は高級な間接的な知識を必要とするから後の時間を待たねばならぬので現実の瞬間には間に合わぬ――、そういう意味では全く非合理的に、直接に、意識が存在との同一性を自覚することである。認識のこうした根本特色が、取りも直さず模写ということに外ならない。――だから認識はその根本性格に於て模写だというのである。人々はだから、もはや、所謂模写に於て主観と客観との一致がどうして証明され得るかというような質問を提出する理由を失うだろう。それを実際上どう一致させるかには色々の工夫があるわけだが、凡そ一致出来るというのでなければ、一体認識ということの意味が無くなって了うのである。
次の問題は主観と客観とを実際にどう一致させるか、即ち人間は実際上認識を――模写を――どうやって実行するかである。主観は先ず第一に感性的な知覚や経験を介してでなければ認識・模写・出来ないのだから、物そのもの――物質――は決して直接に、一遍で、知ることは出来ない。現象するということが模写の第一段階である。模写は一枚の鏡の面へ写すのではない、幾つもの面を持っている道具(感官)を通して写すのである、模写には段階がある。而もこの道具は自分が運動することによってこそ初めて、物を写すことが出来る。感性は主体の――自由な――運動の・実践の・第一段階だ。模写・認識の第二段階以下は、実践プロパー――実験・産業・政治活動――を通しての夫である。之はイデオロギー乃至一つのイデオロギーとしての理論を通しての夫と対応する。その関係は唯物史観乃至イデオロギー論に譲って良いと思う(認識・模写・の政治性・階級性・党派性、それに於ける唯物弁証法としての理論と実践との統一及び歴史と理論との統一、それからしか結果し得ない客観的真理、に就いては世間で甚だ懇切に解説されている)。
模写・認識・は、かくて諸段階を通して実践的に構成される。ただカント流の構成主義の特異点は、之が模写の実践的構成であることを見る代りに、理性乃至悟性の観念的自発性による単なる構成だと見做すことに存する。認識が本来模写ということだという点を、古来の形而上学に対する敵本主義故に見逃したことが、カントの物自体の問題をクリティカルな袋路に追いやったのである。この問題はヘーゲルに至っても解けていない。彼の具体者――それが真理だ――は或る意味で構成の所産であるが、抽象的なもの(例えば Sein)が概念・観念・の上での抽象物で、存在(物質)それ自身からの抽象物ではなかったことに対応して、具体者は客観的な物質にまでは帰着出来ない。概念は物自体の模写にまで回帰出来なかったのである。
物自体、即ち物質、及びその認識、即ち模写、この問題を正当に提出し正当に解き得る唯一のものが、弁証法的唯物論の認識論に他ならないのである。
[#改段]
一
『理想』一九三六年四月号にのった石原純博士の「自然科学の方法としての観察、実験等について」という論文は、その分量の半分が私の数ならぬ著書『科学論』(第一次唯物論全書の内)に対する二三の根本問題に就いての批判であり、そして全体を貫く動機も、私の例の拙著が頭に置かれたもののようである。勿論本来の目的は石原博士自身の見解を示すことになければならないのであって、私に対する事柄は云わばそのための偶然な縁となっているに過ぎない筈であるから、正面から博士に対して回答に類するものを書く義務はないようなものだが、併し客観的に興味のある問題でもあるし、多少私側の弁明も意見もあるので、二三の問題に区分して、書くことにする。必ずしも私が問題にされたから私が書かねばならぬというようなポレミックによくあるアド・ホミネム的な興味からではないが、併し少なくとも石原博士が学者的に私に示された「尊重」に報いるには、これを書くことの個人的な必要もあると思う。
私は『科学論』に於て科学の研究操作として、分析的操作(概念分析の操作)、解析的操作(数学的解析の操作)、統計的操作、実験的操作、等々を並記した。無論之によって一切の操作が尽されたと云うのではない、そうしたことは寧ろ不可能なことにぞくするだろう。従ってここではまず目星しいものを列挙したに止まる。処で石原博士によると、少なくともこの四つのものは、そんな風に互に並列的におかれてよい操作ではあるまいというのである。「例えば統計的操作は対象の特殊な群、即ち統計的集団を形作る概念に対する一種の解析的操作に外ならないし」、又「実験的操作は対象に対して人為的に或る条件を満足せしめることによって可能ならしめる一種の分析的操作に帰着するであろう」と云う。つまり少なくとも第一に、四つのものは二つ位にクラシファイされ得るではないか、と云うわけである。
併しまず、統計的操作が「一種の解析的操作に外ならない」という見解は、決して珍しくない或いは寧ろ最も普及した見解であるらしいにも拘らず、私は決してそういう風に片づけ得られるものではないと考える。尤も予め断わらなければならないのは、私が「統計的操作」と呼んだものが、細かく規定すれば何であるかが、決められていなかったのだから、博士が博士自身の観念で之を理解したことは当然なわけだが、併し少なくとも私の所謂統計的操作がすぐ様「統計解析」でないことは、述べてあったと思う。と云うのは一つの参考として蜷川虎三博士の『統計学概論』(岩波全書の内)を借りよう(この人の他の著書を私はその際に引用した)。この本によると、「統計方法」は「大量観察法」と「統計解析法」の二個に分れねばならぬと主張されている。之は恐らく、私の想像し得る限りでは、統計方法(と蜷川博士が呼ぶもので私が大体統計的操作と呼んだものに含まれていいもののようだ)に就いての最も進歩した観念ではないかと思う。そうでなくても、統計方法は普通、統計解析で採られる数理的方法ばかりでなく、之とは別に「大量観察の技術」の方を意味する場合も多いそうだ。尤も蜷川氏の所謂「統計方法」は社会科学の「一方法」であり(大量とは社会的存在であるから)、従って石原博士があそこで問題にしている自然科学に於ける統計方法とは別なわけだが、併し蜷川氏は、自然科学にも用いられ得る統計方法(集団的研究方法一般)を、特に統計的方法と呼び、この統計的方法の特殊な(社会科学に用いられる)場合を氏の所謂「統計方法」と考えようと云っているから、私が統計的操作と呼んだものをこの統計的方法と考えれば、それが「一種の解析的操作」に解消し得ない理由は、依然として存するのだ。
又「実験的操作」が「一種の分析的操作に帰着する」と云うのも、石原博士の言葉としては意味があっても、私の考えに対しては意味がない。なぜなら私が分析的操作と呼んだのは、氏も知っている通り、概念分析の操作のことであり、一例を挙げればアリストテレスの存在論的分析やプラトン風のダイヤローグ的分析のことであって、之が往々にして哲学という一つの学問の全体的方法であるかのように取られている場合が少なくないので、夫が実は哲学や又科学の「方法」ではなくて、単に断片的な「操作」にしか過ぎないと云おうと思って、私は之を持ち出したわけだ。実験が之に解消しないことは勿論であるが、それだけでなく、これは特に実験に対立するスペキュレーション(思弁)を往々にして意味したことが、学問の歴史の教える処だろう。
だから観察や実験という実在の「感覚的」な受け取り方と、「論理的解析」である実在の「思考的」な受け取り方とを私が一緒クタにして、実験という操作と分析という操作とを並列させたのは不可ない、という論拠はどこにもないわけで、歴史的に云えば、概念分析的操作で片づけようとした物理学(アリストテレスの『フュジカ』)もあったのであり、それが現在では或る意味に於て実験から出発せねばならぬというようになって来たのに他ならない。――博士の主張によると、私の所謂概念分析は博士の所謂論理的解析の「結果」として、科学の方法(単に「思考一般」のではない)になるというのだが、それに別に異論はない。観察や実験と論理的解析との両者を通じての「対象の分析抽象」が科学独特の「唯一の方法」の「全体」だということにも、必ずしも異論はない。併しそれならば、博士の方法と云うのは私の所謂方法のことに他ならぬのであって、私がわざわざ之から区別する理由を有った処の今問題になっている「操作」のことではない。私は科学の方法によって、全体的な統一的な包括的な方法を意味せしめ、その方法の下に駆使される断片的な諸(所謂)方法を操作と名づけて区別した。この名称の区別を固執しようとは思わないが、事柄の上の区別には必要があるのだ。というのは、今日まで所謂科学の方法として提案された様々なものが、どれも部分的なものを強調的に全般化したに過ぎないという憾みがあったのであって、之を統一的に包括的に駆使する本当に一般的な科学の方法として、弁証法が見出されるという点を私は云いたかったからだ。弁証法的方法に就いての石原氏の疑問は後に見るとして、博士の所謂「分析抽象」なるものがこの弁証法的方法に近いことは、氏自身が触れている通りだ。
でつまり博士は方法と操作という私の区別の必要(方法論の歴史から云って之は必要だと思うのだが)を認めないのである。従って研究操作に関する私の例の並列的な列挙が「一種の混乱」と見えるわけだ。だが之は私の混乱ではなくて、科学の方法の乃至は科学方法論の、歴史そのものが引きずって来た混乱なのである。私はこの混乱を石原氏のように頭っから截断して了わないで、私のように之を受容しながら分解して行く方が、自然だと思うものだ。
博士によると、私のこの「混乱」は、「自然科学やその他の科学の方法がそれぞれ何によって特徴づけられるか」という問題に対して、私が明答を欠いていることに理由を持っているという。諸科学の夫々の方法の特徴を細かく区別して描けなかったのは、私の知識の不足からでもあるが、併しそれでも、自然科学と社会科学との方法上の区別は、自然弁証法と史的唯物論との一双の「科学的世界」として明らかにしたと思う。之は「方法」というものからはみ出した「世界」と呼ばれたものではあるが、この世界まで行かなければ方法も方法の真面目に行きつかないというのが、私の『科学論』に於けるシステムだった(このシステムは旧著『科学方法論』の頃から持っていた形式に従っている)。それはそれとして、この特徴づけが明言されていないということが、なぜ例の混乱の理由をなすのか、この点、例の混乱なるものを私が説明した処に従って理解する限り、殆んど理解出来ないことにぞくするだろう。――尤も博士は諸科学の方法の夫々の特徴づけを私に要求するにも拘らず、博士自身もこの要求をそこでは満して呉れていないのだから、この特徴というのは単に自然科学を芸術や数学などから方法上区別する処の特色のことだろうと思うが、それならば私は数学に対しては実験(それが博士の意味であろうと又私の意味であろうと――次を見よ)を持ち出しているわけだからよいし(社会科学に対してならば例の「世界」での区別があったし)、芸術や文学に対してならば、問題は大きくなってあの本では取り扱えなかったけれども、私に一つの考えがないでもない(拙著『思想としての文学』でこの問題に触れた)。
二
博士は観察と実験とに就いて明快な区別を与えている。一方に於て観察は、単なる観察と観測(観察+測定)とに分れ、他方に於て之とは独立に、実験と実験でない場合との区別を立てる。同じ観察や観測でも実験である場合とない場合とがあるわけだ。之に対して私が「観察が発達すれば観測となり、やがて又測定となり、そして最もプロパーな意味での所謂実験となる」と云ったのは、確かに秩序的でない事を認めなければならぬだろう。「やがて又測定となり」という句は「観測となり」云々の処に含めるべきで、「最もプロパーな意味での所謂実験」とはM・プランクなどが測定される量だけが物理学的実存だと主張するような場合の実験にだけ、実験を限定しすぎた結果であるが、之を許せば観察の発達段階の説明としてはあれで大体いいわけだけれども、実験でない観察や観測を考え得るためには、実験をば「プロパーな所謂実験」から少なくとも博士流の処にまで、拡げて理解した方が都合がよい。
では実験とは何か。博士によると実験とは「人為的操作を対象に加えた上での観察や観測」だという。この規定も一応承認すべきだろう。なぜというに対象に人為的操作を加えるということが、実験というものに就いての常識だからである。だが私の抑々の問題はこの人為的操作が何であるかにあったのだ(博士は私が「単に事物や観念を分離、蒸溜、抽象化する機能」を実験と云ったと取っているようだが、之は私の考えではなくて、却って必要ではあるが併し不充分な規定の参照として私がシミアンから引例したものに他ならぬ)。
実験に於ける「人為的操作」に就いて私の主張したい処は、如何に人為的な操作を行なおうとも、出来上った設定された条件はいつも自然(又社会)そのものに於ける実在的なあり得べき諸結合のどれか一つを出ない、という判り切った処から導かれる。だからつまりあり得べき諸結合の内から一定の、目的に適った(博士の言葉をかりれば「或る一定の概念に関する変化だけを分析抽出する」に適した)、結合の場合を選び出すということが、この「条件の設定」ということなのである。この選定自身がすでに人為的操作であるということが私の主張なので、之は博士が想定しているらしい人為的操作よりも広いものに相違ないと思う。
私は対象に対する人為的操作なるものを、単に所謂実験装置(又設備)の運用方や装置方だけに限る理由を発見しない。と云うのは、如何に適当に装置し又その装置を適当に運用しようと思っても、例えば富士山頂や深海底でなければ、その装置が装置とならず、運用も運用にならぬという、そういう場合をも考えねばならぬと思うからである。普通、実験装置の運用方や装置方やを、その環境の選択方から切り離して、夫だけを人為的操作と考えようとする理由は、恐らく実験が「対象に対する」人為的操作だからという点にあるのだろう。だが実験されると思われている主体とその環境との間には、特に絶縁とか又は却って接触とかいう一定の連関が之又一つの条件として設定されねばならぬのであって、つまりその主体と環境と考えられるものとの連関そのものが、「対象に対する人為的操作」の一つではあり得ないか。――それに、一体実験される主体は、実験装置や何かでないことは明らかだから、実験装置そのものが実は、この実験される主体にとって、設定された条件として、環境の意味を持っているだろう。之は所謂環境ではないにしても、何等かの主体を取り囲んでその内で主体の行動が行なわれる処のものだという意味に於て、環境の意味を持っているというのである。
ガリレイがピサの斜塔で実験したという伝説を借りるとしよう。ではガリレイがピサの斜塔を実験台として選択した限りではまだ実験ではなく、上から物を落すという「人為的操作」を始めてからだけが実験だと云うのだろうか。之を極端に押しつめれば、最後の人為的操作だけが実験になるわけで、更に極端に云えば実験は最後の瞬間の操作だけになることにもなろう。それまでは総て単なる実験の準備に過ぎぬということになるのである。これは実験という人為的操作に対する極めて現象論的な見解に終りはしないかと思う。
処で石原博士は観察又は観測に用いられる器械に就いて、丁度いい説明を与えている。量子現象に於ける光量子の役割は観測器械としての夫であるが、それが人間主観の感覚器官の作用を補足するにあるにしても、所謂器械と同じく、依然として一つの客観的存在たるを失わず、その点に於て、実験される「対象」と何等異るものではないという。ただ異る処は、器械(光量子の場合もそうだ)は「我々が単にそれの状態を能動的に制約すると云うに過ぎない」というのである。之は当然なことであり、不確定性原理から一種の主観論を惹き出す人達に対しては効果のある反駁だ。だが不確定性原理の主張は、対象たる電子は、それだけとしては観測されないので、之とこの観測器械たる光量子との「交互作用」しか観測出来ないということである。ここで注意すべき要点は、実験的観測に於ける対象はそれ自身独立しては観測され得ず、即ちそれだけでは実は実験の対象ではあり得ないのだ、という処にある。つまり対象+観測器械が、実験的観測の本当の「対象」だということだ。この対象が博士の所謂「客観的存在」「客観的実在」なるものに他ならぬ。
さてそうだとすると、博士が実験を以て、「対象に対する人為的操作」と呼んだ時のその対象も、よく考えるとこの意味での対象でなければならぬわけで、従って観測器械をも含んだ客観的実在・客観的存在自身のことに他ならなかったわけだ。だから実験の観測器械に対する人為的操作を考えて見ると、夫も亦、「対象に対する人為的操作」として、一般に実験と呼ばれる方が、少なくとも首尾一貫した術語に相応わしいだろう。処で私に云わせれば、そうした観測器械たる実験装置(又設備)全体が(アインシュタイン塔から望遠鏡まで入れて)例の環境たる意味を有っていた。して見ると、石原氏の解説を辻褄を合わせて行くと、対象に対する人為的操作という実験の規定も、結局私が先に主張しようとしたような広義の「人為的操作」に帰着せざるを得ないわけである。
だがもしそうなら、石原博士が実験と実験でないものとを絶対的に区別し得ると考えたらしい大切な徴表が動揺して了うことになる。すると実験という規定は、博士が物理学者の常識に基いて精練したものよりも、遙かに広いものと考える方が、辻褄が合ったことになる。のみならず、実験であるなしには思った程ハッキリとした機械的な区別が元来無理なので、観察(や観測)自身が初めから実験という意義を持っているのだということは、便宜的な術語上の規約の上ではとに角として、認識論や方法論の方からは、非常に大事な規定にならざるを得ないのではないかと、私は再び思い始めるのである。
であるからして私は実験と或る種の観測の間にも本来的な区別を認めることに抵抗を感じるのであって、実験の方が「適当な設備装置さえ整い得るならば随時に行なわれ得る」のを普通とすると考えられているに反して、天体観測などは事実随時には行なわれ得ない場合があるが、それにも拘らず、ここに実験とこの種の観測との区別の徴表を機械的に置き得るとは考えないのだ。実験は「適当な設備装置さえ整えば」随時に行なわれるというが、この適当な設備装置が随時に整うかどうかは、保証の限りではあるまい(因みに「水星のペリヘリオン」と云ったのは水星のペリヘリオン=近日点の移動に関する観測の積りであったが、随時に行なわれ難い観測の実例としてはやや不適当であったかも知れない)。
それから又、私が実験に「厳密」さを要求したり「理想的」であることを要求したりして、結局この要求が充されないではないか、というようなことを述べたのは、測定に於ける精密度の限界という問題を無視した話しで、誤っている、と博士は云っているが、私が之を持ち出した動機は、社会科学に於ても一種の実験が可能であり、その点自然科学と絶対的な区別はないということを云うためであって、もし精密度の問題を入れるならば、次のように云えばよいわけである。即ち、社会科学の実験に於ける測定なるものを一般的に行ない得ると仮定すれば、その精度は極めて低いだろうからその低い精度に照せば所謂不精密な社会科学的対象に就いての測定実験も、自然科学の場合と同様充分に「理想的」で「厳密」なわけだ、と。――併し考えて見ると、社会科学に於ける測定の精度などということは、あまりピンと来ないテーマだろう。そういう測定の精度などと関係なしに、社会科学的実験は、意味を持っている。それは石原博士自身も社会科学について触れている通りの意味だ。実験は対象に対して適当に人為的操作を加えることだったが、実は単にこの適当に人為的操作を加え得るということが、私の「理想的」実験の「理想」と云った処のものに他ならぬ。だから必ずしも測定の精度などとは関係なしにこの「理想」状態を考えておいて、一応よかったのであった。で、石原博士が「理想状態」の問題を「精密度」の問題に持って行ったことは、問題を少しズラした形なのだ。
不確定性原理によれば「操作から独立な客観界」は存在しない、ということを云って、之を実験に於ける「理想的状態」があり得ないことの一例としたのは、私の仕方としてあまり適切で有効でなかったことは認めねばならぬ。と云うのは、何か私が、操作から独立な客観界が当然科学によって想定されねばならぬと仮定しているように、博士に取られたという事実から見ても、適切でなく有効でない。併し話しの筋は、私の云うような意味での「理想的状態」(即ち測定の精度などを条件に考えずに絶対的・無条件的に考えられた理想状態)が、元来あり得ないものだというのであり、そういう理想状態を想定することは、実験されるべき例の主体をばその実験の例の環境から孤立させて了う処の機械的な見方と一つに帰着するものに他ならぬ、というのであった。だから今の場合この理想状態に相当する「操作から独立な客観界」の存在も、現実的には科学的に想定すべからざるものだ、というのが私の考えだったのである。
従ってもし万一私の出したこの一例から、石原博士が不確定性原理から導かれ易い主観的観念論の誤謬と、その際に考えられている電子観測なるものが実は一つの思考実験に過ぎないということとを、説明することを必要と感じたのであったとしたら、夫は私側の思い過しか邪推でなければ、博士側の思い過しか邪推である。寧ろ私は、嘗ての田辺元博士が採用していた(最近清算した)光量子=実験用具の主観説には以前から反対な意見を有っていたものであり、その論拠は、器械や操作機能を持った光量子の運動そのものが又一つの客観的な実在現象だという、石原博士の主張に投じるものに他ならぬ。この場合考えられている実験が思考実験に過ぎぬということから来る見解に就いても、私は博士に無条件に従うものだ。――併し恐らく之は私側の穿ち過ぎだろう。尤もそんな穿ち方は大切な問題ではないので、博士がそこで展開したこの問題の要点の手短かな説明や、それに伴う社会科学の方法に就いての示唆が、非常に暗示に富んでいるということの方が、忘れられてはならぬ要点だ。
私は科学の統一的な包括的な、そうした一般的な、「方法」を、科学の断片的な「操作」(之を世間では普通に方法と呼んでいるが)から区別した。その意味に於て「科学の一般的方法は(唯物)弁証法である」と私は見ている。処で石原博士には之に就いて多少の勘違いがあるのではないかと思われる節がある。と云うのは私の云い方が「濫りに形式論理を排除するかの如く感ぜしめる理由」があると博士は云っているらしいからである。
多分博士は一般的方法というのを、科学に於てそれしかない排他的な方法だと取ったのだろう。唯物弁証法がどれだけの範囲にぞくするか私の言葉からは明らかでないが、自然科学の叙述形式が殆んど形式論理に基く数学解析によっているのに、この明瞭な事実を無視するのが私である、というように云っていると思われるからだ。
弁証法をいきなり持ち出した観のあったことは私も認めよう。けれども夫は弁証法がそのものとして一般的な形で、今日ではすでに沢山論じられているので、或る程度まで想定してよい常識だと考えたがためだ。私は所謂形式論理と弁証法との関係の議論を省略したけれども、これに関する要点は私にはあまりに判り切ったことのように思われたので、書かずに終った次第である。――処で博士は弁証法の他に形式論理というものがあると考えているようである。併し私は弁証法を論理のそういう一部分だとは考えていない。論理は昔から、そしてどこでも本来弁証法なのである。ただそれが充分に展開されなかったり充分に自覚されなかったりした種々な歴史的段階を総称して、吾々は形式論理という言葉を持っているに過ぎない。今日では、そういう不充分な段階から抜け出ることを欲せずあくまでその段階に固執する場合に、初めてこの形式論理の立場は弁証法の立場に対立するのである。
同一律や矛盾律は夫自身少しも形式論理のものではない。夫は正に弁証法の一契機に他ならぬ。之を論理全体の無条件的な最高原理とする立場が初めて所謂形式論理という立場である。数学的解析が形式論理に基くということは、恐らくそれが同一律や矛盾律其の他に基くということだろう。だが之は少しも弁証法の反対でも否定でもない。もしそれが数学的形式主義や単なる数学的直観主義の主張と入れ替わらない限りはだ。こういう解析的操作を通じて初めて、弁証法という方法が動機するということが、正に、私の操作と方法との区別を必要とする所以の一つだったのだ。
だから石原博士が、私などが濫りに形式論理を排除するかのように感じるのは、博士自身の形式論理という概念の方に多少曖昧な処があるからだろうと思われる。夫は必ずしも私側に於ける弁証法の概念の曖昧からではないようだ。私の「マルクシズム的偏見」に由来するとばかり云うことは出来なかろう。なぜなら、もし博士の所謂形式論理(と云うのは数学的解析などの事だ)を濫りに排除しようとするらしい弁証法論者でもいるならば、夫は決してマルクシストでもないだろうし、又唯物論者でもないだろうからだ。
以上私は、結局石原純博士の批評文に引きずられて、自分の立場に就いてばかり話しをして了ったようだ。他人の文章に牽制されているのだから体系的にも行かなかった。少し答え足りないと思うが、さし当りこの辺で止めておこう。だがもし私の意見が根本に於て石原博士を満足させない点があるとしたら、夫は私が、実験其の他に就いて、単に物理学者の常識的観念を理論的に整理するという認識目的には止まることを欲しなかったからである。この点岡邦雄氏の同書に就いての批判(『社会評論』一九三六年三月号「科学時評」)に対しても、同じに云っていいと思う。――処で常識に対してはまず弁解から始めなければならぬということは、まことに遺憾なことだ。
三
以上の論点をもう少し別な側面から取り上げて見よう。
亡くなった寺田寅彦博士は、アリストテレスの Physica やルクレティウスの De rerum natura(だったと思う)が現代の物理学的研究にとって、決して無意味でないばかりでなく、却って極めて示唆に富んだものだ、というような主張をしていたように記憶する。博士独特の創意にとっては、そうもあろうと思われる。一体物理学的研究であっても、厳密に云うなら、物理学史的研究に基かずには根本的であり得ないわけで、そうした理由から、物理学的思想の歴史的な古典的文献を尊重することには、自然科学上の意義があるのだ、と主張することも出来ると考えられる。人々はそこから思想の史的発展の必然的なコースと問題の要素的な又は原始的な古典的タイプを学ぶことが出来るだろう。だがそこまで行かなくても、こういう本当の意味での歴史的認識はいずれであるとしても、歴史の内に出没するイデーや着想や先例をば割合偶然に学び取ることもその副産物として可能だろう。歴史家ではなかった寺田博士は、寧ろ初めからこの後の方の場合にぞくする人だったろうと思われる。それはとに角、新刊の専門雑誌だけが、物理学乃至自然科学にとっての唯一の「文献」でないことに就いては、吾々は博士に同意しないわけに行くまい。
結局ただこれだけの事柄の内に、科学と思想、科学と人生、科学と文学、科学と批評、科学と社会、等々の一切の根本問題が、科学理論にとっての一切の根本的要点が、含まれているのであって、之を抜きにしては、科学そのものの省察・反省・は不可能だろう。
だがそれはそうでも、アリストテレスやルクレティウス式の云わば古代自然科学乃至物理学と、近世以降の近代乃至現代自然科学又は物理学との間に、根本的な決定的な差別が横たわっているという他の一つの事実を否定する理由は、無論存在しないのだ。この差別は、思想史的には一つの連続の上で連絡している二つのものの間の差別には相違ないが、それにも拘らずこの差別は甚だ根本的で決定的であるので、例の古代的な物理学乃至自然科学は現下の意味に於ける物理学や自然科学という名で呼ぶことに抵抗を感じなければならない程度に、もはや自然科学でも物理学でもないのである。――この差別は他ならぬ実験という操作が与えたものなので、もっと厳密に云うなら、意識的で組織的で方法的な意義を持つ限りの実験的操作の有無によって分れた差別だったのである。この点今更事新しく述べるまでもあるまい。
なる程前に云った古代的な「自然論者」達(Physiologen)も実験について考えを致さなかったわけではないが、近世自然科学の祖先がなぜガリレオ・ガリレイに置かれているかという理由を考えて見ねばなるまい。尤もガリレイの実験(重力に関する諸測定)が実は予め大体に於ける重力法則の観念を想定して行なわれたもので、従って初めからの純然たる実験的所産でないというような点も、考証されていないではないが、併しそれでも実験が近世乃至近代・現代・の自然科学乃至物理学の、特有な意識的で組織的で方法的な操作であるという、歴史的認識は動かすことが出来ないだろうと思う。
併しこの実験なるものが今日の自然科学、と云うのは本当の自然科学の名に値いする自然科学のことだが、この今日の自然科学の根本特色をなしているとすれば、こうした自然科学の特徴としての実験は、之を単なる操作や手続きだけと考えることは、あまり意味のあることではなくなるのだ。この場合実験なるものは専らその操作や手続きだけに於て理解されるべきではなくて、寧ろ理論的認識に対してそれが持っている処の、云わば理論的な役割によって、理解されねばならなくなる。と云うのは、実験とは単に実験することとしてではなく、実験によって事実を確立したり理論を検証したりする、そういう実証の作用として、理解されねばならなくなるのである。
A・コントの実証主義は一つの形而上学的哲学としては無論根本的な非難を免れないけれども、実験なるものから、実証という一般的な(科学や理論全体に通じるという意味で一般的な)定立を惹き出した点では、右のような意味を有っていたと云ってもよいだろう。ここでは実験とは一般的に、事物の実証の機能をもつもののことだ。そして之が他でもない、現下の自然科学をして本当にその名に値いする自然科学たらしめている処の、認識論上の特徴だったのである。
処が又こういう意義に於ての「実験」が、恰も、認識という過程に於ける実践の役割(単なる実践ではなくて認識のプロセスの内に横たわる実践の役割)に他ならないことは、すぐ気づくことだろう。であるからこそ、マルクス主義に於ては、実践をば、実験から始めて産業・政治活動・へと数えるのである。だから又この実験は、吾々の一切の感性的な経験的な認識活動のその感性乃至経験そのものの性質を指すものになるわけで、この意味に於て、一切の経験的認識は実験的であり、一切の感性的経験は実験の形をとるのだ、ということになるのである。凡ての観察も亦実験なのだ(私はこう云うことによって、石原純氏の疑問――前出――に対し得ると考える)。
だが実験をこういう風に一般的に、一切の感性的な経験の形だと考えれば、実は一切の科学が、独り自然科学に限らず一切の実証的な理論が、社会科学であろうと何んであろうと、実験的特色を有つということになる。社会科学に於ける実験が可能であるなしに関係なく、まず初めから、社会科学はもし夫が実証的であるためには、即ち又実験的でなければならぬということになるだろう。そして恐らく、社会科学に於ける実験という操作乃至手続きも、それ程無意味な不可能なものではあるまい。
処が社会科学が全体の特色から云って、自然科学と同様に実験的だなどと云う言葉は、大抵の自然科学者をも社会科学者をも憤慨させるに充分かも知れない。それは実験という言葉を殆んど無意味なまでに拡大して用いるルーズなやり方だと云って、哲学者も不満を洩すことだろう。――併し実験を単に専ら操作の過程としてばかり見るのでなく、その操作が有つ認識論上の機能から見るなら、社会科学が凡て実験的だというこの考えそのものは、強ち無意味でも不可能でもない。夫はすでに云ったことだ。多分困るのは、実験的というこの言葉に他ならないのだろう。
実験的とここで呼んだのは要するに単に実証的ということだったのだ。それならばわざわざ実験的などと呼ばずに実証的と呼べばいいではないかと私は云われるかも知れない。だが、実験的という言葉が適切でないとしても、そうかといって実証的という言葉だけでは不足な理由があるのである。と云うのは、実証的という言葉が往々いって実証主義の余弊を身に纏っているからと云うばかりではなく、この言葉だけでは、実験が云い表わすようなあの実践性が一向出ていないことを注意せねばならぬのだ。そこで敢えて仮に、社会科学に於ても実験的という特色づけを先ず与えて見ようとしたわけである。然しこの際実験的という言葉がどうも穏当でないというなら、私は技術的という言葉で以って置きかえるのがよいと考える。社会科学は凡て技術的だ、と云うのである。どういう意味かと云えば、社会科学の対象である歴史的社会は、之を科学的に分析する限り、物質的な生産機構に基くことが発見されるのだが、処がこの物質的生産が技術(生産技術)的なものであることは、社会科学者も技術者も自然科学者も、斉しく承認する考え方だろうからだ。
自然科学も、そう云うならば、実験的であると云ってよいと同時に、実は技術的だと云ってもよかったので、単に自然科学の所謂実験が一つの手先的技術であるからばかりではなく、殆んど総ての自然科学が生産技術として利用され得るし、又その発生発展のコースが生産技術上の要求によって動機づけられているし、又自然科学の現下の発達そのものが、現下の社会の生産技術的水準を物的条件として初めて可能である(工場による実験機械の製作等)から、自然科学を技術的だと呼ぶ権利があるのだ。――技術は本来の技術である物質的生産技術である限り、産業技術であるわけだが、そこで実験に代って出て来たこの技術なるものは、之を産業と置きかえてもいいわけだ。かくて実験の次に産業が並べられる。マルクス主義が実践としての実験の次に実践としての産業を並べることを、さっき述べた。
さてこう考えて来ると、技術的であるということが(実は他の人さえ反対しなければ実験的と云ってよいと思うのだが)、一切の科学の根本特色となるわけである。独り自然科学に限らず、社会科学(歴史科学)もこれにぞくする。つまり自然科学と社会科学とに共通な統一的な根本特色がこれなのだ、ということになる(この際文化科学とか精神科学とかいうものは論外だ、なぜならあるのはそういう科学ではなくて、ある処の科学にそういう名をつけたに過ぎないものが、この種の何々科学なのだから。之は科学の分類に関した名前ではなくて、実は哲学上のイズムに関係した名前であることを忘れてはならぬ)。
処で私は、この結論をもっと一般に推し及ぼさねばならぬ。之はもはや一切の科学の根本特色には止まらず、一般に理論そのものの根本特色でなくてはならぬと云うのである。哲学的理論と雖も、夫が科学的で現実的な役割を有たねばならぬ以上、と云うのは、現実問題を実際的に解き得るためには、技術的でなくてはならぬ。そうでなければこういう哲学は自然科学の助けにもならなければ社会科学の助けにもなれぬ。――単に有能な哲学はテクニカルだと云うのではなく、その哲学の体系を展開させるカテゴリーが生産技術上通用するカテゴリーと歴然と一定の関係を自分で設定しているというのである。
こういう意味に於て技術的でない哲学が、今日の所謂形而上学であり観念論である。夫は実際的でない処の解釈のための哲学に他ならない。――もし実験哲学という言葉があるなら(少なくともそういう言葉はある――カントを見よ)、こういう技術的哲学こそ、その名に相応わしいもので、之が唯物論と云うものなのである。之が所謂科学主義(Scientisme)などでないことは断わるまでもなかろう。
最後の課題は、この技術的乃至実験的な思想特徴を、更に理論を越えて、文学的影像やモラルにまで押し及ぼすことでなくてはならぬと考える。――以上が云わば人生に於ける実験の役割と云ったようなものだ。実験というカテゴリーは、認識論上このように広範に把握されねばならぬ。
何人も知っているように、欧州の哲学(実は夫が吾々の現在の哲学に他ならないが)は、タレスから始まると云われている。タレスが神話の世界を踏み越えて、事実と理論との世界に足を踏み入れたということから、ギリシア哲学は始まったということになっている。そしてギリシアの哲学者達によれば、哲学のこうした始まりは驚歎驚異からだったと云うのである。
だが今吾々にとって注意すべき点は、タレスが当時最も卓越した技術家であったという点である。彼はフェニキアやエジプトに通商するために行なった旅行土産として、数学と天文学とをギリシアに輸入したものと推定されている。この数学や天文学は全く技術上の補助手段としてであったことは断わるまでもないので、この技術的手段を用いて予言した日食が適中して、人々はいたく彼を驚歎したと伝えられる。又ハリス河に運河を造って水をはけようとしたのも彼であった。之は軍事上の必要からであったらしいが、一方彼はペルシア人に対してイオニア人の同盟を結成しようとした代表的な政治家でもあったのである。それから彼の実業家としての手腕は、すでにアリストテレスが紹介している。
何にせよタレスは二千五百年も昔の人物で、判然とした業績は判らないのであるが、今問題は一タレスがどのような人物であったかではなくて、従来の哲学史がタレスという哲学者にどのような特色を見て来たかという、哲学史的見解が問題なのである。言葉を換えて云えば、従来哲学が哲学自身をどういうものと考え、どういうものであることを期待していたかが、問題なのである。
タレスが哲学の祖となったのは何も彼が専ら形而上学的な思弁に於て優れていたからだけではない。彼が空の星を驚異しながら道を歩いていて溝に落ちたからではない。彼が当時の最も優れた技術家であり自然科学者であり、又極めて有能な実際家だったことが、彼の形而上的世界観の成立の本当の原因となった、という点に注目しなければならないのである。
従来の哲学史は処が、哲学をば生産技術から、自然科学的又社会科学的実際問題から、引き離して説明しようとする。現代吾々が有っている哲学史の大部分のものは、ヘーゲルの哲学史から始まったものだと云って良く、特にヘーゲル学徒、クーノー・フィッシャーとE・v・エルトマンとを根拠にしていると見ていいようであるが、これ等の歴史家の可なり注意の行き届いた歴史的省察にも拘らず、従来行なわれて来た哲学史家が与えた処の哲学そのものの説明は、結局哲学を技術から本質的には独立なものであるかのようにして了って来ている。
これは言うまでもなく、近代の哲学の大勢が何と云っても観念論の課題の外へ出なかったという事実に相応するのであって、殊に最近、所謂文化危機や文明の没落という合言葉と共に、ブルジョア哲学全般の形而上学化・宗教化・が意識的に奨励されるに至って、哲学を生産技術から絶縁しようという私かな願望が、ブルジョア哲学者の胸の内に一時に烈しく燃え上って来た事実を注目しなくてはならぬ。
だがわが国などで最も流行しているこうした観念哲学の傾向は、殆んど例外なくドイツ哲学の模倣であり、従って又結局に於てドイツ古典観念論の伝統の上に立つものである。そう考えて見ると、この哲学傾向が著しく誰の眼にも付くようになったのは今日に始まるとは云うものの、その用意はすでに古く十八世紀末から出来ていたと考えなくてはならぬ。と云うのはドイツ古典哲学は、人々の言う処によると、何よりも先に存在や現実の問題よりも先に、自由の問題を中心問題とした「自由の哲学」なのだが、この自由というのがルネサンス芸術家達の考えた芸術上の自由や、十六世紀末以来のイングランドに於ける経済上の自由の観念や、フランス革命に於ける政治的自由などではなくて、これが云わばプロシア風に封建化されて、人格の自由や、人間的自由や、又神的自由の観念となったものなのである。カント乃至フィヒテとシェリングとヘーゲルとが、夫々この三つの概念を代表している。でこういう自由は現実の存在物とは全く秩序を異にした世界のもので、自由の世界を論じている限り、現実の世界はどうでもいいということになるわけで、ここからドイツ古典哲学の観念論としての本質が出て来ているのである。今日見られる多くのブルジョア哲学の典型は、こうした自由の哲学の小さく鋭くなったものに他ならない。
この自由の哲学がだから、哲学と生産技術との根本的な連関に注意を払うのを忘れることは寧ろ当然で、従ってこの種の系統の哲学からは、技術の問題は本格的な位置に付けられないということも甚だ尤もだと云わねばなるまい。
だが、特別な例外に相当する場合は指摘しておかなくてはならない。ドイツ古典自由哲学の初めであるカントは実は可なりに技術的な精神によって貫かれた哲学者であったことを見逃してはなるまい。彼の有名なコペルニクス的転回なるものは、従来の哲学史的説明によると、存在の中心が客観的な対象物にあるのではなくて却って主観の内にあるのだという新しい哲学的発見のことだというのであって、客観から主観にまで世界の支点を転回したことだということになっているが、なぜこの転回がコペルニクス的と呼ばれるかに就いては腑に落ちない点があるのである。
地動説を唱えて投獄されたコペルニクスは、宇宙の中心がカトリック教会の信条とは異って、吾々人間の主観に直接している地球にあるのではなくて、却って客観的な太陽になければならないというのであるから、之は云わば主観を客観にまで転回したのであって、カントの転回とは方向が反対なのである。カントの転回がカント自らによってコペルニクス的だと特徴づけられたその権利は、わずかにカントが自分の回天動地の偉業をコペルニクスの方向反対な回天動地の偉業になぞらえて自負したという、つまらない内容にしか過ぎないことになりそうである。
だが実はそうではないので、カントはここで第一に、コペルニクスが仮定している地球と太陽との間の運動の現象上の相対性を問題にしているのであって、哲学上でも、主観と客観との間には一応このような現象上の相対性が見出されるということを彼はここで第一に告げているのである。彼がヒュームの懐疑論によって独断の夢から醒めたと云っているのは、この哲学上又は認識論上の相対性原理に到着したことだったのである。
処でコペルニクスは、地球と太陽とのこの一応の相対運動にも拘らず、宇宙の他の諸運動との連関から見て、太陽が動くのではなくて、地球が動くのだということを、実験的に断定した。カントが感心したのは恰もコペルニクスのこの実験的決定(experimentelle Entscheidung)の仕方だったのである。カントも亦その哲学上の相対論を、実験的に(但し思考実験によってであるが)決定することによって、主観が存在の中心として把握されるのでなければ理論上不都合を生じるだろうと主張するのである。
だから単に転回にカントは興味を有ったのではなくて、実験的精神に基いた結果転回が敢行されたという点に要点があるので、カントはそこでガリレイ(実験自然科学の代表的な始祖)を引用しながら、自分の転回がコペルニクス的である所以を説明している。
で、カントからドイツの「自由の哲学」が始まるのではあるが、カント自身(この卓越した包括的な着実な文明批評家)は、正当にも近代資本主義の生み出した認識手段たる実験の精神によって貫かれていたことは、特に注目に価する。之は哲学の生産技術に対する意義を、やや約束しているものだったと見て好いだろう。処がフィヒテの手によってカントの古典哲学が本当の観念論的自由哲学に翻訳されて以来、自由の哲学は生産技術と永遠に敵対関係に立たされて今日に至っている。
ドイツ・ナチスの国粋哲学がフィヒテのこの反技術的自由哲学から出発していることは好く知られている(之にニーチェの権力意志の哲学を按配すれば、お好みの取り合わせを有つナチ哲学が出来上るだろう)。ナチスの国民精神哲学は「唯物論」を征服するために適宜のように編成されており、又いつでも適当に編成出来るのである。処がこのドイツ国産哲学の原則がそのままわが国にも輸入されて、わが国の国粋哲学となっていることは、国粋の名に於て、可なり皮肉な現象だと云わねばならぬ。この国では国民精神の哲学は、外来思想「唯物論」を征服するために、急遽編成に着手されつつあるのを読者は見るだろう。ナチ哲学プロパーをめぐる半ばナチス的なドイツ精神哲学(Geistesphilosophie)は、ドイツ国粋哲学の先発隊として、すでにわが国に渡来して出立の準備を完了しているように見受けられる。ハイデッガーがわが国に広く紹介されたのは五六年程前だが、今はこの哲学は色々な形で益々多数の哲学ファンを引きつけつつあるように見受けられる。
わが国のこの唯物論反対哲学が、如何に技術反対哲学(Antitechnismus)であるかは、どの国粋哲学・どの精神哲学・の体系を取って見ても、すぐ判ることで、今茲に一々取り立てて述べる必要はないと思うが、その最も端的な症状の一つとしては、国粋哲学がわざわざわが国の生産技術一般の最も未発達な段階に社会構成の原則を求めようと欲したり、又現在では最も技術的に後れている生産部面である農村に社会の典型を求めたりしようとする、各種の農本主義に帰着するのを見るが好い。
ファッショ的段階に立ったブルジョア観念哲学は、その技術反対主義をば、唯物論打倒の名の下に遂行しようとしている。だが之は或る意味では全く正しいのである。なぜなら生産技術が極めて尊重すべき重大な哲学問題であるということは、唯物論的認識の最も大切な要石の一つなのであって、そして恰も従来の哲学は、それが観念論的であったその限りに於て、いつも技術の問題を問題の王座から逐い落しては来つつあったからである。
だが、何かの勝手な先入見を抜きにして見るなら、生産技術はいうまでもなくいつの世にも人間の実際生活の最も重大な一つであることは、誰しも否定出来ない処である。今日では、技術を呪う如何なる宣伝と雖も、印刷機や輪転機の技術的効果に対して私かに感謝しているに相違ない。だからブルジョア哲学でも仮にも哲学である以上、技術の問題に対して全く見向きもしないという態度は許されなくなるので、ブルジョア哲学の内にも「技術の哲学」という一群の著述と一つの伝統とさえがあることは、忘れられてはならない。
処で、こうした「技術の哲学」は技術をどういう風に取り上げるか。――一体技術という言葉自身は非常に多義な曖昧なものである。人々は単に物質的な生産技術(これは運輸技術其の他までも含む)ばかりではなく、その他に観念的な諸技術を考えることが出来るだろう。例えば戦略上の技術とか行政上の技術とか、又事務処理上の技術とか、更には計算・制作・思考等々の技術などが之だ。それからこうした客観的な何等かの組織(物質的でも観念的でもいい)から切り離して理解された限りの主観的な技能や知能も亦、立派に技術と呼ばれているのである。
だが、技術という言葉のこうした分裂も決して無意味な偶然な現象ではなくて、実に却って或る一つの原則が一貫していることを示している。と云うのは、いやしくも技術と呼ばれるものは、いつも物質的な生産技術に関係づけられて技術と呼ばれているのであって、或いはこの物質的な生産技術の連関物として、或いはそれからの或る合理的な譬喩として、そう呼ばれているのである。
ここから判るように、技術の本質は物質的生産技術にあるわけで、技術はこの部面に於て、一方では自然との連関に這入って、自然科学や工学・技術学・の世界を貫き、他方では社会の生産関係との連関に這入り込むことによって、社会科学や特には経済学乃至政治学の世界を貫く、一つの根本問題となることが出来る。今もしここに中心を置くことを忘れるなら、どのような精巧な技術論も恐らく根のないフラーゼオロギーに終るだろう。
処で、殆んど凡てのブルジョア的技術哲学は、技術のこの物質的生産性を中心に置くことに注意せず、従って之とその他との、区別と連関とを具体的に把握することを知らない。従来の技術哲学を大成したものとしては、Friedrich Dessauer, Philosophie der Technik を挙げていいと思うが、之によると技術は物質的生産技術と其の他の技術との区別や連関からは抽象されて、単に技術一般として、技術的世界の名の下に捉えられているに過ぎない。カントが自然界と道徳界・審美の世界又は目的論の世界・とを区別したのに対して、デッサウアーは第四の王国としては技術の世界を発見する。ここで初めて、必然の世界と目的の世界とが、結合するというのである。
「哲学者」であるよりも寧ろ「文明批評家」であるO・シュペングラーなどは、デッサウアーに較べればもう少し「非哲学的」であり、従って彼の場合にはとにかく生産技術を中心として技術が捉えられている。が、この生産技術の社会科学的・哲学的・な意義を積極的に摘出することを知らない結果、技術の文明史上の価値は、単に不可避の悪(necessary evil)以上のものには出ない。彼に於ては、普通に経済と呼ばれている社会の生産関係の本質が見落されているのだから、物質的生産技術の経済学的意義が認識されなかったのは、無理からぬことだ。
ブルジョア哲学者の技術に関する形而上学的思弁にも拘らず、本来の技術は物質的生産技術のものであり、従って又社会の一定の歴史的段階によって決定された生産関係にぞくするものであり、即ち又所謂経済と一つに結び付いたものであることは、現実の問題としては疑う余地のない事実である。――そこで今度は一方に於てブルジョア哲学又はブルジョア技術哲学を想定しながら、他方技術と経済とのこの密接な結合をこの想定の下で是非とも取り上げずにはいられない技術論者が、ブルジョア思想水準の表面にも現われて来なければならぬのは、云うまでもないことだ。この論者達は、別に、何か技術主義的な哲学の原理の上に立って独自の哲学体系を造るのではない。そういう技術的哲学者も、最近ではブルジョア思想水準に於て決して珍らしくはないので、例えばH・フォードの『わが産業哲学』やT・ヴェブレンから始まるテクノクラットの社会思想の内には、この種の技術哲学が見られるが、今云うのはこうした独自の技術家的哲学者のことではない。
一方に於て所謂哲学者達が造り上げた技術の哲学を有ちながら、之と技術家の専門的な技術上の知識や経済学者の経済的見解とを結び付けるのが、今云おうとしている技術論者の特色をなす。技術の知識を、出来合いのブルジョア哲学乃至ブルジョア的技術哲学によって基礎づけようというのが、この種のブルジョア技術論者の企てである。
その結果、例えば次のような問題が提出される。まず第一に技術の「本質」は何であるかを問題にする。之は要するにブルジョア的技術哲学の無批判な集大成以外の何物をも齎さないだろう。それから第二に、経済の「本質」は何かと問う。之はブルジョア哲学の或るものを経済学の基礎問題に無批判にアップライすることに過ぎない。そうして第三に、この技術の本質と経済の本質とが、どう本質的に関係するか、又この二つがどういう現象形態を取ることによって現実的に結び付くかを問うのである。だがこうした技術の本質と経済の本質とは、元来決して結び付きようがないだろう。なぜなら、経済即ち生産関係から抽象された技術の本質とか、又技術即ち生産技術から切り離された経済の本質などというものは、元来、本質的に云って、存在しないからである。
こういう無理な、或いは無意味な、問題が問題になるのは、技術の本質が物質的生産技術になければならぬという、先に云っておいた一つの単純な事実を忘れたからなので、これを忘れては「技術と経済」の連関という問題を提出した動機そのものが、消滅して了う他ないだろう。
吾々が特にこの種のブルジョア哲学式技術論を問題にするのは、吾々の手近かにそのような技術論者の典型が多数存在しているからで、併しそうでなくても、経済学や工学の専門家で哲学(ブルジョア哲学)を愛好する人々の、この類型は珍しくはないと信じるからである。
ブルジョア哲学内部の、又は外部からブルジョア技術哲学を援用する処の、技術哲学乃至技術論は要するに、わざわざ技術を一般化し形式化すことによって、技術を物質的生産技術から抽象し、そうやって技術を生産関係、経済組織・から引き離す。それが技術の「本質」となり技術の「哲学」となるのである。
こういう問題の立て方で行けば、技術はいつも単純に一般的なもので、社会の階級的構造などからは全く独立した理想郷となるだろう。そういう理想郷は現にアメリカのテクノクラシーと名づけられる子供だましの宣伝物の内容に最も顕著に現われているので、その内容自身は仮に一顧の価値もないとしても、テクノクラシーそのものの発生という社会現象には、重大な意義があるだろう。というのは之は社会の中間層としての技術家・技術的インテリゲンチャ・の中立性や超階級性を標榜するのを常とするイデオロギーに他ならないからである。
技術家の理想郷は何もテクノクラットに始まるものではなくて、すでにヴェルラムのベーコンのノヴァ・アトランティスに先例があるのだが、テクノクラシーの何よりも特色は、今日のように全世界的に階級対立の眼立たしい時代の只中で、技術と技術家とを階級対立の彼岸に押しやり、そうやって又社会そのものを階級対立の彼岸にまで救済しようとする、観念的な希望の内にこそ横たわる。技術が、経済的な意味は云うまでもなく、政治的な意味をまでも有っているという一つの事実(例えば社会主義的国家五カ年計画の如き)、それからこの事実が持っている哲学的意義、こうしたものを無視しない限り、技術家のこの夢は夢の形をさえ結べない筈であった。
技術は一つの圧倒的に重大な生産力であって、その限り社会の生産関係を決定する重大要素であるのだが、之がその上に出来上る上部構造としてのイデオロギーの決定要因として如何に重大なものであるかは、今ここで述べるまでもないだろう。今はただ、技術が決して人々が想像するような超階級的な存在ではないということを注意すれば足りる。蓋し技術は物質的生産技術を中心とするものだったが、物質的生産技術は、機械や工場設備や運輸組織やを通して、社会の生産組織そのものと一つにあみ込まれた客観物で、個人の独創と考えられている発見乃至発明さえが、実際にはこの客観物を規準にして規制され調節されているのである。こうした社会的存在に政治的階級的な本質を感得しないということは、故意の隠蔽でなければ、認識の不足だというべきだろう。
この点を、機械や発明の問題に於いて、もう少し考えて見る必要がある。なぜなら、例のブルジョア技術哲学も、技術問題の特殊な内容として、機械や発見を取り上げるからである。
単純な技術家やブルジョア技術哲学者達は、機械を単に形式的に定義する。「機械とは抵抗物体の結合であって、この各物体がその機械的自然力を介して一定の運動をするように仕組まれたものを云う」(Reuleaux)とか、「機械とは形態ある物質が自然法則に従って、予定された運動をすることによって、物質に一定の形態・性質・又は運動を与えるように配置された統一物である」(Dessauer)とかいうのが、そうした定義の例である。もし定義というものが可能ならば、定義は一体事物の本質を示さなければならない筈だろうが、今のこの定義によっては、少しも機械の本質は明らかにならない。機械が文明に対してどういう役割を有っているか、どういう社会的意味を有っているか、何故所謂「機械文明」は呪われるか、何故イングランドの歴史の上に、労働者の機械破壊運動が発生したか、又今日何故に資本主義諸国で機械制限論がやかましいか、又何故多少皮肉に云えばソヴェートあたりで一種の機械崇拝が行なわれるか、こうした問題は技術の本質と何の関係もないのであるか。作業機の発達や更に動力機の発達によって工場工業と今日の大工業とが初めて出現したという、技術の歴史は、技術の本質と無関係なのか。
機械の形式主義的な理解の仕方は、他方では発明乃至発見の個人主義的な理解の仕方に対応する。蓋し形式主義と個人主義とは、ブルジョア論理学の裏と表に他ならないからである。
発明や発見に対するブルジョア哲学乃至社会学による考察は極めて多いが、その内で有力な傾向の一つは之を個人の独創・個性・イニシャティブ・に帰着させることである。之がなければ発見も発明も不可能なのは云うまでもないが、個人のこの独創・個性・イニシャティブ・自身が、社会の如何なる客観的必然性によって開発されるかを見なければ、発明や発見の本質は判らない。社会の生産関係から、客観的に必然性を付与されるのでなければ、どのような発明も、発見も、世間から承認を与えられないので、従ってそれの引続いての展開は起こらないから、発明は発明としての資格を失い、発見は発見としての資格を疑われる。後々歴史的に展開しなかったようなものの発明や発見は、発明や発見でさえない。例えば空を飛ぶ道具としての飛行機は、レオナルド・ダ・ヴィンチの設計以来方々で何遍も「発明」されたらしいが、それは遂に発明の実を結ばなかったし、南洋の或る島は、発見されても社会が意識的に之を開発しなかったから、今必要になった時発見争いも始まろうというわけである。
発明や発見のブルジョア哲学的概念に付着している一つの危険な要素は、天才の観念である。発明や発見が個人主義化されて問題になるから、発明者や発見者がそこでは問題になるのは当然で、そこでこの発明者や発明者を天才者と考えたくなるのである。
処が悪いことには天才論では、多少とも科学的な研究は盛んであるが(ロンブローゾやクレッチュマー)、併しそれにも拘らず文学者風の天才賛美の動機に出ているものが、抜くべからざる伝統を[#「伝統を」は底本では「傅統を」]なしている。ここでは天才は、従って発明発見の天才は、何か神秘的な非合理な観念として祭り込まれて了うのである。
発明、発見、天才、又之に付属した独創・個性・等の諸観念を、個人主義的に従って又神秘論的にでなく理解するのでなければ、之を技術論の資料として、用いることは出来ないだろう。
吾々は今日極めて大事だと考えられる「技術の哲学」を有効に用意するためには、予め技術に対するこのような様々の所謂観念論的歪曲を警戒しなければならないが、而もこの歪曲は凡て、技術が本来、物質的生産技術だという至極単純な一つの事実と、この事実が有っている哲学的意義とを、忘れた処から発生したのである。必要なのは従って、技術という範疇の認識論的意義である。
[#改段]
かつて私は西田哲学の批評を「無の論理は論理であるか」という題で書いたことがある(『日本イデオロギー論』)。書き方は極めてスケッチ風であったから、批評として決して力のあるものではなかったが、併し今日でも私は、西田哲学の問題の要点は依然としてそこにあるものだと信じている(西田哲学の本質はエッセイにあるという説も聞いたが、併しだから私の批評は見当違いだという推理は成り立たないように思う)。無の論理は世界の解釈のための論理であって、少しも世界を実際的に処理するための論理ではないから、無の論理は云わば論理の無でなければならぬ、と今でも考えているのである。
処で無の論理のこの論理としての弱点を極めて注意深く指摘しつつあるものが、この数年来の田辺元博士の論文だということを注意したい。云うまでもなく田辺博士と雖も、西田哲学の無の論理から一種有力な示唆を得ていることは見落すことが出来ないのであり、その点を推して行くと、最近の田辺哲学は実は無の論理の批判的前進に他ならないのだが、併しそれだけに、田辺博士による無の論理の批判は、否定的で有力だと見ることが出来よう。博士は「社会存在の論理」(『哲学研究』昭和九年―十年)に於て、哲学的社会学に就いての方法論ともいうべきものを試みているが、その要領となる出発点は、西田哲学が「我」と「汝」という個人(個)の相互の否定的対立を介しての肯定とも云うべき弁証法的関係によって、この人間の社会を解明しようとするのは、絶対の不可能事だということの強調にあったのである。つまり西田哲学の無の論理によると、我と汝という個人(個)同志が不連続というディアレクティークによって人倫関係を造っていると考えられるのであるが、処がこの我も汝もいきなり何等の媒介者なしに無の場所から浮き出て来ているもので、無以外に我と汝とを媒介するものは見当らないのだ。して見ると我と汝はいつまでも単に我と汝とであって、それが社会という存在の姿を示す型にも、夫をほごす鍵にもなるものではない。之では実際の歴史も実際の社会も理解出来ない、というのが田辺博士の着眼点だったのである。
そこで博士は考える。我と汝という個人をば媒介する或るものを持って来なければならぬ。処で夫は恰も民族なのだ。民族によって初めて夫々の個人が活き、又その相互関係も活きる。処がこの民族を論理的に個と類とに対比させれば正に種である。そして国家が類に相当すると云うのである。処が無の論理は実は個の論理であった。従ってその他に今や種の論理を考えなければならぬ。そしてこの両者が類の論理に総合されるのでなければならぬ。こうして一方に於て田辺博士の哲学的社会学のプランが成り立ったと共に、同時に社会存在の論理学が試みられることになった。要点は種の論理の提唱にある、だから之はおのずから例の「無の論理」の批判として出発しなければならぬ。――この「種の論理」を比較的純粋に、と云うのはその社会哲学的な各種の主張から比較的独立に、分析したものが「種の論理と世界図式」(『哲学研究』昭和十年)なのである(「世界図式」に就いては二年程前に独立の論文が発表されている)(「図式『時代』から図式『世界』へ」『哲学研究』二〇〇号)。
この論文は一面に於て西田哲学の根本的な批判であると共に、之と対比させられた高橋里美氏の全体主義の哲学に対する批判や、更に唯物論やハイデッガー主義やに就いての批判などが組み合わされている。一見現代哲学の諸形態の総合的批判なのだが、それがつまり種の論理の強調と、その内容たる(時間図式に代る)世界図式の力説によって纏められているのである。特有な民族理論と国家理論とが多少とも織り込まれていることは、原則上已むを得ないことで、前の「社会存在の論理」のように一々吾々の社会感情を刺激するような意見が、あまり露骨に出ていないことは、吾々にとって多少幸福だ。
論理的綿密と論理的徹底とを欲して已まぬ博士であるから、逐字的に読んで行けばどんな立場でも一応の筋が立っている。例えば「神の三一性に関する彼(アウグスティヌス)の思想が弁証法の具現であって、その父、子、霊の関係が我々の論理に於ける類、個、種の関係に対応する所があり、又その神の国の観念が、我々の考える類的国家の超越的理念ともいうべきものに相当することを考えるならば、アウグスティヌスの救済の論理こそ類の論理に対応するというのが正当でなければならぬであろう」とか、国家は「理念上宗教的意味を含まなければならぬ」とか、「吾々の所謂人類的国家は菩薩国に外ならない」とか、其の他其の他の、吾々の社会的感覚と又云わば趣味からさえ云って到底忍ぶべからざる思い切った表現も、一応の論述の綿密さから云えば強ちナンセンスではないのである。もし博士が真に道徳的な実践家であり、そして勝れた文学者であったならば、というのはもう少し現代社会の既成機構を悪む人であり、そしてもう少し言葉と観念というものの時代に於ける生態を愛する人であるならば、恐らくこういうような表現は、その趣味が許さないだろうと思われる。
だが趣味などはどうでもいいとして、大事な点は、博士がここで推奨して已まぬ国家なるものが、理念国家であり、或いは之をヘーゲル的発出論から救うために云うなら、云わば無的国家なのであって、決して現実の日本や支那・満州やイタリヤやエチオピヤのことではないという点だ。道徳的実践の理想としての国家はかかる意味を有つべきものであって、夫が現実の国家とどういう具体的な実際関係にあるかは、問題ではない(民族に就いてもこの点変りはないのである)。実は博士の所謂国家は無的なものだ。というのは夫は現実に有る処の国家を理想へ向かって可動的にするために挿入せねばならぬ処の無的イデーなのである。だからつまり吾々の眼の前にある国家は、この吾々が知っている現実の「国家としての国家」に他ならないのである。マニフェストの著者が「国家としての国家」と云ったのは無論イデー的乃至無的な菩薩国のことでなくて、イギリスやフランスやドイツのことだった。処で博士は之を道徳的に(社会主義的にでなく)改善するために、無的イデーとしての国家という脂肪層の上に少しばかり之を浮せて見るに他ならない。国家は改善されるべきである。但しあくまで国家として。之が博士にとっての国家としての国家なのである。
この論理的な無的イデーとしての国家の内に、博士は社会存在に就いての一切の希望を投げ入れ、そして之をそこに集結しようと欲する。云うまでもなくこの希望の投げ入れ方は極めて整然として説得的なのだ。もし読者が、今日の現実の国家が現に何であり又現に今何をしつつあるかを忘れることさえ出来るならば。
それはさておき、田辺博士の種の論理による西田哲学の批判は、西田哲学の何よりも重大な要点を衝いていると云わねばならぬ。西田哲学は弁証法を標榜する、この哲学によると、この現実の有態の世界は、弁証法的世界なのである。即ちそこでは有即無、無即有、空間的即時間的、時間的即空間的、円環即直線、直線即円環なのだが、この「即」なるものは他でもない無によって媒介されるということなのである。媒介たる特殊も媒介せられる個も何れも無の自己限定として、媒介は媒介を限定し個は個を限定しながら、両者が無に於て相即するのである。だがもしそういうことに過ぎぬならば、どこに一体両者の間の否定的対立というものがあるか。そして否定的対立のない処には媒介なるものはあり得ないのだ。だからして「かかる無の媒介は実は無媒介に過ぎない」、と田辺博士は断固として不満の意を漏すのである。「即」とは結局同一哲学的相即のことであり、媒介のない神秘主義的直接関係に過ぎないから、そこでは弁証法は消滅して了わざるを得ない、之では世界は決して弁証法的世界などとはならぬ、と云うのである。「無の場所の論理は論理にして論理ではない。それは絶対媒介の立場ではなくして、場所の直接態に立つからである」とも批評している。無の論理はその限り、論理を断念して宗教的神秘主義に赴く宗教的哲学の道だと云うのである。――吾々は田辺博士が西田哲学に加えた批評に就いて、今云った限り、無条件に之を支持するものだ。
併し西田哲学の批判が今の私の問題ではないから、詳しいことは省こう。必要なのは田辺博士が之に加えた批判の一つ一つの内容よりも、寧ろその加え方である。なぜならやがて之は博士によって一切の哲学に加えられる批判の仕方に関係するからだ。すると之は他人ごとではないからである。
田辺博士によると論理の本質は推論に存する。之は恐らく論理学の歴史が、と云うのは主に観念論的な論理学の歴史なのだが、証明していることと見做さねばなるまい。推論の本質がそして媒介の機能にあることは云うまでもない。だから論理の本質は専ら媒介に存するということになるわけだ。西田哲学はみずから述語の論理と称して、従来の一切の論理学を主語の論理と見做すのであるが、こうした述語の論理は判断に於ける包摂関係に立脚しているのであって、この包摂関係なるものは全く直接的な連関のことで、元来媒介を容れることの出来ないものだ。で、論理の本質が媒介だとすれば、その際の論理なるものは主語的論理でも述語的論理でもなくて、正に繋辞的論理である他はなく、之が論理の本質を概念や判断ではなしに正に推論の内に見出させる所以である、と博士はまず第一に考える。
処で論理の本質が媒介にあるとするなら、論理が何等かの意味で(その意味は大切で後から見よう)十全であるためには、即ち論理が絶対的であるためには、媒介も亦絶対でなければなるまい、絶対媒介であることが必要な筈だ。論理の本質はかくて絶対媒介に存する。と云うのはこの論理にとっては一切のものが媒介されてなくてはならぬ。無媒介な直接態に於けるもの(例えば直観とか所与とか)も、夫がこの論理という媒介機能の一モメントとなることによって媒介されたものでなければならぬと共に、又論理を媒介態に致すべく媒介するものでなければならぬ。そういう意味に於て媒介されないものは何物と雖も許さないというのが、この絶対媒介の主な意味なのである。媒介がどこかで止みそこに媒介の反対物が媒介を否定すべく対立しているとしても、媒介自身のそうした否定そのものをも媒介とすることによって却って初めて自分が成り立つような、そしてそうすることによって自分自身の否定物をも却って自分の内に一モメントとして媒介するような、そういう条件にある処の飽くことのない媒介が、絶対的な媒介だというわけである。否、そういう条件にいることによって初めて自分が成立するということを具さに自覚し得た時の媒介が、絶対媒介だというのである。こうした絶対媒介が即ち絶対弁証法の機能だというわけだ。
無の論理の論理としての欠陥は、その無なるものが無の場所に於てある事物を媒介するものでありながら、無自身は一向に媒介されていない無であり、従って媒介はするが自分は媒介の外に立っている処の神秘的なものになり、こうして之を無として論理的に即ち又媒介的に把握することが出来なくなるから、論理上の実際問題としては有と何等異ったものではあり得なくなる、という点にあるのである。西田哲学的無の論理に反対するばかりではなく、一般に弁証法そのものをも認めない処の高橋里美教授の全体――絶対静止・絶対無――なるものも、西田哲学的無とその限り同じ性質のものになるのであって、高橋哲学に於ける全体的有が一転して「絶対無」と呼ばれ得ることも興味のある現象だということになる。媒介しないということもなお且つ媒介に於て初めて可能であるということ、媒介がないということが媒介されたということであること、反媒介がそのまま媒介されているということ、之が絶対媒介という弁証法=絶対弁証法の独特の特権だというのである。――一つの連想を許して貰おう。職業的宗教家は、一旦人類を愛しようと肚を決めたが最後、世人は到底その愛に打ち勝つことが出来ぬ。愛に打ち勝つことがつまり愛されることになるからだ。丁度そのように、一旦媒介の肚を決めた云わば職業的な専門論理は、飽くまで押しつけがましく、厚かましく媒介を徹底する。絶対媒介という観念は、云って見ればそんな感じのするものであるが、併し無論そういうことは批評には何んにもならぬ。
で最初に云ったように、この無の論理にこうした絶対媒介が欠けているとしたら、個と個とを媒介する媒介が別になくてはならぬわけだ。夫が種であることは強ち不思議なことではない。なぜなら種とは個と類との中間項であり、判断の形式に就いて云えば繋辞に当る役割を有つと考えられるだろうからだ。個は種によって媒介され又種へ媒介を致すことによって、その媒介が絶対的であり、即ちその否定が即ちその肯定であるという意味で、個は種に於て否定的に媒介統一される。つまりこの絶対媒介によって個に夫々の個として積極的に成り立ち、而も之を統一する種も亦種として独自の積極的成立を有ち、そしてこの個と種との否定的な対立物が、その積極と否定とのまま、類に於て否定的に統一されるということになる。種を考えないと個がいきなり一般へ直接して了って、種は固より類さえも、又個の真の面目さえも、見出せなくなるわけだ。つまり種は個と類との媒介者、媒酌人なのである。
処でこの論理学的なカテゴリーとしての種が、何故生物学乃至社会学的な種でなければならないか、と云うのはなぜ種は特に民族であり血液共同体であり又トーテム其の他であるのか。それは論理学としては説明出来ないことだ。寧ろ民族的国家理論によって社会存在の哲学を考察するためには、偶々こうした種の論理を造り出すことが必要であったに他ならない。だから仮に種の論理というオルガノンが、正しい論理であったにしても、そうだからと云って田辺博士式民族国家絶対主義が絶対的に本当だということにはならないわけで、現に民族国家絶対至上主義は、種の論理の精緻綿密を俟たなくても、現代の日本では至る処で提唱されているのである。だから種の論理学者としての田辺博士の功績は別として、社会哲学者としての田辺教授の功績は、専ら、世間にあり振れた民族国家至上絶対主義という常識(?)に、種の論理を接種するという処にのみ横たわる。私は田辺博士に対する当然な尊敬からして、勢い民族国家絶対主義者としてのこの帝大教授は之を度外視して、専ら種の論理学者としての博士の方だけを検討したいと考えるものだ。
或いは、仮に夫が同じテーゼに終っても、巷間の常識と、哲学的に綿密な理論による結論とを、まるで同一視するのはひどく乱暴ではないかと云われるだろう。私も夫を知らぬではない。だが理論は一方に於て常識をジャスティファイするものであると共に、他方同時にこの常識を変革するものでなければならない。もし理論的労作を回り回って行きつく処が初めから常識的な結論と一致することが判っているなら、一体理論は何の実際上の意味を持つのだろうか。田辺博士の哲学は有態に云って最も無難な常識的テーゼをばその結論とする場合が多いようだ。常識を説明するのではなくて、説明するもの自身が常識にぞくするような形の結論がその哲学の結論の多くのようだ。つまり理論が常識によって絶対的に媒介されているとでも云うべきなのである。処で田辺哲学の文学的特色の尤なるものはその折衷主義だと見做してよいなら、この常識性はこの折衷主義との間に何等かの近親関係を持つものであろうと思う。――私が急にこんな不遜なことを言い出したのは他の理由からではないので、絶対媒介とか絶対弁証法とかいう、その絶対なるものの田辺博士的特性を説明するためなのである。というのは田辺博士による絶対なるものは、実は折衷主義の切札を意味するものではないかと思われるからである。
まず絶対弁証法という言葉を博士は之までどういう意味に使って来たかを注目しよう。夫は観念論的弁証法でもなく、唯物弁証法でもなく、そういう二つの相対的に対立した弁証法でなくて、両者を総合した唯一の弁証法という意味であった。存在は単にレアルでもなく又単にイデヤールでもなくて、レアル・イデヤール、イデヤール・レアルなものだから、弁証法も亦レアル=イデヤール即ち絶対的でなければならぬ。否レアルとイデヤールとの間にこそ初めて弁証法の成立の余地もあるのだ、というのであった。無論この絶対弁証法は単に二つの弁証法をつぎ合わせたり混ぜ合わせたりしたものではない。そういう意味で確かに総合の名に値いしないのではない。だが併し田辺哲学に於てはなぜレアルとイデヤールとがこのように同格的になりたがるのだろうか。レアリズムはレアルなものの優先権を、之に反してアイデアリズムはイデヤールなものの優先権を主張するのが、夫々の存在理由である。処が両者を終局に於て同格だというのでは、果して夫が両者の総合だろうか。実は折衷というものはいつもこういう次第を持っている。折衷は決して折衷しようと欲して折衷するものではなくて、いつも主観的には却って正に総合しようとしているものだ。夫が本当に総合なのかそれともただの折衷かは、之は云わば文学的な判断にまつ他ないようなものだが、併し今は絶対という言葉を見て、この点に論理的判断を下すことが出来そうだ。では絶対とは何か。絶対媒介とは何か。
絶対弁証法は二つの対立した弁証法の総合だったから折衷的とも見えようが、絶対媒介の方は却って一つの徹底味を意味しているようである。あくまで媒介を貫徹することが絶対媒介だからだ。だがそれにも拘らず何よりも媒介なるものそのものが、折衷的なものであり得ないとも限らぬということを忘れてはならぬ。云わば之は絶対的な折衷主義というようなものになるかも知れないのである。
西田哲学的無の論理に於ては、夫が無媒介だと云われた通り、何等の折衷さえも亦あり得ない。二つのものは二つのものとして矛盾しているその儘で、存在していてそれでいいのだ。与えられた現実はその瞬間々々事実そういう状態におかれているから、この現実の矛盾を実地に解決しようとしない人にとっては、こういう無手勝流の論理も論理の名に値いしよう。処でこの現実の与えられた矛盾対立を何とか実践的に解決しようとすれば、吾々は妥協的になるか変革的になるかのどれかでしかあり得ない。なる程いずれの場合でも吾々は、この二つの相矛盾した対立物の間に媒介をつけなければならぬ。そうでなければ一方の対立物に依って他方の対立物を現実的に否定することも出来ないからだ。だが今、この後の場合の媒介は、媒介であるに拘らずもはや決して媒介として機能するのではなくて、却って現実的には媒介の否定・切断・としてしか機能しないのだ、ということを注目しなければならぬ。媒介の否定でもやはり媒介だからこそ絶対媒介ではないか、と云うかも知れないが、併し今は却って、絶対的に媒介であるに拘らず媒介ではない、というそういう逆手の方が意味を有つことが必要なのである。論理は媒介なのだからあくまで媒介を主語にして無媒介の方は云わば形容詞の位置に止まるべきものだと云うのなら、抑々認識論に於けるそういう論理主義の是非を問題にしなければならぬが、夫は後にして、そうでない限り、媒介の契機ばかりを絶対化すことは出来ない筈だ。媒介という言葉によって媒介のモメントばかりが強調されるということは、恐らくその際、妥協のようなものが媒介なるものの人間学的モデルになっているからで、田辺博士は矛盾対立の解決を専ら主体の道徳的行為に期待しているのだが、道徳的行為としては人間は何かの条件の下に常に協和的でなければならぬ。人間と人間とを本当に対立矛盾させるものは、人倫や道徳の内にはなくて社会の物的機構の内にあるのだから。
単に、無媒介者をも無媒介者として絶対的に媒介するということだけが強調されて、絶対的媒介と雖も絶対的無媒介者にぶつかるという場合のスリルを、後ろにかくして了っているということが、この絶対媒介なるものの一つの根本特色なのである。つまり、媒介が媒介自身に於て完了出来るようなアウトノミーを有っているかのように絶対化されることが、絶対媒介という観念の勘所なのだ。媒介が本当に論理の本質的機能ならば、論理が絶対論理として一切の非論理的なものをも論理化して了ったということがあり得ないように、媒介が一切の直接なものを媒介して了ったような絶対媒介というものは、実は媒介絶対主義で、却って無媒介の直接的否定と何の選ぶ処もないだろう。でこうなると絶対的媒介とはつまり折衷主義が絶対化されたようなものに他ならなくなるだろう。
絶対媒介とは、無媒介者をどこまでも飽くまでも媒介せねばおかず又媒介し得るということで、決して一切の無媒介者を媒介して了ったということではないのかも知れない。但し之はあまり信じられない推測だ。なぜなら無媒介者もそのまま媒介されるというのが、つまり一般に事物の否定即肯定的な媒介が絶対的媒介だというのだから、これから媒介されるだろうものと、すでに媒介され終ったものとの間に、何等の有的な区別があるわけでもあるまい。して見ると、媒介という機能は無媒介者へ向かって媒介しつつ進んで行く現実的なプロセスではなくて、之から媒介することは即ちすでに媒介して了ったことだというように、現実の時間上の条件を抜きにして理解されたものになる。そういう意味での絶対的な媒介ならば、之は弁証法的なものの反対だということに過ぎないので、この絶対媒介によって論理の弁証法的本質を説明しようとするのは、全く矛盾したことになるわけだ。尤も絶対弁証法ならばそれでもいいかも知れないのだが。
媒介という論理的機能で以て、田辺博士の社会や歴史が説明されるわけであったが、併し同時に、或いはそれより先に、媒介なるもの自身が時間的に又やがて歴史的に説明されねばなるまい。如何に夫が絶対媒介であっても、媒介機能のプロセスの時間条件を考えるならば、媒介された直接者(即ち以前には直接的であったが今ではその直接さが媒介されてその限りでは直接者でなくなったもの)と、まだ媒介されないもの(即ち媒介されると夫が以前に直接者であったということが媒介的に判るべきもの)との区別は、重大となるに相違ない。論理には単なる所与は許せないと云うのであり、所与も絶対的には媒介されたものだと云うのだが、併し所与として媒介されない内の、所与でさえないものこそ、やがて所与として媒介されるだろう処のものだ。
論理は尤も時間を何等かして超越しているだろう。その限り媒介も亦時間を抜きにして考えていいと云われるだろう。一応そうなのである。一応そうであるだけではない、それであればこそ、論理は時間との接触を問題にしなければいけないわけだ。つまり論理は時間を超越しているかも知れないが、時間も亦従って論理を超越しているのである。時間は論理の限界に横たわっている。もし論理の媒介機能が形而上学的な意味でない意味に於て絶対的なら、この時間をも媒介しなければなるまい。無論その結果時間が悉く論理にそのまま否定的に肯定されて媒介され尽くす心配はない。ただ、論理の媒介機能も亦時間的条件を有つということ、即ち現実的なプロセスと考えられる必要があるということ、になるのである。処でこうなると絶対媒介も時間的に制約された媒介機能となって、もはや絶対的ではなくなって了わざるを得ない。――もし絶対媒介なる論理的機能をこういう風に、云わば認識論(認識の歴史的時間的発展)風に考えないならば、絶対媒介による種の論理も、無の論理と全く同様に、現実的事物の実地的処理とは無関係な、その意味で形而上学的な、解釈の体系に止まらざるを得ないだろう。如何なる現実の出来事も、ただの表現のようなものとなって了って、本当に論理的な(矛盾媒介的な)性質を失って了うだろう。実践的行為も単に表現的行為というようなものになって、現実処理活動としての論理と実践との統一などは問題になり得なくなるだろう。
だが無の論理の論理としての欠陥は、その神秘的直接者――無――を想定したという点よりも、寧ろ夫があくまで事物の意味(夫は表現というものに固有だ)の解釈のための論理だということであった。高橋里美教授の絶対静止の全体哲学も、之の有と無を入れかえただけで、同じく解釈哲学に終止している。媒介が絶対的であるかないか、十全であるかないかより先に、その論理の媒介なるもの自身が、一体解釈のための媒介なのか或いはそうでないのかが、吾々にとっては第一義的な問題でなくてはならなかったのである。仮に媒介が十全であればあるだけ論理機能として十全だとしよう。だがその十全な理論も単なる意味解釈のための論理であれば、表現的なものではあっても論理的なものではない。この点は却って田辺博士が西田哲学其の他に就いて詳しく説いている処だ。
併しよく考えて見ると、単なる論理的媒介=つまり単なる絶対媒介は、それが論理的媒介として止まる限り、云わばインターロジカルなもので、単なる意味の解釈とあまり違ったものではない。媒介は推論によって云い表わされるのだったが、推論としての推論は、どこまで行っても解釈上の辻褄の問題でしかない。そこで博士はこの媒介による外界=自然界の成立を説明する必要を切実に感ずるのである。実際吾々の具体的な推理は、論理的媒介は、外界の感覚乃至知覚に経験的な根拠をおいているのであり、この外界のこうした媒介がなければ、認識は一切主観的乃至精々インターサブジェクティヴなものを出ない筈だ。解釈哲学と本当の論理体系とを区別するものは、この外界=自然界の成立に対する組織的評価の如何に関わる。
処が例の絶対媒介はこの外界乃至自然界に対してどういう風に関係するか。田辺博士はここでカントに倣って図式論を持って来る。というのはカントは時間(之はカントによって内官の形式と呼ばれている)の規定から認識の図型を導き出したが、田辺博士はこの時間に更に空間(カントは之を外官の形式と見た)を媒介せしめて、時間空間の規定による図式論を提案する。之を世界図式と呼ぶのである。空間の種的媒介によるこの世界図式論によって、外界乃至自然界は論理的に、弁証法的に、絶対媒介される。種の論理の絶対媒介の内容はこの世界図式論に他ならぬというのである。
無の論理に於ける媒介に較べて、種の論理に於ける媒介機能が十全であることを、吾々は充分認めなければならないだろう。それと同様に、カント式な(或いはハイデッガー風の)時間図式に較べて種の論理の世界図式の方が、図式として優れていることには殆んど問題がないようだ。だが問題はこの図式論なるもの自身の内に存する。――この図式は云うまでもなく媒介の図式である。少なくとも外界乃至自然界の媒介のための図式であるに相違ない。処で再び先程の問題に帰るのだが、この図式によって媒介される以前の自然と、媒介されて了った後の自然とは、一体同じか同じでないのか。如何に外界の否定的対立を肯定的に媒介するにしても、世界図式は依然として一つの図式であり、物そのものにぞくするものではなくて主体(やがて主観や自覚の主となる)にぞくするものだ。して見るとこの際の絶対媒介なるものは外界を否定即肯定する道徳的実践行為の主体にぞくするものに他ならない。では自然は初めから主体と媒介されたものか、それとも主体の媒介以前に自然はあったか。そうしたクロノロジーを吾々は問題にする権利を有つと思う。
こんな風に云うと、夫は自然科学の成果をば、より根本的な媒介者としての論理の世界に混入するものだ、と云って非難されるだろう。確かにそうなのである。論理的なプロセスを考察するにも、吾々は常に現実の時間的歴史的プロセス(之を自然科学は仮定している)を条件としなければならないのだから、自然科学的認識は論理と混淆し、それこそ媒介されているのだ。自然科学の成果は反哲学的なものとして、哲学は之をそのまま否定的に肯定する、というような媒介を吾々は信用しないのである。なぜならそういうやり方では吾々は実際的に天下の一物をも責任を以て左右出来ないからだ。――田辺博士は直接な所与としての自然というものを、論理上の神秘物と見て之を認容しようとしない。と云うことは、博士によると自然なるものはいやしくも夫が認識論や論理学で取り扱われる時は、必ず論理や認識によって媒介されたものでなければいけないというのである。これは、認識は常に認識のみを認識する、論理は常に論理だけを媒介する、という仮定に帰すると云わざるを得ないだろう。そうなれば論理絶対自律主義だ。
では論理の媒介に対する無媒介な直接態を仮定するそうした神秘主義(西田哲学の無も唯物論の物質も夫だという)をどうしたならば避けることが出来るか。論理外のものをも論理外のものとして論理化す処の例の絶対媒介しかないではないか、というだろう。併し論理が論理だけで絶対的な自律性を有とうということが、元来無理なのである。そういう企ては丁度、観念だけで世界が出来ていると考えれば甘く簡単に行くというわけで観念論を採用すると云ったようなやり方の、一つの論理学的ヴァリエーションに他ならないのであって、そういう意味に於て論理が絶対化され得ないということこそが、弁証法の弁証法たる所以だった。論理的媒介は願わくば十全であり絶対媒介であれかしだが、その絶対媒介は事実上の時間的なプロセスとして、自然乃至実在を着々耕して行くことでなければならぬ。媒介される筈のものと媒介されたものとはこの時初めて、認識論上の過現未の区別を与えられる。認識にもテンスが大切だ。――直接態の所与のもつ神秘性を解消するものは、田辺博士の絶対弁証法的種の論理による媒介の絶対化ではなくて、弁証法的(別に絶対的でなくてもよい)な媒介過程の相対的な進捗の実現そのものに他ならないのである。絶対弁証法に於ける種の論理の思弁の多くが、案外この論理に於けるテンスの無視――之は一切の非弁証法的な思想の共通特色だ――から来ているかも知れない、と私は思う。
右のように考えて来ると、唯物論(唯物弁証法)に於ける模写乃至反映というものの意義と権利とが、改めて理解出来るのではないかと思われる。田辺博士は、唯物弁証法のテーゼに反して、模写乃至反映と弁証法とは到底両立しないと主張する。なぜかというと、模写乃至反映に於ては模写乃至反映されるべき物質なるものが直接的な所与として弁証法的媒介の前に神秘的に仮定されるからで、そこで博士は之を唯物論の形而上学化と呼んでいるのである。だが今更云うまでもなく唯物論による模写や反映は、同一哲学的な夫のことではない。そういう形而上学的な一遍にして永劫な写しは実践的な唯物論と弁証法との関わり知らない処のものだ。そして唯物論的弁証法は論理以前の所与などは知らない、所与となった限りすでに論理的に媒介されたものだ。ただ絶対的弁証法や観念弁証法と異る点は、自然や物質的存在の凡てが、そうした(絶対媒介された)所与にすぎぬという風には考えないというだけだ。――で一体模写説はどこが形而上学的で同一哲学的で神秘的なのだろうか。之に反して種の論理に於ける論理の超時間的即ち超物理的な絶対化こそ、形而上学化でなければなるまい。絶対弁証法なるものはその意味に於いては、正に反弁証法的弁証法に過ぎないだろう。
田辺博士は十全な意味に於ける自然なるものを認めようとしない。或いは寧ろ自然をそういう風に考えないことが却って自然に対する十全な見方だというのだろう。つまり認識主体や論理的媒介がまだ時間的に発生しない以前の資格に於ける自然、そうした裸の自然は之を認めないらしい(『思想』百六十一号―「古代哲学の質料概念と現代物理学」)。自然はどのような場合でも主体との媒介なしには考えられない。そこで認識論上博士はイデアリストでもなければマテリアリストでもなくて、云わばマテリオ・イデアリストという折衷主義者として現われる。博士は実践を結局道徳倫理に限定していると云ってもよい程の道徳主義者であるが、理論的認識に於ける理論的及び行動的実践の役割についてはあまり熱心ではないらしいので、認識論上に於ける実践の有つ意味の広さに就いての唯物論乃至弁証法の云い分を一向取り上げようとしないが、処が夫だけではなく博士は、認識論上マテリオ・イデアリストであるが故に存在理論の上に於ても亦、マテリオ・イデアリストでなければならぬと主張することになるのだ。博士は唯物論者ではなくて存在論者(唯物論と観念論との長を取り短を去ったもの)だというのである。――博士は存在を専ら認識からしか考えない。之は勿論田辺教授だけの特色ではないが。
田辺博士は唯物論(実は史的唯物論に他ならないが)に対して云っている、「私は唯物論を以て、絶対媒介の論理の立場から観て、恰も唯心論の反対の抽象に纏綿せられると思惟せざるを得ない。弁証法的基体としての所謂物質は、実は種の一般化であって私の意味に於ける類ではない。……それが個の否定的対立を媒介として類の絶対的統一に止揚せられた特殊即普遍の絶対否定態でないことは明かである。……種は絶対媒介の立場では、飽くまで媒介の否定契機に止まらなければならないのに、それ自ら実在化せられて、独立なる実体となる結果、それに否定的に対立するものとしての個の独立なる主体性を滅却する。従って種と個との否定的統一としての類の絶対的全体性も認められなくなる。」云々。
この「種の論理」的な云い回しを翻訳すると、つまり個人(個)の代りに階級が主体となり、民族国家の代りに抽象的なインターナショナリズムが現われ、個人のイニシャティヴと国家の絶対的全体性が無視される、という点が唯物史観の欠点だと云うような意味になる。之ならば寺内陸相でも小林一三氏でも云いそうな常識だろう。――田辺哲学で意味のあるのは、だからどうしてもその論理学(さし当り種の論理)の純粋な形態だろう。処が夫までが一種絶対主義的な純粋論理主義のように見えるのだった。そうすると之は、弁証法の観念論的失敗の可なり堂々たる形態の一つのように思われてならぬ。
田辺博士は論理の本質を推論に見た、媒介の機能に見た。凡ての観念論的論理学は歴史的にそうだったからである。だが必ずしも之を更に実験と検証の機能に於て見てはいないのである。解釈の哲学と雖も、或いは十全なる推論と十全な媒介とを僣することが出来るかも知れない。だが実際的な哲学でない限り、存在の実践的な変革の哲学でない限り、唯物論でない限り、実験と検証とによる実地の実証を装うことは出来ない。西田哲学をも田辺哲学をも、高橋哲学をも、又ハイデッガー其の他の哲学をも一束にして、唯物論と峻別するものは他ならぬこの点だ。――単に実践的であるかないか、道徳的・行動的・であるかないか、の区別ではない。その実践なるものが認識理論上十全な価値を認められているかどうかが、岐れ目である。種の論理は無の論理や全体的絶対静止の論理に較べて、どの程度に本質的に、認識の実験的・検証的・な中核を射貫いているか、私には非常に疑問なのである。
一
凡ゆる哲学者・心理学者・論理学者・の異論に拘わることなく、吾々は、論理をば、意識をして意識たらしめる処の精髄だと考える。尤もこう云っても、意識が成り立つためには、何か意識の統一を与えるアプリオリが論理的条件としなければならない、などということを主張するのではない。そういうカント風の命題と今はさし当り何の関係もない。意識を知情意に三分するのが便宜であるなら、此等知情意の各々を成立させる骨髄が、取りも直さず吾々によって論理と名づけられる処のものだ、と云うのである。論理は云わば意識の「精神」である。――感情や意志にも論理が在るか。それが在るということに就いて吾々は已に色々の機会に述べてあるから茲では繰り返すまい(拙著『イデオロギーの論理学』を見よ)。併し何故吾々はそのようなものを特に論理と呼ばねばならぬのか。だが何故人々は論理学の教科書で教えるものだけを論理と考えねばならないのか。優れた芸術家にあっては、感覚はそれ自身の内部的形成力によって、一義的で必然的な作用連関を張るのだし、有力な政治的実践家は、行動の無限な諸作用の内から、同じく一義的で必然的な連関を見出すのである。この連関は例えて云えば数学的直観のように一義的で必然的でなければならないのである。之が吾々の論理である。ただ理論だけは、それだけが自分の論理を自覚しているという点で、特に特徴的に論理的であるに他ならない。理論はまだ必ずしも論理ではない、理論の骨髄が初めて論理なのである。――で論理は意識の精髄である。
だが論理という言葉に劣らず、意識という言葉も亦、この場合、使い方が非常に面倒である。所謂意識に関係した専門家達――心理学者・現象学者・哲学者・其の他――は、殆んど凡て、結局に於て、意識を個人的意識として想定している。と云うのは、意識内容が如何に超個人的な対象に向かおうとも(それは当然なことである)、意識作用の現象する面は、個人的意識の現象面の外へは出ないと考えられる。そればかりではない、純粋意識とか先験的意識とか呼ばれるものは、個人的意識で無ければこそ純粋であり先験的であると考えられているが、それさえ実はそうではない。経験的意識でないからと云って、夫が個人的意識からの比論や拡大であることを妨げない。こうした先天的な意識の概念は、個人的意識から単に経験的という規定を脱落させるという過程によって、初めてなり立った意識概念に他ならない。こういう何かの意味での超個人的意識は、実は却って、経験的な個人的意識のために用意されたもう一つの個人的意識の概念に過ぎないのだ、ということを忘れてはならない。――実際、意識を世界や存在の統一的な説明原理・出発点・としようとすれば、そして之が所謂観念論の軌道に他ならないのであるが、意識の概念は結局に於て個人的意識の概念に帰着する他はないだろう。意識を哲学的な説明原理としようとする主な動機は、意識が明白感を与え得る唯一つの存在だと考えられる処にあるが、この明白感は、自分自身という個人の意識の内にでなければ、求めるべくもない。意識を以て実在の原理としようとするこの種の観念論が、個人主義のための哲学を結果することは、だから不思議ではない。――さて吾々は今、意識をこのような云わば心理学的・現象学的・先験論的・な範疇として理解してはならない。意識の概念は日常的・常識的には、もっと哲学的な範疇にぞくするものとして通用しているのが事実である。この事実の内に実は、吾々の問題の始まりが在ったのである。
論理が所謂論理的でないもの――感情や意志など――に於て却って自分を見出したように、吾々の意味する意識は、却って意識的でないものに於て自分を見出す性質をもっている。意識は却って意識ならぬものに於て成立する。一口で云えば意識の概念は(論理の概念もそうであったが)事実上、弁証法的なものなのである。と云うのはこうである。意識はもはや例の個人的意識ではない、従って又――前の推論によれば――何か超個人的意識というものでさえない。意識は、その内容に関わる限り、却って意識以外のもの――夫が何であるかは後に決めよう――によって、従って云うまでもなく個人的意識以外のものによって、制約されて初めて意識であることが出来る。夫を形式から云えば、即ち形式主義的に見れば、意識は云う迄もなく意識であるが、之をその内容の規定形態から云えば、即ち資料的に見れば、意識はもはや必ずしも意識であると限らない。意識はそれの本性上、何か意識以外のものに帰着し得ねばならないのである。無論意識は意識以外のものと一旦区別されないのではない、だが一旦区別されて夫が独立しようとする瞬間に実は夫はすでに単なる意識としての独立の性格を脱却して了う。日常吾々が用いている意識の概念は、理論的に分析して見ればこういう弁証法的な矛盾を孕んだ概念に他ならないだろう。個人的意識であるならば――それが超個人的意識である時でも矢張り――意識としての性格を飽くまで脱却することが出来ない。だから、このような概念によっては意識は全く自己同一的な固定した独立物であらざるを得なくなるだろう。この種の意識概念――個人的意識――が、吾々のものとは異って、如何に非弁証法的・機械論的・であるかを注意しておくことが必要である。
さて吾々のこのような概念として把握された意識、その意識の精髄が、論理だというのである。
二
論理に就いて説明するためには、意識の側から問題を進めて行かねばならぬ。
意識はその内容に関わる限り意識以外のものに帰着する、と云ったが、この意識以外のものとは何であるか。少なくともそれはすでに意識の性格を持たないものである筈である。だから例えば、社会心とか民族精神とか群集心理とかいうような心や精神や心理でないことは初めから明らかである*。社会心理学や民族心理学の特色は、元来内面的で内部的と考え慣されている所謂意識を、出来るだけ外面的・外部的・なものに帰着させようとする努力にあるが(そしてなぜ意識を外部的なものに帰着させねばならなかったかが吾々にとって意味があるのだが)、このような心理学さえ、まだ吾々の問題の解決の糸口を提供するものではない。では意識以外のものとは何か。
* ルソー以来の一般意志(volont
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rale)とかマクドゥーガルの集団心(group mind)とかいう社会心は、個人的意識が個人を踏み越えねばならぬということ、即ち又夫が個人的意識を越えねばならぬということ、の表現である。だが茲でも意識が結局個人的意識という範疇によってしか理解されていないから、この踏み越えは成功していない。だからこの種の概念は要するに曖昧であらざるを得なかったわけだ。
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rale)とかマクドゥーガルの集団心(group mind)とかいう社会心は、個人的意識が個人を踏み越えねばならぬということ、即ち又夫が個人的意識を越えねばならぬということ、の表現である。だが茲でも意識が結局個人的意識という範疇によってしか理解されていないから、この踏み越えは成功していない。だからこの種の概念は要するに曖昧であらざるを得なかったわけだ。日常的な、生きた、弁証性を有った、広範な哲学的範疇として――心理学的・現象学的・先験論的・範疇としてではない――意識が理解される時、意識以外のものは、哲学的範疇としての物質である*。心的・観念的・精神的・等々と呼ばれる意識的なるものに対立して、物質的なものが、意識以外に横たわる。
* 物質(又は質料)の概念は勝義に於ける存在そのものの概念である。存在するということが物質という意味である。尤もこの場合存在をエレア風に、固定し静止する処に成り立つと考えてはならない。之は存在をイデア(形相)――質料の反対――として見ることであるが、こうすれば、元来運動することを存在の本質と考える存在概念たる物質は、存在・有ではなくて却って無と考えられる。「プラトン的質料」(物質)は無であった。第一部一を見よ。
意識は意識である、それは無論物質から区別される。併し意識は物質から完全に切り離されて了って独立しているのではない、それならば心理学的・現象学的な範疇としての意識になる。吾々の意識はこのような機械論的な概念ではなかった。意識内容――現象学の術語でいう「内容」などを考えてはならないが――は、内容の形態――ただの形式ではない――を有っている。処がこの形態を規定し決定するものは、却って意識それ自身ではなくて意識以外に横たわる物質なのである。だから意識は、その内容の規定形態から特色づければ、却って物質に帰着するのである。意識が意識以外のものに帰着する、と云った所以が之だ。――人々はよく云う、物質(存在)が意識を決定するということが嘘でないにしても、物質の方だけが意識を決定するとは限らない、逆に意識も亦物質を決定するのが事実ではないか、と。だが意識が物質(存在)を規定する仕方は、部分的・断片的・であって世界法則的でないのに反して、物質(存在)は意識の内容を形態的に決定することが出来る。物質だけが普遍的に・範疇的に・世界法則的に・一般的に・事物を決定する。この関係は相互関係でありながらなお不可逆的である。終局に於て存在(物質)が意識を決定すると云われたのはこの意味である。
意識と物質とは単に機械的に区別されるのではない、意識は物質に於て却って自分自身の内容の規定者を見出し、又物質は意識に於て却って自分の特殊の形態を見出す。意識はただの意識ではなくて、物質によって決定された意識、その内容形態を物質によって生産された処の意識、物質的に規定された意識である。意識は下層建築としての物質的存在の上に初めて築かれる上層建築・「イデオロギー」・なのである。例えば心理学者や現象学者は、彼等の意識現象や純粋意識と意識以外のものとの関係をどう考えているか。意識は意識外のもの――対象・存在・其の他――への志向性を持つことによって物理現象から区別される。だが両者の関係はこの場合は、単なる区別にしか過ぎない、又は、両者の存在上の関係は少しも記述・説明・され得ない(と云うのは存在上の関係の記述は即ち説明というものに他ならぬ)。与え得るものは両者の概念上の区別か、そうでなければ高々両者の非存在的――「本質」的・先験的・――関係でしかない。意識は、心理学者や現象学者(及び其の他の観念哲学者・id
ologue 自身)によっては、その存在としての形態に於て、即ち取りも直さずイデオロギーとして、捕えられるべくもない。――意識を物質との連関に於て、存在との関係に於て、存在と存在的関係にあるものとして、存在として、把握する時、意識はイデオロギーとならざるを得ない。之は広く知られている事柄だ。それでは次に、意識を物質から区別する特徴は何か。両者の区別と両者の交互浸透とは判ったとして、この両者を性格的に区別する特色は何であるか。但し弁証法的なものに於ては二つのものの間に静止的な絶対的な境界線を引くことを許さない、だから形式論理で云う種差や夫に関係した徴標は今の問題ではない、問題は今事物の特徴に関わる。――思うに夫は、規範性(価値性)の有無である。イデオロギーは本来の意味に於ける規範性を有ち、之に反して物質的存在は夫を持たない。
物的生産関係――今の場合之こそ物質的存在である――が矛盾を持つ、とよく云われる、素よりこの言葉の意味は正しい。併しこの矛盾とは、論理的規範としての真理価値からの乖離を意味する論理上の矛盾のことではなくて、物質的存在がその内部的必然性によって展開を余儀なくされる場合の物質的根本動力を、論理的な範疇を借りて云い表わした一表現に他ならぬ。厳密に云えば論理上の矛盾ではなくて存在上の矛盾なのであるが、之を云わば仮に論理的に云い表わしたものが、この「矛盾」ということの意味である。そうする他に云い表わしようが無いからだ。社会機構には、規範乃至価値からの乖離を意味するような、正常な意味での歪みや正不正はない。この点に潔癖でないと、結局人々は社会主義をば倫理的根拠からだけ支持することになるだろう。なぜなら論理的評価は直ちに倫理的評価と結び付いているからだ。生産関係という物質的存在の存在上の矛盾は、論理的矛盾にまで翻訳され転化され反映されて初めて、規範的性質を帯びることが出来、初めて虚偽ともなることが出来るわけなのだ。――だからイデオロギーだけが本来の意味での規範性・価値性・を持ち、之に反して物質的存在はそれを持たないのである。
だがイデオロギーのこの規範性・価値性・は何か不可解な神秘力によって忽焉としてイデオロギーの上に天下ったのではない。イデオロギーを物質的存在に対立して特色づけたこの規範性・価値性・も亦、機械論的に孤立化されて理解されてはならぬ。已に物質的存在の存在的矛盾は、イデオロギーの論理的矛盾として、翻訳・転化・反映・されるのであった。イデオロギーを物質から区別するこの特徴そのものが、又物質の所産であることを注意すべきである。――規範的・価値的・なものは、非規範的・非価値的・なものから発生する。意識は物質から発生する。意識と物質とを区別するものも亦、物質から発生する、というのである。
意識=イデオロギーと物質=存在との、弁証法的連関は一応右の通りである。
三
イデオロギーという言葉には様々な意味があるように見える。併し夫は一通り、已に与えたイデオロギー概念の説明を用いることによって容易に配列出来る。
第一にイデオロギーは物質的存在の上に立つ上層建築を意味した。処がかかるイデオロギーの性質として規範性・価値性・が挙げられた。処で物質的存在たる生産諸関係に矛盾(但し存在的矛盾)がある限り、夫はこの上層建築へ矛盾(但し論理的矛盾)を或る意味に於て反映せざるを得ない。価値性一般がなぜ茲で特に論理によって代表されるかは、論理なるものの説明から判ることだ。或いは二つ以上のイデオロギエンの間の対立闘争として、又は某イデオロギーと物質的存在との外部的撞着として、又は一イデオロギー内の理論的命題の内部的自己撞着として、この存在上の矛盾が論理的に即ち価値的に反映するのである。今、ブルジョア社会に於て尖鋭化した生産関係の矛盾が支配している時、支配者の支配的イデオロギーはこの存在上の矛盾を隠蔽しようとする、そして又そのためには更に自分のもつイデオロギー自身の論理上の矛盾をも隠蔽せねばならないのは尤である。この場合のイデオロギーはであるから、模写説的に、そして又構成主義的に、――一言で云えば Abbildtheorie 的に――、虚偽とならねばならぬ必然性を有つ*。ブルジョア・イデオロギーはかくて、虚偽意識(虚偽を意識することではなくて、虚偽なる意識、即ち虚偽を真理と意識する意識)に他ならぬ。で虚偽意識がイデオロギーの第二の意味である。
* Abbildtheorie は吾々にとっては Imitationstheorie から区別されねばならぬ。前者はこの意味で、もはや模写説ではない。反映の労作なくして反映はあり得ない。「実践的模写説」と云ってもよいだろう。
虚偽意識としてのイデオロギーは、夫を一つの所産とする物質的下層建築に矛盾がある限り、他群のイデオロギーと対立闘争すべき必然的な運命の下に置かれている。そして夫がこの他群のイデオロギーを一つの虚偽意識として、之に反して自分の虚偽意識を真理として、意識するのは当然である。この意識を裏返せば、この他群のイデオロギーの方は正に真理意識となる。茲に第三に真理意識を意味するイデオロギーという言葉が、事実上使われねばならぬ必然性があったのである。プロレタリア・イデオロギーとはかかる第三の意味でのイデオロギー、真理意識の意味で使われる言葉である。
同じイデオロギーという言葉によって、一見甚だ距離のある、又は直接に矛盾さえする諸内容が理解されているという事実は、何もこの概念が曖昧であることを意味するのではない、それ処ではなく却って、この概念の弁証法的性質が如何に自然的に現代社会人の言葉の内に把握されたかという事実を示すものである。現にこの弁証法的連関は、今吾々が見た通り必然的であったので、少しも曖昧や多義なのではない。――意識=イデオロギーは一つの弁証法的存在である。だからこそ夫は時に真理意識であり、時に又その反対物として虚偽意識である。真理と虚偽とは意識に於て、イデオロギーに於て、二つの統一による対立としてしか存在しないのが事実だ。論理そのものが如何に弁証法的であるかということを、茲からも重ねて窺い知ることが出来るだろう。
イデオロギーが物的生産諸関係から発生する上層建築であることから、それの政治的特質は当然である。物的生産諸関係は経済的範疇に属する、併しこの諸関係が奴隷的・封建的・又は資本主義的である時、搾取の機構に対応するものは支配である。それが政治である。経済的範疇は上層建築イデオロギーとしての政治的範疇を決定する。尤も政治(乃至法制)としてのイデオロギーと、文化形態としての所謂イデオロギーとは、段階を同じくしない。前者は諸文化形態としてのイデオロギーを決定する処の下位イデオロギーとして働いている。だがそれであればこそ所謂(文化形態としての)イデオロギーは、政治的に決定されざるを得なくなるわけである。所謂(文化形態としての)イデオロギーは単に、直接に物的生産関係によって決定されるばかりでなく、そのより具体的・統一的・な規定に際しては、より多く、政治としてのイデオロギーを通して決定されるものだ。イデオロギーは、であるからもはや単純に上層建築や真理意識や、虚偽意識ではなくて、正に、政治的規定の下に具体化され統一された処のそうしたものだ。イデオロギーはかくて、階級イデオロギーとなる。この際意識は階級意識として特色づけられる。――さてこの時、意識の精髄であった処の例の論理は、政治的・階級的・性格を有って来る。否、政治的・階級的・性格を有てないような論理は、恐らく初めから意識の精髄ともなることが出来なかっただろう。蓋しこの場合、社会階級の対立は、論理的価値の対立の原型に他ならぬものなのである*。
* 階級意識とは階級に基いて発生する処の階級的イデオロギーである。階級という複合主体が有つ心理学的な個人的意識のことでは無論ない。なお階級意識の機能が何であるかに就いては、ルカーチの『歴史と階級意識』(一九二二)及び之に対するルダスの批判を見ればよい。
四
意識を――当然そうすべきであるが――イデオロギーとして取り扱う論理を、吾々はイデオロギー論又は意識論と呼ぼう。之こそが真に吾々の「意識の問題」なのである。現代の最も優れた観念論哲学者も、輓近の学会の変態性のために不当にも「意識の問題」が取り残されているのを指摘している。吾々の問題はだが、そのような個人的意識に帰着したものの問題ではなかった。吾々にとって意識の問題は、存在の上層建築の全領域に渡るイデオロギーの問題であった。様々の観念論的・個人主義的・哲学が問題を「意識」へ集中しなければならなかったのに対応して、吾々は哲学を、他の意味に於て、「イデオロギー」論へ集中する。と云うのは、或る種の方法論を意味する論理学としての哲学は別として、存在の特殊な一領野・寧ろ存在の観念的な一半・の一般的な検討を分担する処の哲学として(併し決して観念論者のように之を存在全般の検討の出発点とはしないが)、とりも直さず吾々はイデオロギー論を必要とするのである。重ねて云おう、茲では意識がただの意識として取り扱われることは出来ぬ、意識は物質的存在との一般的な連関に於て、而も物質的存在とは異なるその特質に於て、一般的にそして普遍的に論究されねばならぬ。――イデオロギー論は局処的な一理論ではなくて、或る意味の哲学そのものにならなければならない。
尤も、このように重く且つ広い意味のイデオロギー論は、まだ存在していない。必ずしも事実上夫は、まだ至極狭い視角から、而も夫のごとく一部分しかが展開されていない。だからイデオロギー論はかつてその名が甚だ喧伝されていたにも拘らず、実際はまだ単に局限された位置しか認められていないことを忘れてはならぬ。――それであればこそ吾々は今、イデオロギー論の課題を問題にしなければならないのである。吾々はイデオロギー論をどんなものとして計画すべきであるか。
イデオロギーを下層建築から区別する特徴は、単に夫が下層建築に対する上層建築であるばかりではなく、夫であるが故にイデオロギーが規範性・価値性・を固有するということであった。だからイデオロギー論の中心は云わばイデオロギーの価値論(Axiologie)のようなものの内になくてはならない。イデオロギー論は例えばイデオロギーの「論理学」やイデオロギーの「美的価値論(美学)」などを夫々の中心とする総体のことでなければならない。だがこう言うと又色々の説明が必要になる。
第一に、イデオロギーに関する価値理論は、凡そ価値なるものが何であるかを議論するのではなくて、何に価値があるかを決定するもの、価値評価の機関としてのオルガノン、でなくてはならないことを注意しよう。その意味に於てこの価値論は実践的政策にぞくするのである。だから現代のように――そして現代に至るまでの殆んど凡ての時代がそうだったように――、対立的なイデオロギーの存在が避け難い場合、例えばイデオロギーの論理学は、此等イデオロギエンの真実さや虚偽性を、批判し暴露することによって、一つのイデオロギーの止揚と他のイデオロギーの展開とに資せねばならぬ責任を有っている。それ故、イデオロギーが階級イデオロギーである時、この論理学は、階級の政治的活動の観念的な一環として機能せざるを得ない。イデオロギーの論理学はこの時、理論による闘争(但しかの「理論闘争」のことではない)の武器とならざるを得ない。それは理論の政治的政策の諸原理を提供する。このイデオロギーの論理学が、先験哲学的な所謂「論理学」――その意味での「認識論」・「方法論」・「科学論」・其の他――とどう別であるかは、だから已に明らかなことだ。之がプラグマティズム風の研究速進術とどれだけ隔っているかも亦説明を必要としないだろう。
第二に併し、例えばイデオロギーの論理学とイデオロギーの美学とはどう区別されどう関係するのであるか。吾々はイデオロギーの論理学・宗教哲学・云々と之に続いて竝べようとするのか。そういう例の「価値の体系」とでもいうものをどこからか持って来なければならぬのか。之に対する答えは割合簡単な筈である。――吾々は論理的価値(理論的価値)と美的価値(芸術的価値)とを決して混同出来ない、云うまでもなく両者は一応区別される。だがそうかと云って、両者は又決して越えることの出来ないギャップによって隔てられた無関係な二つの独立価値ではない。価値を、それ自身の自律によって成立している現状という断面に於てしか考察しない先験主義、このような静止観的な価値論に頼るのでない限り、両価値は単に夫々勝手に独立している二つの価値ではあり得ない。価値が天下って来るなら両者は全く無関係であるかも知れない。否無関係であらざるを得ない。処が吾々によればどの価値も云わば土壌から生えて来た樹の分枝なのである。湖の水面に頭を現わした樹の枝はバラバラに独立しているが、併し誰も水面だけを見てどの枝も独立だとは結論しない。枝は夫々別であるにも拘らず、共通の幹か根を持っている。それは水面の下に見えない下部構造を有っている。イデオロギーの諸価値は斉しくこの見えない下部構造から発生して来た枝であった。下部構造はなる程水面からは見えない。だから夫は価値ではないものと考えられる。処が価値はこの価値で無いものから生じて来たのである。もし「価値の体系」を求めるならば、吾々は価値の枝を天上の方へ向かって攀じ上る代りに、水面下まで伝って降りて見なければならない。そこに諸価値の叢源がある。価値はここから、この下層建築としての物質的な社会機構の、所産・反映・として転化・発生・して来るのだ。だから論理的価値も美的価値も元来この物質的なるものによって体系づけられているのである。ただその所産のされ方・反映の仕方・転化発生の条件・の相違が、この体系に於ける両者の位置関係として、二つの価値の相違を与えるのである。この相違を明らかにすることは、少なくともイデオロギー価値論の一つの課題として計画に加えられねばならない。なぜなら所謂「価値の体系」の問題は、こういう――イデオロギー論的――仕方に於てしか解決の道を持たないからだ。
第三に併し、価値一般がなぜ特に論理的価値によって代表されるかを見ねばならぬ。社会的歴史的存在の物質的下部構造に最も好く正確に対応する性質を持っているのは、多くの価値の内で特に理論的価値である。すでに歴史的社会の物質的構造が、矛盾という元来論理的範疇にぞくするものによって、非常に効果的に特徴づけられたのを見た。実際例えば、歴史的社会的存在に於ける危機はそのまま、論理的な批判に対応するだろう(Kritik)。こういう意味に於て、凡て現実的なものは凡て論理的なものである。美的・倫理的・又は宗教的・価値さえが、現実との取り引きに這入る時――実際そうしなければその価値は実現され得ないが――真理と虚偽という要するに論理的な価値の尺度に帰着する。人々は芸術・人格・信仰・の「真理」を口にする、それは何故か。他でもない、この論理的価値が歴史的社会の物質的構造を最も正確に反映し、従って之が価値一般の成立事情に最も忠実であり、従って又之が価値一般の特色を最も性格的に代表するから、なのである。――だがそう云うことは何も、或る人々の恐れるような主知主義を意味しない。主知主義は結局合理主義に帰着するのだが、処が吾々は現に、論理的価値すらが純粋論理以外のものから、この非合理的なものから、生じて来ねばならぬと主張していたのである。論理はイデオロギーの・意識の精髄であった、論理的価値がイデオロギーの規範性・価値性・一般を代表するのに実は何の不思議もなかった筈である。
イデオロギー論の中心はその価値論に、そしてイデオロギーの価値論の中心はその論理的価値の理論――論理学――に、存する。意識学の最後の中心は論理学である。イデオロギー論の実践的・政治的・階級的・即ち又イデオロギー的・エネルギーはここを力源としている。イデオロギーはこうして初めて認識論のものとなる。
併し中心はものの凡てではない、イデオロギー論の肉体に相当するものはイデオロギーの「社会学」や之と裏表の関係にあるイデオロギーの「歴史学」のようなものだろう。論理的価値が価値一般を代表したと同様に、イデオロギーの社会学は今日、事実上、知識社会学によって代表されている。処がこの知識社会学の――社会学という「科学」が一般にそうなのであるが――殆んど唯一の真剣な関心は、知識社会学から如何にして実践的・政治的・階級的・イデオロギー的・勢力を去勢するかに向けられているようである。それは科学的であるためには価値評価の理論を含み得ないものだと主張する。併しもし果してそうならば、それは本来知識――それは一種の意識である――というイデオロギーの社会学ではあり得ない筈である。なぜならそれ自身価値評価することを本性とするものは、原理的に云って、他の同じく価値評価的な態度を以ってしか到達出来ない筈ではないか。現在のブルジョア的・僧侶主義的・実証主義的・歴史主義的・又ファシスト的・其の他の色々の諸知識社会学は、知識の内から論理の権能を放逐する。だから夫は中心を抜きにした知識の社会学であり、従って知識の社会学ではない(拙稿「知識社会学の批判」――『イデオロギー概論』の内を参照)。このことは宗教社会学に就いてもそのままあて嵌まる。信仰の真偽内容と絶縁した宗教社会学は少なくとも宗教批判の出来る社会理論ではあり得ない。知識社会学と宗教社会学とは、夫々の価値論を中心とすることによって、初めて有機的連関に這入ることが出来る(認識論と宗教学との結合を実証したデュルケムの労作はこの点に就て重大な功績をもたらした)。そうでなければ両者はバラバラな二つの社会学となり、高々文化社会学なる抽象的普遍に形式的に包摂されて並べられる他はないだろう。中心がない処に組織はない筈である。
知識社会学が価値的評価を除外しているということは、それが知識の歴史的発展の内から歴史的原理を除外している事実と一致する。之に反して吾々のイデオロギーの社会科学はイデオロギーの歴史的考察と離れては成り立つことが出来ない。蓋しイデオロギーの歴史的発展形態は、イデオロギーの論理――之がイデオロギーの「精神」であった――が実現する過程に、終局に於て照応するものに他ならないからである。一般に、論理に限らず、価値は歴史の所産である。
最後に、イデオロギーの「心理学」と呼ばれて好いようなものは、無用であるか。そこでは恐らく、元来心理学的でない処の意識が、強いて、何かの形で、心理学的に取り扱われる。心理学的範疇からすれば、意識は結局、個人的意識に帰着しなければならなかった。それ故ここでは、意識は却って何か超心理(
m
tapsychique
)的なものとなるか、社会心理学(“social psychology”)的なものとならねばならない。又は両者の結合として精神分析(”Psychoanalyse“)的なものとなる。之はそして精神病学乃至心理学へと連絡するだろう。――併し元来イデオロギーとは、多くの心理学で考えるような主観的で無形な個人的意識のことではない。それは意識が、歴史的社会的存在に於て、客観的精神として、云わば形態を取って現われた処の、観念形態・意識形態・即ち取りも直さずイデオロギーなのである*。だからイデオロギーの「心理学」は今の問題に取っては恐らく極めて有益な示唆に富んでいるだろうが、併し結局イデオロギー論的認識論乃至論理学の副次的な補助機関として利用されるに止まるだろうと想像する。* Geist(精神)はドイツ人――代表的ゲルマン人にとっては、主観的であるよりも寧ろ客観的なものであるように見える。だから之は心理学的と云うよりも寧ろ、客観的なものを主観にまで結び付ける意味で、解釈学的なものとして取り扱われている。――イデオロギーがどうしても社会心理学的・乃至民族心理学的に取り扱われにくい理由は、ここからも連想することが出来るだろう。
吾々は繰り返そう、それ自身価値評価的なものは、他の同じく価値評価的な態度に依るのでなければ、到達出来ないものだという原理を。イデオロギー論の中心は価値論にあった、価値はイデオロギー的――階級的――エネルギーの力源であった。だから今や、イデオロギー論自身、イデオロギーの性格を取らないわけには行かない。イデオロギー論は任意に何処にでも成り立つものではない。ただ特定のイデオロギーの上でのみ、イデオロギー論は課題をかかげ又解くことが出来る。イデオロギー論は階級性を持っている。之が単なる知識社会学のようなものに還元されることを許さない所以である。理論の党派性なるものは、一面このイデオロギー的階級性を意味している。処が他方、理論の党派性とは論理の首尾一貫に現われる客観的真実のことだ。でつまり一言にして云えば、論理そのものが階級性を持つのである。論理が客観性を持つための事実上の条件がここにあると云うのである。
[#改段]
第三部 科学論
かつてわが国でも唯物弁証法的創作方法というスローガンの問題が、緊急の問題になったことを読者は知っているだろう。ソヴェート同盟に於て、唯物弁証法的創作方法の代りに社会主義的リアリズム其の他の創作上のスローガンが掲げられねばならぬという主張が有力になったのに対応して、わが国でも之が同様に緊急な問題になったのである。
今は別にこの問題をどう決定しようというのではない。その場処でもなければ又私にその条件も備わっていないからである。だがその際、文学又一般に芸術に於て、世界観と方法(芸術だから制作方法乃至創作方法)との区別・対立・連関・が注目の焦点に持ち出された。そこを今注目しなければならない。
今日のわが国の平均的な文化水準から云うと、芸術の内でも一等一般的に興味を持たれているものは、云うまでもなく文学であって、之に較べれば、実際問題に面接するには一時も忽せに出来ない筈であるのに、科学の知識はずっと大衆の関心を唆ることが少ない。併しそれにも拘らず、芸術特に文学と、科学との間には、一般にいくつかの全く平行的に行なわれる根本関係が横たわっているのである。文学と科学乃至哲学との間の根本的な区別は重大であり、恐らく今迄組織的な視角から充分にこの区別は分析されていなかったのではないかと考えられるが、それと同時に、二つのものの平行関係に注目することも、新しい課題であると共に最も大切な観点なのである。
一体唯物弁証法的創作方法というような問題自身が、文学と科学とのこの平行関係に直接結びついているものなのだが、世界観と方法との区別・対立・連関・の問題こそは、この平行関係の最も著しい例に他ならない。そこで今、科学では、世界観と方法とはどういう関係に置かれているか。
それを見るために、まず世界観の側からその身辺を洗って見る必要がある。世界観は最初、一つの自然発生的なイデオロギーだと云うことが出来る。という意味は、人間は必ずしも自覚的にそれを開拓しなくても、おのずから、世界に対する或る一定の直観を持っている。人間は必ずしも思索したり研究したりしなくても、即ち特に観念的操作を理性や悟性やその他の名の下に行なわなくても、その感性的な直覚によって、世界に直接に触れて得る経験をば自然と蓄積しながら、或いはもっと云い直せば、生活の実際行動によって又はそれのために、一定の直接的な意識の結合を持たざるを得ない。それが実際生活として問題になる直観の意味である。
尤も直観という哲学的範疇は、往々単なる専門的な哲学上の術語としてしか理解されていないのではないかと思うが、例えば知的直観とか範疇的直観とかいうテルミノロギーから連想されるものは、哲学の専門的職業人によって常識的な概念からデライブされたものに外ならないので、元来実際生活に於ける直観とは、例えばキツツキが木の皮の丁度下に虫のいる処をつつくような、生活行動のための、又生活行動に基く処の、世界に触れる行動的直覚の意識のことなのである。だからカントが人間の直観を感性的(又勝義に於て経験的)だと繰り返し繰り返し念を押しているのには甚だ理由があるわけで、ただカントは人間の悟性又は理性に注意の焦点を置かねばならなかった哲学史上又は思想史上の位置にいたために、直観が人間生活から把握されねばならぬ点には殆んど力を入れなかった迄である。で、もしこうした直観が、元来人間の生活行動による又そのためのものであるなら、人間が世界の内に於てしか生活していない以上、直観はただの直観ではなくて、いつも世界を問題としないではいられない直観の筈である。一般に直観はそういう意味で元来が世界の直観(世界観)なのだと云ってよい。
カントは直観を人間悟性の問題から取り上げて人間の生活行動の問題から取り上げなかったから、経験的直観と云えば全く統一のないただの感覚の雑多のことでしかなかったのだが、却ってここに各種の直観主義(審美的・倫理的・宗教的・等々)へ動機を与える隙を示していたわけで、実際、直観が実はいつも世界の直観であること、従って世界は直観によって把握出来る筈だし、又把握されねばならぬと考える処の、様々な直観主義は、世界観という概念にとっては最も都合の好い立場だとさえ云っていい。
処で一定社会の人間の生活行動の形態が、大体から云ってそうマチマチなものではなく、仮にその間に大きな区別があった場合にも、結局幾群かの類別に仕分け出来るのであって、従ってそれに基き又それのためにする処の世界直観=世界観は、一定の又は一定類の形態を有って来ないではいられない。人間がその内で生活している客観的世界そのものが、一定の社会にとって略々唯一のものだということを考えて見れば、この点は更に尤もになるだろう。だから、世界観というものは、先に云ったように自然発生的な意識であり、更にそれが夫々一定した(一定の社会に対応するから)意識形態=イデオロギーだというのである。
世界観が一種の自然発生的なイデオロギーであるという規定は併し、比較的原始的な段階に於ける世界観に就いて最も適切に当て嵌まるのだが、世界に対する人間の認識が進歩するに従って、世界観というイデオロギーの形式は次第にその自然発生性を振り捨てて来る。世界観は次第に意識的・自覚的・となって、もはや単に直接的な対世界意識ではなくなってくる。感性的な直観の形で与えられた諸経験が、次第に蓄積されて行くのは別に茲に始まることではないのだが、ここまで来ると、この蓄積された諸経験が、整理され秩序づけられて理論や実験の段階にまで進んで来るのである。ギリシアに於ける哲学の始まりと呼ばれているのが丁度こうした時期に外ならない。世界観がここまで来ると、もはや単に直接的な意識ではなくなって、経験の蓄積から必然的に出て来る様々な思惟や実践の機能によって媒介された間接なものになるから、或る意味では之はもはや世界直観=世界観という名に相応わしくなくなるとさえ考えることが出来る。
ここまで発達して来た世界観は、だから、もはや第一の直接な意識の段階を意味する限りの直観ではなくて、夫は云わば一種の高次の世界直観と云う外あるまい。だが高次の直観という概念は確かに紛らわしいだろう。実際夫は一方に於て、もはや原始的な形態の直接態の世界観ではなくて、哲学なり科学なりという何かの纏りを持った知識を内容としている。その意味ではこの世界観は世界直観ではなくてもっと積極的な内容を有つ世界知識の名こそ相応わしいだろう。だが夫にも拘らずそうした積極的な内容を持つ世界知識又は世界認識に相応するものとして、吾々はそこでも事実、世界観――高次の――という言葉を使っているし、又そういうものを世界観と考える必要が実際あるのである。今日吾々の眼の前にあるものは、無論決してかの原始型の世界観ではない。今日の進歩した自然科学や社会科学の専門家達が、いずれも知ると知らずとに拘らず世界観を持っているというのが一つの事実であって、そして今日人々は、こうした世界知識に相応した高次の世界観をこそ、最も普通に、「世界観」と呼んでいるからである。
すでにここで世界観(世界直観)というものと、云わば世界思惟というものとの、対立と連関とが問題になって来るが、それに就いては予め一つの事柄を考慮しておく必要がある。普通、世界観は類型乃至典型を有つもので、又それしか持てないものだと考えられている。世界観の理論は世界観の Typenlehre だというのである。だが類型という範疇の宿命から云って、之は区別と性格づけと云ったような解釈上の限定を与えることが出来ても、一つの類型と他の類型との間の必然的な連関又は移行を、論理的にも時間的(歴史的)にも解明することは出来ない。類型は本来こうした理論的な説明のための範疇ではなかったのである。
で、もし世界観が類型としてしか把握されないなら、一つの世界観と他の世界観との間の必然的な連関や移行は説明の他になるわけだが、併し実際には、先にも云った通り、一つの世界観は次第に高次の世界観にまで、歴史的に、認識の発達と一緒に、変化し従って又分化して来るのだった。だから少なくとも高次の世界観の説明にとっては類型という範疇は不足であるか無用であるかであって、強いてこの範疇が当て嵌まる場合を探せば、例の原始型の世界観に対してだろうが、そこでは却って類型という範疇の活用の妙味は甚だ稀薄だと云っていい。すると世界観に就いて類型以外に何かもっと適切な概念が必要だということになる。だがそれは、世界観を世界観だけとして論じている限り――例えば世界観説――到底見当らない。問題は世界観と世界思惟との関係へ切り換えられなくてはならぬ。
一体ただ一つの経験や感受では原始型世界観さえが成り立ちはしない。すでに個々の事物や事件を総括した客観的な「世界」を認定しなければ世界観ではない筈だから、どのように歴史上原始的な世界観でも、前に得た経験の収集であるばかりではなくて、後々得るだろう経験を統制するものであらざるを得ない。ただそれが自覚して意識的に行なわれないから、云わば原始的蓄積に止まるわけであって、従って茲にはすでに無意識的にであるが世界に対する様々の思惟が重大な機能を果しているのを見落してはならぬ。処でそうした世界という客観的存在に就いての思想の諸手段――単に思考ばかりではなく思考に必要な実践活動も含めて――が、自覚して意識的に遂行される段になると、それが学的方法と呼ばれるようになるのである。
(世界観の類別は色々あるだろう。特別な哲学史上の材料に依らなくても、例えばペシミズムとオプティミズムとの対立などは相当根本的なものと認められている。併しこの対立は所謂人生観の上でのものであって、云わば一部分の世界に就いての見解の対立でしかない。云うまでもなく世界観は一切の哲学に必ず見出されるものであり、又世界観が見出される処には必ず哲学が云々されるのだから、世界観は哲学と最も直接の縁の深いものと云うべきだろうから、世界観の根本的対立は哲学の根本的対立に準じて与えていい。すると唯物論と観念論との対立がそれになる。世界観の詳しい対立はこの最も大まかな類別によっては尽されないが、後々の話を簡単にするためには、この根本的な対立に話を限定しておけば、唯物論的世界観と観念論的世界観とを例に取って頭に置いて好いだろう。)
一定の世界観は世界に対する一定の主張を持っている。この主張は全く伝説的な情緒だけに依る場合もあろうし、多少とも分析的な又実験による反省を経た上での予期を持つ処の半ば思惟的な情緒による場合もあろう。併し要するに世界観は直観なのだから情緒的な根拠以上のものをまだ示すことが出来ない。処が又如何に情緒以上の根拠は無いと云っても、何の根拠も持たない情緒はあり得ない。伝説や伝統もその神秘的な被覆の下に、或る条件での合理的な核心を蔵しているが、そのように、情緒は直覚的な形式の下に或る条件での論理的な核心を宿している。だから世界観の有つ一定の主張は、その情緒的な外被の下に示された或る段階の論理的な真髄――客観的世界の存在に関わる――を内容とするものなのである。
芸術ならば世界観のこの論理的真髄を、無論、学的な方法によって取り出そうとはしない。芸術は世界観が示す世界のリアリティーの論理的内容を、論理構造として取り出す代りに、部分的にではあるが併し再び或る世界直観的なものに切り換えて示そうとする。初めの総括的な世界観を、部分的な――一定のテーマの下に具体化された――世界観(文学者は之を「世界」と呼んでいるが)に集約する処に、創作方法が成立するのである。科学乃至哲学に於ては、之に反して、世界観の一定の主張が示す客観的世界の論理的内容を、そのまま併し更に一層、論理的な構造として取り出さなければならぬ。そこに学的方法が成立するのである。
弁証法的唯物論という今日最も進歩した又最も進歩的な世界観は、文学にとっても科学乃至哲学にとっても、一応同じ一つのものでなくてはならぬ。ただこの世界観の真理内容の取り出し方に、芸術的方法(例えば創作方法)と学的方法との分岐があるので、之が取りも直さず科学(乃至哲学)と文学(乃至芸術)との区別と平行関係とを示している。
さてこうして学的方法は世界観の真理内容を、論理的核心を、非合理的な外観から自由にし純粋にする。だから方法はすでにこれだけでも世界観の変化もしくは改造を結果するわけだが、それだけではなく、一旦方法が確立されれば従来取り上げ残されていた経験は初めて組織的に取り上げられるし、又これまで経験されなかった経験が或る一定の見透しの下に迅速に吸収される。こうして一定の経験の蓄積は同時にその再蓄積の条件となり、蓄積がこうやって量的に増大すれば、おのずからその増大率そのものを増大するようにオーダーが高まって来て、単位が上昇し、ただの経験は原則にまで高まって来る。その結果は、単に一定の世界観が変化したり改造されたりするに止まらず、世界観の質が交替せざるを得なくなる。即ち一定の世界観が別な世界観になるのである。ここに初めて世界観の歴史的移行が成り立つわけで、今の場合それを歴史的に齎すものが即ち学的方法に他ならない。
方法機関の先端は「論理学」又は「論理」であるが、論理学又は論理の機能は、一定の世界観の合理的内容を定着させる方向の下に、人間の経験の歴史を要約することであり、それと同時に又人間の経験の今後の歴史を計画的に前進させることによって、世界観の変革を持ち来たすことにある。一定の世界観は最初にそれに適応した一定の方法=論理を産み出すが、その方法=論理の科学的な機能は、方法=論理自身を発展させることによって、逆にこの発展した方法に対応する新しい世界観を造り出す。この意味で「世界観」と方法とは交互関係に立つ。
だから世界観が単にその合理的内容・一定の予期や主張を持つと考えられる限り、夫は全く直観に止まっているのだから世界観の名こそ相応わしい。だが、その内容が方法的に定着され又は発展せしめられるという側面から云えば、もはや世界観という直観状態はなくてそこには方法乃至論理しか見当らない。だが、こうした学的方法の内容が参与して結果する凝集物は、一般的に云って再び、世界観(但し新しい)なのである。
だが一概に方法と云っても諸科学が異るに従って、又科学と哲学とが異るに応じても、決して簡単に同じものではない。だから或る科学の方法だけによって、新しい世界観が生まれるとは限らない。自然科学特に物理学がどれ程その方法の上で発達しても、それによって社会観が新しくなるというようなことは十五六世紀の頃はとにかく今日ではもはや望めないことだ。で、一般に方法のお蔭で新しい世界観が生まれると云うためには、その方法とは、諸科学に於ける諸方法の抽象的な平均水準のことである他ないだろう。併しそういう抽象的な方法も架空なものではなくて、大体、哲学に於ける方法(実は哲学とは方法論=論理学に他ならないのだが)が、この抽象的な平均水準の実物に相当する。
或る特殊の科学の方法だけを問題にする時には、そうした方法によって結果する処の、新しい世界観に相当するものは、実は充全な世界観ではなくて、部分的な又は輪郭的な世界観でしかない。例えばエネルギー不滅法則とか進化論とか細胞理論だとか、新しくは相対性理論による宇宙論だとか、量子力学による原子構造の理論であるとかが夫で、なる程どれも新しい世界観全体に対して決定的な影響を与えたものを選んだわけだが、そうであるからと云ってそれが独りで一般的な世界観そのものを決めることは出来ない。こうした部分的又は輪郭的世界観を、或る場合には世間では「世界像」と呼んでいる。物理学的世界像がその例になるのだが、進化論も元来そういう性質を持っていただろう。世界像は、一定の或る程度にまで証明された確かな積極的な存在の姿を示すことが出来るだけに、一般的な世界観(それは実は可なり抽象的な予期をしか内容としていない)に較べて、遙かに狭く限定された存在の一角をしか直観否寧ろ概念せしめることが出来ない。
処で世界像が世界観として不充分な点は、却って世界像の長処でもあるということを注意しよう。と云うのは世界像とは世界に就いて結ばれた一定の客体の意味で、一つの緊密な組織物なのだが、そんなに緊密な組織内容を持つものは世界の直観としての世界観の名には相応わしくないわけだろう。世界像とは実は体系を可視的に譬喩したものに他ならない。そして一定の科学の方法も、他ではない、こうした体系を組織するための方法に過ぎなかったわけである。
だから世界像――体系――方法は一連のもので、一定の科学の構造を云い表わしているものに他ならない。そしてこうした一連の三者が、科学の名の下に一般的な世界観に対立して来るのである。もし今、特定に限定された世界像の代りに、一般的な世界観をこの一連の図式の内で置き替えるなら、世界観――体系――方法という図式になるが、これは或る意味での哲学の構造を示すものに他ならぬ。先に世界観は体系乃至組織を有たぬと云ったが、哲学自身が世界観だとも考えられる特殊事情に基けば、哲学の場合、世界観は哲学体系自身と可なり近づけられる。その代りそうした哲学乃至哲学体系(これは事実可なりルーズな哲学概念なのだが)に対立するだろう世界観なるものは、もはやどこにもなくなるわけである。
これだけ云っておいて、自然科学(方法――体系――世界像)と世界観との特殊な考察に這入ろう。これは又自然科学に於て世界観と方法とがどういう関係に立つかという問題に他ならない。
まず一等初めに世界があり、次にこれの感性的・直覚的・な把握として世界観があり、最後にこの世界観を定着し又発展せしめるものの一つとして自然科学乃至自然科学的方法が生じる。この秩序は動かすことが出来ない(但しこの秩序の上で、世界観と自然科学的――一般に科学的――方法との間に相互決定の関係があるということは既に指摘しておいた)。処で自然科学的方法はどういう要素から成り立っているか。
第一の要素は範疇又は範疇組織である(範疇組織は論理乃至論理学と呼ばれる)。自然科学は続いて述べるだろうように、色々の方法手段を用いる。だが人間の一切の思考や感動や行動がそうなのだが、自然科学的考察や研究に於ても、いつも何かの諸概念を手段として用いなければ一歩も進むことは出来ない。普通の諸概念は割合任意なもので、それだけ浮動性を有ったものであることが事実だが、概念の内でも根本的なものになると、夫は比較的定着されたものであり、従って又普遍的な通用性を有ったものになる。だから又本当に節度ある発展が出来る概念は、こうした客観性を持った根本概念の他にはない。この根本概念が即ち範疇なのだが、而も範疇は一つずつでは何の客観性を有つものでもない。範疇のノッピキならぬ客観性は範疇組織=範疇体系の内で各範疇が占める抜き差しならぬ部署又は位置から来る。で、こうした範疇組織を用いて一般に吾々は思考し感動し又行動するのであるが、その内で、自然科学にとっては自然科学特有の範疇組織が歴史的に与えられている。例えばエーテルという範疇は物理学的範疇組織の上で嘗て必要になったものであるが、やがて物理学的範疇組織の発展の結果、不用に帰しつつある根本概念である。そしてこうした範疇組織の最も包括的な最後の体系が論理乃至論理学に他ならない。理論と呼ばれるものが成り立つ場面はここにあるのである。
自然科学的方法の第二の要素は実験である。物理学的範疇体系は無論物理学に固有であって他の科学に対してそのままでは必ずしも方法的に役立たないが(但し、だからと云って他の科学の範疇体系から独立したものではない、もし孤立したものならば最後の統一としての論理にぞくすることは出来ない筈だから)、一般に範疇体系なるものが方法の第一要素だという点は、他のどの科学に就いても少しも変る処はない。処が実験になると世間では之を自然科学に特有な操作手段だと考えているようである。併しその場合人々は、実は初めから自然科学的実験だけを実験だと決めてかかっているのであって、即ち実験という概念を自然科学的実験によって限定しているのであって、そうすれば実験が自然科学に特有なものだということはタウトロギーに過ぎなくなる。実は実験という概念はもっと広範なもので、人によっては社会科学的実験という手段も考えられるとしている位いで、偶々その特殊な場合が所謂「実験」としての自然科学的実験に他ならない。だがとに角自然科学的実験は、丁度自然科学的範疇組織が一般の範疇組織から区別されるように、一般の実験からは区別されている(この区別を今明らかにする余裕がない)。これが自然科学的方法の第二の要素になる所以なのである。
第三の要素は自然科学に於ける数学的操作又は数学の適用である。数学の操作を適用することも亦併し、決して自然科学だけの特権ではない。その最もいい証拠は数理経済学を見れば好いだろう。だが自然科学(特に物理学)に於ける数学の適用は、少なくとも他の諸科学の場合に較べて、著しく発達しているという事実に注目しなければならないのである。自然科学に対して適用される数学は、極めて少ない例外(例えば整数論)などを除いては、殆んど凡ゆる種類に渡っている。どう役立つかも判らずに出来上った数学もいつか役に立つ日が来るだろうと予想することが出来る。こうした数学の自由な適用は、単に量の上の区別ではなくて、自然科学に於ける数学適用の特質を物語るものと云って好いだろう。
自然科学(一般に科学そのものさえ)の方法を、フランシス・ベーコンは実験の中に見出したが、之に反して現代の物理学者の多くのものは之を数学の適用の中に見出す(例えば新カント派の或る者やアインシュタイン達)。だがいずれの場合にしても、範疇組織が最も根本的な科学的方法であることを忘れてはならない。この点を忘れると、近代科学の諸原理の独特な発達振りが説明出来なくなるのだが、そうでなくて無理に之を説明しようとすると、数学が客観的実在に対する対応関係の説明を断念する他はなくなるだろう。実験が客観的世界に対する直接な取り引きの歴史の組織的な展開であるのは云うまでもなく、範疇組織も亦客観的世界を反映すべく置き換えた歴史的な結論にすぎない。数学もこの点では変りはないので、客観的世界の諸関係を経験から又は経験を通じての予断によって抽象した範型の理論が数学だと云って好いだろう。数学の形象自身には何等の物理的意味又は論理的意味さえないという数学的形式主義者の主張は無意味ではないが、そういう数学が実は最も有力な物理学的手段となりつつあるのが事実である(「ヒルベルト空間」の如き)。
今もしこうした自然科学的方法(範疇組織・実験・数学の適用)が客観的世界と無関係なものであるなら、之によって世界が認識出来るということは極めて偶然で神秘的なことにならねばならぬが、そればかりではなく、こうした方法が(前に述べた)世界観と相互決定の関係に置かれているという一般関係も亦、甚だ偶然で神秘的なことになるだろう。併し実は、科学的方法は客観的世界に初めから対応したものなのであって、この対応は今更吾々が指摘するまでもなく、方法が世界観から生まれたという認識の歴史(それをすでに述べておいたが)が説明しているだろう。世界に関して世界観が成立し、世界観から科学的方法が発生して来たのであった。
さて処で、問題は世界観と自然科学的方法との関係、その相互決定の関係であった。
総括して云えば世界観は自然科学的方法の例の三つの要素のいずれをも決定すると共に、又三つのもののどれもが次の高次の世界観を決定する。併し三つの方法要素はこの関係に於て、決して同じ位置関係にあるものではない。
方法要素の内で、優れて世界観の側を決定する点を注意されるべきものは自然科学的実験である。同じく自然科学の実験と云っても色々の段階があるのだが、最も原始的な要素的な段階での実験は、要するに人間的経験が多少とも歴史的に組織化されたものに他ならない。高い段階の物理学的実験などになれば、数学的操作や最後には範疇論(論理学)的陶冶を経た理論の、地盤となり又検証場面となることがその重大な役割だが、そこまで行かなくても、感性的な人間活動である経験が、多少とも意識的に取り行なわれるようになれば、本来の実験の意味を有って来る。実験は要するに経験の或る種の延長に過ぎない。
処で世界観とは、その原始型を取って見れば、世界に関する人間の感性的な生活経験の総括の他ではなかった。で、原始的な段階での実験という方法要素は、同じく原始的な段階に於ける世界観を規定するものだと云うことが出来る。そしてこの関係は、同様に、高次の実験と高次の世界観との関係に押し及ぼされていいだろう。実際、人間の認識の歴史に於て、世界観を根本的に変革し得た唯一の武器は、実験にあったことを忘れてはならぬ。ルネサンスはその意味で、思想史のコースに於ける最大のカーブであった*。
* 研究方法として実験に着眼した始めは十三世紀に溯る。Dietrich von Freiberg (1250-1310)、Petrus Maricourt(-1269-)、Roger Bacon (1210-1294) 等がその先駆者で、ダ・ヴィンチ、フランシス・ベーコン、ガリレイ等は之に続くのである(H. Dingler, Das Experiment, 1928. 参照)。
逆に世界観が実験の形態や内容や動機を決定する側は、あまり著しくはない。但しそれとても決して無視することは出来ない。例えばガリレイが実験によって落下法則を出したと云われているのは、今日ではピサの斜塔の場合と共に一つの伝説で、寧ろ彼は、Dominicus Soto 等が懐いていた反アリストテレス的思想――如何なるものも同じ速度で落ちるという世界観――から、その実験を企てる気になったという点が注意されている。
範疇組織は、之に反して、世界観によって規定されることが極めて著しい。無論範疇組織は勝手に選択したり勝手に考え出したりすることは出来ないので、世界の客観的な関係の中から決って来なければならないのではあるが、認識の発達が一定以上の段階に達した後は、世界が範疇を規定すること、即ち言葉を換えて云えば、吾々が範疇組織を用いて客観世界を反映することは、直接には行なわれないで、一定の歴史的にそこに与えられた世界観の立ち合いの下でしか行なわれない。観念論的な世界観の下では当然観念論的な範疇組織が選ばれ(例えば主観主義的・形而上学的・機械論的・範疇組織)、唯物論的世界観の下では之に反して、唯物論的範疇組織が選ばれざるを得ない(唯物弁証法的オルガノンがそれである)。――そしてこうした一定の範疇組織・論理・が、夫々一定の世界観を結果し又は確めるという反対の側は、云うまでもない程判り切ったことだろう。
数学の自然科学に対する適用は併し、世界観に対して一寸特殊な関係に立つ。一体数学自身の成立には必ずしも世界観は作用しないのではなく、数学の歴史的発展にも云わば観念論的傾向と唯物論的傾向とが種々の形態で見られるのだが、それが自然科学に対する数学の適用になると、問題は一見、全く自然科学者又は数学者の技術上の問題に過ぎないように見える。どういう数学を適用するか、例えば波動力学風の微分方程式を適用するか、それともマトリックスを用いるかは、全く物理学理論の叙述技術に関することだと考えられる。経験によって得られた諸結果を統一的に説明し得る法則を導き出すに最も技術的に適切な数学のフォーミュラを見出せば好いので、問題は少しも世界観などに関係がないのだと考えられている。
だが数学の適用が全く技術的な問題に過ぎないという考え方をつきつめて行くと、技術的に最も優れたものは、例えば数学的フォーミュラに最も単純な形を取らせるというようなことを数学適用の標準にすることになるだろう(アインシュタインなどは On the Method of Theoretical Physics, 1933 でそう考えている)。そうでも考えなければ自然科学に於ける数学の適用は完全なアービトラリネスに帰着して了うからである。併しこれでは、更に自然界の単純性というようなものを仮定しない限り、自然的世界と自然科学的方法との対応性が、即ち自然科学的方法の客観的な確実性が、理解出来なくなる。で、ここでは問題は、一体数学なるものが客観的世界とどういう関係にあるかという数学的認識の理論になるのだが、そうすると先に云った数学と世界観との連関がすぐ前面に探し出される問題になって来る。
こうやって、世界観は数学の適用に対して間接の影響を持つだろうということが、一つの課題として浮き出して来るのである。今、世界観と直接相互決定の関係にあったものは論理で、論理には形式論理と弁証法的論理との対立のあることは人の云う通りだが、数学は事実この対立と直接に関係しているのだから、世界観の側から数学へ来る影響は、当然指摘出来る筈だろう。実際、連続観とか流動観とか云っていい世界観のおかげで、ニュートンによる微積分の適用が実行されたのだし、断続観とか量子的世界観とかによって、量子力学に特有な数学の適用が行なわれたと云ってもいいのである。
自然科学に対する数学的操作の適用が、技術的なものに過ぎぬと考えられた点からも判るように、数学的操作が一般的な世界観に与える決定関係の方も極めて間接でしかないだろう。世界観を揺り動かすものは、量子力学や相対性理論に於ける数学的操作の力ではなくて、量子力学そのもの・相対性理論そのもの・に他ならない。
一般的な世界観に対してはそうなのだが、併し特殊な部分的で輪郭的な世界観であった世界像に対しては、之に反して、数学の適用が決定的な影響を有っていることが能く知られている。一方に於て数学的操作の適用が世界観を決定するに際しては殆んど無力であったに拘らず、他方それが世界像を決定するに際しては著しく有力だというこの関係は、M・プランクなどが世界像という概念を、日常経験的な世界の観念(それがやがて世界観となるのだが)から峻別する動機にもなっているので、大体に於てカント風の構成主義を採用しているプランク達(アインシュタインもそうであるが)によれば、「物理学的世界像」はその超主観化・測量化・数学化・によって、世界に関する常識経験内容とは独立な客観的統一を有つと考えられている。で今の場合、例えばミンコーフスキーの「世界」やそれの発展と見做していい新しい物理学的宇宙論の諸体系などが、こうした世界像を最もよく代表している特殊部分に相当すると考えられる。
そこで、方法のこの三つの要素、範疇組織・実験・数学的操作、の間には無論撞着があってはならない。それは断わるまでもないことだ。実験と数学的操作との共同作業の最も理想的な美しい例は、今日の理論物理学の成果の内に見られる。けれども事実、実験乃至数学的操作と範疇組織との間には、必ずしもそうした協力又は首尾一貫があるとは限らないというのが、今日の自然科学界の事情である。
なる程、特有に物理学的などの根本概念を採って見ても、凡て数学的に又実験的に規定されていないものはないではないか、と云われるだろう。エネルギーの概念にしても、原子の概念にしても、エントロピーの範疇にしても原子核の範疇にしても、皆そうである。併し範疇に就いて問題になるのは個々の範疇ではなくていつも範疇組織という一つの体系なのであった。処で範疇体系となれば如何に物理学に特有な場合を採って見ても、夫は単純に物理学的なものだけに止まることは出来ない。すでに因果や統計という範疇になれば、なる程物理学ではそれを実験的・数学的・に限定しなければならぬにも拘らず、もはや単純に物理学的に過ぎぬ範疇ではない。なぜなら歴史も亦同じく因果的でなければならず、社会も亦統計的でなければなるまい。それが今必然性や偶然性、自由や蓋然、の範疇にすぐ様結合している点を注意するなら、ここでは範疇体系が、どんなに哲学的な制約を受けているかが判るだろう。ということは、ここに世界観と範疇組織との極めて密接な相互関係があるということである。
処がこうした自然科学的方法の一要素としての範疇組織と実験的・数学的・方法との間に、今日の自然科学――ブルジョア自然科学――では著しい食い違いがあるので、これは一見不可解なことではあるが事実なのである。
この食い違いは様々な形で現われる。多少時代の経った場合を例に取るなら、十九世紀の俗流唯物論者によって代表される科学説がそれで、そこでは範疇組織のもつ論理としての意義は形而上学の名の下に全く無視されるのを常とした。自然科学に必要なのは実験と数学的操作であって、範疇体系などは自然科学の方法から云って何の役割も有つべきではない、それは世界観=哲学=形而上学の問題であって自然科学の問題ではない、というのである。
わが国でも欧州大戦以前には相当こういう種類の「自然科学者」が多かったが、その根柢に横たわる機械論的な却って一つの最も俗流的な形而上学的範疇組織は、決して自然科学の従って又自然科学的方法のその後の進歩に対応するものではあり得なかったので、その後次第にその勢力を失って来たように見受けられる。その後の新しい進歩的な自然科学者は、自然科学の根柢・自然科学の方法・にとって一般に範疇組織・論理学・哲学・が、又世界観が、如何に必要かということに気付いて来たように見える。この気運はアインシュタインによる一般相対性理論の創見に負う処が最も大きいと考えられるが、その後欧州や英米でも又わが国でも、こうした哲学的な自然科学論が自然科学界を通じて支配的になったと見られる。
併しそれにも拘らず、範疇組織と自然科学の他の方法要素との連絡、又は範疇組織そのものの最後の論理学的統一、或いは更に云い直せば、範疇組織の世界観との協定乃至首尾一貫は、極めてルーズな状態に停滞していることを見落してはならない。
この状態は最近、所謂自然科学の危機によって著しく暴露されるに至った。自然科学は因果や自由の範疇を自分自身の科学的方法に対して首尾一貫させるように処理し組織する用意が出来ていなかったために、自然科学的方法の本来のコースとは全く別な世界観にまでさまよい出なければならなくなった。経験的・実証的・数学的・理性的・な自然科学の背景として、人々は勝手な哲学・論理・世界観・を手あたり次第に持ち出すことが流行となったのである。
而も、資本主義による一般的な社会的危機は、一般に反経験的・反実証的・反理性的・な宗教的要求を、文化圏に向かって強制するようになって来たので、その際当面の責任者である自然科学者は、この要求にいたく動かされ始めた。処が幸にしてその責任を傍にそらす用意は出来ていたのである。なぜなら自然科学的方法とその背後の世界観とは、必ずしも首尾一貫した統一を持たなくてもいいということが、「近代科学」の成果だということになっていたからである。――自然科学の根柢は、終局目的は、神学にある。自然科学は客観的真理に対するその信念=信仰(外国語では二つは同じ言葉で云い表わされる)を神学から受け取る、なぜなら客観的真理とは神そのものに他ならないから、そして神学は又自然科学の成果によって確かめられる、だから「信仰と認識との統一」「自然科学とキリスト教との合致」が真理なのだ、例えばG・ミーなどがそういう風に云うのである(G. Mie, Naturwissenschaft und Theologie, 1932)。
こうした「統一」や「合致」を想像し又希望出来るのは、一方に於て自然科学の方法の集約であり又他方に於て背後の一般的な世界観と直接に密接な交互関係にある範疇組織に対して、そういう論理に対して、充分の注意を払わないことから出て来る。自然科学とキリスト教とを合致させるのは勝手だとしても、それによって自然科学自身の範疇組織の方は、全くバラバラでチグハグな撞着物になって了うだろう。自然科学とキリスト教という、歴史的にも全く相反した条件のものの間の統一よりも、現に自然科学には自分自身から発生した又発展され得る普遍的な世界観がある筈で、そうした自分自身の背後の世界観と自然科学との「統一」こそ、大切な筈ではなかったか。
何より先に必要なのは、自然科学の範疇組織が、実験や数学的操作という他の方法要素との関係に於て、首尾一貫したものでなければならぬという点である。自然科学に於ける実験や数学的操作はそれとして、之との関係も顧ずに、どこからか出来合いの範疇組織=論理を持って来るのでは、自然科学は決して円滑な進歩的な方法を持つことは出来ない。そしてこういう出来合いの論理は大抵出来合いの世界観(形而上学的な又神学的な)から借りて来られるのが常である。
数学的操作や特に又実験による実証的な検証可能な事物関係を代言するような論理・範疇組織・でなければ、自然科学の集約的な方法になれない筈であるが、こうした範疇を一定の意図の下に私は技術的範疇と呼ぶべきだと考える*。一般に技術的方法が自然科学のものであり、又夫が自然科学によって初めてハッキリする方法だと云って良い。――だが之は単に自然科学の範疇だけに固有な特色であってはならぬ。他の諸科学も亦、夫々の範疇組織に、技術的範疇組織という資格を与えなければならないのである。そこで初めて自然科学の範疇組織・方法・は他の諸科学の夫との間に首尾一貫を持つことが出来る、即ち論理的な統一を有つことが出来るのである。そして、こうした技術的範疇組織と直接の交互関係にあらねばならぬ世界観を又、技術的世界観と呼んでいいだろう。之こそ自然科学の方法の背景に持ち出されるべき唯一の世界観なのである。
* 技術的範疇の説明は拙著『技術の哲学』中の「技術とイデオロギー」の項で行なったから今は反覆しない。
この技術的範疇組織、一般に技術的方法と、この技術的世界観とを、一纏めに代表するものは、今日弁証法的唯物論と呼ばれている処のものに他ならない。――弁証法的唯物論は、方法の名であると共に世界観の名でもあることを、最後に注意しておこう。[#改段]
生物学が何であるかを最も好く知っている者は、云うまでもなく生物学者自身でなければならない筈である。凡そ生物学に限らずどのような科学乃至学問に於ても、実際にそれに従事して初めて、その科学乃至学問が何であるかを実質的に理解出来るわけであるからだ。それに違いはないのであるが併し、生物学が恰も一つの特殊分科の学――その意味で正に一つの科学――であるという事実を、忘れてはならない。専らそのような或る一定特殊の分科領域に向かってその関心を集中すればこそ、その人々は生物学者の名を持つのである。従って、生物学者の視界は、例えばその問題乃至問題提出の仕方・問題解決の方法・其の他は、少なくとも彼が生物学者としてである限り、一定の限界の外へ出ることが出来ないように出来ている。無論この宿命は、そのものとしては、少しも非難に値いすることなのではない。併しこの宿命に伴う可なり必然的な弊害は、生物学者が、生物学と他の諸学問との間に横たわっている必然的な連関の吟味を、忘れ勝ちになるということである。恐らく生物学者は、生物学と他の諸科学との関係を問題とすることはなくても、所謂生物学なるものの内部に止まっているだけで、すでに充分なあり余る程の問題を有つ。であるから、たとい、今云った連関の吟味を忘れたのではないにしても、生物学者にとっては之を問題にするだけの余裕がないかも知れない。――こうなると、生物学者であっても、生物学が何であるかを、色々の側から充分に知り得るものだとは云えなくなる。
一般に科学者は、その一応の研究態度としては、常に眼を対象の方向にのみ向けている。そうしなければ、実証的な積極的な観察や実験は出来ない。併しこの観察や実験によって得られた材料・経験的事実・を、理論にまで展開するためには、そして理論となることにより科学は初めて科学的発展を持つことが出来るのであるが、却って眼を対象の反対側に、その意味に於て方法の方向に、向けざるを得なくなる(観察や実験も実はこの方向からしてこそ初めて目的的に実行され得るのであった)。研究は研究自身を反省することなしには実際的――理論的――となることが出来ない。今科学者が、この反省の鎖を辿って行く時必ず、自分の専門とする科学と他の諸科学との連関、という問題に行き着くに相違ない。彼はこの時もはや、一つの特殊領域に立て籠る一分科の専門家であることを止める。否寧ろ彼は、その専門を通ること自身によって却って、各専門に通じるであろう処の普遍的な視界を有つようになる。彼はこの時すでに哲学的――理論的――視野を持つのである。この関係は無論、生物学に就いても例外をなすものではない。
対象の研究の対極として、必ず方法の反省が、現われる。この方法の反省を独立化して見ると、それが従来方法論とか認識論とか呼ばれているものとなるに他ならない。吾々は哲学をば今は何よりも先に、このような意味に於ける論理学として理解しなければならない。方法論とか認識論とか、又哲学とか論理学とかいう言葉は併し、今云った意味を中心として多くの複概念を持っている。そこで吾々は科学論という言葉を以て今云った意味を簡単に云い表わそう。さて「生物学論」は正に、生物学に就いてのそういう科学論を意味する。――之はであるから、生物学とは何か、を――生物学自身とは異った経路によって――まず第一に解答する義務を有っているわけである。
吾々は今科学に対して科学論を対立せしめた。生物学に対して「生物学論」を対立せしめた。諸科学に対しては諸科学論があるわけである。併し諸科学論は一つの科学論に統一されるのでなければ、その目的は果さない。何故なら、諸科学相互の連関を明らかにするためにこそ科学論が必要だったのだから。そこで諸科学論を一つの科学論に統一する処のもの、それを世界観――多少の臭味を厭わないならば人生観――と呼ぶ他はない。無論茲で作用する世界観は単なる思い込みや空想ではなくて、厳密な理論に基かねばならない。この理論的な世界観、それが、前に意味したよりも一層立ち入った意味での、所謂哲学なのである。一般に科学と科学論とのかの対立は、であるから、より立ち入って見るならば、一般に科学と哲学との対立に由来している(之が哲学と科学という二つの学問の一般的な関係である)。そうすれば前に生物学が生物学論に対立したのは、実は今や生物学が生物哲学乃至生物学哲学に対立することなのであった。――だが吾々は、生物学とは何か、から始めなければならない筈であった。
例えば経済学が自然科学であるかないかは、一応意味のある問題であるかも知れない。何故なら、経済学が取り扱う物的財なるものは、夫が物的である限り自然物でありそうなのに、夫が財である限り社会的範疇に這入りそうであるから。併しもし之に倣って、生物学が自然科学であるかないかなどを問題とするならば、それは決して科学上の必要から生じた、意味のある真面目な問題ではあり得ない。生物学が他の科学の領域に応用された場合は別として、生物学としての生物学がどのような意味ででも自然科学に属するということは、誰しも合理的には現に疑っていないことであって、改めてわざわざ決定して見せる必要のない事柄である。――ただ問題は、その場合自然科学という概念をどのようなものとして規定するか、にある。今それは無論、生物学をも無理なく含みうるように規定し得られなければならない。生物学が属する自然科学とは元来何か、之が問題となる。この問題を解くことによって、生物学の概念をさし当りそれだけ明らかにすることが出来るだろう。
自然という言葉の古典的な一つの意味は、人々乃至吾々にとってそうあるものに対して、それ自身に於てそうあるもの、を云い表わす。それ自体ということが自然である。であるから自然は今日の言葉で云えば、主観から独立な客観を意味する。この様な自然を吾がものとしようとする自然論(古典的な意味に於ける Physiologie, Physik)は云うまでもなく、吾々主観内の観念をどのように内部的に整頓して見た処で成り立つ筈がない。それは自然自身に直接交渉する他に道を有たないだろう。そこでは元来観察が(タレスの天体観測の如き)、やがてそれが積極的となれば、実験が(アリストテレスの生物学の実験の如き)、必要な方法なのである。この実験的精神――自然の知恵――は、欧州の暗黒な中世の一千年間を通じて思弁的な精神にすり換えられた。自然論は形而上学にまで変化した(中世に於ける稀なる自然研究家 Witelo は光の形而上学を造った)。自然の知恵は、書かれたる書物の知恵のために、権威を奪われた。ルネサンス――それがイタリアの自然研究家から始まったことを注意せよ――はとりも直さず、このように抑圧された実験的精神の復興であったのである。近世科学の先駆者であったダ・ヴィンチはそして、実験の価値を公言した恐らく最初の人ではなかったろうか。後にガリレイをして自然科学の真の創立者となし、又同時にフランシス・ベーコンをば「新しき論理学」の著者として近世哲学の一方の淵源となしたのも、この実験――その実行又はその提唱――であった。自然科学は実験と離れることが出来ない。
実際、自然科学は近世に於ける科学一般の代表者だろう。それは恰も中世に於ける神学に相当するとも云うことが出来る。そして自然科学の内最も発達したものと考えられたのは物理学――それはニュートンによって理論的となった――である。科学のこの現状を文明批評的に云い当て、それを科学批判的に根拠づけたことが、カントをあれほど有名にもし価値あるものにもしたのであった。自然科学は科学一般の典型となり、そして物理学こそがこの自然科学の又典型である、と近代の科学の歴史は人々にそう考えさせる(であるから生物学も物理学に近づくことをその理想とすることによって発展することが出来た。ハーヴィーの血液循環論やヨハネス・ミュラーの比較生理学の如き)。処がかの実験こそはこの物理学に於て、他の場合に於てとは比較にならない程重大な位置を占めているのを人々は知っている。自然科学がどれ程実験と不離な関係を有つかは、であるから重ねて明白だろう。
人々は自然科学を他の諸科学――諸精神科学又は諸文化科学――から、様々な特徴によって区別しようとする。例えば、因果関係を発見するという方法が自然科学の特色をなす、と多くの人々は考えているようである。併し歴史こそ本来因果的であらざるを得ない当の主人であることを忘れてはならない。処で歴史学は自然科学であるか。又或る人は(ヴィンデルバントやリッケルト教授の場合)、法則を求めることが自然科学の根本的な特徴だと考える。けれども歴史社会であっても、自然史的発展法則を持つということは、特に現代に於て何人も回避することが出来ないように圧倒的な事実である。そうすれば歴史社会の科学――社会科学――は自然科学と一つであるか。
自然科学の特色は、実は、そこに於て充分な意味での実験が施し得られる、という点に一応横たわるもののようである。一切の不要なる条件を現実的に捨象することによって、必要な理想条件を実現することが、充分な意味での実験である。歴史学乃至社会科学に於てはこのような十全な実験は出来ない。一定度の真空を造り出すと同様に、一定の戦争状態を造り出して見たり、相場を一定度だけ任意に上下させて見たり、する任意の試みは一応不可能である。そういう実験――実践――それ自身がその実験の条件を変化させることが著しいからである(理論上予想された状態が事実の上で検証されて行くということは、この際の実験とは異った概念に属する)。自然科学以外の科学に於ては、今云った理想状態は、現実として実現されるのではなくてただ観念的にのみ、想像されるに過ぎない。それはただ概念上の分析の内で抽象される他はないのである。不要な条件は観念上の分析によってだけ捨象される。尤もこの捨象乃至抽象が主観的な勝手なものでない限り、それは客観的な事実自身の捨象乃至抽象に対応はする。併し事実自身の行なう捨象乃至抽象は明らかに、吾々主観が行なう筈であった実験のそれではない。――自然科学以外の科学に於ては実験は充分な意味では不可能である。そこでは抽象は実験というような現実的形態を取らずに、高々例えば理想型の発見というような観念的形態を取るにすぎないだろう*。又は統計的方法がここでは実験的方法の代りに用いられる。社会科学に於ける実験というものがあるとしても、少なくとも自然科学の夫とは一応別でなくてはならぬ。
* 理想型という概念は M. Weber : Methodische Grundlagen der Soziologie.――坂田太郎氏訳『社会学の方法的原理』(哲学論叢32)に見られる。
この意味で所謂実験をなし得るということが自然科学の唯一の特色でないことは云うまでもない。ただ之によって割合明白に、自然科学を純粋に取り出すことが出来るだろうと云うのである。――さて生物学はこのような自然科学に属する。
そこで次に起こる問題は、生物学がどのような自然科学であるか、でなければならない。だがそのために、生物学自身が事実としてどのような状態にあるかを予め見ようと思う。
生物、生きた存在(Z
on)、生命を有った存在、とは何であるか、それが他の存在乃至は存在一般とどの点で異るか、之を決定することは結局、生物学乃至生物学論の最後の課題である*。初めから之を決めてかかることは出来ない。併し少なくとも生物が一定の形態を持つものであるということは承認されなければならない。それが孤立したものであろうと、集団であろうと、又その中間に位置するものと考えられようと、生物はとに角、物理現象とか化学現象とかいう現象とは異って、個体である。丁度天体が個体であって非実体的な単なる天文現象や気象現象ではないように。そして個体は常に形態をもつことによって個体であることが出来る。であるから少なくとも生物の理論は、その個体の形式――形態――を記述することから初めなければ、その対象の定位を見失い、研究の出発点と帰着点とを忘れることになるのである。どのような方法で生物が研究されるかは別として、どのような場合に於ても、生物学の研究はまず生物という個体に就いての記述であることを止めるわけには行かない筈であるから。茲に生物学がまず第一に形態学となって現われなければならない理由が横たわる。* 今の場合は古典的な例を取って来る方が適当である。――アリストテレスに於ては存在一般――しかし特に存在一般を代表するような優越なる存在――として、自然的存在一般が挙げられる。これを取り扱うものがその Physica である。真の存在は併しその Metaphysica に於て取り扱われる。そして生きた存在を取り扱うものが De Anima なのである。
諸生物の個体が様々である限り、その形態は無論様々である。併しこの様々の諸形態の間には一定の関係が見出されなければならない。そうしなければ諸形態は全くの無秩序に置かれるだろうから。諸形態は組織的に統一されることが、或いはより適切に云うならば、諸形態が組織的な統一を持っているという事実を知ることが、科学的な要求から云って必要だろう。茲に分類学の出発点――但し出発点に過ぎない――があるのである。云うまでもなく生物学は個々の生物に関する知識に止まるのではなくて、生物の総体に関する知識でなければならなかったからだ。
分類するためには併し分類の原理が必要であるが、その原理は何処から来るか。之は形態相互の外見上の又は外面的な異同であることは出来ない。そうすれば分類は第一に、外見上の形態の比較をなす限りの形態学に満足することは出来ない。生物の形態はその内部的構造にまで立ち入って、肉眼の範囲をも越えて、規定されて行く必要が生じて来る。かくて組織学が生物学の一部門として成り立つ。
そして分類は第二に、外面的な形態の比較をなす限りの形態学には信頼することが出来なくなる。分類を正当に行なうことが出来るためにも、形態学は形態の内面的な理解を要求するのである。実際、生物の形態はただ単に初めからそのようなものとして与えられているのではない。生物は単にかくかくの形態を有っているのではない。実は生物はかくかくの形態を取ることによって夫を持つのである。形態は形態形成なくしてはあり得ない。形態学はであるから形態形成の理論にまで展開しなければ止むことが出来ない。初めは多少とも静止的なものと考えられたであろう形態の概念は、形態形成という動的な過程の概念を必然的に結果するわけである。
前に、生物は少なくとも形態を有つと云ったが、今は生物は少なくとも形態を形成する、と云わねばならなくなった。形態を形成することは併し同時に形態を保持することを意味する。そうでなければ生物が形態を形成したという状態――それが前の所謂形態そのものである――はあり得ないから。で生物は少なくとも形態を形成し且つ保持する存在であると云うべきである。実際単に形態を有つというだけならばそれは何も生物には限らない現象である。恒星も建築物も形態は有っているに間違いはない。ただ恒星や建築物は自分でその形態を取ったのではない。何故なら星雲である内は恒星ではなく石材である内は建築物ではないと人々は考える。形態は云わば出来上った瞬間に之に外から付着する。之は形態を形成するものではない。であるから又之を外部からの力で破壊すれば何時でも形態は離れて了う、それは形態を保持しない。
吾々はここで形態の問題から発生――形態の発生過程――の問題に移っている。そこに発生学があるのである。
注意しなければならないのは、これまでの道行が形態という概念の――過程概念へまでの――発展から見たという点である。という意味は、之まで常に形態が中心の問題であったというのである。生物は――何等かの現象としてであるよりも先に――まず第一に一つの個体として、之までの生物学諸分科の対象となって来た。生物は常に形態の所有者であるという側面から取り扱われて来た。その意味に於て、以上のものは要するに形態学に帰着するということが出来る。処で今や、之まで過程の概念にまで延長して来た形態の観念が、全く過程の概念に席を譲って了って、自分は背景に却き、その代りに過程概念を中心の問題とする、という条件が已に今までに用意されている、ことを注意しよう。今や生物は、形態を有った個体であるという側面からではなく(但し之は必要な条件なのであるが)、却って一個の過程の所有者であるという側面から、問題とされることが出来る(過程の所有者だという点でそれが個体であるという条件を已に充している)。生物は今や生命という過程の、生命という現象の――これはもはや個体ではなかった(前を見よ)――所有者となる。かくてこの場合の生物理論は生命現象の理論として現われることが出来る。このようなものが生理学なのである。
生物学は生活体の生命現象を取り扱う。形態学は之に反して生物という個体の形態を取り扱う。それ故にこそ人々は、形態学と生理学とを、広い意味に於ける生物学の二大部門として区別するのである。人々は又生理学と生物学(狭義の)とを区別する。その根拠は――それが意識されると否とに拘らず――亦之である。之は決して生物の理論に於ける発達した部分と発達しない部分との対立などではない(後を見よ)。
(生理学を形態学から区別した処の、生理学のかの方法は、一方吾々を感覚生理学へ、他方動物心理学へ導くことが出来るだろう。併し之はもはや一般生理学――比較生理学――の一般的な問題ではない。従って又これは一般生物学の一般的な問題とはならない。)
再び形態学へ帰ろう。生物の諸形態の認識は、生物の諸形態の総体を認識することでなければならなかった。分類学はそこで必要であったのである。そして分類には内面的な原理が必要であったから、形態学は発生学にまで延長されねばならなかった。併し、発生学にまで延長されても、分類の原理はまだ充分に内面的ではないだろう。分類はまだ諸形態の総体に対して正しい定位を取ることが出来ない。なぜなら、今の場合の発生学が取り扱う処の発生は、個体発生に過ぎなかったからだ。個体発生は少なくとも種族発生――もしそういう観念が已に有ち得るなら――の外面的な部分にしか過ぎない。個体が個体を何かの仕方で産み出すことによって、種族は保存される、より正確に云うならば、種族の形態は保持されるのである(個体の形態の場合を参照せよ)。このように保持される種族形態はそして、恐らく、種族発生の過程として形成されたものであろう。そうすれば種族形態の形成も亦必ず問題とならねばならぬ。そして少なくとも、種族形態の形成と保持との契機は、A個体がα個体を産み出した時の、A―αの間の関係の内に、たとい微少な規模に於てであろうと、現われる筈であるし、又A―αの関係と他のB―βの関係との間の関係の内に、恐らく大きな規模に於て現われる筈である。この問題を解くことがやがて遺伝学となった。種族形態の形成と保持・種族発生・を本来の問題とする進化学――或いは進化論――がこの遺伝学と不離な関係に立つことは自然である。
種族形態の形成は、進化論によれば、個体形態の転換である。形態学――生理学に対立した限りの――の問題は形態形成(Formbildung)であった。之に対して進化学の問題は形態転換(Formwechsel)であると云うことが出来る。但し進化学が形態転換に関わるものである限り、それは形態の問題を離れることが出来ず、従ってそれだけ形態学と離れることが出来ない。蓋し進化学とは、形態学(生理学に対する)乃至生物学(同じく生理学に対する)の、最も高い形式であるように見える。
分類の原理はそれ故今や、単なる形態からでもなく又単なる形態形成からでもなくて、形態をば終いに形態転換にまで掘り下げて、そこから引き出されねばならぬ。正当に・根本的に・分類をなし得るためには人々は、形態――形態形成――形態転換という一連の系列を辿らねばならなくなるだろう。例えば分類という一見比較的偶然な課題が、偶々生物学プロパー(生理学をも二次的に付加してよい)の問題全体の解決を要求する、という点を見ねばならない。之はけれども少しも不思議なことではなかった。なぜなら、生物学の端初は――そして端初は原理(Anfangsgrund)とも訳される――形態の記述であったのだから。之が分類学の生物学に於ける意義である。生物学者が何故多く分類学者であるかは、それ故普通非難される程理由のないことではない。生理学は之に反して大部分が生物学者ならぬ医者の仕上げた仕事であった。吾々はもう一遍思い起こそう、生理学は生命現象の研究であった、之に反して生物学は生物形態の研究であった、ことを。
(進化論は生物の自然史――Naturgeschichte 博物学――である。生物のこの歴史学に対して、生物の云わば地理学は考えられないであろうか。その社会学は想像されないであろうか。一種の生態学と動物社会学――Espinas の
Soci
tes animales
の如き――とが、之に当るかも知れない。尤も後者の概念は可なり譬喩的なものにすぎぬのではあるが。)吾々は生物学の内部の比較的独立した諸分科を、一応の連関に於て関係づけたかと思う。実際に何かの特殊な問題(併し常にそれだけが全般的な問題へ導く動力である)に当って見ると判るように、全く独立な諸部門からなっている科学などは恐らく一つもない。研究の対象である存在そのものが相互に連関している限り、一科学の諸部門が孤立することの出来ないのは当然なことである。認識相互のこの連関は、無論生物学自身に就いても例外をなす理由がないばかりではなく、生物学と他の諸科学との間にも亦当然見出されなければならない。――そこで次に、生物学は他の自然諸科学とどういう関係に立つか。云い換えれば、生物学はどのような特殊の自然科学であるか。
人々は物理学と呼ばれる自然科学を、自然科学一般の、或いは科学一般すらの、最も代表的なものと考える。何故ならば、物理学が最も進歩した実在科学と考えられるからであり、そして物理学の持っている厳密性(Exaktheit)がそれを証拠立てている、とそう人々は云うのである。すでにカントは、この厳密性を、物理学が数学――このそれ自身方法を意味する処の数学――を含むことの内に発見した点で、模範的であった。併し物理学の優越は、決して、それが数字を十全に応用し得るような厳密性を有ち得る程度に、進歩していることからばかり結果したのではない。実は寧ろ、物理学が凡ゆる一切の自然現象の最も要素的・基本的・な現象を取り扱うが故にこそ、それが最も代表的な自然科学と考えられるのである、ということを注意しよう。と云うのは例えば、生物学の法則は必ずしも物理学には行なわれない、之に反して物理学の法則は必ず生物学に於ても通用しなければならない。之は経験を俟つことなしに二つの科学の位置関係から云っても、先験的にも、そうなければならないのである。物理学は要素的・基本的・な自然科学であればこそ、その方法が厳密であることが出来、又その発達も最も高度に達することが出来たに過ぎない。――処で生物学はこの物理学ほどに厳密でなく従ってそれだけ進歩していない、かのように人々は考えているようである。併しそれはどれ程の意味に取ってよいのか。
広義の生物学の最も厳密な部分が生理学である、と人々は考える。生物学では今なお目的論が支配している、之に反して生理学はすでに目的論などを脱却して因果的説明を与えることに着々成功しつつある、と人々は云うらしい。生理学は――少なくともその進歩的な先端は――着々として物理学の水準に、否寧ろ物理学そのものに、接近しつつあるように見える。併しながら、この生理学と物理学との間にすでに、見逃すことの出来ない質的相違があるのを忘れてはならない。
物理学は一切の自然現象を、物理現象と呼ばれる一般現象に還元し抽象して、之をその対象とする。夫が要素的・基本的・である所以であった。このような物理現象という一般現象は、であるから抽象的な一般者である。という意味は、之からは特殊な自然現象の法則を全部は引き出すことが出来ない、というのである。処が生理学は恰も生命現象という特殊な自然現象を取り扱う。それ故物理学は生理学のために必要な法則の全部を与えることが出来ない。生理学には物理学からそのままは引き出せない生理学固有な法則があり、之が生理学と物理学とを質的に区別する。無論前に云ったように生命現象は凡て物理現象に還元され得るだろう、その意味に於て、そこに在るものはただ物理的(又化学的)法則だけだろう。併し一般的な諸々の物理的現象を生命という一つの特殊な生理現象にまで結びつける処のもの、かかる組織・結合・――それこそが生命の第一法則であるが――は、単なる物理現象に還元・抽象・し去ることが出来ない。吾々は生命という存在をテーマとして与えられたならば之を物理現象に還元することは多分出来よう、逆に物理現象だけを与えられたからとて、之から生命という存在を構成することは出来ない。物理学と生理学とはその科学的テーマの段階を異にする、両者の間に質的相違がある所以である*。生理学が物理学と同様に厳密であるということ、或いは寧ろ事実としては、物理学程厳密でないということは、正に以上の事情を意味するものである。
* 質的相違は併しながら、絶対的相違を意味しない。二つの質的に相違するものの間に何等の媒介がないということではない。事実、二つのものは量化されることによって実際的に媒介される。――他でもない、生理学が物理学的(化学的)に研究されるということが、夫である。
物理学と生理学とのこの質的相違は、生理学と之に対立する生物学との間に、質的に異った形を以てではあるが、再び繰り返えされる。生理学は生命現象を、これに反して生物学は生物という個体を、そのテーマとすることを私は前から繰り返していた。そこで、ヴィンデルバント等の用語を借りるならば、生理学は――物理学と同じく――「法則定立的」(nomothetisch)であることが出来、之に反して所謂生物学は「個体記述的」(idiographisch)である、ということに帰着するだろうことは当然だ。そして一つの個体は、それが他の個体ではなくて正にこの個体にまで形成されたのであった限り、それ自身に固有な歴史を持たねばならぬ。或いは、歴史が種々なる個体を分化したのであると云っても好い(進化論を見よ)。そうすれば生物学は、個体記述的で且つ「歴史的」な自然科学である、ということが出来る*。独り生物学に限らず一般に博物学――自然史――はこのような性格を有つものだろう。
* ヴィンデルバント等によれば、自然科学は本来の特色から云って凡て法則定立的であるべきであって、人間の歴史学こそが個体記述的であるべき当のものである。併し吾々は生物学に於て個体記述的な而も歴史的な自然科学を見ることが出来る。実は、対象の著しい歴史性こそ、生物学を物理学などから区別する処のものである(この点に就いては M. Hartmann : Allgemeine Biologie, S. 3-4 を参照)。
(生理学は心理学と特殊な連関に立っている。併し之は少なくとも生物学全体に関するものではないから、他の機会に譲ろう。)生物学がどのような特殊の自然科学であるかを、その輪郭に於て見た。今度は生物学が一般に諸科学乃至諸理論と、どのような関係にあるかを見る順序である。恐らく茲では併し、雑多なありとあらゆる関係が可能であるだろう。問題を簡単にするために、生物学が世界観にどのような影響を与え、又世界観からどのような影響を蒙ったか、だけを見ることにしよう。但し茲で世界観とは、広い意味に於ける哲学、即ち普遍的理論を意味するものとする。
元来人間そのものが一個の生物であるという基本的な事情のために、生物学は世界観――それは人間の自己認識としての人生観・人性論・人間学・と裏表である――と特別な縁故があるのは怪むに足りない。
生物学は、人間の主観を離れてそれ自身に存在する客観的な自然物を取り扱うのであるから、生物の世界以外の世界の認識から、生物研究のための考え方――イデー――を教えられるということは、恐らく可なりに困難であるだろう。それにも拘らず吾々は、例えばマルサスの人口論がチャールス・ダーウィンの進化論に決定的な影響を与えたという事実を知っている。ダーウィン自身の告白する処によれば、マルサスの適者存在・生存競争・の観念や、人口の幾何級数的な増加の思想は、彼をして従来持っていた種の不変の信仰をすてて、種の変化・発生・の見地に立たしめた一つの動機である(『種の起源』に於てもマルサスの名と所説に触れている個処がある)。云う迄もなくイギリスに於ける農業畜産技術の発達と、ビーグル号の探検に於ける観察がなくては、その実証的根拠を提供されなかったのではあったが、又一定の思想なくしては事実も事実として把握される事が出来ない。生物学の最も根本的な理論である進化論を貫くものは、正に一つの思想である事を見なければならない。進化論は一つの世界観を基礎づけた(カール・マルクスがダーウィンに於て、自分の世界観――唯物史観――の博物学的・自然史的・基礎を見出したと云ったのはこの意味である)。
* 社会と自然(特に生物)との関係は例えば Eulenburg : Gesellschaft u. Natur を参照。
併し、ダーウィンはマルサスの人口理論をそのまま生物学に応用したのでもなければ、又マルサスは進化思想をそのまま社会理論にまで延長したのでもない。二人は生物学と哲学との間の質的相違を無視しなかった。処が人間自身が一つの生物であったことから、生物学の方法と成果とを人間生活の理論にまで、或る程度に無条件に、応用・延長・しようという企ては、極めて誘惑に富んでいる。ここから人々は時には可なりに正しい、併し往々は全く誤った、社会理論を惹き出すことが出来るだろう。
ダーウィンによれば、一定の種が後世まで残るのは、自然淘汰・生存競争・による適者生存、に他ならないのであるが、クロポトキンの『相互扶助論』(L'Entr'aide)によれば、生存競争に於ける適者は、例えばホッブズ風の万人に対する万人の戦争状態におかれた生物ではなくて、却って相互扶助をなしうる処の生物に他ならない。彼は之を蟻や蜂や鳥類の集団生活に就いて、やがては又未開人の共産的生活に就いて、実証し、そして之によって文明人に於ける相互扶助の事実と必要とを指摘し且つ推理した。彼は生物学的知識を材料として、一種の無政府主義的・コンミュニズム的・社会理論を惹き出す。――彼の社会理論が正しいか否かは併し、生物学によって判定されるべきではなくて、専ら社会科学によって決定されねばならないのである。
併し最も組織的で最も有力な生物学的――進化論的――世界観を展開したのはハーバート・スペンサーの社会学であった。彼は社会を必ずしも生物のアナロジーと考えるのではない、社会(乃至国家)が生物(特に人間)のアナロジーであるのは、寧ろホッブズの怪獣 Leviathan であった。けれども生物の個体が根ざしている生物の有機体性は、同時に又社会の根本的性格をなすものでなくてはならない、社会はそれが一つの有機体である点に於て、生物の類推である、というのである(社会の有機体説)。かくてスペンサーは生物の進化を辿ることを以てその大部な『社会学原理』(これは又『総合哲学原理』の一部分である)を始める。社会と生物との構造上の類推は往々皮相に過ぎる点にまで追跡される。尤も彼はこのアナロジーにも拘らず、社会と生物との差異を見逃しはしなかった。両者は同じく有機体ではあるが、而も条件を異にした二つの有機体なのである、と。――併しながらこの区別、社会有機体と生物有機体とのこの区別は、要するに類推という範囲内の区別でしかないことを注意すべきである。で、社会と生物との真の――類推などから離れて見られた――区別はここでは問題となることが出来ない危険を有っている。実際、社会の有機体説はそのままでは正当な社会理論――生物学を離れて判定して――ではあり得ない。それ故にこそ、スペンサーを通過して来ている実証主義的社会学は、この生物学的見地を如何にして脱却するかに苦心して来たのであった。もし又今日唯一の科学的な社会理論と認められている唯物史観から見るならば、社会有機体説は多くの根本的な非科学的諸点を露出するだろう(そしてこの点は或る程度までクロポトキンの有機体説に就いても同じである)。併し何より不幸なことは、スペンサーの生物学的社会理論が、彼自身に於てすら全般的な世界観ではなかったということである。その有機体説との関係を全く意識することなしに、而もこれと明白な矛盾に陥りながら、彼の社会政策は、マンチェスター流の個人主義的自由主義のために声援したのである*。
* 純然たる生物学者の出であって、進化論を存在一般にまで拡張しようとしたのは、エルンスト・ヘッケルである。併し彼に従えば、進化論は社会主義の反対を結果するものに他ならない。
社会は――人間の歴史的生活は――疑いもなく生物学的基礎を有っている。人間が動物であるからには、誰しも之を忘れることは出来ない。併し社会は生物界とは質的に異ったそれ固有の法則に支配されている。――茲に生物学が世界観に行く時の制限が横たわる。
最後に、今の場合のような生物学的知識材料ではなくて、より普遍的な形で、凡そ生物学的――生命的(vital)――な物の見方が、世界観――哲学を支配した場合を、哲学者の名前で以て挙げておこう。ショーペンハウアー、シェリング、ニーチェ、E・v・ハルトマン、マックス・シェーラー、ギュイヨー、ベルグソン等々。この内最も意味のあるものとして、ベルグソンの『形而上学』を挙げることが出来る。所謂「生の哲学」はこの種の哲学と直接に関係する場合が多い*。
* この種の哲学の一応の批判は Rickert : Philosophie des Lebens に譲ろう。
吾々は之まで、生物学を、「生物学は如何なる科学か」という方面から、即ち、夫が一個の科学であるという方面から、更に云い換えれば、一応の意味で夫の方法の方面から、見て来た。今度は生物学を一応の意味に於けるその対象から、即ち生物そのものの存在との関係から、見よう。併しこのことはとりも直さず、生物という存在の特色を明らかにすることに他ならない。実はそうすることによって初めて、「生物学は如何なる科学か」という問題も具体的に答えられる。蓋し対象から一応引き離して考えられた方法はその限り抽象的であることを免れないからだ。「生物学は如何なる科学か」はそこで、「生物学に於ける哲学的諸問題」にまで具体化されなければならぬ、生物学方法論は生物学哲学にまで具体化されねばならない。――そして最後に、生物学に於ける哲学的諸問題とは、とりも直さず、一般生物学自身の諸根本問題の他ではないのである。
第一 生命の概念
吾々は少なくとも生物が存在していることを知っている。というのは、或る存在だけは生きていると考えられる。併し之だけの事実の内に、もう二つの最も困難な問題が潜んでいるだろう。第一は生きているということがどういうことであるか、である。夫が判らなければ或る物が生きているか生きていないかは決定出来ない筈であった。そして第二に、仮に何かの方法で――恐らく吾々自身は生きていることを体験出来るから自分からの類推ででも――、生きているという事柄が大体見当がついたとしても、果してどの存在が生きていてどの存在が生きていないかは、吾々がその物自身でない限り体験も出来ないのであるから、その類推に明証を見出すことは出来ない。何故他人とか又犬とかは、生きたものと考えられねばならないか(デカルトなどは動物を器械だとさえ考えた。そしてラ・メトリは人間は動物であるが故に又機械であると考えた)。それはかの感情移入にでも依るのであるか(テオドル・リップス)。茲に横たわるのは有機体と無機物との区別・関係・の問題である。必然的に連関したこの二つの問題は、恐らく最も困難な問題であるばかりでなく、而も更に面倒なことには、これ等の問題が避け難い必然性を以て吾々に肉迫してくるのである。なぜなら、現に・常識的に・生物なるものは、無生物とは区別されて、存在しているからだ。理論はかかる常識が提出する問題に答えることをその使命とする*。
* 常識とは、普通考えられているように単に理論以前の低度の科学的知識を意味するのでは、決してない。常識は理論に問題を課す処のものである。そしてこの課題を解かない限り、理論自身が科学的となれないのである。
第一は、云わば生命の概念自身の問題である。第二のものは云わば、生命概念の解釈の問題に帰着することになるだろう。第一の問題から始めよう。
生物そのものは併しながら、正確に考えるならば、生命そのものではない、生物が生命を持っていると常識は考えるのである。生物を生物たらしめる原理、生物が生物として存在し得る所以のもの、生物の存在の性格、それが生命なのである。生物自身ではなくて却って生物を活かして(animate)いる処の当のもの――Anima――が生命である。こうして生命は生物から一応抽出される。生物というそれぞれの生活個体を活かしている共通な原理の表現として、生命現象がこの個体から独立して抽出される。生命とはこのように生物個体から区別された生命現象であった。
云うまでもなく生命現象は生活体を基底(Lebenssubstanz)として初めて成立出来るには違いない。併し、生活体の形態――それが個体である――が直ぐ様生命現象なのではない。生命現象は生活形態(Lebensform)ではなくて生活過程(Lebensprozess)である。それは形態ではなくて形態の形成であった――前を見よ。
実際、であるから、生物学者や生理学者は、生命現象をば、いくつかの過程によって特色づける。物質代謝及びエネルギー転換(Stoff- und Energiewechsel)・刺激性又は興奮性(Irritabilit
t od. Erregbarkeit)・形態形成乃至形態転換(Formbildung od. Formwechsel)などが、生命現象を特色づける過程であると考えられている。この三つの過程が何れも同様に生命現象に対して特色的であるのか、又はこの内の何れか一つが真に特色的――根本的――なものであって、他は夫の副次的な随伴現象であるか、そうすればどれがそのような根本過程であるか、之を決定するのは生物学乃至生理学自身の仕事である。併しながら此等の諸過程は、生命現象を特徴づけることが出来ても、まだ夫を説明し得たことにはならない。却って此等の諸過程――諸特徴――自身がどういうようにして可能であるかこそ、何かの仕方で次に説明される必要があるのである。此等諸過程は、即ち又之によって特色づけられる生命現象は、どのような条件の上で成り立つか。
どのような存在であろうと併し、それの成立の条件は恐らく無限に多数であると云って好い。吾々は之を数え尽すことは出来ない筈である。ただ吾々は、もし夫を充さなければその存在が同時に又はやがて存在し得なくなるような、そのような必要欠くべからざる、その意味に於て直接な、条件だけを求めることが出来るのであり、又それで説明の目的は果されるわけである。今生命現象に就いて、そのような直接条件を求めるならば、そこに生命の原因が見出されることにもなるだろう*。
* 条件と原因との区別、説明という概念、等に就いては M. Verworn の Konditionalismus の思想が参考に値いする。――後を見よ。
生物は世界に於ける存在物である、夫は自分自身の内界と外界とを有っている。このような生物の存在原理である生命現象は従って、内的並に外的な諸条件の上で初めて、成り立つことが可能である。――外的条件には、営養・エネルギー・気圧乃至其の他の静的圧力・浸透圧・イオン・熱・光・電気・等を数えることが出来る。
次に、生活体は物質からなっている。そしてそれが単なる物質ではなくて正に生活体の物質であるから、この物質は生活物質(Lebensstoff)と呼ばれる。で、生命現象はこの生活物質をその内的条件とするのである。――生命の真の原因は、恐らく生命現象の外的条件に求めることは出来ないだろう、そうであればこそ夫は外的条件であったのだから。そうすれば、この内的条件の内にこそ、生命の真原因が見出されそうである。
さてこの生活物質は物質である限り、物理学的・化学的・規定に従っている他はない。そこで、どのような化学的元素又はどのような化学的化合物が、生命の真の原因であるか、即ち、生活物質の真の成分であるか、とそう問うてかかることは自然である。炭素説・窒素説・蛋白質説・生活蛋白分子説・不安定蛋白体説・側鎖原子族説・窒素中堅説・生活源説・其の他・酵素説・ヴィタミン説・等々の生命原因諸説は、ここに発生する。――又どのような物理学的状態が生命の真の原因であるか、即ち生活物質の真の状態であるか、という問題も茲から出て来ることが出来る。液体説・固体説・液体結晶説・コロイド説・形質膜(Plasmahaut)説・等々。
吾々は此等諸説の何れが正しいかを専門家に一任しよう。ただ、この内のどれか或る一説が仮に正しいとしても、夫だけではまだ必ずしも、生命現象がこの種の物質現象に尽きるということの説明にはならないことを、注意しなければならない。なる程その説によって生命の原因として是認された或る化合物の状態が、生命現象の絶対に必要欠くべからざる条件であることに誤りがないにしても、逆に夫が生命現象の充分な条件となるとは限らない。生命現象はそのような物質状態に還元はされるであろう、そうであるからと云って、この物質状態が生命そのものであるということにはならない。とに角それは生命の一条件に過ぎなかった(この点については後を見よ)。この一条件を人々は偶々真の原因と名づけたまでであった。
生命現象は生活物質を内的条件とする、と云った。処が生活物質は元来生物個体の生活物質に他ならない。従ってこの内的条件は、単に物理学的化学的であるばかりではなく、又形態学的な条件ででもなければならぬわけである。今、生命のこの内的・形態学的・条件は、細胞である。生活体の単位――これこそ生物個体の最も極端な場合である――が、従って生命の単位的条件が、細胞であるということこそ、近代の生物学が確立した動かすことの出来ない基礎である(そこで生物学的問題は細胞生理学・Zellularphysiologie に集中すると考えられる)。ここでも亦、細胞の組織学的研究が、多くの生命原因説を産んだことは当然である。顆粒説(K
rner-Granular-theorie)・網状説(Netz-Ger
sttheorie)・縷糸説(Faden-Mitomtheorie)・縷糸顆粒説(Filogranulartheorie)・窩泡説・等々。だが大事なことは、これらの諸説が生命の原因を説明する目的を有つ限り、たといその間に莫大な距離があろうとも、結局、向に挙げた物理学的・化学的・原因説に帰入すべき線上にある、ということである。そうして吾々は再び、このような生命原因説に対して、前に述べたあの在り得べき制限を繰り返して注意することになる*。* 以上の諸説に就いては石川日出鶴丸教授の原理的な労作「生理学原論」(雑誌『生理学研究』)に依る。
さて、生物学乃至生理学のこの実証的研究が、茲で持っている理論的――哲学的――意味は、生命現象が機械的に理解し尽されるか否か、という問題を提出していることにある。だが吾々はまだこの問題に少しも積極的に答えていなかった。一体、生命という概念は機械論的に理解されて足りるものがあるか否か。これが吾々が前に見ておいた第二の問題、生命概念の解釈、なのであった。
第二 生命概念の解釈
例えば機械はどれ程精密で複雑であろうと、死んでいる。之に反して生物はどのような簡単に見えるものでも生きている。機械を吾々はいつでも造ることが出来る、併し生物を(一二の例を除けば)吾々はまだ造った例しがない。少なくとも両者はその特色を異にしている、前者の性格は単なる物質であり、之に反して後者は生命である。今、存在の性格が異るならば、一方の存在に行なわれる諸法則――一般的な諸関係――と他方の存在に行なわれる諸法則とが、全く同一ではあり得ない筈である。処で物質は現に全く機械的法則に支配されている、従って夫は一応機械論的にも理解出来る。之に反して生命はもはや機械論的には理解することが出来ない、少なくとも機械論的に理解し尽すことは出来そうにない。そこには例えば「超機械的な力」――活力――なるものが法則を敷いている、とそう生気論(活力説)は考える。生命過程の物理学的化学的説明を多少とも根本的に放擲しようとしたのは十八世紀のフランスに於ける生気論者から始まった(Bordeu, Barthez, Chaussier, L. Dumas など*)。
* 活力(force vitale)をどう解釈するかによって様々の種類の活力説(生気説)を生じる。
この非科学的に見える帰結にまで誇張された生気論の主張は併しながら、それにも拘らず、或る避けることの出来ない必然性は持っている。少なくとも生物と無生物とが異った存在と考えられねばならぬ点が残る以上、両者は同一の仕方に於て――同一の諸法則に支配されるものとして――理解されることは出来ない筈である。生命概念のこの生気論的解釈はその限りは必然的であることを先ず記憶しておこう。
併し必然的に見えたこの帰結が持ち来す一つの困難は次のことである。もし超機械的な――そのような神秘的性質を持った――力が存在することを許すならば、その力は必ず、生物が支配されている機械的法則を積極的に攪拌し得るに違いなく、そうすれば生物以外に於て正確に行なわれているように見える機械的法則も、生物という存在に就いては通用しない、という例外を設けなければならなくなる、ということである。自然界一般に例外なく通用すべき筈の、即ちそれによって自然界が閉じられた全体として秩序立てられる処の、そうしてそう考えて初めて意味を有つ処の、此の普遍的な機械的法則、――人々は之を自然因果律と呼び慣わしているが――が成立しなくなるのである。之は吾々の現在の自然認識の破綻を告げるに他ならない。吾々の自然認識の理想から云っても又自然科学の過去の歴史的発達から推しても、そのような破綻は忍べない。それ故、生命現象であっても矢張り物理学化学的に説明されるべき筈である、とそう機械論者は云うのである。――生命概念のこの機械論的解釈も、今云った処による限り、必然的であることを覚えておこう。
恐らく全く相反するこの二つの解釈が、何れも夫々の必然性を有つ至極尤もなものではなかったであろうか。で、この有名な二律背反には、多分二つの焦点の混同があるに相違ない。併しそれよりも先に、人々がこの対立をどう形づけたかを見よう。――この場合の代表者としては、元来生物学者であり又同時に哲学の教授である H. Driesch に如く者はない*。
* ドリーシュの思想は”Die Philosophie des Organischen“にまとめられている。なお生気論の歴史と理論の綱要とに就いてはその”Die Vitalismus als Geschichte und als Lehre“が基礎的なものである。
ドリーシュによれば生物・即ち有機体――無論単なる有機物ではない――の特色は、その調和性(因果系列上の・構造上の・及び機能上の・)と調整能力(Regulationsverm
gen)とに現われる。有機体はこの二つの性質によって示されるような合目的性を、而も機械のような静的テレオロギーではなくて動的目的論を、有っている。之がとりも直さず有機体の自律性(固有法則性――Eigengesetzlichkeit)なのである。そこでまず彼によれば、有機体の発展の可能的な運命(それを Prospektive Potenz と呼ぶ)と、現実的な運命(それを Prospektive Bedeutung と呼ぶ)とを区別しなければならない。両者が同値であれば、即ち発展の可能性が、直ちに其の儘、一義的に実現され得るならば、夫が機械に於ての様な静的目的論である。之に反して、前者の値いが後者の値いよりも云わば小さい時、即ち発展の可能性の内、任意のどれかの経路だけが特に実現されるという一種の偶然性があるならば、それこそが有機体に固有な動的テレオロギーなのである*。即ち後の場合では、可能的運命がコンスタントであっても現実的運命は可変的なのである。実際此の種の目的論のみが生気論の唯一の根拠となることが出来るだろう。
* 合目的性――乃至目的論(テレオロギー)――は併し勿論単なる偶然ではない、云わば「偶然的なものの持つ法則性」と云うことが出来る。
有機体乃至生物の自律性を説明するためには、彼によれば、少なくとも四つの実験上の根拠が挙げられ得る。
一、調和的(単一的)等能系の存在。例えば海胆の内皮や外皮のどの一部を取り出しても、その取り出された部分は再生生長する。この場合はであるから、どの部分にも同じ prospektive Potenz があって――等能(
quipotentiell)――、しかもこの取り出された部分に於ては prospektive Bedeutung が再生生長を可能にするべく調和的に分配決定される――調和的。それ故、この種類の系に属する部分のもつ prospektive Bedeutung Sは、その部分が系全体に対する位置関係を示す値いa(系全体の或一定点からその部分の或点までの距離)と、この系自身の絶対的大きさg、との関数であるばかりではなく、同時に何等か内的な機能を示すコンスタント(E)の関数ででもなければならぬ。S = f (a, g, E)。今Eをアリストテレスの言葉を借りてエンテレヒーと呼ぼう、これは目的乃至その実現たる現実を云い表わすギリシア語であった。さて調和的等能系に於てその現実の発達がエンテレヒーによって決定されるということは、有機体の合目的性・自律性・を証明する。何故ならエンテレヒーは、物理的・化学的・な外延量ではないので、自然的因果性――それは合目的性の反対物である――からは独立自律的であったのだから。二、同様な証明は複合的等能系の存在によっても証明される。等能系の組織の一部分を取り除いても、他の部分が之を償って完全な複化した系全体にまで複合するのである。
三、生物は外界の刺激に応じて整調的に行動するのであるが、かかる反応の仕方の個性は、生物の有つ記憶に基くのであるから、歴史的な根柢を有っている。従って行動に於ける反応の決定者は決して機械作用ではなくて一種のエンテレヒーでなければならない。
四、大脳がその一部分を欠損した時、形態上その部分は再生されないにも拘らず、他の部分がその部分の機能を代って取り行なうことが出来る。之は生命が形態――この機械的なるもの――に支配されずに、それ特有の合目的的機能を備えている所以でなくてはならない。
有機体はであるから、決して、機械ではない。それがどれ程複雑で精巧であろうとも、機械はあくまで機械としての性格を失わないのであるが、有機体は之とは異った特殊の性格――生命――を有っている。それ故生命は、即ち又生物は、機械的に――物理的化学的に――説明し得ない点を原理上持っている。そこでは何かの意味で生命原理が必要であるだろう。そうすればもはや生命の機械論は成り立たない、生命はただ生気論的にしか説明され得ない。そう彼は考える。
併し生物の生気論的説明はその機械的説明(必ずしも機械論的ではない)と少しも矛盾しない、とドリーシュは主張する。エンテレヒーは物質でもなくエネルギーでもなく、又物質やエネルギーを生じたり消滅させたりするものではないからである。エンテレヒーは凡そそのような物理的・化学的・外延量とは全く異った要因であった。それは物理学や化学で知られている自然の要因と並存して新しい要素的な特異物として登場してくる処の、独自の一個の自然要因と考えられねばならない。けれども機械的な物質乃至エネルギーと生気論的なこのエンテレヒーとが無関係であっては、無論エンテレヒーの意味はなくなって了う。エンテレヒーは、物質乃至エネルギーの可能的な諸転換の内から、特にある一定の場合だけを(そして之は機械的原理から見れば必然ではなくて偶然に過ぎない)現実的なものとして合目的的に選択する処の、嚮導原理である。そしてかかる嚮導は、無数の諸可能態の内一つを除く他のものを凡て抑圧・制止・して実現させないことによってのみ、行なわれるのである。エンテレヒーの有つ合目的性は自然の機械的因果律を少しも破らない。――之を多少とも破ると考えたのが従来の旧生気論であった。之に反して今はドリーシュにとって、機械的因果律と合目的性との総合として、新生気論(Neovitalismus)が成立したわけである。
第三 目的論に就いて
新生気論は所謂旧生気論と機械論との二律背反を解いたか。併し恐らくドリーシュのかの四つの実験的証明は証明になっていないかも知れない*。それにドリーシュの工夫したエンテレヒーなるものが機械的因果と並存し得るということが、すでに矛盾を含んでいるのを見ねばならぬ。エンテレヒーは物質やエネルギーを発生消滅させるのではなくて、ただその諸転換の或るものを、他の凡ての転換形態を抑止することによって、実現すべく嚮導するだけだと云ったが、之は恰も自然の現実そのもの――決して単にその可能態だけではなく――を凡て機械的因果律によって説明することを使命としている機械的因果律の Abgeschlossenheit(完全性)という要求と、直接に矛盾する。それであればこそ之が機械論ではなくて一種の活力論であったわけである。新生気論は、その細心の配慮にも拘らず、結局、所謂旧生気論の必然性のために、機械論の必然性を単純に放擲することに帰着する。両者の並存それ自身が並存と矛盾する、之はかの二律背反の解決ではない(ドリーシュが生気論の問題から引き出した哲学上の一般的な立場――夫を彼は現象学と呼んでいる――が薄弱であることに就いては今は云わない)。ではかの二律背反を吾々はどうすれば好いか。
* 石川日出鶴丸教授、前掲論文を見よ。
吾々の――生命概念の解釈の――問題は今や、生物学に於て目的論をどう理解するか、に集約される。吾々はこの問題を解けばよい。テレオロギーの問題を最も根本的に解決しようと試みたのがカントであったことを誰しも知っている(その解決が成功したかしなかったかは別として)。テレオロギーがその特色ある仕方において取り扱われたカントの第三批判書『判断力批判』は、カント哲学の他の二つの部門である自然認識の問題と道徳的自由の問題との媒介をなしている点で、カント哲学自身の中心問題なのであるが、今はそれが恰も、吾々の中心問題――生物学に於ける目的論――に直接に結び付いているのである。
自然界はカントによれば、因果的必然性を以て代表者とするような範疇によって構成されている。それに反して道徳の世界は、それ自身が自己目的である所の自由なる人格の結合の世界なのである。併しこう云っただけでは二つの世界は単に独立しているというだけで、両者の結合は明らかにされない。処が実際は自由な人格はこのような自然の必然性の内に生活している。では因果的必然性と自由とはどう関係するか、之が第三批判の課題であったと云っていいだろう。之に対する答えはこうである。自然の必然性が、必然性であることを止めることなくして、而も吾々人格の自由の所産であるかのように考えられねばならない、と。即ち必然性はそのままで自由に対して合目的的な性格を与えられ得ねばならない、と。このように合目的性の問題を提出して之に答えるのがカントのテレオロギー(目的論)であった。
吾々の経験はカントによれば、直観のもつ特殊性が悟性概念(範疇)のもつ普遍性に摂取包含されて成立する。処で一般に特殊を普遍に摂取包含する能力を判断力と云うならば、経験なるものはかかる判断力によって成立すると云うことが出来る。併しこの場合、特殊(直観)と普遍(悟性概念)とが与えられていて、前者が後者を限定している、それ故この摂取包含の仕方は限定的であると云う。この場合の判断力は限定的判断力。之に反してこのようにして出来た諸経験を順次に一層普遍的な体系に組織立てて行く場合――そうしなければ吾々の自然認識は統一を持てない――、もはや必要なこの普遍は与えられてはいない、与えられているものは諸経験という特殊だけであり、諸経験の組織という普遍は却って之に基いて求められる他はない。限定されるべき普遍は与えられていないのだから、この場合の判断力は限定的ではあり得ない、限定と方向が逆である点で、それは反省的であると云う。
さて合目的性はこのような反省的判断力によって成立すると云うのである。それ故合目的性は、限定的――従って之を逆に云い表わせば又構成的――ではなくして、専ら反省的な意味でしか成立しない。と云うのは、合目的性は、例えば因果律――それは限定的・構成的・である――などとは反対に、全く、認識を統制するための原理であり、認識の前進を指導する処の発見的原理であって、常にそのようなものとしての意味を失ってはならないのである。であるから合目的性は、因果性とは階段を異にした、同列に並べて取り扱ってはならない処の、関係である。之がカントの目的論に於ける合目的性の凡ゆる場合の根本的な特色であると云って好い(今、審美的合目的性は論外とする)。
併し今云った、諸経験をより普遍的な体系に組織立てる、という場合に見出される合目的性が、全く形式的であったことを注意しよう。何故なら、こうして自然認識の体系を合目的的に造り上げることは無論吾々主観――理性――の作用の必然性に基くのであるが、併しそうであるからと云って、この必然性が対象そのものから来るということにはならない。この合目的性はであるから対象そのものに対しては全く主観的――形式的――なものであった。今これに反して、対象そのものの構造に於て――吾々の認識の作用に於てではなく――見出される合目的性、それをカントは自然目的と呼ぶのであるが、これこそ実質的な・客観的な・絶対的な・合目的性でなければならない。生物――有機体 Organismus という言葉の意味に注意せよ――が恰も之である。実際、有機体は、その部分と全体、乃至部分相互の間に、目的と手段との内面的な関係があることによって、初めて有機的となることが出来る。
吾々にとって今必要な限りの合目的性をカントは以上のように説明する。――併し、有機体に見出されると云った実質的合目的性は、到底、かの形式的合目的性を一つの特定な存在(生物という)に単に適用したものではない筈である。それが或る意味で適用だと云うならば、特定の生物という存在にしか事実適用出来ないのであるから、その適用には特殊な――形式的合目的性という一般者には無かった――適用の原理が必要な筈である*。そして実質的合目的性のこの特殊な原理は生物という対象自身の内にしか見出しようがない。併しそうすると合目的性は、同じく生物という対象自身の内にあると考えられる因果性と、何処で段階が異ることが出来るのであるか。一方が構成的であり他方が統制的・発見的・原理である筈であったが、一体、認識の作用の側にではなくて対象自身の側に在る統制的原理とか発見的原理とか――いずれも認識の方法(対象的ではない)に関わる何等か主観的な概念であることを忘れるな――は何を意味することが出来るか。そう考えて見ると、有機体のもつ合目的性は、或る意味で(その意味は後を見よ)統制的でありながらも(例えば抑圧・制止・の作用をなす)、なおかつ構成的な因果性と、同列に、同段階に、並ばねばならぬ、ということになりそうである。ドリーシュのエンテレヒーは正にそのような統制的――併し吾々の見た結果によれば結局又構成的な――原理であった。処がこのエンテレヒーの概念が破綻したのであった。
* この点に就いては、田辺元博士『カントの目的論』を参照すべきである。
なる程、統制的とか発見的とかいう概念は、論理学に於ても常に方法の側に属するものである、その限り此等は確かに主観的ではある。けれども実質的合目的性のもつ主観性は決して単に、合目的的でないものを主観が合目的的であるかのように表象することではない。それは主観内の主観性ではない。実は有機体という客観の内の――対象自身の内の――主観性であったことを思い起こそう。之はたしかに方法――主観的――に属するには違いない、併しこの方法は、対象自身の内に之を必然にする根拠を有っている。実質的合目的性は主観から出て来た限りの方法には属さない。であればこそこの合目的性が実質的・客観的・絶対的・であったのである。実質的に合目的的な事物――有機体――の存在は、経験的な、常識的な、先科学的な、一つの事実に他ならない。之は生物学に対して与えられた処の、生物学によって初めてその存在を証明されたのではない処の、生物学自身の与件である。之こそが生物学が出発を始めるべき問題・テーマ・である。単に物理的・化学的・与件――自然現象一般――をどのように精細にした処で生物学のこの与件・このテーマ・は出て来ない。併しそれにも拘らず、このテーマの解決方法は機械的(物理的・化学的)――併し必ずしも機械論的ではない――以外にはあり得ない、何故なら吾々はどのような意味であろうと活力という要因を整合的には許せないから。ただ機械的に分析を進めるに際して、この合目的性が、場合々々のテーマとして、方法的に(ドリーシュの場合の様に自然要因という対象的なものとしてではなくて)、統制・発見・の原理となる、と云うのである。そしてこのような原理がとりも直さず有機体という対象自身の経験的存在の客観の内にのみ横たわっているのであった。
吾々は今や、このようにして、新生気論況んや旧生気論に陥ることなしに、而も生物がもつ客観的な合目的性の、意味と効用とを、理解することが出来る。と同時に、之は決して機械論の是認とはならない。何故なら、有機体が無機物と同一な方法では取り扱い得られないことをこそ、今まで説明して来たのであったから。
さてここまで来て吾々は、機械論と生気論とのかの二律背反を初めて解くことが出来る。――もし機械論が、生物は無機物と完全に同一の方法(広い意味で法則と云うことも出来る)を以て研究されるべきだと主張するならば、又、もし生気論が、生物の研究には活力という特殊の超自然的乃至自然的要因を認めねばならぬと主張するならば、両者は直接に矛盾する。吾々の得た唯一の必然的な立場は、この何れでもなかった。――吾々によれば、機械的因果から独立な之と異った自然要因は不要であり又有害である(之こそ実は所謂機械論の誇張なき主張の精神であった)。そして而も、生命現象乃至生物の存在は単なる物理的・化学的・現象とは異った存在であり、その限りその研究方法(広義の法則)を異にしなければならない(之こそ実は所謂生気論の思い過ごしをしない場合の主張の精神であった)。処でこの二つのテーゼは全く矛盾しない。
この云わば機械論的生気論は併し、決して折衷ではない*。何故か。元来生物は無機物から自然史的に発達して来た。その過程自身は云う迄もなく機械的である。であるから吾々は生物をば、この歴史を溯源すると仮定した上でならば、無機物に還元し得るには違いない。併し自然史のこの現在点に於てすでに出来上っている生物が、この歴史を抜きにして直ちに無機物と完全に同一方法(法則)によって処理され得るのではない。有機体には無機物とは質的に異った性格――それはかの歴史が発展の結果産み出したのである――が備わっており、したがってそこには固有な法則(自律性Eigengesetzlichkeit)が支配するのである**。そしてこの質的相違が生物の合目的性として吾々の問題になって来たのであった。生物が個体であり形態の所有者であったのも、これの結果の一つに他ならない。之こそが真に生物学的なものなのであった(所謂生物学を生理学から、又生理学を物理学化学から、区別したものが実は之である)。――さて生命概念のこのような解釈は、機械論のように同一哲学風に生物と無機物とを無差別に同一視するのでもなく、又生気論のように二元論風に生物と無機物との間に何等か絶対的な間隙を設けるのでもない。生物と無機物との間の事実上の質的相違と相互の連関とを見過さず、而もこの質的相違を自然史の量的推移の必然的な結果として理解するのである。人々はこのような世界観を唯物弁証法と名づけている***。弁証法は機械論に対立するばかりでなく茲では又生気論にも対立する、それが決して両者の折衷ではなかった所以である。
* この曖昧な言葉も吾々のように理解すれば一定の意味を有つことが出来る。此の言葉に就いては M. Verworn : Allgemeine Physiologie, S.50 を参照。
** マックス・フェルヴォルンの条件論(Bedingungslehre, Konditionismus)は、この固有法則を決定するような場合のためにこそ必要な方法論なのである。「条件的命題は凡ゆる合法則性を云い現わす一般的な形式である」(M. Verworn : Die Frage nach den Grenzen d. Erkenntnis)。なお”Allgemeine Physiologie“ S.35-38 を参照。
*** 生物学に於ける弁証法――夫は自然弁証法に属する――に就ては、デボーリン「弁証法と自然科学」、スレプコフ「弁証法的唯物論と生物学」(ロシア版『マルクス主義の旗の下に』N.1)等を参照。
吾々は尚、重大な哲学的諸問題として、進化乃至自然史、心身関係、本能、等の問題を残している。併し之は他の機会に譲らなければならなくなった。
専門家でない私は、生物学論という問題を少しも実質的に解決することは出来なかった。ただその問題の所在を明らかにしその解決の方針を示唆したに過ぎなかっただろう。而も私は生物学者に対して何の貢献もなし得たのではない、却って、生物学の専門家達に向かって、一人の理論家として、一つの要求を提出した結果になるのである。蓋し、生物学とは何か、従って又生物とは何かは、専門家と理論家との協同の下で初めて正当に解決されて行くべき問題と信じるからである。
生物学論は一定の定説ではない、一つの問題である。
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(この文献はN・ハルトマン及びブルカンプが与えたのを基礎にしたものである。*は多少とも邦文の定訳あるものを示す。邦文の文献を集める点で著しく欠陥があると思う。)
追補
私は誤解を防ぐために、次のことを、「生物学論」の最後の個処に関して、付け加えておきたい。生物学に於ける機械論と生気論との対立は、生物が物理学的・化学的・に処理し尽されるか否かの対立である。従ってこの場合の機械論的とか又は機械的とかいう言葉は、とりも直さず、物理学的・化学的・という意味を云い表わすのである。――そこで所謂機械的なこの物理学的・化学的・必然性、又は因果律が、それ自身果して、機械的と呼ばれるままで好いかどうか、夫は次に起こる疑問でなければならない。或いは同じことに帰着するが、自然必然性とか因果律とかが従来通りの意味で成立するかどうか、夫が次の問題である。
この問題に答えない限り、生物学論に於てさえ機械論(生気論に対立する)に対する評価も、又機械論及び生気論に対立する弁証法に関する評価も、根柢的であることが出来ない。――けれどもそのためにはこの数年来急激に変革されつつある新物理学の一定の成果を引き合いに出さねばならない。そうしなければ自然弁証法に関するこの問題は実質的に解かれないのである。そういうわけで「生物学論」は「新物理学論」にまで溯らなければ根柢的にはなれない。之がこの「生物学論」の何よりの制限である。
[#改段]追補
私は誤解を防ぐために、次のことを、「生物学論」の最後の個処に関して、付け加えておきたい。生物学に於ける機械論と生気論との対立は、生物が物理学的・化学的・に処理し尽されるか否かの対立である。従ってこの場合の機械論的とか又は機械的とかいう言葉は、とりも直さず、物理学的・化学的・という意味を云い表わすのである。――そこで所謂機械的なこの物理学的・化学的・必然性、又は因果律が、それ自身果して、機械的と呼ばれるままで好いかどうか、夫は次に起こる疑問でなければならない。或いは同じことに帰着するが、自然必然性とか因果律とかが従来通りの意味で成立するかどうか、夫が次の問題である。
この問題に答えない限り、生物学論に於てさえ機械論(生気論に対立する)に対する評価も、又機械論及び生気論に対立する弁証法に関する評価も、根柢的であることが出来ない。――けれどもそのためにはこの数年来急激に変革されつつある新物理学の一定の成果を引き合いに出さねばならない。そうしなければ自然弁証法に関するこの問題は実質的に解かれないのである。そういうわけで「生物学論」は「新物理学論」にまで溯らなければ根柢的にはなれない。之がこの「生物学論」の何よりの制限である。
唯物史観、史的唯物論、乃至マルクス主義社会科学、之はマルクス主義理論の一部分である。一体マルクス主義とは何であるか。
何はともあれ、マルクス主義を他の一切の事物から区別する根本特色は、よく云われる通り、理論と実践との、飽くことない・積極的な・統一――それは弁証法的な統一でしかあり得ないが――を忘れないという点である。
だからマルクス主義的認識は、単にそれ自身の内部変化によって、自己分析し、自己具体化するのではなくて、夫に対応する実践が歴史的・政治的・に展開を経験するに対応して、初めて自己分析・自己具体化・を遂げることが出来る。だからそれは、マルクス主義的政治活動としての大衆組織や政党成立の社会的な歴史過程に対応して、自らを限定して行かねばならない性質を持っているのである。
だがそれにも拘らず、何よりも注意せねばならぬ点は、マルクス主義が決して、往々人々が想像するように、単に社会理論や歴史理論に限られた理論ではないということである。なる程K・マルクス自身がこの科学を提唱し又遂行するに際しては、主として経済的・政治的・歴史的・又文化乃至精神哲学的・な主題を選んだ。だが、殆んど常に彼とその著作に於てさえ協力していたF・エンゲルスは、マルクス自身の研究方法を、自然科学や自然科学的な人文科学の領域に於ても、活用している。今日の国際的な大衆運動を意識づけているものは、なる程直接にはマルクス主義的社会科学であるが、だからと云ってこの社会科学が其の他のマルクス主義的諸科学と無関係であったり、又社会科学以外のマルクス主義的諸科学が成り立たなかったりする、ということには決してならない。却ってマルクス主義こそは一切の科学的理論を一貫する普遍的な科学・哲学・乃至世界観・でなければならない。実際今日、マルクス主義は一般哲学や自然科学、又は心理学等々に於ける、理論的問題とそれに関した学的実践運動としても、有効に活動しているのが事実である。
で吾々はマルクス主義の理論を普遍科学的な理論として提出することが必要である。だがこの――実践的であるべき――理論は、ここでも亦知識の単なる集積ではなくて、知識の一定の集積に基いてこの集積を累加する処の実行手段でなければならない。夫は単なる既定の教義(定説)ではなくて正に方法でなくてはならない。――理論と実践との統一は、このように、理論それ自身の内部にまで、反映されるのである。――無論理論は常に何かの教義(定説)を含まなければ理論ではない。併しマルクス主義的定説それ自身が自分の内に、定説を展開させる処の方法を蔵している。ここでも理論は単なる理論としてではなく、一つの実践――その理論の展開――としてしか登場しない。さて吾々はマルクス主義に於けるかの理論と実践との統一を、その定説のモメントと方法のモメントとの連関に従って、さし当り見て行こう(以下拙著『科学論』の最後の一部分と重複する個処を含む)。
まず第一にマルクス主義の定説に相当するモメントに就いて。マルクス主義の定説は様々な名辞によって特徴づけられている。科学的社会主義・共産主義・唯物史観・又歪曲されては経済史観・等々。だが一体この種の名づけ方は、単にマルクス主義の一部分を取り出して特徴づけているものでしかない。それは先に云っておいたことから明らかである。マルクス主義とは単なる社会歴史理論ではなくて、普遍的な理論であった。で、そういう普遍的な理論としてのマルクス主義の定説は、正当には弁証法的唯物論(又は唯物弁証法)と名づけられねばならないだろう。さてここで吾々は唯物論と弁証法との二つの契機に注意すべきである。
人々が学校や大学で聴くだろうあり来りの哲学概論に於ては、恐らく唯物論は最も浅薄な卑俗な素朴な思想であるかのように取り扱われるだろう。唯物論は――そして大抵この名の下に十八世紀のフランス唯物論及び十九世紀のドイツ唯物論を頭に置いているのだが――すでに、観念論によって克服され終った古い思想であるかのように教えられるだろう。惰性的頭脳の所有者である世間の俗物の耳にはそして、唯物論は、幼稚にも、金銭崇拝や物欲礼讃の声であるかのようにもひびくようである。俗物は自己の弱点に触れるものをやっきになって否定するのを常とするものである。かくて唯物論は高貴な哲学には相応わしからぬ理論だと考えられる。折角哲学を研究する者が、唯物論を採用するなどは、嘆わしい遺憾なことだと、多くの俗物は考える。併し観念論哲学愛好者や精神家自任者の希望にも拘らず、唯物論はギリシア哲学の発祥以来、未だかつて絶えたことのない、二つの思想の流れの一つである。そして他の一つに較べてより古典的な哲学だったとさえ云わねばならないのである。
唯物論は観念論(唯心論・理想主義)に較べて、より古典的な――より古く又より典型的な――哲学であった。処がそれが、近くカントから初めてヘーゲルに至るドイツ観念論によって、又は十九―二十世紀の新カント派運動によって、又更に極く最近の所謂「近代物理学」の成果によってさえ、哲学に於ても科学に於ても、観念論にまで克服された、と云うのは本当であるか。だが本当はそうではない、そうではない証拠にこそ、恰もマルクス主義――それが最高形式の唯物論である――が存在しているのである。
だが、唯物論とは何か。それが、最も有力な支配的な思想となったのは、十七世紀の英国に於けるT・ホッブズによってであるが、十八世紀のフランスに伝わってはJ・ラ・メトリやC・エルヴェシウスを以て代表者とする所謂フランス唯物論となり、それが更に十九世紀のドイツに渡っては、K・フォークトやJ・モレスコットや又よく読まれたL・ビュヒナー等が代表するドイツ唯物論となった。フランスとドイツとの唯物論者が多く医者であった通り、この種の唯物論は多く生理学的事実を根拠としてその上に成り立っている。思惟や観念は、脳細胞の単なる機能と考えられたり、脳細胞の分泌物であると説明されたりする。そして生理学的諸事実は凡て、結局に於て機械的な物理現象に還元されると考えられたから、結局この種の生理学的唯物論は、物理学的・機械的・唯物論に帰着するものであった。それが恰も、最初のホッブズの根本思想をなした処の唯物論の本質に他ならない。だからこの種の唯物論は――生理学的唯物論として特徴づけられるにも拘らず――、その本質的な特色から云って、機械的唯物論と名づけられねばならない。
人々はL・フォイエルバハの、その宗教批判と共に甚だ多く読まれた、唯物論を、今云った唯物論と同列に並べるかも知れない。だが実は唯物論は、フォイエルバハに於ては、之とは殆んど全く異った面貌の下に現われる。彼の思想が唯物論的だと云われる所以は、フォイエルバハによる存在が、精神的なもの・人間的なもの・ではなくて、優れて自然的なものだと考えられている点に存する。存在とは就中自然であり、之を人間の側から説明すれば感性的な存在となる、というのである。ここで唯物論の根拠となるものは生理学的乃至物理学的な特定の事実又は認識にあるのではなくて、存在そのものが有つと考えられる存在の一般的な根本規定に根ざしている。だからこの云わば自然主義的唯物論は、前の生理学的乃至物理学的唯物論に較べて、より広範な・より根柢的な・根拠に立っているのである。――そして実際、予めこういう広い根本的な意味での唯物論に立つのでなければ、一定の生理学的事実も、生理学的唯物論の根拠としては意識されなかっただろう。なる程一寸見ると、一定の事実を根拠として挙げ得ることは、それだけ唯物論を確固なものにするかのように見えるが、夫は併し同時に、唯物論の限界をそれだけ狭める結果を伴うことをも忘れてはならない。例えば吾々の頭脳の脳細胞の作用から独立して運動する社会的歴史的存在乃至文化諸形象は、脳細胞の機能やましてその分泌物として、どうやって説明出来るだろうか。人間社会の物事は、少なくともこう云った機械論的な取り扱い方では、到底理解出来る筈がないのである。
だがフォイエルバハの自然主義的唯物論の他の一つの特色は、その存在――自然――を、自己同一者として規定していることである。彼によれば存在の概念とは単純に自己同一的であることの概念に他ならない。だから自然はそれ自身の本質から云って不動であり、人間の側から云えば直観――静的観照――の対象でしかない。ギリシア――特にプラトン――以来の形而上学的思想によれば、存在とは正に、このような不動に見られたる――直観されたる――もの、イデアであった。かくて自然の本質は、イデアと同様に、全く形而上学的なものとなる。自然主義的唯物論は形而上学的唯物論でなければならない。
併し唯物論の――乃至哲学一般の――起源から云っても、唯物論はこのような形而上学的唯物論ではなかった。人々は古く、タレスを見るべきだ。そこでは存在――物質――が、それ自身活きて動き又変化するものとして提出されていただろう。タレスの水は誠によく存在のそういう性質を象徴しているではないか。
マルクス主義に於ける唯物論は、機械的唯物論でもなければ形而上学的唯物論でもない。現代唯物論・マルクス主義的唯物論・によれば、存在とは、主観――意識・自由意志・等々――から独立に、客観的に、運動する処のものである。存在のこういう最も根本的な一般的な規定を捉えて、物質と呼ぶ。茲で物質というのは、物理学的乃至生理学的唯物論に於てのような一定の科学的範疇によって制限された物理学的物質や、同じく又夫に帰着する処の、単純に自然である処のものとしての物質ではない。物質とは存在自身を云い表わす哲学的範疇である。存在ということ、又は存在するということが、物質ということなのである。――この物質が唯物論の最も広範な又最も根柢的な根拠に他ならない。運動する――客観的な――物質を以て存在を規定する処のこの普遍的な唯物論は、前にも云った通り、機械論的でもなければ形而上学的でもなかった。であるからそれは正に弁証法的なのである。――さて吾々はここで第二のモメントである弁証法に這入る。
マルクス主義的唯物論――それが弁証法的唯物論であった――によれば、物質は弁証法的性質を持っている。と云うのは、物質が運動するに際して従う処の法則がとりも直さず弁証法なのである。それは併しどういう意味でか。物質はそれが物質である限り、運動する。処が運動とは、一点に於ける点なり物体なりの、存在と非存在と――この二つの矛盾対立物――の統一なのである。今もしエレア主義的形而上学に従うならば、こういう矛盾はあくまで矛盾であって到底統一などに齎され得る筈がない。エレアのゼノンはだから運動の成立が不可能だと主張するのである。だが事実、運動はこのようにして、矛盾対立物の統一である。運動はこの矛盾に基いて初めて運動であることが出来る。矛盾対立に基くということが運動の根本的な弁証法性に他ならない。――だが、この場合に見られるものだけが物質の弁証法性の凡てではない。運動の又弁証法のも一つの特色は、一定の運動の量の変化が、一定の運動の質の転換を伴うことにある。例えば之まで自然として運動して来た物質が、その運動の量を蓄積することによって、之と質的に対立した異った運動にまで、即ち自然の運動ではなくて例えばその対立物としての社会の運動にまで、展化する、ということにある。自然物の運動(例えば星雲の回転)やそれの蓄積に基く自然自体の運動(天体乃至地球の自然史)――ここではカント・ラプラスの仮説を思い起こせ――は事実、人間社会の歴史にまで展化して今日に至っている。人間社会になれば、意識とか文化とかいう、普通の意味で存在と名づけて良いか悪いか判らないような一種の殆んど全く新しい存在を吾々は見出す。物質はここでは、自分の物質としての運動を蓄積することによって、もはや単純には物質とは考えられないものにまで運動するのである。この運動は物質の歴史的発展の過程から生じて来る。そこで物質のこの歴史的発展性こそが実は、物質の弁証法だったのである。実際、如何なる運動と雖も時間――それの経過が一般に歴史である――なくしては行なわれなかった。
弁証法的なこの物質は、歴史的発展物である。歴史は常に新しい質的に異った存在を展開する、歴史自身はそれ特有の必然的な飛躍を有っている。併しこの歴史的発展を抜きにして、人々は理論的にも実行的にも、任意の存在から存在へと飛躍することは出来ない。例えば無機物を機械的に集成しても必ずしも有機体は発生しないし、意識を脳細胞の分泌であると説明しても少しも科学的にはならない。まして人間社会の歴史は、人間肉体の頭脳の単なる所産などではあり得ない。そこには常に、歴史の時間の苦心が潜んでいるのである。諸存在の間の秩序を与えているものは他でもない、物質発展のこの時間である。物質の弁証法性はそこにある。
マルクス主義の定説である弁証法的唯物論は一応こうであるとして、このような理論は、直ちに理論研究の実践に結び付いていた。理論と実践とのこの場合の統一も亦、マルクス主義の本質からくる一つの場合に他ならなかった。吾々は――定説の次に第二に――マルクス主義の方法へ行こう。そこには唯物論的弁証法がある。茲でも亦吾々は唯物論と弁証法との二つのモメントを区別して行かねばならぬ。
多くの人々は考えている、一般的な場合は特殊の場合を包摂する、だから一般的に云われたことは特殊な場合にもあて嵌まることが出来る、と。処で形式は一つの一般者である、だから形式的に規定されたことは個々の内容にもそのままあて嵌まらねばならない、と。処が実際はそうではない。個々の内容から来る規定は、形式的な規定によって単に云い尽くされないばかりではなく、往々之と矛盾するものである。形式主義は形式から来る原理を以て内容から来る原理を排斥する、だから夫は内容主義と必然的に矛盾しなければならないのである。処でマルクス主義的方法は、何か既成の形式的な認識から出発する代りに、個々の内容的な認識から出発する、それは内容主義と呼ばれて好い。――処が次に、一般的な又形式的な認識――科学的認識は之を行き着くべき終点とする――を可能にするものは、概念乃至観念である。だが概念乃至観念は常に、実在に就いての概念乃至観念であることを忘れてはならない。認識は実在に就いての認識でなければならないが、もし概念乃至観念を認識の出発点とするならば、そういう認識は、常にそれだけ実在への肉迫力を欠くわけである。否肉迫力を欠くが故に、誤った認識を結果せずにはいないのである。でマルクス主義的方法は、概念乃至観念の収集分析から出発する代りに、実在自身の収集分析から出発する、それはその限り云わば概念主義に対する実在主義と呼ばれて好いだろう。
さて、内容主義であり実在主義である処のマルクス主義的方法は、正に唯物論――質料主義――でなければならない。そこでは材料の充分なる占有がまず第一の問題である。研究は常に実証的でなくてはならない(但しであるからと云って決して実証主義的であってはならない――後を見よ)。
併し、形式主義的であり概念主義的である処の研究方法は、実は形式論理学的方法に他ならない。だからこういう方法が、形式論理学を絶対的な武器としていたスコラ哲学の方法であったことは、極めて当然であった。処がマルクス主義的方法は之に反して、正に弁証法的でなくてはならぬ。形式論理学は同一律に基く、又同じことであるが矛盾排除に基く。だからそこで取り扱われる事実は、凡て自己同一的な固定物としてしか登場出来ない。そういう固定物をつき合わせて出来た認識の対象界は、全く機械的な又――前に云った意味で――形而上学的な世界でしかない。弁証法的方法は之に反して、却って矛盾そのものを槓杆とする。そこで取り扱われる事物は矛盾をこそその本質としている。それであればこそ、その矛盾を統一すべく、事物は運動して止まないものとして取り扱われなくてはならない。そして本来存在自身がそう取り扱われねばならない性質を有ったものであった――前を見よ。
マルクス主義に於ける唯物論的方法は実証的であった、だがそれは実証主義的であってはならない。実証主義は経験的事実の単なる収集・記述・の外へ一歩も出ないことをその方針とする、夫は経験主義に他ならない。処が弁証法的方法は、経験的事実の一定段階の収集の結果として、原理――それはもはや単なる経験的事実ではない――を抽出する。そう云った云わばアプリオリを産むものは経験であるが、一旦産まれたアプリオリは逆に経験を指導して新しい経験を産む。経験と先験的なるものとは、かくて弁証法的統一をなすことによって歴史的に展開する。この発展の方法が取りも直さず弁証法なのである(カントのアプリオリは、それが経験と共に始まったという規定を結局忘れて了う処に特色を有っていた、だから夫は何か天下り式に機能すると考えられる)。――併し原理とは何か。それは本質――物自体――に対応する処の認識である、恰も経験が現象に対応したように。だから経験の発展の結果によって原理を抽出する方法は、現象の根柢に本質を見出す方法に他ならない。原理によって経験を指導することは、事実を本質の現象形態として理解することである。かくて経験的事実の歴史的運動を初めて説明することが出来る。実証主義は処で、恰もこういう本質による説明を放擲する。だからそこでは、事物の歴史的動態は全く理解の外に置かれて了う。予見せんがために見るという実証主義の元来の精神はもはやどこにもない。そういう歴史的予見を与え得るものは、却ってただ弁証法的方法でしかないのである。
さて最後に、実証的研究から出発する処の唯物論的弁証法の方法は、云うまでもなく、観念論的弁証法であることが出来ない。尤も実証的研究は、前に云った通り、原理的研究にまで展化して行かねばならず、実証的研究方法は、原理的な叙述方法にまで展化しなければならない。そうしなければ理論の方法は完備しない。その時、実証的研究方法のこの結果に過ぎない処の、原理的叙述方法だけを、単独に取り出して見るならば、それは多分、初めから天下り式原理に従っている処の、観念論的弁証法の、研究方法=叙述方法と、混同される程似ているだろう。だが現象の類似は本質の同一を告げるものではない。マルクスの『資本論』に於ける商品の分析は、弁証法的叙述方法の典型であるが、一見それは全くヘーゲル的に見えるだろう。併し問題は、マルクスとヘーゲルとが、如何に異った相反した研究方法を採っていたかにあるのである。ヘーゲルの観念論的弁証法にとっては、叙述の始原が即ち又存在の始原である。だから叙述に於て最も直接的・抽象的・なものは、存在に於ても亦、直接的・抽象的・であらざるを得ない。即ち研究は最も抽象的な所与(直接者)から始められることになる。之に反してマルクス主義によれば、存在の始原は叙述の始原とは別である、叙述に於て最も直接的・抽象的・なものは、実は存在に於て最も間接的・具体的・なものに依存する。だから研究はこの最も具体的な存在を所与(直接者)とする。かくて、之は観念的方法ではなくて正に唯物的・実証的・方法であるのである。
マルクス主義はその定説から云えば弁証法的唯物論であり、その方法から云えば唯物論的弁証法である。そして定説と方法とのこの対立物は一つに統一されている。それはマルクス主義に於ける理論と実践との統一の一つの結果に過ぎなかった。――以上がマルクス主義理論の一般的な内容である。それは世界観・哲学・であると共に、科学的研究方法である。而もこのような理論がすぐ様、あくことなく、実践に、就中政治的実践に結合していたことを忘れてはならない。
だが政治的実践と云えば、問題はすでに、歴史的社会的な人間生活に関係して来る。ここで吾々は初めて、吾々の限定された問題、社会科学の問題に来る、話は唯物史観に這入る。
唯物史観(史的唯物論)と訳されるものは、云うまでもなく、歴史の、人間社会の歴史の、唯物論的(唯物弁証法的)把握のことである。だからそれは定説としては弁証法的唯物論の一つの部分であり、又方法としては唯物論的弁証法の一つの適用であり、又それに過ぎないことを注意すべきである。弁証法的唯物論の他の部分はそして、自然弁証法と呼ばれる処のものであり、又唯物論的弁証法という方法一般は弁証法的(唯物弁証法)論理なのである。――だから要するに唯物史観は、自然弁証法の対比物であり、弁証法的論理の対応物だ、と云わねばならぬ。それはマルクス主義理論の一部分であり、又夫に過ぎない。――まず第一に、唯物史観の定説を述べよう。
唯物史観の問題は人間の社会的存在という事実と共に始まる。人間は社会の時代々々の与えられた一定の物質的生活条件の下に、行為・生活・している。処でこの人間生活の過程は、一口で云えば食うことと産むこととをその物理的根柢としている。云い直せば、人間の生活過程は生活資料の生産と新しい個体の生産とを、要するにそういう物質的生産を、その根柢としているのである。だが人間生活を他の動物生活から区別するものは、人間が個体を生産する能力を有っているという点にあるのではなくて、人間が生活資料を優れて生産し得るという処に、即ち労働によって之を生産するという処に、而も労働用具の生産(労働による)を通じての労働によって之を生産するという処に、横たわる。こういう人間的な労働による物質的生産は併し、個々の人間にとっては初めから与えられたものとしての、即ち彼の意志の自由からは独立な客体としての、様々な――自然的及び歴史的に規定されている――物質的生活条件の下で初めて、社会的に一定の具体的な形を取るのである。
人間的労働による物理的生産――それはすでに個人的な意味を脱して了った社会的なものなのだが――には併し、労働用具の他に、労働の対象物がなくてはならぬ筈である。労働用具と労働対象とが生産のための手段となる。この生産手段の如何によって、人間社会に於ける物質的生産力が規定されて来るのである。人間的労働をする処のその労働の肉体的精神的力が、抽象的にではなく、一定の与えられた社会の発展段階に於て具体的内容を有ったものとして、考えられる時、それが人間的労働力に他ならない(マルクスの所謂「抽象的人間労働」による「労働力」)。労働力・労働用具・労働対象・は生産力を構成する。
併し、生産手段としての労働用具も労働対象も、生産する個人にとっては、自然的及び歴史的な所与であり、労働用具のそれ以上の発達も労働対象のそれ以上の産出・発見・も、この与えられた条件によって制約されている。そればかりではない、このような生産手段の発達は各々の部分々々に於ては個人の意識的工夫に依存すると考えられるが、その全体に於ては、各個人に対してすでに自分の意志では左右出来ない客観性を持っている。生産手段は個人一般という仮定物から見れば、個人の自由によって発達することにもなるが、本当の個人である各個人にとっては、その意志の自由とは独立に発達する。この生産手段は超個人的に、社会的に、客観的に、歴史的発展をなすものとして、云い表わされねばならない。之によって決定される物的な生産力は、単にその材料が物理学的(例えば機械)乃至生物学的(例えば人間的労働力)物質を根柢としているからばかりでなく、又今云った意味からも、物質的でなければならないわけである。この物的な生産力なるものは一つの唯物論的概念でなくてはならない。
物的な生産力の与件は、社会に於ける一定の生産様式を造り出し、この生産様式がそれに対応する一定の物質的生産諸関係をなり立たせる。この物質的生産諸関係が、所謂経済と呼ばれる機構の本質であり、それが社会関係の基礎建築・下部構造・をなす。ここに社会の物質的地盤が横たわる。
社会に於ける生産諸関係は、財産の所有関係を伴って来る。今この所有関係が社会に於て、個人相互が承認すべき公共的な一関係として、意識化されると、それが法律制度に他ならない。無論法文の外見からすれば、法律は必ずしも所有関係を規定しているものばかりとは限らないが、法律制度の本質から云えば、それは与えられた一定の所有関係を合法化すための体系でしかない。――法律制度が併し一寸見ると露骨には経済的な所有関係を示さない理由は、法律が直接にこの関係を云い表わす代りに、政治制度という関係を通過するからである。だがこの政治こそ一定の与えられた生産関係・所有関係・を保持し強化するための、人間行為の実践形態の一つなのである。通常の意味での政治とは、人間乃至人間群が、それが住む一定の既成の社会秩序を維持するために、他の人間乃至人間群を、何かの物理的威力をたのんで、支配することである。処がこの社会秩序と考えられるものこそ、その実質に於て、社会に於ける所有関係に他ならない。生産という人間的実践が物的体系として定着されたものが所有関係であり、政治というより高度の複雑な人間的実践が同じく定着されたものが社会秩序である。そして生産が社会に於ける生産であるという処から、それが必然的に政治という形態を取らねばならないのである。法律とはこういう政治制度のための観念的な依り処に他ならない。
法律制度乃至政治制度は、社会の物質的地盤・下部構造・である経済関係としての生産諸関係の、必然的な結論である。併し、法律制度乃至政治制度は、であるからと云って決して、経済関係それ自身ではない。それは経済関係という肉体によって規定されて、初めて一定の形態を取ることが出来る処の、被覆に相当するものである。それは社会の下部構造によって制約されるという意味で、上部構造と呼ばれて好い。
法律や政治を社会の上部構造として、社会の下部構造から区別する処のものは、下部構造に相応する人間的実践――生産――、乃至それが物的体系にまで定着されたもの――生産関係――が、特に優れて意識化されるという条件である。無論人間の実践は、それがどんな生産であろうが、どんな労働であろうが、意識なしには不可能だが、已にそれ自身意識的である処のこの実践が、更に、より高度の複雑した他種類の実践となる迄に、意識化すと、夫が政治的実践となり、立法・司法・の実践となるのである。で大事なことは、政治や法律が、単に意識的であるというばかりではなく、或るものが特に意識化されたものだということである。何かが意識化されるとは、即ち意識化という過程が成り立つということは、まだ意識化されないものが意識化されること、即ちその意味で、意識的でないもの――物質的なもの――が意識的なものになるということである。物質的なものが意識の世界にまで転入するということである。――で法律や政治という上部構造は、かの物質的な下部構造に対して、意識・観念・の性格を有つわけである。
だがこの意識は、単に無条件に理解された限りの意識ではなくて、社会の夫々一定の物質的下部構造によって制約された限りの、社会の夫々一定の意識でなくてはならなかった。それは夫々の意識形態――観念形態――であると云うべきである。こうした意識形態・観念形態・としての社会の上部構造を、人々は一般にイデオロギーと呼んでいる。
イデオロギーは併し、何も政治や法律に限らない、社会に存在する一切の意識・観念・の形態は凡て、イデオロギーとして理解されることによって、初めて相互の連関を統一的に理解されることが出来る。吾々は政治制度や法律に対して、之から一応区別せねばならない処の他群のイデオロギーを持っている。道徳・宗教・科学乃至哲学・芸術・等々を。之等の所謂文化も亦、一つの上部構造として、終局に於て社会の下部構造から、物質的な生産諸関係から、決定されたものとして、理解されねばならない。云って見れば文化は単に文化としてではなくして、文化形態として、理解されねばならない、それがイデオロギーである所以なのである。――実際、諸文化は多く、政治乃至法律を通じて、或いは一定の政治思想乃至一定の法律精神を媒介として、その形態を決定されるだろう。そして之は結局、生産関係によってその形態を決定されるということに他ならなかった。尤も諸文化形態が、当然なことながら、政治乃至法律のイデオロギーを通過せずに、直接に生産関係から決定されるという場合は、無論あり得るわけである。
法律乃至政治でもなく、又所謂文化でもない処の、社会に於ける人間の心理(狭義の意識)を考えるならば、夫も亦、一つのこのようなイデオロギーの群でなければならない。
さて、以上のようなものが、唯物史観による、社会の階層的構造である。之は社会の云わば静力学に相当するだろう。之を一言で要約すれば、社会の物質的な下部構造の方が、社会の精神的な上部構造の方を、決定・規定・するということである。人間の意識が社会の存在を決定するのではなくて、社会の客観的存在が人間の意識を決定する。之は、唯物史観の定説に於ける、唯物論のモメントを云い表わす。
社会は併し常に歴史的社会である、社会は常にその静止的組織を組織替えつつ生活する処の、云わば一つの生命過程である。だからその静力学は云わばその動力学に相当するものにまで編入し直されなくてはならない。今迄無雑作に静力学的に述べて来た社会の構造は、実は決して単なる――静止的関係としての――所謂構造ではなくて、そういう静止的構造が組織替えされて行く処の、過程それ自身の構造でなければならなかった。社会の下部構造が社会の上部構造を決定すると云ったことは、決して後者が前者の上に位置するということだけではない。それならば無意味な同語反覆に過ぎないだろう。そうではなくて、社会全体が歴史的に運動するに当って、その運動がまず下部構造から起こり、之が上部構造の運動を呼び起こすと考えることによって、この運動全体が統一的に分析出来る、ということだったのである。――弁証法的唯物論の一部分としての唯物史観の定説は、社会を単に物質的な本質と見るばかりではなく、この物質的な社会を、歴史的発展を持つ弁証法的本質として、見ねばならない筈であった。唯物史観の定説に於ける唯物論のモメントは今や、その弁証法のモメントに結合されねばならぬ。そして之から吾々は、唯物史観の定説の内に、唯物史観の方法を織り込んで行かざるを得なくなるだろう。
唯物史観の・或いは一般にマルクス主義の・方法は唯物論的弁証法であった。それは一方に於て弁証法的方法であり、他方に於て唯物論的方法である。今この二つの規定を、唯物史観に於ける根本概念である処の、決定・規定・の概念に当て嵌めて検討して見よう。
弁証法としての唯物史観的方法は、存在たる社会を、固定静止したものと見ることを徹底的に排斥する。存在は凡て、弁証法的に・歴史的に、運動・変化・して止まない。だからその限り、無条件に固定した・超歴史的に永遠な・本質はあり得ない、従って又そう云った本質の諸関係である処の、存在の永久の構造の如きもあり得ない。弁証法とは凡そこのような機械的見解の正反対なのである。人々は仮に、マルクス主義的方法がこの点で、如何に現象学的方法(特にE・フッセルルの)と正反対であるかを見るのが便宜である――次を見よ。社会の下部構造が社会の上部構造を決定・規定・するということは、だから、社会のこう云った「本質的構造」とは全く別なことなのである。
処が併し、運動や変化は或る意味で変化しないものがなければ運動とも変化ともならない。もしそうでなければ事物を歴史的・弁証法的・に見ることは、結局之を歴史主義的に・相対主義的に・見ることに終って了う他はない。今この不変なものは併し、かの無条件に永久な所謂――現象学的――本質とは異って、変化するものと絶縁する代りに、之との統一を、之との弁証法的統一を、忘れない処の不変者である。即ちこの本質は変化するものを自分の現象諸形態として貫くものでなければならぬ。そういう――マルクス主義的――本質は、最も洗練された概念としての物自体に相当すると云うことが出来るだろう。茲でも亦人々は、マルクス主義的方法と現象学的方法との対立に注意すべきである。元来コントの実証主義の系譜にぞくする現象学は、一切の事物を現象の資格にとじ込めることによって、本質と現象との弁証法的統一を抹殺して了うのである。かの機械的な現象学が、事物を非歴史的に見ねばならなかったのも(吾々の言葉によれば之こそ形而上学的である)、実は茲から来たのであった。であるからそこでは決定とか規定とか云うことが、少しも歴史的な動的決定・規定・を意味し得なかった。明らかに之は唯物史観的方法の正反対である。――唯物史観の弁証法的方法によれば、決定・規定・の概念は歴史的決定・歴史的規定・の概念である。で、それは因果関係でなくてはならぬ。
因果関係は、時間がその内で役割を果す処の特別な関係を云うのであるが、時間が積極的にその役割を果すのは、自然に於てではなくて却って歴史に於てである。だから、因果関係は、自然に取ってよりも寧ろ歴史に取ってこそ固有であるべきだ。この点は注目を必要とする。
社会の下部構造は単に下部にあるもの・上部構造の規定者・ではなくて、上部構造の歴史的原因でなければならず、従って上部構造はこれと同じ意味で、下部構造の歴史的結果でなければならぬ。社会のこういう動的な因果関係の断面が、偶々社会の静止的な構造であった。――之がこの方法の弁証法のモメントに相当する。
次にこの方法の唯物論のモメントに沿うて、規定・決定・の概念を取り上げる。人々はよく云う、社会はなる程、精神的な部分と共に物質的な部分を持っている、だが物質的な部分だけが精神的な部分を決定・規定・すると見るのは片手落ちだ、同様に、精神的なものも亦物質的なものを決定・規定・するのが事実ではないか、そうすれば、社会のこの二つの部分の決定・規定・の関係は、交互関係又は、相関関係でなければならぬ、と。それはそうである、成程それは事実である、歴史的社会の現象はその通りだ。だが問題は、こういう現象を如何に統一的に分析するかである、即ちこの現象を如何にその本質から理解するかにある。で、そういう本質を見出すために吾々は、諸現象を区画している処の現象形態を見付けねばならぬ。即ち諸現象を形態的に規定・決定・している処の本質を見出さなければならない。処でこうやって見出された限りの本質が、他でもない社会の物質的な下部構造――生産諸関係――だと云うのである。歴史的社会の存在を部分的に取り上げて好いならば、どこでも物質的なものと精神的なものとは交互決定の関係に置かれているだろう。併し之を全般的に・統一的に・取り上げるためには、そういう認識は役立たない。個々の現象に就いては交互決定があろう、統一的な現象諸形態に就いては、もはや一方的な――唯物論的な――決定関係しか残されない。そうしないと、社会の歴史的過程を理論的に展開も出来なければ溯源も出来ないだろう、社会の歴史的認識も社会に於ける政治的実践も不可能となるのである。イデオロギーが終局に於て、社会の下部構造によって規定・決定・されると云われる所以である。――之が唯物史観的方法の唯物論のモメントに相当する。
さて之だけの準備をした上で吾々は、唯物史観の形式の核心に踏み込むことが出来る。
唯物史観によれば社会は歴史的な発展物である、社会は変化する。無論社会の変化は単純な突然変異ではないが、そうかと云って単なる漸次的推移でもない。量的に見て漸次的である推移が、一定量の蓄積によって、質的な変化を、即ち質的な対立を、即ち質的飛躍を、結果する。社会は弁証法的発展をなす、それは分裂を通しての統一によって新しい段階に向かって進んで行く。夫は矛盾と矛盾に於ける統一との、矛盾的・弁証法的・統一によって運動する。社会の歴史は矛盾をその動力とする。
だが歴史の動力としてのこの矛盾は、ヘーゲルの考えたように概念の内に横たわるのでもなく、又吾々の意識とか自覚とかの内に横たわるのでもない。夫は正に、社会に於ける歴史的原因であった処の物質的下部構造に、そしてさし当り、生産諸関係の内部に潜んでいるのである。と云うのは、元来生産諸関係は、物的生産力を内容として成り立った処の一定形態の形式であったが、一定の発展段階にあった処の生産力が、之に対応する一定の生産諸関係として客観化・具体化されると、生産力自身のその後の云わば自然的な成長にも拘らず、生産諸関係の方はそのまま定着されて了うのは自然である。かくて、かつて生産力に相応し得た処の一定の生産関係は、却って、生産力の発達を妨げる処の桎梏にまで転化して了う。物質的生産力とこの一定の生産諸関係とは矛盾することとなり、この一定の生産諸関係はその内部に、可能的な新しい生産諸関係にまで成長せねばならぬ処の否定的契機を孕んで来なければならない。之が生産諸関係に内在する物質的矛盾なのである。社会と社会的諸存在との一切の歴史的諸発展は、要するに物質的な生産諸関係に内在するこの矛盾の、止揚と再分裂との弁証法的過程に他ならない。この過程の叙述がそして、唯物史観=社会科学の内容に他ならないのである。
人は問うかも知れない、ではその最後の物的生産力はどうやって成長するのか。夫は人間の知識や技術を俟つことなくしては発達し得よう筈がないではないか、そうすればそれは一面観念的なものでもなければならないではないか、なぜ特に物質的と考えられねばならないのか、と。この問いに対しては吾々は已に答えておいた、社会に於ける生産力である限り、単なる自然力のように全く観念的な側面を持たないわけにはいかないのは、自明なことである。だが問題の核心は、社会の歴史的発展の全体を、この生産力の客観的――物質的・自然的・成長――と生産関係との矛盾から、説明するということに存する。社会は木や石ではない、ただ夫をその物質的なモメントから出発して説明しなければ、まとまりがつかないように出来ていると云うのである。
人間社会の歴史的発達は、人間社会の自然史的発達が高度に具体化したものである。だから歴史の抽象的一面は、この意味に於ける自然史(博物学)的基礎を有ち、又歴史そのものは、自然史をその時間上の先行条件とする。一般的にダーウィン説と呼ばれて好い進化論は、この抽象面とこの先史的時間点とに於て、唯物史観と交錯する。だが唯物史観のプロパーな問題は、人間社会生活の原始的な諸条件とその発展との研究から始まる。そこでは人類学的・考古学的・人種学的・土俗学的・な諸研究――それは現在に於ける原始民族の研究に俟つ処が甚だ多い――が、唯物史観的根本方法によって貫かれねばならぬ。例えばF・エンゲルスの『家族・私有財産・国家・の起源』はこの研究の代表的な一例である。――併し唯物史観の何よりもの特色は、夫が生産関係を基準として、社会の発展を最も統一的に客観的に段階づけることが出来るということである。マルクスによれば社会は主に、アジア的、古代的(奴隷制度的)、封建的、近世資本主義的(市民社会的)の四つの生産関係(乃至生産様式)の発展段階に分けられる(尤も最初の二つを一つにして三段階に数えても好い)。之が歴史学的記述のための根本区別の一例なのである。
世界歴史のこのような段階づけが、マルクスに至って初めて意識的になったということには、意味がある。と云うのは、近世資本主義的生産関係に立たされるのでなければ、こういう区画に従う歴史記述の方法を意識することは出来なかっただろう。元来唯物史観は、(近世)資本主義的生産関係から生じた処の、一つの特有なイデオロギーなのである。だが歴史記述のこの区画は、ただ概観的な思い付きによったものではなくて、社会の一定のマルクス主義的分析の結果、必然的に与えられた処のものである。――唯物史観に於ける歴史記述は、社会の分析と、表裏をなして対応する。そして歴史記述が、歴史の過去の出発点から始められねばならぬに反して、社会分析は歴史の現在に於ける到着点から始められねばならない。唯物史観的歴史記述が発見されたのが、現在の近世資本主義制度の下に於てでなければならなかった所以である。
元来、一切の事物がそうであるが、社会の組織的構造――論理的秩序――は、社会の歴史的秩序を反映する。現在に於ける社会が持つ構造上の諸モメントは――夫が分析によって分離され且つ総合されるのである――、尽く、社会が歴史的に経過して来た処の諸モメント――夫が歴史記述によって跡づけられるのである――が、最後の具体化に至るまでの歴史過程によって磨きをかけられた処の、痕跡に他ならない。それ故吾々は、理論的な歴史記述をするためには、現在に於ける――之が歴史の最も具体化されている時間点である――社会を分析すれば好いわけであり、又是非ともそうしなければならないわけである。で、人間社会の歴史記述は或いは寧ろ歴史的分析は、現段階の社会の、即ち資本主義社会の、理論的分析を以て始められなければならない。
さて、現在に至るまでの社会の、最後の・従って又最も具体的な・段階であるこの(近世)資本主義社会は、膨大な商品集積の世界であるということを、他のものとは異る性格としている。そこでは一切の事物が商品として、或いは商品と結び付けられて、最後の社会的意味を受け取る。一切の社会的存在の社会関係は、商品世界によって性格づけられ、商品の構造の内に自分の構造を集約する。資本主義社会・ブルジョア社会・は、自分の特有な性格として、商品世界を抽出するのである(商品でない処の事物がいくらでもあるということは、この社会の性格が商品社会だということを何も妨げはしない)。之は歴史がその過程を通じてブルジョア社会にまで具体化して来た、その結果、必然的にそれ自らに施す処の抽象・自己分析・である。吾々が今、社会の、即ちブルジョア社会の、分析を始めるためには、――そして分析とは常に抽象である――、だから、この商品という抽象物を、吾々の行なう分析――抽象――の手懸りとする他はないのである。吾々の分析は、かくて、社会の歴史が現在に於て示している自己抽象――商品の抽出及びそれに続く一切のもの――に従うことによって初めて、客観的な社会の現在段階に於ける具体的連関を認識に迄反映することが出来る。一般に吾々は、こうやって初めて、分析という抽象を用いることによって却って認識を具体化することが出来るのである。
ブルジョア社会に於ける商品は、社会自身の構造を自分の構造として集約している、商品には一切のブルジョア社会関係が、その人的関係をも含めて、含蓄されている(商品の物神崇拝性)。――夫はこうである。
商品は何時の世でも、使用価値と交換価値とを持つが、ブルジョア社会の商品は、使用・消費・故の交換を目的として生産されるのではなくて、単なる交換を目的として生産されるのだから、商品価値は専ら交換価値に帰着する。様々に質を異にした使用価値は、そのものとしては相互の比較を許さないが、交換価値になれば共通の尺度によって相互に比較されることが出来る。商品の価値は、与えられた発展段階に於ける生産関係に相応する処の平均的な人間の平均労働のどれだけが(何時間分が)その商品生産に必要であるかによって、決定される。価値の生産者は人間労働である。――この価値に基いて初めて商品交換は可能となる。そして一切の商品交換のための共通な用具として、特殊な物性と社会的機能とを備えた一定の商品として、金・貨幣が見出される。
人間は何時の世でも労働力を持ち又之を働かせる。だが資本主義社会に於ては、社会の大多数の人員が、特徴的に、労働用具と労働対象との一切の所有権を、産れながらに失って了っているということがその特色である。処が彼等が生活するためには、即ちその労働力を働かせるためには、労働の手段と対象とを一時たりとも自分の手許に置いて使わねばならぬ。だが彼等労働力のみの所有者――労働者――が労働用具と労働対象とを使うということは、資本主義社会では、労働用具と労働対象との少数の私有者に彼等自身が使われるということである。この雇傭関係は、彼等多数の無産者が、生活するために、少数のかの私有財産の所有者に向かって、自分の労働力を売り渡し、夫の価格として労賃を受け取るという、交換過程である。之は生きた労働力を商品と見立てた処の商品交換であるから、その場合の雇傭関係は自由契約の形式を踏むのである。
労働力を労働者から時価を以て購入した私有者は、自由に、この労働力を最も能率よく使用せしめることによって、労賃以上の売値に相当するだけの価値を有つ商品を生産せしめる。こうやって出来上った商品の価値はだから、使用した労働の価値よりも多いわけである。その多いだけの価値を余剰価値と名づける。即ち、私有者は支払った労賃以上の価格で商品を売ることによって、利潤を居ながらにして受け取るのである(無論この限りの利潤は、その一部分が余剰価値のそれ以上の再生産の種としてすぐ様引き上げられねばならぬが)。この利潤は無論労働力の売渡し人には返らない、彼等にはすでに労賃が、而も時価という正義に合した価格で、合意の上支払われてあった。――だがそれにも拘らず、余剰価値は、労働力所有の労働によって生産されたものだという事実に、変りはない。処がそれが、労働する代りに労働力を購買・管理・するだけの労を取ったに過ぎない労働用具・労働対象・の私有者の手に、帰するのである。だからこの関係は収〔搾〕取である。之は私有者の悪意や善意とは無関係に収〔搾〕取なのである。
この収〔搾〕取という根本機構は、それ自身の内に自分を益々強めて行く構造を含んでいる。余剰価値は、無限に余剰価値を再生産する。利潤は利潤を産むのである。かくて資本は私有財産所有者の手に蓄積する。資本は資本家の懐に、加速度を以て集中する。だから社会の富は資本家が独占する処となる。従ってその反面に於て、社会の富は、労働者の手から益々遠ざけられて行かざるを得ない(余剰価値説なくして、今日に於ける金と富との膨大な集中は理解出来ない)。ブルジョア社会に於ては、資本家はその個人的能力からは比較的独立にその富が益々安定して来、之に反して労働者の貧困は、その個人的な能力とは無関係に、益々恒常なものとなる。さてこうやって富と貧困とが恒常化すと、資本家と労働者とはもはや単なる個人の資格の名ではなくて、二つの階級の名となる。
元来資本主義的生産関係(及び之に伴う一切の社会条件)は、社会に於ける物質的生産力の発達によって、封建的生産関係が社会の桎梏となった時、之を覆して、新しい生産力の伸展し得るような新制度として、確立されたものであった。イングランドに於けるクロムウェルの革命、フランス大革命(及びその後の各国に於ける一群の諸革命)、又日本の維新や支那革命は、全面的乃至部分的に皆そうした使命を果したものであった。処が今日、物的生産力が資本主義生産関係に於て、より発達することによって、もはやそれ以上の発達が却って資本主義の根本機構と矛盾するようになって来た。資本主義はその内部に矛盾を孕んで来、その矛盾がそして、日増しに尖鋭化して来るようになった。世界の資本主義は、ひたすら発達することによって却って決定的に下向線を辿るようになって来た、所謂資本主義第三期の特色なるものが之である。
生産力のより以上の発達によって、資本主義がどのような矛盾を孕んで来るか。資本主義的生産に於ける労働のもつ生産力が発達するに従って、可変資本(之が余剰価値を増殖し利潤を産む処の資本部分である)の不変資本に対する比が次第に小さくなり、従って利潤が投下総資本に対する比――(一般的平均的)利潤率――が低下せざるを得ない。資本が蓄積されればされる程利潤率は低下するのである。処が之は元来利潤追求を唯一の目標とする処の資本主義の要求自身に矛盾するものでなくてはならぬ。かくて資本主義下の生産力が発達すればする程、資本主義的生産関係はその生命力を弱められるのである。即ち又逆に云えば元来生産力の発展形態自身であった処の、資本主義的生産関係は、生産力にとって却ってその桎梏にまで質的変換をなすのである。
資本主義的生産関係のこの矛盾は、更に様々の形態段階の下に展開される。――資本主義に固有な性質であり、又嘗ては資本主義制度の下に最も歓迎されるべき方針であった処のかの自由競争は、その競争の当然な結果として、一切の経験的動揺のある毎に、比較的無力な資本家を倒して比較的有力な資本家を利せねばならぬ。かくて多くの資本家はブルジョアジーの隊列から落伍し、その資本は少数の大資本家の手に集中する。一面に於てこの結果であり、他面に於て之を促進する原因であるものは、カルテルやトラストやコンツェルン等の独占諸形態である。自由競争は自由競争の名の下に、事実上自由競争の正反対的である処の、独占にまで転化せざるを得ない。そして独占の最後の形態がブルジョア国家による処のそれなのである。すでに、その機能はブルジョアジーが之に依ってプロレタリアートを統治するオルガンであることにあったが、それの経済的表現が取りも直さず独占の機能となる。laissez passer, laissezfaire の方針に基いて、経済に対する国家の干渉を斥けることをその本来の本質とした経済上の自由主義に立つ資本主義は、忽然として各種の国家主義にまで豹変せざるを得ない。
併し之等の独占形態が出来上っても、資本主義的矛盾が、その独占形態が支配する勢力範囲内でも、消滅して了うのではない。実際は、この独占過程の進行と自由競争とが絶えず矛盾・衝突・を繰り返しているのである。国家による産業統制がどれ程完全に行なわれようとも、自由競争自身から来る処の、従って又自由競争とこの独占過程との間の、矛盾は事実上決して消滅しない。と云うのは、すでに今日のように生産商品が過剰である場合――そして夫は資本主義組織の必然的な結論だが――、従来通りの無政府的な生産量を維持することは、云うまでもなく不況を無条件に益々深刻にし、訪れるべき恐慌を益々決定的なものにすることであるが、又之に反して独占形態の下に産業合理化を行ない生産制限をするならば、夫は労働大衆の失業と貧困化を極度に深めることによって、愈々益々不況の底を落して行くことである。国家による独占形態を以てしても、資本主義の矛盾は少しも解決されない。そこで各国のブルジョアジーは、夫々の国家内部に於ける資本主義的矛盾を、国際間の資本主義的矛盾――国際競争――にまで導き集中することによって、最後の運命を決しようとする。国家は物資の豊富な、労賃の安い、比較的関税壁に妨げられない植民地を、そしてもはやその余地がないならば、その過剰商品の市場を、又はより高度の資本主義的形態では金融資本の投下地を、世界の至る処に発見しようとする。
かくて現段階の資本主義は、もがけばもがく程泥土の内にずりこんで行く、それは一般クリシスに臨んでいる。だが注意しなければならないのは、資本主義社会のこの歪みを、最も直接に最も早く最も切実に経験しなければならないのは、資本家ではなくて却って、益々増大して行きつつある無産者大衆だということである。キャピタリズムの生命を延ばせば延ばす程、失業と貧困とは彼等に蔽いかぶさって来る。その結果一切の無産者及び無産者の候補者はブルジョアジーに対して、共同の利害を以て益々プロレタリアートとして結ばれて来、従って又その共同利害が益々明らかに意識されて来る。かくて階級対立と階級対立の意識――即ち又階級意識の対立――とが、益々表面化して来得るわけである。無産者大衆の政党の如きはここに初めて成立することが出来る。
ブルジョアの社会はその内部的矛盾の深化によって、弁証法的に必然的に、自己を止揚しなければならなくなってくる。プロレタリアート的意識とその政治的行動は、こういう客観的必然性の正しい反映に他ならない。客観的状勢をありのままに反映出来るものは、ブルジョアジーの意識・イデオロギーでもなければ、公平な第三者のもつという観念でもない。プロレタリアートの恐らく最も単純で明白な利害に目醒めることによって始まる処の、最も具体的で真実なプロレタリア・イデオロギーの他にはない。――このイデオロギーに導かれた政治的行動が、資本主義的社会を止揚して、もはや私有財産を以てその生産関係の出発点とはしない処の新しい社会組織の閭門に這入る、という風にマルクス主義的社会科学は考察する。人類の前史が終る処に、人間の真の歴史が、自由の王国が、必然的に到着する、と考えるわけである。
さて以上のようなものが、唯物史観の具体的内容の形式的な概観である。単なる概論的解説に止まるが、併し人々は唯物史観が、他の歴史観に較べて、具体的な政治的実践的問題に対して、如何に異った見解を示すかを、もう一遍思い起こさねばならない。従来の歴史観の多くは何故か、結局民族乃至国民の概念を以て最後の範疇とした処のものであった、之に反して、元来政治的な唯物史観は、民族乃至国民の代りに階級の概念を取り上げる。民族乃至国民の規定は、即ち又国家の規定は、階級の規定によって初めて具体化されるのであって、その逆ではない。――唯物史観は今日、元来反歴史観的歴史観である処のファシズム・イデオロギーに対して、当面の最大の対立物を見出しつつあるように見える。
唯物史観の方法と定説とに就いては併し、マルクス主義と名乗る陣営の内からも、多くの異説を産んでいる。だがそれ等のものは、マルクス主義的実践の経験を通じて鍛えられた厳正な理論によって、その歪曲点を指摘されて来ている。之に与って力あったものはF・エンゲルスとレーニンとであった。E・ベルンシュタインの非弁証法的な修正主義は云う迄もなく、M・アードラーのカント主義的マルクス主義も、H・クーノーのラサール的マルクス主義も、W・ゾンバルトやE・レーデラーの社会学的マルクス主義も、G・ルカーチやK・コルシュの歴史主義的マルクス主義も、G・A・プレハーノフのヘーゲル主義的マルクス主義さえも、決して正統的マルクス主義社会科学――唯物史観――ではなかったと考えられる。
だが吾々は最後の問題へ急ごう。唯物史観の概念からマルクス主義的「社会科学」の概念へ。
唯物史観は吾々が見て来た通り社会に関するマルクス主義的理論・社会科学であった。だがそれは必ずしも社会学であることにはならない。社会学が社会学という独立な科学として意識されたのはオーギュスト・コントに於てであったが、夫は特定の政治学という資格を要求しながらも、社会に関する全般的科学であろうとした。併しながら社会には経済現象もあれば固有な意味での政治現象も法律現象もあり、又文化諸現象も存在する。経済学とか政治学・法律学・とか又文明史とかは、夫々これ等の現象を専門に独自に取り扱う科学であろう。そうすれば仮に社会学が社会の全般的な現象を取り扱う科学であったとしても、その加工された材料は、或いは又その原理さえが、これ等の先輩諸科学からの借り物である他はないだろう。社会学が他の社会諸科学に対して全般性の故に支配的地位に就こうとする企ては、却って実質的にはこれ等の科学の食客となることに終らねばならないわけである。所謂総合社会学は行きづまる。――そこで社会学を独立の科学として成り立たせるためには、経済学・政治学・等々の一切の社会諸科学が残している処の「社会現象」をその対象として求める他はない。処が一切の社会現象の内容は夫々の社会諸科学の対象として先約が出来ている。で残るものは、こういう内容を抜きにした社会の形式に相当する内容だけとなる。社会学は今や社会の歴史的内容を歴史的原理を以て貫く代りに、社会をして社会たらしめ他の存在から区別する処の、固有に社会的な形式――社会諸形式――をその独特の対象とすれば好い。G・ジンメルはこうした形式社会学の初めであった。之は他の諸社会科学と並存する一つの社会科学に過ぎない。
形式社会学は必ずしも凡ての社会学を尽すものではないが、それにも拘らず殆んど凡ての「社会学」は、その本質に於て、多かれ少なかれ形式社会学的性格を持っている。それは高々歴史的材料を以て歴史的原理に代えることに満足を見出す。一体歴史的原理は歴史の展開の原理であり、従って現在に於ては未来に向かっての予言と方針とを与えることが出来ねばならぬ原理である。そうすれば歴史的原理は実践的原理と結び付いていなければならない。処が所謂社会学では、この歴史的原理が原理として排除されていたから、実践的原理も亦排除されねばならなくなる。――かくて社会学はその学的冷静と客観的公平とを売りものにすることが出来る。
処が唯物史観――乃至一般にマルクス主義――は、全然、こういう社会学とは異っている。第一にそれは、決して経済学や政治学其の他と並存する処の、そして高々思い出したように経済学や政治学の助手となったり助言者となったりしようと願うような、特殊の一社会学ではない。現に唯物史観は経済学から始まった。だが夫は単なる経済学としての経済学ではなくて、より一般的なより基礎的な社会理論の最初の具体的な第一歩としての経済学に他ならない。この点でそれはブルジョア的な所謂「経済学」と根本的にその科学的性格を異にする。だからマルクス主義的経済学は、それが具体化されるに従って、やがて政治学にまで転化する。一般に政治学は無論経済学と同じではないが、それにも拘らず前者は後者にまで転化しなければならない。而もこの政治学は再びブルジョア的な所謂「政治学」――そこでは主として国家とか議会のことだけが問題である――ではない、すでにそれは経済関係の根本的な分析から必然的に結果するものであった。唯物史観による政治学は更に、必然的に文化理論にまで転化する。だがこの文化理論も亦、ブルジョア社会学で云う「文化社会学」などではない。それはそれ自身一定の唯物論に立つ処のイデオロギー論なのである、それは文化価値の批判者であると共に建設者となる義務を負うている。
唯物史観としてのマルクス主義的社会科学は、社会学とは異って、一切の諸社会科学の統一である。だがそれは単なる統一、単なる総合ではない。正に各部門の弁証法的統一であった。之は各部門に相当する独立の諸社会科学――それはブルジョア科学でしかあり得ないが――からその材料と原理を仰ぐのではなく、却って之等の理論に初めて有効に役立つ処の原理を――唯物論的弁証法を――提供する。唯物史観・マルクス主義的社会科学・は無論統一的な科学であるが、又決して特殊の一分科の学ではない。それが直接に世界観に・哲学に・論理に・基いていたことを思い起こさねばならない。
第二に社会科学は、社会学とは異って、その理論が常に政治的実践と弁証法的統一を持つことを忘れなかった。唯物史観は単なる歴史認識ではなくて歴史的な政治行動にまで結果しなければ、理論自身としても終結しない。社会科学が社会の分析であることによって、同時に一定の社会的活動を意味することを、すでに人々は知っている。――だから社会科学は決して、抽象的な・無意味な・科学の冷静や客観的公平によっては働かない、却って夫は一つのイデオロギーに立つことを意識することによって、真の冷静と客観的公平とを実質的に獲得する。真に具体的な真理は、こういう条件の下でのみ、実現する。唯物史観としての社会科学は、単に経済学から政治学に転化するばかりでなく、政治理論から政治的実際にまで転化する。こういう――弁証法的な――統一を一貫するものが、その世界観・哲学・論理・であった。
唯物史観は、社会科学である、社会学ではない。
唯物史観に関する文献は、古典的なものから解説的なものまで入れて、殆んど無数にあると云って好い。マルクス主義的文献の殆んど凡てが夫だからである。だが特に唯物史観の全般を解説の目的としたものは割合少ない。正統的でない迄も割合全般的な解説を挙げれば――
ミーチン・ラズウモフスキー『史的唯物論』(広島定吉訳)。
メドヴェージェフ編『史的唯物論』(共生閣訳)。
永田広志『唯物史観講話』。
プレハーノフ『史的一元論』(川内唯彦訳)。
ブハーリン『唯物史観』(広島定吉訳)。
メーリング『唯物史観』(岡田宗司訳)。
Kautsky, K. : Die materialistische Geschichtsauffassung, 1-2 (1927).
クーノー『マルクス・歴史・社会・国家学説』(河野密訳)。
Adler, M. : Lehrbuch der materialistischen Geschichtsauffassung (1930).
等々。
また、史的唯物論に関する古典的源泉を集めたものとして、Dunker の編集によるところの、Marx-Engels,
ber historischen Materialismus, 1-2 が便利である。又絶対に必要な古典的解説は――
Marx, K. : Die Deutsche Ideologie――唯物論研究会訳『ドイツ・イデオロギー』
〃 : Zur Kritik der politischen Oekonomie(宮川実訳・河上肇訳)。
Engels, F. : Anti-D
hring(長谷部文雄訳)。
レーニン研究所編、レーニン著『マルクス・エンゲルス・マルクス主義』(瓜生・直井訳)。
等々。
[#改段]ミーチン・ラズウモフスキー『史的唯物論』(広島定吉訳)。
メドヴェージェフ編『史的唯物論』(共生閣訳)。
永田広志『唯物史観講話』。
プレハーノフ『史的一元論』(川内唯彦訳)。
ブハーリン『唯物史観』(広島定吉訳)。
メーリング『唯物史観』(岡田宗司訳)。
Kautsky, K. : Die materialistische Geschichtsauffassung, 1-2 (1927).
クーノー『マルクス・歴史・社会・国家学説』(河野密訳)。
Adler, M. : Lehrbuch der materialistischen Geschichtsauffassung (1930).
等々。
また、史的唯物論に関する古典的源泉を集めたものとして、Dunker の編集によるところの、Marx-Engels,
ber historischen Materialismus, 1-2 が便利である。又絶対に必要な古典的解説は――Marx, K. : Die Deutsche Ideologie――唯物論研究会訳『ドイツ・イデオロギー』
〃 : Zur Kritik der politischen Oekonomie(宮川実訳・河上肇訳)。
Engels, F. : Anti-D
hring(長谷部文雄訳)。レーニン研究所編、レーニン著『マルクス・エンゲルス・マルクス主義』(瓜生・直井訳)。
等々。
第四部 文化論
所謂「左翼の潰滅」によって、日本の進歩的分子の多くのものが一時その観念の社会的支柱を見失ったように見えたことは、現象上の疑えない事実だったと云っていいだろう。所謂左翼なるものの存在は、外形的に現われた社会的存在物としては、元来微力であったのだが、併しその観念的な影響力の方面から云うと決して単にその程度につきるものとは考えられなかった。日本の左翼は現実的存在としてよりも遙かに多く、思想運動にとっての観念の支柱として有力であったという、特殊な条件を忘れてはならぬ。これは左翼の存在が著しく、インテリゲンチャ乃至文化人の観念的な拠り処であり、その思想上の原則を提供するための想定勢力であったという事情に、照応するものだった。処で所謂「左翼の潰滅」が観念の社会的支柱を打ち倒して了ったように見受けられるというのが、ごく最近までの事情だったのである。
そこでは「知識階級」の動揺や困惑が最も眼立つ社会現象となり、それが何か「知識階級」なるものの先天的な階級的宿命であり、インテリゲンチャはこの単なる中間階級的な宙ブラリンに止まるべき階級的宿命の外へ出ることが出来ないのだというようなことまでも、盛んに云われたものだ。確かに「左翼の潰滅」によって最も原則的な打撃を受けねばならなかったものは、之を専ら観念の支柱としていた処の知識人乃至文化人であったのだから、インテリゲンチャの左翼的思想の確信は著しく動揺し、之に施政者の人工的工作が加わって、各種各様の転向現象なるものが展開されたのである。マルクス主義が現実の直接利害ではなくて単なる思想である場合には、こうした形の根柢的なショックは強ち不思議ではなかったのだ。併し「左翼の潰滅」なるものを促進した社会事情であった所謂ファシズム(日本的ファシズム)そのもののデマゴギーも亦、決していつまでも有力な支配力をつなぎとめることは出来なかった。日本に於けるファシズム・イデオロギーは早くも大衆的な反感を呼び起こしたのだ。
この反ファッショ的潜行意識は決して二・二六事件やその後始末に及んで姿を現わし始めたものではないのは勿論であって、三六年度の総選挙に於ては云うまでもなく、すでにその前年の府県会議員選挙に於てさえも見て取れた現象であった。又之を仮に出版業の趨勢から見てもそうなのであって、左翼的出版物は前年あたりから再び次第に勢を盛り返し始めたと報じられている。
これは一般大衆の意識に於ける反ファシズム的な根強い暗流なのだが、インテリゲンチャの意識も亦この動向に食いつかない筈はないわけで、左翼的思想のための社会的支柱を失ったように見えた彼等インテリゲンチャは、何とかしてここから夫に代る新しい思想活動原則の拠り処を導き出そうとあせったことを、見逃してはならぬ。例えば最初に問題になったものは学芸自由同盟の復活であり、やがて独立作家クラブの結成となり、次には日本ペン・クラブの成立となった、等々。「学芸自由同盟」の復活に就いては甚だ沢山の提案者が現われたに拘らず、遂に実行に着手しようとする人がいない。今日ではもう復活という形での実現性は甚しく乏しくなったのではないかと考えられるので、恐らくこの種の総合的な或る新団体としてもう一遍組織し直すという形でしか望みはないかも知れない。それはとにかくとして、今、この復活の提案が暗に想定している処のものが、文化的な自由主義であるということを、注意することが要点なのだ。
経済上の自由主義は現今殆んど全く問題にならぬとして、問題はさし当りまず政治的自由主義だが、云うまでもなく自由主義者は反ファシズムのイデオロギーとしてこれの社会的意義を強調して来ているのである。或いは軍部に対立するブルジョア政党のイデオロギーとして、又は一つのアンチ・ミリタルな思想体系として、又は反「革新」的非国粋的思想一般として、リベラリスト自身(と日本ファシストと)によって強調又は注目されている処のものが之だ。今日のブルジョア政党の実際の機能が果してそれ自身ファッショ化の有力な支持以外のものであり得るかは元来疑問なのだが、それは別として、とに角名義上、この政治的自由なるものは一応その社会的意義を認識し直されて然るべきだということになった。
だが、文化的領域に於けるこの政治的自由主義の反映になると、政治的自由主義自身に較べて、遙かに無難な建前に立つことが出来る。なぜなら文化上の自由主義にとっては、その直接の政治的乃至政党的地盤を問題にする必要がないために、或る程度まで、自由主義が標榜する処の包括的な抱擁性が実現され得るからだ。かくて今や文化的自由主義が、インテリゲンチャの文化活動の思想原理となることになって来たわけなのである。無論この自由主義はそれ自身一個のイデオロギーに過ぎぬようなものであって、左翼的勢力と呼ばれるもののように一個の現実の社会的存在物ではない。同じく左翼に対する右翼的勢力と同格に並べられるべきものでもない。ブルジョア政党的民主主義や社会民主主義などの勢力というようなものとさえ、必ずしも相応しないのである。文化的自由主義はそれ自身まだ単に思想に過ぎないのだ。従ってここではまだ、曾て「左翼」の存在が左翼的思想の支柱であったような意味での思想の支柱は、見つからないのだ。つまりこの文化的自由主義に立つ文化運動はまだ組織上の拠り処を発見出来ず、それだけ社会的リアリティーを欠いたものであったわけである。学芸自由同盟の復活などが、何となく散票をかき集めるような気持がして、同盟という団体そのものの肉体的リアリティーがあまりピンと来なかったのは、ここにその原因があったと云ってよく、その復活が遂に実現出来なかったのも之によるのではないかと考えられる。
「独立作家クラブ」の独立という規定がまたこの文化的自由主義の一側面を、而もその消極的な一側面を、おのずから云い表わしていたのであって、夫はワザワザこの思想運動の政治からの独立を意味する言葉のようにとられた。この消極的な文化的自由主義に基くクラブが何等組織上の拠り処を必要とせず、又すべきでもなかったことは云うまでもない。――文化的自由主義の一つのハッキリした逸脱は恐らく「日本ペン・クラブ」だろう。之は初め何等かの社会意識に基いた組織ででもあるように想像されたものだが、そしてその想像は国際的なペン・クラブが多少ともそういう性質を持っている限り無理ではなかったのだが、併しその名も示す通り国際的なペン・クラブの日本支部ではなくて、日本一国主義ペン・クラブであったのであり、外務省文化事業部や国際文化振興会の着色を著しく蒙ったものであることが、その後の客観的な印象のようだ。こうなると、この場合の文化的自由主義は、今日の社会与件の上では、もはや自由主義の機能ではなく却って多少ともその反対の機能に帰する、と云わざるを得なくなりはしないだろうか。之を文芸懇話会と対比並置して見ることも、だから、相当興味があることだろうとさえ思われるのである。
処で二・二六事件以後、流言飛語の類が簇出したと云われていることを注意しよう。之は或いは現下に於ける民衆の本能的なジャーナリズム形態(表現報道現象)であるかも知れない。だが恐らくこの現象は事件以前から相当に発達していたものではないかと想像される理由があるのだ。なぜというに、今日私的会合のグループを持とうとするものは、云うまでもない相当真面目な文化的要求を持ってのことであろうが、そうとすれば之は、何と云っても大体に於て、左翼的文化団体の完全な解体に対する反射運動と見做されるだろうからである。従来の文化団体のメンバーは勿論文化上の専門職業人又はその学生的候補者を主としたのだが、最近の小集合グループは、文化上は非職業的であるようなサラリーマンも亦文化的活動に多少の期待と自信とを持つことによって、この種の私的グループの若干を構成しているのではないかと思われる。この時代的自由主義がこうした私的グループを最も自然発生的な形態として選ぶのは無理ではなかろう。二・二六事件以後のこうした文化的自由主義による文化運動が、流言飛語的形態にまで歪曲されて、拍車をかけられたものではないかと思うのだ。
だが之と略々同じことが、文芸上の同人雑誌の輩出についても見て取れることが大切なのである。今日の同人雑誌がその分量から云って盛大を極めているということは、一方に於て確かにブルジョア・ジャーナリズムに対する対抗意識がその主観的な動機となっているのだが、併し多くの場合、このブルジョア・ジャーナリズム反対ということにそれ程真剣な覚悟があるわけではない。精々既成の、と云うのはすでに顔振れが満員になってしまっているところの、今日のブルジョア・ジャーナリズムの固定化に、反発しているに過ぎないだろう。だがそれより大事な点は、この同人雑誌運動なるものが、実は左翼文芸機関誌からの解放を意味するものであると共に、同時に、又機関誌活動に代る或る分散した個人的グループ活動の要求を実現しているものだろう、という点なのである。
同人雑誌の活動は、云うまでもなく少しも左翼的ではなくて、正に文化的自由主義のものなのだ。単にその文芸創作上の性質から云ってそうであるだけではなくて、同人雑誌発行の実際の意図から云ってもそうなのである。つまり之は、既成のブルジョア・ジャーナリズムの圧力からとに角自由でありたいという気持ちがその動機となっているのだ。――だからしてこの同人雑誌群を今のままの原則に従って、というのはその文化的自由主義の諸性質のまま、何等かの統一に齎したにしても、それだけでは何等左翼的なものにもプロレタリア的なものにもならないことは明らかだ。之をブルジョア・ジャーナリズムに対立対抗し得るプロレタリア・ジャーナリズムの動きにまで高めるためには、矢張りその外にある或る何等かの拠り処となる地盤が要るのである。
日本に於ける文化的自由主義の、思想原則と組織原則としての以上のような無力さは、行動主義の運動に於ても亦著しく現われた。この行動主義には無論略々輪郭のある思想はあったが、その思想の原則に相当するものは遂に今だに明らかではない。と云うよりもその思想原則が文化的自由主義なのであり、そして而もその際の文化的自由主義が社会的現実勢力と徹底的に無関係だったということなのだろう。夫が組織的拠り処を全く有たず、殆んど単に著名な一同人雑誌として同人雑誌群の内に覆没するような私的一グループの資格に止まっているのは、当然だと云わねばなるまい。
さて私は、以上見たような様々の現象となって之まで現われて来ている処のこの自由主義=文化的自由主義が、左翼的社会勢力の代りに持ち出された観念的な代用物だった、ということを繰り返したい。なぜ観念的な代用物かというと、之に拠り処を提供するような一定の社会的勢力がそこには欠けていたからなのだ。なる程実際には、自称又他称の自由主義的勢力なるものが社会には存在している。だからそういう政治的自由主義の社会勢力と、この文化的自由主義との間には何等の組織的連関もないのだ。政治に対する組織的連関を有たぬという方針であることが、この文化的自由主義の自由主義たる所以だった、と云ってもいい位なのである。
念のために注意しておかなくてはならぬが、こうは云っても、この自由主義的文化運動は、その意図に於ては決して進歩的でなかったのではない。独り行動主義の運動に限らず、今まで云った殆んど凡ての動きが、フランスに於ける(第一回)〔国際〕文化擁護作家大会から、とにかくも有効な刺激を受け取っているのだという点を忘れてはならぬ(アメリカの作家大会も参照になっただろう)。読者も知るように、この文化擁護作家大会には、ソヴェート作家は云うまでもないとして、フランス、アメリカ、ドイツ、イギリス、支那其の他のプロレタリア作家・コンミュニスト作家・の多数が含まれているのだ。
この内、フランスの作家達が提唱したヒューマニズムは、明らかに文化的自由主義であり、A・ジードの個人主義的コンミュニズムなども実は、コンミュニズムであるよりも寧ろ文化的自由主義乃至ヒューマニズムなのだが、それにも拘らずこの文化的自由主義は、一定の現実的な社会的勢力・政治的根拠・に積極的に立脚していて、之をその観念の社会的支柱としているのだ。処が日本の文化的自由主義は、之まで、決してそういうものではあり得なかったのである。夫は充分な意味での社会的リアリティーを有たなかったのである。――ここでは何かが欠けている。他でもない組織が欠けていたのだ。
左翼の公式的な組織が存在した頃には正常な意味に於けるプロレタリア文化なるものが或る程度まで実際に存在していた。文化はその限度に於て公式に大衆的であり得た。その限度に於てというのは、その場合大衆と呼ばれたものが、実はまだ完全な意義と包括性に於て理解された大衆ではなくて、単に大衆の最も特徴的な部分だけを指し示したのであったからだが、とに角そこでは文化が相当厳正な意味での大衆性を有っていたことは争われぬ。文化が社会的リアリティーを有っていたのだ。処で、夫を失った其の後の進歩的文化の動きは、こうした組織にも大衆性にも代るべきものを、遂に今まで見出すことが出来ずに来たのであった。文化的自由主義なる思想原則は、そのままでは、組織的な役には立たなかったのである。
フランスに於ける文化的自由主義者の動きが有つ社会的リアリティーは、云うまでもなく、この作家達とP・C・F〔フランス共産党〕との(少なくとも観念的な)連絡にあるのである。そしてこのフランスP・Cこそは今日、フランスに於けるフロン・ポプュレールのイニシャティーヴを取っている処のものだ。して見るとフランスの文化的自由主義の生きている所以は、大体に於て夫がフロン・ポプュレール的な意義を有っているからだと云わねばならぬだろう。之は決して議会乃至政府の問題につきるのではなくて、正に人民大衆の一種の組織の問題である。フランスのP・Cは地区委員会のプランをさえ持ち出している。そしてこの民衆の特色ある一部分は、他ならぬインテリゲンチャなのである。勿論フランスのフ・ポに於ける政治的活動がこの文化的自由主義活動に直接結びついているとは云わぬ。だが、フランスに於て、之を成り立たせた要因の一つが、同時にこの文化的自由主義に対して社会的リアリティーを与えたものだと考えることは、多分誤っていないだろう。――そうすると、日本に於ける文化的自由主義の運動が(之はその主観的意図に於ては進歩的であろうとして来たのだが)社会的現実性を有ち得るために必要なものも亦、何等かの(日本独自の)意味でのフロン・ポプュレールという政治的或いは社会的組織だ、という結論になるようである。
「左翼潰滅」後の日本の文化運動は、必然的に文化的自由主義の原則を採用しなければならなかったが、併し今日までこの原則が社会的リアリティーを与える組織を有っていなかった。今もし日本の文化運動が社会的組織を恢復し、社会的現実性を再獲得し、大衆性を再発見し、のみならずそれによって文化的に躍進しようとするなら、そして日本の各種のインテリゲンチャは日本の真の文化の躍進をば大衆の名に於て又大衆の足場に於て実現せねばならぬ役割におかれているが、もしそうだとすると、少なくとも広義に於けるフロン・ポプュレールの問題こそ、文化行動への実際的な鍵でなければならぬ。今後の文化運動は欲すると否とに関係なくこの観念に沿うて展開されて行く形をいやでも取る。少なくとも之をばその観念の社会的な支柱として行かなければならなくなるだろう。
では日本に於けるフロン・ポプュレールなるものの現状は何であるか。
所謂「人民戦線」は当局が肯んじない処だが、広義のフロン・ポプュレールは今や進歩的な労働者大衆にとって希望に充ちた合言葉になっている。だがいずれにしても夫が成立するための不可欠な条件が、まず第一に労働運動自身に於ける戦線統一、或いは少なくともその共同戦線であることは云うまでもないことだ。そして次に必要なのは無産政党に於ける戦線統一、或いは少なくとも共同戦線なのである。こうした条件を俟って初めて、文化運動に於ける民衆のフロントも(ということは即ち民衆のフロントに於ける文化運動ということにもなるが)、確立する根拠を持てるのだ。――処がこの点になると日本の人民の前線問題はまだ単に、方向を指示し得るという程度の段階にしか乗り出していない。経済活動乃至組合運動に於ても政治運動乃至政党活動に於ても、まだ多分の対立を残している有様だ。そうすれば文化的な民衆の前線――フロン・ポプュレールなるものが国際的に反ファッショの大衆組織であるように之はファシズムからの「文化の擁護」の組織になるわけだ――も亦、決して正常の発育は出来ぬ。之はまだ疑問符だ。
併し、文化運動に於ける民衆フロントというリベットは、インテリゲンチャ乃至知識人・文化人・の社会的課題を観念上積極的にハッキリさせるには充分だろう。今まででもインテリゲンチャは決して単に消極的に彷徨していたわけではない。なる程かつて政治主義的偏向のおかげもあって自分の専門的技能の役割についての社会的意義を自覚し足りない者も多かったから、一旦政治的組織が解体されたとなると、陸にあがった人魚のようになって了った者も少なくなかったのだが、併しそれはほんのわずかの間であって、彷徨していると傍で思っている内に、自分でも知らず知らずに立ち直る心構えを据えようとし始めたものが決して珍しくはなかったのだ。インテリゲンチャはその知能的技能を自覚することによって、之まででも或る程度まで社会的役割に於て立ち直ることが出来る筈だったのだ。前に云った各種の文化的自由主義の動きは、そのごく自然発生的な現われだったのである。だがそこにはインテリにとってまだ何等真実の足場がなかった。であるから或る者はインテリは専らインテリの足場に立つ他はないというようなインテリ至上主義へも走らざるを得なかったわけだ。――処でフロン・ポプュレールの見透しはこのインテリゲンチャに初めて再び足場を与えた。本当の大衆という足場をである。仮にこの足場が観念上のものであるとしてもだ。
事実彼が仮に作家だとすれば、彼は、大衆という足場に立つことなしに一体どういう文学的進歩をなし得るだろうか。彼はブルジョアジーの足場からも小市民インテリ層自身の足場からもスケールを大きく世界を見渡すことは出来まい。――尤もそう云っても、今日でもまだこの大衆という観念には多分の困難が潜んでいる。意識あるプロレタリアこそが真正の大衆であるというような英雄主義的大衆観念は今ではあまり見当らなくなったにしても、今度は之と反対に、大衆のもつ市井的な特色だけを誇張した処の人民という観念も手近かにあるし、「国民戦線」(之はフランスの右翼の大衆組織の名だ)の国民というものも之と甚だ紛らわしい。そして文化問題は社会層の意識の自由な表現を無視出来ないのだから、この困難は決して軽んじることは出来ないのである。だが少なくともフランスの所謂人民戦線を典型にとるなら、大衆(無産労働大衆)とその内に含まれる中核としてのプロレタリアートとの間の有機的〔結合〕について、一応の理解を失うことはなかろうと思う。
最後に注意したい点は、先程から私は主に文学的な文化人をインテリゲンチャの代表者として想定して来たということである。だがインテリゲンチャの類型には二つの極があって、一方は広義のジャーナリスト(文筆業者・法文経関係の学者・記者・其の他)であり、他方は生産技術家(乃至自然科学者・医者・等)なのである。今日の日本に於て「文化擁護」の運動に直接たずさわるものは、勿論主としてこの文学的なジャーナリストの方である。広義のジャーナリストの生活は一般に今日次第に資本主義的生産機構の栄光から脱落しつつある。処が之に反して最近の日本の事情は生産技術家インテリにとって可なりの好転を見せているようだ(工学部卒業生の就職率の高さとか、又軍需工業に於ける技術家の資本家化――例えば鮎川義介・中島知久平・野口遵・などの諸氏とかがこの際参考になる)。インテリのこの階級的分裂は、文化の階級的分裂に相応し、又文化と技術との分裂対立に相当する。処で作家ジャン・ゲーノがパリーに於ける文化擁護作家大会で、進歩的なインテリゲンチャの役割に就いて述べた言葉は興味が深い。
「誰でも知っている通り、最近数年の科学の発達は我々にこういうことを教えた。学者にとって真実の啓示であるような問題を、屡々彼等に提示するものは、労働者であり技術家であると。今は自由芸術(自由技芸)もなければ奴隷技術もないのである。」
ごく形式的に一般的に云って、社会なるものは組織を持っており、その意味で又秩序を持っていると云うことが出来る。どういう原始的な社会であろうとどういう発達した社会であろうと、如何に乱れた社会であろうと如何に平穏な社会であろうと、過去や現在の実際社会であっても未来の可能的社会やユートピアであっても、この点は動かない処だ。そこで元来社会を形式的に一般的に考えることを建前とする所謂社会学は(そしてこういう社会学の一般的な特色を代表するのが形式社会学で、従って逆に、今日の所謂社会学――ブルジョア社会学――は一般に形式社会学的な根本特徴を有っているのだという判りきったことを改めて断わっておきたいのだが)、従って、社会そのものを一つの強制や統制と見るのを普通とすると云っていい。
と云うのは、つまり社会が一つの人間的組織であり個人相互間の秩序だと見るので、この社会そのものを個人の側から考えると、夫が個人に対する強制や統制となって現われるからである。そこで社会の本質は、或いは少なくとも社会の最も根本的な特徴の一つは、強制や統制であるということになるのである。この考え方は必ずしもデュルケムやE・A・ロスにだけ特有なものではないだろう。
この社会統制観は主に社会心理学的な観点から出発しているのだが、併し社会機構のあらゆる階層に、又社会のあらゆる部面に、斉しくあて嵌めることを要求するものと見ていい。このように一般的に抽象的にどこにでもあて嵌まるような特色は、実は決して社会の本質を衝いた規定ではない証拠なのだが、併しこういう共通な一面が社会機構のどういう階層にも部面にもあるということは、又嘘ではない。
処で、文化が社会機構に於ける上部階層であり、又それだけ独自な文化圏とも云うべき社会部面だということは云うまでもないが、この文化圏には又この文化圏に特有な社会統制が、文化社会独自の統制と強制とがある、ということをまず注目しなければならぬ。文化と云えば社会が産み出した分泌物のように考えられ、従って社会そのものとは別な、社会の流転とは独立な、世襲財産のようなものとも思われているが、併し他方に於て、文化も亦一つの社会現象だということは無論無視されてならぬことだ。文学や哲学は一方の極端から云えば観念現象に過ぎなくて、物質的な形象を離れた一つの思想に過ぎないのだが、この観念形象が他の一方の極から云えば、社会そのものの所産であり、又社会そのものの一部分に他ならない、ということは判り切ったことだ。処がこの判り切った事柄がすでに文化社会の統制、或いは文化の社会的統制、という問題を含んでいるのである。
私は仮に社会がそれ自身一つの統制だという考え方から出発したが、併しその同じ社会の内には、元来自由であるべきものと相場の決ったものがいくつか存在する。まず十七世紀以来の経済行為が何より自由の意識の実際的な地盤であった。社会的習慣乃至習俗から独立し始めた良心の道徳や、プロテスタント以来の信教が又、自由の観念的な土壌をなしている。個人が社会から観念的にも実際的にも独立し始めて以来、個人は自由の淵源となった。近代ブルジョア社会学が社会を強制や統制と考えなければならなくなったのも、実はこうした自由な個人の立場から社会を見始めた結果の一つに他ならなかった。そこで文化も亦、個人の個人生活の表現という意義を持つようになって以来(そして之はルネサンス以来決定的になった現象だが、それ以来)、自由の本尊にまで祭り上げられた。近代的な意味に於ける文学なども、こうして初めて自由芸術の名実を有つようになった。処でこの自由であるべき文化が、単に夫が同時に又社会的存在でもあるということだけによって、一つの社会統制の支配する処となる。そこに文化の社会統制の一等端初的な問題があるのである。
今日の支配者的文化は、支配社会のアカデミー組織や支配社会のジャーナリズム機構の内に蟠居することによって、初めて、成立し発達し業績を残すことが出来る。ブルジョア・アカデミーの組織も、ブルジョア・ジャーナリズムの機構も、単に一方に於てブルジョアジーの支配の一機構であり又一機関となる結果となるように運用されているばかりではなく、同時に又そういうことが可能であるためにも、このアカデミーやジャーナリズムが文化の促進発達を目標とするという名目上の建前が必要なのであって、そうでなければ一般的な支配の機関としてはとに角、支配の文化的な機関としては無意味でもあり役にも立たない。従って又それだけ、事実上自然と、文化の促進発達に資する結果にもなるのである。だから仮に文化の社会的条件(アカデミー組織やジャーナリズム)が、文化本来の自由を妨害し傷けるとしても、文化のそういう社会的統制は、却って文化の自由を実際化し現実化さすための避けることの出来ない犠牲であって、文化の可想的な自由を抑制するように見えるこの統制は、実はそれだけ文化の事実上の自由を成立させる如きものに他ならない。そういう意味から云う限り、文化のこの種の社会統制は、文化そのものの無条件的な宿命なのであって、今更驚くにも怪しむにも足りないことだ。
元来支配的文化、支配者的文化、その意味での階級文化というものが、こういうものなのである。文学者の文学的真理の探求と(いや例の逞しい自意識でもいい)今日のブルジョア・ジャーナリズムの利潤の追求とは、無論別で、従って或る限度までは矛盾するのだが、併しジャーナリズムは他の営業と違って、ブルジョア支配社会に於て受け容れられる限りのとに角文学的真理探究と云ったものを尊重しないでは、利潤の取得も出来ないという事実を見逃してはなるまい。文化の真理・発展・等々と今日のジャーナリズムとの矛盾撞着を本気に問題とするのなら、文化と今日の支配的社会との矛盾撞着がより根本の問題になる筈であり、従って又、今日の階級文化の内部に含まれている内部的矛盾が終局の問題でなくてはならぬ筈である。大衆文学乃至通俗小説や長篇小説の問題は、対ジャーナリズムの問題であるよりも、寧ろ文学自身の内部的問題であることは云うまでもない。そこにこそ文学の階級性という耳にタコの入った問題の、手近かな端初的な形態が潜んでいるのである。
この場合の問題は併し、ここまでつきつめない限りは、文化のこの種類の文化社会自身による統制は、実質に於ては却って文化の自由と同じものなのであって、之は文化が社会というような何か外部的なものから統制されるのではなく、単に文化が文化圏という文化世界の一部分に於て統制されることに他ならず、結局文化が文化自身の内部で統制されるということに他ならぬ。そして問題はそこに終始するのである。文化は文化の世界の内部で、例えば文学は文壇自身によって、統制され強制を受ける。そして之が、文化の世界のもつべき自由を少しも妨げることにはならないばかりではなく、或る意味に於ては却って之によって初めて、文化は発展し進歩するのである。帝国美術院が反帝展派の画家の云うようにどんなに芸術的に見て愚劣なものであろうと、又それがどんなに停滞し堕落したと云う者があっても、こういうジャーナリズムの施設なしには美術は今日の発展と進歩とを齎し得なかったことが事実だ。そしてこの云わば俗悪な発展と進歩とがなければ、この俗悪さに耐え得ないと考える芸術的な美術も亦、成り立ち得なかったろう。
文化の存在そのものが文化社会=文化圏に他ならぬ以上、文化乃至文化社会の自由とは、他ならぬそれ自身によるその統制・強制・のことであり、文化がこのようにみずから統制・強制・されることが、取りも直さず文化の自由ということの実質なのである。――之はつまり、社会それ自身が強制で統制だという考え方の裏には、社会は又自由の実現だという、ヘーゲル風の考え方がいつも用意されているという事実に他ならない。形式的に一般的に云う限り、この間の関係は自由からでも統制からでも、どっちの側からでも解釈出来るのである。
以上は文化が社会の一部分である文化社会圏をなしてしか存在しない一社会部分だ、という点から出て来た文化自身による文化統制の場合だったが、同じく一般的で形式的な立場から云って、もう一つの文化の社会的統制を考えて見なければならない。と云うのは、文化はそれ自身社会の一部分であったから、社会の他の部分から区別され、之と対立することが普通なのだが、処が社会は社会全体としてそれ自身統制であり強制だったから、この社会全体による一般的な統制が、他の社会部分を通して、この特殊な部分である文化社会=文化に対して、統制力として作用しなければならないのである。
元来文化乃至文化社会は、直接には社会意識に基くものであり、社会意識が特別な資格を得たものが夫に他ならないが、処が文化の意識はただの社会意識とは違って、いつも夫々の時代と地方との与えられた社会意識と、離れたり又は之と食い違ったりすることの出来る性質を持っている。文化意識は社会意識の先駆者であるが、同時にそれだけ異端者なのである。後れ過ぎた社会意識は一種の社会的犯罪に数えられるが(例えば食人や首狩り)、進み過ぎた社会意識も亦社会的犯罪の性質を受け取ることは能く知られている。文化意識は与えられた社会意識=常識=通念=社会的信念から見れば、一種の社会的犯罪の可能性をその欠くことの出来ない要素としている。例えば文学は社会的常識道徳に対する否定や懐疑に帰着するのを常とする。ブルジョア文学であっても、夫がブルジョア社会の常識道徳を信じないことは少しも不思議ではないのである。
で、文化は、常識的な社会意識と矛盾撞着する可能性を、いつも免れない。文化社会は一般の社会意識界から見て一つの割目なのである。だからおのずから、社会意識は文化に対して、外部から、併し必ずしも人為的・政策的・にではないが、一つの統制力・強制力・として作用せざるを得ないのである。ここでは統制は、主として社会による道徳的統制力として働くのである。――前の場合にあっては、文化は文化界自身から内部的に、文化的統制力を受けたが、今度は、夫が外部から道徳的統制力を受ける。云うまでもなくどっちの場合も、後に見るような、ああした人為的な政策的な一定の意図に基いた意識的統制現象ではないので、云わば自然的な統制現象であるのだが、前者が内部的であったに対して、後者は夫が外部的だというのである。
道徳的統制の一等直接な現われは、例えば社会的信用である。丁度評価の直覚的な発端又は断面が趣味判断であり印象や感じであるように、道徳的統制力の現われは、ある人物なり言動なりを信用するかしないかである。文化は支えられた社会からの信用を博すことが出来るかどうかによって、社会的に淘汰される。特に科学的理論に就いては、この信用なるものは重大な割目を負っている。単に奇説や珍説に限らず、常識的な社会風習と食い違ったり之を無視したりする一切のマニエールは、理論的な核心の是非に拘らず、社会的信用を博さず、従って又社会的生命が薄弱であるのが事実だ。科学も芸術もこうした社会的信用を出来るだけ身につけるために、云うまでもなく出来るだけの譲歩をするのだが、その結果はいつの間にかこの科学や芸術の文化的核心までが撓められることになって、ここに文化に対する常識道徳的統制が、知らず知らずの間に完成される結果になるのである。――文化に対しこうした社会的信用を付与するものは、常識・通念・世論・等々であるが、ここに再び、文芸の領域では通俗文学や大衆小説の問題が、一般に文化と啓蒙との問題が、横たわっているのを見ることが出来る。
併し、この社会道徳的信用組織から来る道徳的文化統制力が、やがて前に云った例の文化自身による文化的統制力にまで、自然に波及するということが、次に大切である。通俗道徳的に信用を博した常識的・通念的・なものが、元来超常識的・超通念的・であった文化そのものに持ちこまれて、文化界自身の独特な条件なりに、その文化界自身による文化的統制そのものまでが、この外部から来る道徳的統制の支配を受けることになるのである。こうして超俗的な俗物の帝国として、ブルジョア文壇やブルジョア・アカデミーなどが出来上るわけなのである。だがそれはつまり又、ブルジョア文化そのものの発展と進歩とを意味するものだということを忘れてはならぬ。
尤も文化に対する文化自身による統制と云い、又その社会道徳的統制と云い、結局最後の統制力は経済上の社会的強制力に帰着するのである。文壇とかアカデミーとか其の他一切の文化圏=文化社会が経済的に成立する限り成立出来るということは、今更云うまでもない事実だが、この二つの文化統制もこの経済的条件に基いて初めて現実的な力となることが出来る。だが経済上の社会的強制力が多くの場合そうであるように、この経済的条件はこの際、全く自然的に働くのであって、この社会的統制力の主体が何か特に意識的に意図してどうこうというのではない。その意味に於て以上二つの文化統制は、内部的並びに外部的な自然的統制だったのである。
改めて注意しなければならないのは、以上述べた限りの文化統制が、ブルジョア文化ならブルジョア文化という支配者文化に就いて、同じくブルジョア社会ならブルジョア社会という支配者社会が加える処の統制だったということである。ブルジョア社会がブルジョア文化を統制するのだからこそ、その文化統制は極めて自然に無意識に行なわれるわけだったのである。――処で社会それ自身が強制であり又統制であるという立場だけからは、そういう一般的で形式的な観点だけからは、これ以上のものは出て来ない。
云うまでもなくこの種の云わば自然的で無意識的な文化統制は、非常にハッキリした顕著な社会的事実なのであって、文芸乃至芸術や、科学乃至哲学にたずさわっている人間にとっては、自分の仕事を如何にして社会化するかとかという問題となって、これはいつも文化意識の中心に押し出される関心事である。社会と文化との間の、お互いに離れることが出来ずに而もお互いに矛盾撞着せずには措かない関係に苦しむ処の、一切の文化意識の所有者の絶えない問題の淵源が、ここにあるのだとも考えられる。
だが、それはそうでも、実を云えば、ブルジョア純粋文化の使徒達が思い込んでいる程に、この文化的統制は文化問題にとって根本的なものではない、ということは注意しなければならぬ。例えば、文学とジャーナリズムとの撞着や、思想と常識との撞着は、と云うのはつまり、ブルジョア文学とブルジョア・ジャーナリズムとの、又ブルジョア思想とブルジョア常識との撞着は、何も文化的統制の、即ち文化にとっての不自由の、最後の条件をなすものではない。現にこの種の文化統制は、ブルジョア社会学的な例の出発点から云えば、明らかに文化の社会的統制の他の何ものでもないに拘らず、世間では之を決して「文化統制」という言葉では呼んでいないのである。尤も吾々は別に世間で文化統制と呼んでいるものだけを統制と考えるべきだとは思わないので、却って世間でそう呼んでいない処にまで文化統制なるものの連関を分析して行かねばならぬのであるが、併し今の場合の文化統制――夫は確かに文化統制でないのではない――が文化統制と呼ばれていないという事実は、之を尊重しなければならぬ。文化統制と呼ばれないのは結局それが無意識な自然的統制であったからだ。――では意識的な人為的な文化統制とは何か、ということになる。
一体文化が統制されるということは、文化が自由を持前とするということを仮定するからだった。不自由なものに対する統制ということは全く無意味だ。その限り統制ということは自由の対立物に他ならないわけだが、併しただの自由に対立するものがすぐ様統制だということにはならぬ。統制経済は経済的自由のただの対立物のことではない。自由経済に対する単なる一般社会的な強制でもない。経済的自由に対する国家的な、或いはもっと正確に云えば支配社会階級的な、強制が、初めて統制経済となるのである。これと全く同様に、プロパーな意味での文化統制は元来、いつも文化の支配社会階級的な強制に他ならないのである。この支配的社会階級が主体となって、意識的な人為的な文化統制を与えるのである。――ただ、統制される文化自身が、元来この支配的社会階級自身のものである時に限って、この統制は前の例で見たように、無意識的となり又自然的となるのであって、従ってその場合、もはや特に文化統制という言葉で以ては、世間の問題にならないまでである。
でこう見て来ると、元来文化統制なるものは支配階級による文化の強制のことでしかないのであって、偶々この文化が支配階級自身のものであり、又はそういうものとしてしか問題にならない場合に、初めて、例の一般的な抽象的な社会統制(社会それ自身が強制であり又統制であるということ)の一部としての、かの内部的(文化的)並びに外部的(道徳的)な自然文化統制となるのだった、ということが判る。
文化が有つと想定された自由が、その自由の名目によって、反支配階級的な内容の自由を意欲するようになる時、だから、例の無意識的な自然的な文化統制機能は、その形式的な八百長式の状態から、俄かに本然の姿に立ちかえる。統制はこうして意識的となり意図あるものとなり、人為的となり、政策的なものとなる。――今まで一見単に文化の文化的統制力や社会道徳的統制力に他ならぬものと見えたものは、今や政治的な乃至法律的な文化統制力にまで変化する。文化の一般的自由と社会の一般的な強制との対立と見えたものが、今や階級的な対立物の対立にまで編成がえされて来る。例えば文学とジャーナリズムとの対立は、ブルジョア文学とプロレタリア文学との、又ブルジョア・ジャーナリズムとプロレタリア・ジャーナリズムとの、対立に編成がえされる。文化と常識との対立はブルジョア文化とプロレタリア文化との、又ブルジョア常識とプロレタリア常識との、対立に変って来る。そうしてこの新しく編成された対立に際して、一方のものが他方のものに対して、もはや単に文化的にでもなく又道徳的にでもなく正に政治的・法律的・に統制を与える、という位置につくのである。――文化統制はつまり、文化の階級的対立を想定した上での、国家の階級的権力による文化の強制だという、やや判り切った結果がここから出て来るのである。
だがこう云っただけでは片づかない二三の点に注意しなければならない。第一に文化上の階級対立があるとは考えられない場合にも、或いは寧ろ階級的文化対立がさし当りの問題にならぬらしく見える場合に於ても、文化統制は事実上行なわれているからである。例えば旧帝院の官僚的な解散と新帝院の天下り式結成とは、必ずしもプロレタリア美術との対立などを直接意識して行なわれた現象ではないが、依然一つの文化統制現象だろう。宗教制度調査会に諮問すべく文部省が立案中の宗教法令の統一は、宗団の理財に関してまで国家権力を延ばそうとするものであって、明らかに文化統制現象であるにも拘らず、宗教を何か反宗教的文化に対立させるよりも、寧ろ宗教内部の統一と制御とをさし当りの目的にしているらしく見える。私学に対する監督の重加も亦之と同様な現象だろう。恰も之は、ブルジョア文学がブルジョア文壇とブルジョア道徳常識界とに於て、受けねばならなかった処の、例の自然的な文化統制と少しも変らぬもののようであって、単にそれが国家という一般社会の政治的法律的代表物によることによって初めて極めて自然に尤も行なわれる点が違うだけだ、という風にも見えるだろう。
だが、国家は何の必要があって物好きにも法的威厳を発動させてまでこの自然的な文化統制の上塗りをしなければならないのか。云うまでもなく、支配者社会のための美術が、宗教が、教育が、停滞・腐敗・堕落したと判断するからであり、階級的に之に対する対立美術に、対立宗教(実は宗教対立物だが)に、対立教育に、備える必要があると考えるからである。階級文化の対立を仮定した一の文化統制が、多少とも安易な道を選ぶべく萎縮したのが、この現象に他ならなかったのだ。
第二に、プロパーな文化統制が文化に対する政治的法律的な統制政策であり、従って国家の階級的権力によるそれだといったが、併しこの統制はこうしたリーガル(国法的)な外見でばかり行なわれるのでは決してない。元来国法的に文化統制を実行し得るためにも、なるべく一部の社会常識や通念に手頼って之を合理化し之に倫理価値を与えるのでなければ権威を生じないが、それだけではなく、この政治的法的な文化統制は、之から区別される云わば私的な文化統制活動によって、敷衍され拡大される、という事実を忘れてはならぬ。対立文化に対する階級道徳的判断は、国家権力のこの法的後援を得ることによって、私的ではあるが併し、法的な(即ち又合法的な)ものの到底及ばない程の、文化統制力を発揮することが出来る。各種の段階に於ける暴力団的強制力が、文化問題に対して加えられ得るのは、全くこうした関係からに他ならない。機関説排撃運動や之に連なる一群のファシスト的・右翼反動的・思想的直接運動の背後には、国家自身の政治的文化統制方針が控えていたのであり、更にその奥には各種の思想統制法律(治維法・出版法・等)が控えているのである。だからこそこの私的――従って又直接行動的――文化統制は合法性を有つことが出来るのだ。国権による文化統制の背景がない処には、如何なる文化統制も決して暴力化し得ないのである。
処で、階級対立に、従って階級文化の対立に、基く処の、このプロパーな意味での文化統制にあっては、統制する主体である支配者的社会階級の側にぞくする文化と、統制される側にぞくする階級文化とは、お互いに全く外的なものでなければならない。なぜなら二つの文化は単に並存したり何かするのではなくて、対立し且つ矛盾するので、お互いに排除し合わねばならぬ筈だからである。それ故この場合の文化統制はどういう条件の下にも、いつも外部的な統制であらざるを得ない。どういう条件の下にもと云うのは、たといそれが文化一般(階級的に区分けされた文化ではなく)の資格に於て文化内部に終始した統制であっても、その文化自身がお互いに相容れなかった以上、その統制は外部的なものである。それだけに又、却って、同一の階級にぞくする限りでは、社会そのものと文化との関係は、もはや単純に外部的に止まることは出来なくなる。たとい文化の自由の名に於て社会から受ける強制に我慢出来ないような場合でも、それが同一階級の社会と文化とであることによって、不自由は不自由でなく強制は強制でなくなる。文化の実際の自由が実は容易に社会階級の強制に屈服して了っているのだが、それが文化の不自由としてではなくて却ってその自由としてさえ意識されることになるのである。実質に於ては何等文化の自由を認めようとせず、又認める必要も有たない所の世界のファシスト達は、却って常に文化運動こそがファシズムの終局の理想だと主張するが、それはここから出て来る結果なのである。ムッソリーニのファシスト文化がそうであり(ジェンティーレは学生にあまり厳重な入学試験を課したために一時失脚したと伝えられる)、ヒトラーのドイツ文化がそうであり、われ等の日本精神が又そうである。
処がこういう自発的な文化運動(尤も夫を自発的にするためには都合の良い「哲学」を適当に貼りつける必要はあるが)も亦、文化統制と呼ばれている以上、ここに又一つの文化統制の新しい側面が発見されるわけである。対立文化を眼中におかずに単に自分側の文化活動だけを強制統合するように見えた先の美術院や宗教法案のような場合でもなければ、対立文化を眼の前にしつつ多少ともいやいやながらも自由を強制される文化統制でもなくて(之は一等多いノルマルな文化統制現象だ、例えば文芸院や或る程度に於て通信社合同)、却って統制自身が自由の拡大として意識される文化統制が、今の場合注目に値いするのである。
つまりここでは、文化統制はその最後の目的を達したか、或いは将に達しようとしているのである。之は階級的な文化統制の成功を意味する。だが必ずしも之が文化の本当の実質的な発達進歩を意味するとは限らないことは、すでに述べたことから明らかであるが、併し、ブルジョア文化乃至ファシスト文化なりには、文化の充分な発達進歩であることを妨げない。例の超階級的な形式的な文化乃至道徳的な(非プロパー)文化統制に於ける、ブルジョア文化のそれとしての発達進歩と、少しも之は変らないのである。ただあの場合には階級対立や階級文化の対立が無視されていたのに、今の場合の(プロパーな)文化統制では、それが極度に神経質に配慮されているというだけの違いなのである。プロパーな文化統制が如何に階級文化の対立に基くかという一般的な規定が、偶々ここでも明らかである。
こう見て来ると最後に、文化統制(一般に統制)という言葉そのものの使い道が、甚だ怪しげなものだということが判るだろう。ブルジョア社会学者の云うような社会統制――その一部分として例の形式的なプロパーな文化的統制――を事実今日の世間は統制とは呼んでいなかったし、それから又自由に対立するものではなくて却って自由そのものまでも、之を統制と呼んでもいるわけである。一体統制という言葉の意味は何かという疑問に逢着するだろう。併し之はそう不思議な言葉の使い方ではないのである。
自由の抑圧が統制だとザット考えても悪くはないが、もう少し正確に分析して見ると、実は自由の抑圧ではなくて可能性の抑圧が統制の意味だと云った方がいいようだ。色々の可能性があって、放っておけば夫々が自由な活動を現実しそうな処を、或る目的に適った可能性だけを現実させて(之が初めて自由となる)、他の可能性は可能性に止めることが、統制の正確な意味である。統制力は別にこの諸可能性を積極的に破壊して不可能ならしめたり、又新しい可能性を造り出して之を現実化したりするようなポジチブな力ではなく、単に、或る可能性はそのままにしておき、之に反して他の可能性だけを自由にまかせるという、ごく消極的な機能のことなのである。諸可能性は併し之によって立派に淘汰され、その淘汰されたものだけが組織を造れば、おのずから新しい世界が造り出されることになる。だから統制は自由の抑圧ではなくて、却って或る特定な自由を他の不利有害な自由から護ることによって、結果に於ておのずから之を実現することになる、ということを意味する。停滞させられた可能性から見れば、統制は自由の抑圧(実は自由への転化の阻止)だが、自由展開に放任された可能性から見れば、統制はそれ自身自由を意味するわけである。
だから文化統制は単なる文化の自由の抑圧ではなくて、却って文化の自由の発揮だとも考えられ、而も反対文化・対立文化・の構成だということにさえなる。ただこの反対文化・対立文化・が、一体何に反対し何に対立する文化であるかによって、発揮される文化の自由の、真物と偽物とのけじめが、別につくのである。――処が実際問題としてはこのけじめを案外容易に見出す方法があるのである。反対文化・対立文化・を構成すると云ったが、本当に何か新しい文化内容を積極的に構成するような場合は、実はもはや文化統制とは呼ばれていないのである。構成は哲学的カテゴリーとして、統制に対立させられるのが習慣になっている。文化構成でなくて、プロパーな意味に於て文化統制と呼ばれる限り、それはネガティブであり受身なものだ。如何に反対文化を構成すると云っても、それが依然文化統制という受身の規定に富んでいる限り、その反対文化の内容は本当は構成を有つことが出来ず、従って又無内容なのであり、つまり偽文化なのである。文化はこの場合、実は一つのデマゴギーの体系としてしか発育し得ない。
さて最後に、文化統制(一般に統制)が、必ずしも単純に自由の抑圧としては説明出来なかったという点から、自由主義の立場に立って文化統制を是非することは、容易に信用出来なくなるのである。自由主義は文化統制のような統制現象に対して原理的な批判を下すことが出来ないということが、ここから結論出来るだろうと共に、実際又、自由主義者はピンからキリまである文化統制の種類と功罪とを、一緒くたにして了うという極めて乱暴な結果に陥るのである。ファシズム文化もコンミュニズム文化も自由主義者にとって同じく単純に統制文化に過ぎないものであるらしい。処が今日多くの論者は、文化統制なるものに就いて、大体この種の自由主義的観念をしか抱いていないのではないかと思う。
自由の観念は、実質的に云えば非常に古くから存在している。人類の興味の体系が、単なる自然に対する関心をめぐって存在するだけでなく、その人間的関心自身をテーマとしてとりあげて反省するという、高次の関心が始まると一緒に、自由という観念は実質的には成立している。世界の思想史の正統の上で云えば、この観念を最初に導き入れたものは、ソフィスト達であったと云っていい。
ソフィストの自由の観念には併しながら、三つの重大な条件が与えられている。第一はそこで自由と考えられるものが――但し自由という云わば概念自身はずっと後にルネサンスを機会にして成立すると考えられるが――全く個人の自由にしか相当しなかったという点を注意しなければならぬ。尤も、自由と云えば、どういう場合にしても、哲学的詭弁を弄しない限り、結局は何等かの意味に於て個人の自由に他ならぬ筈であるが、同じく個人の自由と云っても、その個人というものの理解の仕方によって、根本的な相違が出て来るので、少なくとも個人を含む処の何等かの団体を媒介して個人が把握されている場合と、そうでなくて個人を、今云ったこの団体に単に対立させてしか把握していない場合とでは、個人という観念自身が別であり、従って個人の自由という言葉の意味にも決定的な違いが出て来る。処でソフィスト達の考えた個人は、個々の個人が他の個人との間に理論の上でも道徳の上でも何等客観的な一致を見出し得ないということこそがその特徴なのであり、それであればこそソフィストはソフィスト(詭弁論者・懐疑論者)の名に値いしたのだから、之は社会から全く切り離された個人、云わば独善的・独我的・な、その意味で又個人主義的な・個人をしか意味しない。そういう点で、ソフィストの自由は、全くの――単なる――個人の自由でしかなかった、と云うのである。
ソフィストの自由はだから又第二に、政治上の自由を意味しなかったということが出来る。なぜなら、政治は当時、個人が奴隷所有者として都市国家に於て営む社会生活のことに他ならなかったが、そうした社会生活から個人生活を引き離して了うことこそ、今云ったソフィスト式独善主義だったからである。個人の自由は、社会に於ける個人の自由の正反対物であり、即ち政治的自由の正反対物であらざるを得なかったのである。ソフィストの自由は、政治的ではなくて単に倫理学的なものでしかなかった。――無論、ソフィストが横行した当時のアテナイは民主主義の最も隆盛な場処であったし、又この民主主義的政治生活の上から、ソフィストの詭弁は最も商品価値の高いものではあったのだが、ソフィスト達自身は政治の方針を説いたのではなかった。
第三にソフィストの自由は、外的環境からの自由であったと云うことが出来るだろう。自然というギリシア人が最も確実で有力だと考えた外的環境こそ、ソフィストによれば最も疑わしいものであったから、自然からの作用に他ならぬ感性に基く知識を、信用してはならず又無視しなければならぬということが、ソフィストの倫理的自由説への理論的根拠になっている。で結局、ソフィストにとっては、個人の価値は、自然法則からの自由、又それから出て来る道徳的法則からの自由、政治からの自由、に存することになる。この自由は云うまでもなく、個人が或るものから隔離し逃避することの内に初めて成り立つ処の消極的自由にしか過ぎない。後にこの自由は、ソクラテス以後の有名な諸個人倫理学派――キニック・キレネー・ストア・エピクロス――に於ける、外界からの精神の自由、「不動心」、となって支配する。――自由がこの際消極的であったのは、それが全くの自由でしかなく、政治的自由ではあり得なかった結果である。
吾々は古代の自由の典型としてソフィストの個人的・非政治的・消極的・自由を挙げたのだが、近世の自由の特色は、之と著しい対比をなしている。今それを見て行こう。
近世的な自由概念はルネサンスに始まると見るべきだろう。イタリヤの商業資本主義の発達につれて、商業都市の隆盛を来し、そこに所謂古典文芸の復興の物質的地盤が用意されたが、そればかりではなく、この初期資本主義によって個人=個性の自覚も亦発生した。かくてメジチ家其の他の紳商によって、芸術家が養成されることになり、従来のギルドの徒弟上りに過ぎなかった工人の位置に芸術家が代って就くことになったのである。芸術家は自分自身の個性に従って、制作・創造・の活動をするが故に、もはや単なる工人ではないのである。吾々はここに近世的な自由概念の故郷を見ることが出来る。
自由は個性に基く独創的な生産活動を意味して来る。之はもはや決して消極的な、何ものかからの非生産的な自由ではない。――処でこの自由は、ダ・ヴィンチやミケランジェロ、或いはボッカッチョに於て見受けられるような、芸術的創造の自由又はロマン的自由に他ならぬ(ロマンは俗語――ロマンス語――による世俗人情的物語で、浪漫主義の歴史的起源をなす。デカメロンが典型的なロマンスであることは人の知る通りだ)。この自由の特色は遥か後になって、ドイツ浪漫派哲学者のシェリングの初期の思想の中心をもなしている。世界を構想(想像・幻想)する自由、自我の内から世界を出し、又世界の随処に[#「随処に」は底本では「隋処に」]自我を見る自由が之だ。
近世的自由は併し何よりも民主主義のものであることを忘れることは出来ぬ。政治的自由として、近世的自由の内容が積極的になって来たのは、云うまでもなくフランス大革命を契機としてであり、ルソーの所謂『民約論』に於ける主権の概念に結び付いてである。ルソー自身、浪漫主義の端初をなすと云われるが(物語『新エロイーズ』)、そうすればロマンス的・芸術的な・個性の自由が、ここで政治的な市民の自由へ結び付いたと云っていいかも知れない。
フランス革命に於けるブルジョアジー(当時の「第三身分」)のこの民主主義的自由は、当時のフランス其の他の一連の抑圧されたブルジョア階級の利益を刻印されたので、おのずから一定の方向を持っていた(この方向は云うまでもなくわが国の明治初期の「自由民権」思想となる)。エドモンド・バークによって代表されたイングランドの保守主義者がこの自由の概念を如何に熱心に攻撃したかは人の知る通りだが、それが英仏よりも著しく資本主義的発達が後れているプロシャに這入ると、独特な変形を受け取る。
個性の自由や市民の自由は、今やズットと倫理化されて人格の自由となる。之を代表するものはカントであった。当時の最も代表的な文明批評家である彼はイングランドのブルジョアジーの哲学である経験論を、先験的論理学にまで変形したが、それと共に同じ根拠に立って、フランス・ブルジョアジーの政治学を実践理性の倫理学にまで変形した。理論理性の批判によって、認識の世界を限定しておいて、それから実践理性の批判によって、自由の世界を、全く別の処に、認識の世界とは交渉なく、第二の帝国――目的の王国――として確立するのが、彼の批判哲学の中心課題の一つをなしている。自由は人格の自律となって積極化される。意志の自由とは主として之だ。
カントの人格の自由に於ては個性の自由はあまり前面へ出ない(性格の問題を除いては)。又市民の自由も必ずしも中心ではない(永久平和の問題を除いては)。之は新しい第三の近世的自由概念だと云わねばならぬ。之によると、芸術的創造の自由も、政治的行動の自由も、皆この実践的活動の主体としての、個人人格の自由の内に、根拠を見出さなければならなくなる。そうやって自由は文化の自由として展開されることとなるのである。――そしてドイツ観念論による自由概念の一時的な総決算がここから始まるのである(所謂「大学の自由」もこの自由の一部分である処の「学の自由」から惹き出された。ドイツ大学のいくつかは文化の自由というイデーと共に建設された。わが国の帝大及び其の他の諸大学も亦次第にこのイデーに則って来るようになったのである)。
人格の自律の自由――意志の自由――はフィヒテによって行く処まで持って行かれる。彼によれば、世界は恰も自我――それが自律的な人格の基礎だ――の自由を実現させるために存在するのであり、又彼の哲学体系それ自身が自我の自由の自覚に行くために叙述されるのである。――だが彼の「哲学」によって解明された自由にも拘らず、彼が世俗的な問題に就いて示している実際上の自由概念は、決してそう自由で純粋なものではない。というのは、当時のドイツ民族特有な反フランス主義的な・排外的な・鎖国主義的国粋主義的な・見解が、夫を貫いているからである。ドイツ人は最も純粋なゲルマン民族である。なぜなら最も純粋なゲルマン語を保存しているから、とナポレオンに脅かされつつあるドイツ人に向かって彼はそう告げているのである(ヒトラーはユダヤ人排斥――実は賠償金踏み倒し――のためにこの故知をならっている。処が東大国史科の平泉助教授の如きは本気でこの故知を現代に適用しようとしている)。――だから彼の人格自律の自由とは、実はドイツ民族の国際政治的自由の代理概念なのであり、自我が存在から受ける障碍というのはナポレオンの野砲の如きものを意味するのだろう。而も之が人格の自由として示されている処に、フィヒテのフィヒテらしさがあるわけである。
フィヒテに続くドイツ観念論体系はシェリングだと云われている。後期(自由問題の時期)のシェリングは寧ろヘーゲルの批判者として現われているから、ヘーゲルの次に取り上げる方がいいように見えるが、問題の順序から云って先に引つけなければならぬ。シェリングに於ける自由は、その「人間的自由の本質に就いて」に於ては、もはや個性の自由ではなく又なお更政治の自由でもない。人格の倫理的自由が、ここでは人間の宗教的自由にまで、押し進められているのである。自由なるものの興味は、他からの強制を否定する自己原因的な自律の内に存するよりも寧ろ、完全に無原因なアービトラリネスの内に、即ち悪をさえなし得る自由の内に、見出される。自由は原罪と贖罪との結合となる。之は神学的自由である。懐古的な小ブルジョア反動分子のイデオロギーであるロマンティークの行きつく処は、文学的には中世的カトリックへの憧憬であったが、哲学的には神学へ赴かざるを得なかったのである。決してそれは偶然ではなかったのだ。
ドイツ観念論では、自由の概念は何より大事にされて来ているのだが、このドイツ観念論の総決算をなし遂げたように見えるものがヘーゲルであることは、述べる迄もない。従ってヘーゲルに於て、今まで述べて来た自由の諸概念が、夫々の位置を与えられて組み合わされているのに、不思議はない。――初期のシェリングに見出されるような芸術家的自由・個性の自由・は、ヘーゲルの自由に於ける一種のロマン派的契機の内に現われる。自由とはヘーゲルによれば、理性が自分自身と一つである事によって世界である、ということであり、又逆に世界が世界であるということの内に理性が成り立つ、という事である。ただシェリングと異る点はこの世界があくまで現実の世界であって、幻想の世界に近いものではないのであるが。自由は併し歴史的に実現されて行かねばならぬ。だから自由は又政治的自由でもなければならぬ。ただこの自由は精神状態のもつ自由であって、必ずしも政治的行動状態のもつ自由に重心を置かないのだから、政治的自由と云っても精神的な政治的自由に他ならないのである。それから、人格の自由は、単に個人人格の自由としてではなく、歴史的習俗――家庭とか社会とか国家――の内に横たわる個人人格の自由として、即ち習俗=人倫という実体に於ける自由として、救い上げられる。そして最後に、理性の自由が実現する現実世界は、ヘーゲルによれば神の世界計画の展開にしか過ぎないから、彼の自由は本来神学的自由だったと云わねばならぬ。ただシェリングと根本的に対立する点は、シェリングの自由は、神に対する人間の自由であったに反して、ヘーゲルの自由はつまる処、神の自由になって了っているという点なのである。
この最後の点は、実際ヘーゲルがシェリングに対して持つ弱味と見なければならぬ。ただこの一つの点を抜きにすれば併し、ヘーゲルの自由の概念は、ドイツ観念論による自由の諸概念の総決算に相当することは事実だろう。即ち之は、文化の自由――ドイツ観念論とは他でもない文化の哲学のことだ――の総決算なのだ。
処で、文化の自由は決してそのまま政治の自由でないことに気付かなくてはならぬ。元来文化の自由というドイツ観念論の自由概念は、フランス政治的自由のプロシャ的変容から組織発展されたものだった。でヘーゲルに於てはまだこの二つの対立物の間の清算は出来ていない。
元来「政治」の自由と独立な「文化」の自由はあり得ない筈だ。なぜなら、政治を抜きにして文化だけを論じようとすることは、一階を通らず二階へ上ろうとするようなものだからである。だから自由を単に文化の自由として具体化して来たドイツ観念論は、ここで文化の自由自身の行きづまりに際会する。――文化の自由はその云わば上限に於ては神学的自由(但し人間の神に対する自由)に行きあたり、その下限に於ては政治の自由に行きあたる。でヘーゲルは一方に於て――尤もこの方の問題はスケールが小さいのだが――シェリングの人間的自由の概念を消化出来ず、他方に於て――この方の問題が釣合上ズット重大なのだが――マルクスに於ける政治的自由の獲得の問題を取り上げることが出来なかったのである。政治の自由と文化の自由との結合さえつけば、文化の自由と人間的自由(単に悪をなし得る自由)となどは、すぐ様結び付くことが出来るだろう。
大改革に於けるフランス・ブルジョアジーの政治的自由の概念は、云うまでもなくブルジョアジーの個人主義的自由競争として現われる社会の一定の生産関係から来ている(J・S・ミルの『自由論』はその後イギリス・ブルジョアジーの自由概念を云い表わしている)。これが今日ブルジョア民主主義が代表する自由主義(ブルジョア自由主義)の概念的根柢をなす、夫は断わるまでもない。だが、こうした自由主義自身も決して、民衆乃至大衆が政治的の自由を獲得するための本当の方針であり得ないということは、フランス革命の直後三四十年にしてすでに明らかになったことであり、而も今日では愈々決定的に明白になって来ていることである。真の政治の自由は、ブルジョア民主主義的・ブルジョア自由主義的・な政治の自由であることは出来ずに、正にプロレタリアの意識に於て実際的な形で把握された限りの政治の自由でなければならない。このことはもはや一つの客観的な事実だと云っていい。こういう政治的自由こそが、初めて、文化の自由と実際的に結び付くことが出来る。というのは、プロレタリアの政治的自由の実現によって初めて人間の文化の自由が実際に実現され得ると考えられるからである。人間が神に反して悪をなす自由の如きは、無論実現されるべきものではなくて絶滅されるべきものだろうと思うが、そういう自由はこの政治的自由の実現によって、政治的に又文化的に、おのずから死滅して行くだろう。階級的抑圧機関――ヘーゲルはそれを「自由」の実現と考えたが――がおのずから死滅する時こそ、「自由の王国」がおのずから始まるだろう時である。
現代は文化的自由主義が大きな支配力を有っている時代である。だがそれであるが故に、この文化的自由と政治上の自由獲得の問題とを如何に結合するかが、今日の文化問題に於ける課題になっているのである。現代の文化運動の要点はここに直接している。
[#改段]
文化問題は殆んど一切の社会的事物について発生する。元来文化が社会の物質的基礎にある経済(生産関係)に立脚した処の上部建築であり、そして夫が特に法則や政治ばかりでなく、より一層精神的な或る広範な領域を指すことはすでに常識となっているが、その生産関係や法制政治の形態それ自身が、或いはそのまま文化の一部分と考えられたり、或いは文化によって浸潤されて文化としての意味を受け取ったりしている。経済機構さえがすでにそれだけで、その社会の文化の一場面だと考えられる。
こうして文化は一切の社会的事物に纏綿したものであり、そればかりではなく、吾々の発達した社会に於ては、殆んど一切の自然物さえが文化の一場面と化されているのである(例えば土木・農林業・鉱業・発電・その他の産業工学の対象)が、併しプロパーな狭い意味に文化というものを限定して考えて見ても、その内容は云うまでもなく、際限のない程多岐で多端だ。科学・芸術・道徳・宗教・世界観・風俗習慣・其の他一切のものが、それ自身文化の内容である。でこう考えて行く限り、文化は遂に一括して問題に出来ないもののようにも見えるのである。
なる程文化はありと凡ゆる形象を取って存在している。文化の夫々のジャンルの如きものと場面のようなものとを点検して行けば、話しに限りはないのだ。だがそれにも拘らず、こうした一切の文化の現象を一貫する或るものがあって、それによって文化が文化として生きている所以のものを求めることは、出来る。そして最も単純な意味では之が「文化」と呼ばれているのである。私は之を仮に思想と呼ぶことにしよう。尤もここで云う思想とは、必ずしも哲学や科学の学術的体系のことではない、また所謂イデオロギー(社会理論上の定説に基く観念形態)や社会思想にも限らない。寧ろ例えば一切の文芸に於て作品の存在理由として働いている処のものが、すでに思想でなければならないのである。思想のない文芸作品は元来何等文芸としての存在理由を有つものではない。それがなおかつ存在しているとすれば何かもっと別の意義としてであって、例えば娯楽や技(わざ)のレコードというような意義としてであるが、それとてもそのどこかに本当に思想とのつながりがないならば、娯楽にもならぬし、技のレコードを保存する理由もなくなるのである。思想は、科学や哲学は云うまでもなく、文芸から始めて一切の芸術に一貫するものであり、更に道徳・宗教・についてもその文化的内容をなすものだ。道徳や宗教は往々文化の内に数えられない場合もあるし、又数えてはならぬ場合も多いと思うが、少なくともその文化内容をなす部分は、正に思想に他ならない(拙著『思想としての文学』及び『思想と風俗』参照)。
こうなると、思想というものが文化の一般的性質を云い表わす最も手近かな観念であると云っていいことになるだろう。思想はただの観念に過ぎない、然るに文化は客観的に形態を有った所謂客観的精神だ、二つは別ではないか、と云う人があるかも知れないが、そういうならば思想だって客観的に形態を有ったものに於てしか見出せないので、思想も亦云わば客観的存在物なのである。思想のそうした社会的歴史的な客観的存在物としてのリアリティーを肯んじない人は、一般に思想のもつリアリティーを理解しない人であり、従って思想という観念を本当には持たない人物と云う他はあるまい。――私は思想の最も卑近で端的な現われは、風俗だと考える。もしそう考えていいなら、風俗こそは最も具象的で肉体的で而も極めて日常不断のものなのだから、その客観的なリアリティーを知らぬ者はあるまい。処がそれが思想というものに帰着するのである。
さて、であるから、文化の問題を一般的に論じる方法としては、之を思想の問題として論じることが、統一的な結果を得ることになる。単に社会思想に限定された所謂「思想」や又単に観念を意味する思想のことではなくて、当然なことながら、一切の文化を貫き文化のその時々の生命として機能しているという意味での思想、之が文化問題の一般的取り扱いの緒口である。
約五年程前まで文化を圧倒的に支配した原則は、マルクス主義思想としての唯物論であった。勿論之に消極的に対立したり之に積極的に反発したりしたブルジョア社会イデオロギーの様に、当時の所謂自由主義から始めて右翼国粋主義に至る一連の反動思想は、決して無力であったとは云えないが、処が元来こうした反動思想は進歩的な指導性を有たないが故にこそ反動思想だったのだから、仮にその支配力が一種物理的な強力さを持っていたにしても、決して文化そのものを圧倒的に支配したとは云うことが出来ない。一部分の文化は唯物論が支配し、他の部分の文化はこの種のブルジョア社会イデオロギーが支配した、というわけではなくて、本当に文化を支配したものは唯物論であって、ブルジョア社会イデオロギーの方はあまり文化的でないものを、或いは文化を非文化的なものとして、支配したに過ぎない、と云ってもいい位いだったのだ。尤も文化と云っても色々の理解の仕方もある筈だが、単なる文物の惰性としての文化は勿論十全な意味での文化の名には値いしない。教養とか文化的俗物とかいうものが往々文化というものと結びついているように云われる、その時の文化は、文化の名を有っているに拘らず単なる文化の惰性にしか過ぎない。こうした文化の水準は思想の水準とは可なりに別なもので、従ってこうした思想的意義に乏しい文化は本当の文化ではないと云っていいだろう。ブルジョア社会イデオロギーが支配したものはこうした文物の惰性としての文化に過ぎなかったというのである。
なる程ブルジョア社会イデオロギーとしての当時の自由主義も、又所謂ファッショ・イデオロギーと呼ばれた反動思想も、立派に思想の形態となったもので、その限り立派に文化の一つの枢軸をなすものではなかったか、と云うかも知れないが、その思想自身が一向に思想らしくなかったというのである。だから当時の殆んど凡ての反動思想は、思想以外の社会現象としては相当に支配的な力を有っていたが、そしてブルジョア社会に於ては夫は当り前のことだが、併し思想としては、そのブルジョア社会的信用から云ってさえも、大して有力ではなかったのである。少なくとも思想が社会に於ける生きた文化の枢軸であるためには、思想は社会に於ける政治的運動と連帯関係を帯びなければ、思想としての社会的威力を欠くわけだが、処が所謂ファッショ・イデオロギー(之は決して科学的な用語ではなかったが)の方は元来思想ではなかったし、多少思想らしい文化的相貌を有つように見えたブルジョア自由主義的な諸思想の方は、社会の政治的動きと殆んど全く連帯関係を有っていなかった。
かくて、文化的内容と社会に於ける政治的運動への連帯とを兼ね備えた処の、思想らしい思想は唯物論であったわけで、それが、唯物論が文化を圧倒的に支配したということの意味だったのである。
この関係は相当根柢的なもので、社会のあれこれの一時的な変動に応じてそんなに簡単に変更されるものではないわけだが、処がその後、日本の文化事情は根本的に一変したという風に普通は考えられている。所謂「マルクス主義の退潮」・「ファッショ・イデオロギーの進出」なるものがその現象だ。社会運動として云えば「左翼の潰滅」と呼ばれるものに相応する処の現象だ。日本の支配分子の満州行動や対支・対ソ・行動、最近ではドイツ及びイタリヤとの思想的乃至経済的(或いは軍事的)協定、こうした外交現象ともなり、それ自身は弱体であるにも拘らずその背景から云って強力内閣と呼ばれる内閣の、その下に於ける各種の革新的・積極的・経済政治文化に関する統制的政策、という政治現象に対応する現象であることは云うまでもない。こうしてマルクス主義的唯物論はその文化的支配力を失い、ブルジョア社会イデオロギーが、特には又日本型ファシズム・イデオロギー(日本に於ける特殊な封建的残存勢力によってその強圧を強力化した日本的民族国家イデオロギー)が、文化的支配権を握るようになった、という風に今日一般には考えられている。
この現象、そしてこの現象に対する現象的な見解、之は一応無理からぬものを含んでいる。たしかに出版物や教育行政や公認イデオロギーの規格から、文化を推定するなら今日の日本に於ける文化の支配者は、日本型ファシズム・イデオロギーと、文化的には之に追随するように見える処のブルジョア・イデオロギーとだ。日本のブルジョア的政治家のイデオロギーとしての所謂「自由主義」は、まだ単に、政治上の自由主義としての一定の政治機構のただの観念上の複製に過ぎないので、実は文化上の自由主義とはあまり関係がない。だから「政治的」にはファッショ化過程に反対するように見えるブルジョア政治家の文化的イデオロギーも、却って文化的には日本型ファシズム・イデオロギーと共通なものを有っている。でこの種のブルジョア・イデオロギーは日本型ファシズム・イデオロギーと文化上・思想上・共通の本質を有つもので、それが今日日本の文化を支配しているという現象が、眼前の表面上の事実なのだ。
だが文化や思想の状態を推測するのに、単にイデオロギーの公的な支配関係だけを見ることは、文化・思想・の取り扱いとして全く無責任だと云わねばならぬ。今日の世界に於ける文化・思想・は、とに角資本制的・デモクラシー的・条件に一旦立った以上、文化・思想・の所有者は、可なりの偏極はあるにしてもつまりは民衆なのである。今日のブルジョア民主主義を標榜する民主国と雖も民衆は決して政治的な支配力を有つとは云えないが、文化乃至思想になれば、之に特別な統制を加えない限り、支配者の公的イデオロギーよりも民衆の側の方へより以上の移行を有っているのだ。政治的支配は初めから一種の統制自身のことだが、今日の文化や思想というものは、近代民主主義的自由を想定したものという意味を持っている。又たとえ文化・思想・に公的な統制が加えられるにしても、すぐ様それが民衆の文化・思想・を解消して了うものとも考えられない。そこには常に、民衆の自発的な文化・思想・の要求によって、抵抗がまず試みられるものだ。――で今日の日本に於て日本的イデオロギーが文化の支配者だという現象を見ることが出来るにしても、同時にそのすぐ裏に、之に対する民衆の文化的思想的抵抗を見出し得るわけだ。日本型ファシズムが所謂「持久的」ファシズムであればある程、この抵抗は著しい。
実際マルクス主義はその表面的な文化支配力を失ったにも拘らず、それはいつの間にか民衆の日常常識となって普及し浸透するようになって来た。夫が表面上退潮すればする程、この普及浸透の度が加わるのである。日本の所謂左翼が有っていた一種過剰な純粋性――それを公式主義とかセクト主義とか官僚主義とか其の他色々に云ったものだ――から来る反作用、がここに現われたのだったかも知れない。がとに角、日本型ファシズム・イデオロギーの公的で儀礼的な文化支配の下に、マルクス主義思想の民衆への常識化・日常化・は却って深められたということが、大切な点だ。ここに「持久的」なマルクス主義が、事実上成立している。でそうすれば、之が今日の日本文化を支配していない、と云うことは出来ない筈ではないか。
こうしたものがマルクス主義の所謂「退潮」というものの思想上の本質である。一体日本のマルクス主義社会は運動としての正統的な発達に較べて、思想・文化・としての正統的な発展が、較べものにならぬ程旺盛だった。だからしてこの思想上の「持久化」を無視して、わが国に於けるマルクス主義の退潮を云々することは、全く無知なことだと云わねばならぬ。転向・思想善導・国本観念の鼓吹・など日本型ファッショ文化に帰着する筈の一連の文化的支配の要求は、今日決して、文化上乃至思想上の称讃を博していない、という大衆的事実を見ねばならぬ。思想を代表する機関としての所謂総合雑誌や評論雑誌は、このことを最もよく知っているのだ。
だがそれにも拘らずマルクス主義思想は今日、一つの守勢力として有力なのであって、かつてのように攻勢力として有力なのではないという点を、忘れることが出来ない。この線に沿って、或いは学究的な形態をとり、或いは文学修業的な形態をとり、或いは調査的な形態をとる。之は退却による勢力の整備の意味をもつのではあるが、併し消極的な状勢であることは蔽うべくもない。そこで、この抵抗力を想定しながら、何かの形の或る積極的なイデーはないか、ということを人々は探索し始めるのである。大衆は無意識にそういう興味をおのずから懐くわけだ。だがこの大衆の無意識な心理の動きを表面化して代表するものは、こうした場合勿論各種のインテリゲンチャである。処がインテリゲンチャは必ずしもこの大衆の無意識的要求を、あり態に取り出せるとは限らない。インテリ固有の社会的制限も手伝って、ここに発見される新しい積極的原理は、様々の偏極や歪曲を生具して現われる。まずこの点に注目する必要があるのだ。
多くの場合、この或る新しい積極的な思想原理・文化原理・は、マルクス主義思想に代るものとして、その代行者として現われる。だが代行者の使命を徹底すれば、実はマルクス主義思想の代行者に止まることは出来ずに、マルクス主義に代る対立物とならねばならぬ。甚だしい場合になるとその反対者としてさえ現われねばならぬ。マルクス主義は進歩的だ、よろしい。処で之に代る代行者としての新イズムは従って又進歩的だ、よろしい。だが、それ故マルクス主義に対立し反対するこのものこそが進歩的でなければならない、否。代行者が自分を進歩的なものとして自己拡張するために、その代行委任者の方は反動的になる! これは話しが違いはしないか。――ここに大衆が関知しないインテリの手による問題の偏極があるわけだ。
進歩とか反動とかいう言葉を、無雑作に惰性的に使っているのではない。文化や思想というものは進歩と関係なしには無意味だったのだ。進歩というものはそれ自身、文化と思想とを説明するための言葉であることを忘れるべきではない。自由とか人間性とかいうものと、この点全く同じだ(後を見よ)。
実際こうした実例はかつての行動主義乃至能動主義だった。之が日本で提唱されたのはフランスに於ける文化擁護作家大会の刺激によるものであるが、云うまでもなく之は、国際的な思想抵抗線上に現われた一つの新しい積極的原則を押し立てた。フランス文化の伝統にぞくするリュマニテ(自由と人類の進歩)がそれだ。だが日本に之が伝えられた形は、もはやこうした事実上の反ファッショ的な役割を有った積極的原理としてではなかった。それはもう少し偏極されて抽象的に行動一般や能動一般の主義となったのである。だがこうしたものさえが日本に於てとに角社会的に一応問題にされることの出来たのは、大衆の観点から見れば(この派の文士インテリの眼からではなく)、之が思想的抵抗線上の新しい積極的原理であるかも知れないという期待からだったのである。
だが行動主義一般や能動主義一般は、イタリヤのファッショ哲学代表者ジェンティーレの Aktivismus にも通じれば、ナチ哲学の一つの淵源であるフィヒテの Tathandlung(Tat は Tun =「なす」に関係がある)にも通じるものだ。新しい積極的原理ということは、その限り思想の前進に有益なのだから、一応進歩的な課題であるのだが、それが実は(と云うのは大衆の無意識的要求から云って)思想的抵抗線の上に於て初めて社会的必要を有ったものだということを忘れるならば、当の行動主義者自身はやがてこのマルクス主義的抵抗線を脱線して、之をマルクス主義反対という旧い反動思想の新しい武器にすることになるし、又この行動主義を批判する所謂「マルクス主義者」の方も、そのおかげで、この動きが持っている大衆にとっての積極性を、公式的に(?)吹き飛ばして了うことにならざるを得ないだろう。――積極的な新原理は、どこかにあるのだ。そのことを告げたということが、この行動主義の類の功績である。だが之こそがその新原則だと云って取り出したものは、もはや思想上の抵抗線から脱落した或るもので、従ってマルクス主義や唯物論を攻撃することをまず第一の役割として引き受ける処のものだった。処がそういう点をこそ喝采したインテリゲンチャは決して少なくはなかったろう。
行動主義の問題とからんでインテリゲンチャ論が再び提出されたことには意味があったのである。なぜなら今云ったように、行動主義があのような実質を備えるようになったのは、主にそれがインテリゲンチャ(特には文士達)によって取り上げられたために偏極を来たしたのだ、と考えられるからだ。インテリゲンチャは文士を中心として理解されるべきものではなかったばかりでなく、インテリ自身を中心としてさえ考えられるべきものではなかった。インテリゲンチャは大衆――そこから新しい文化と思想との社会的地盤がもり上るだろう処の――による一種の技能的被委任者と考えられるべきだったのだ。
だがインテリゲンチャはつまり文化人である。彼は何と云っても文化・思想・の老練家だ。自由や人間性というものを一等先に、大衆に先立って、取り上げることの出来るのも彼等だ。処で問題はいつも、この文化・この思想・この自由や人間性、これはインテリゲンチャ自身の観念からではなくて、大衆の無意識的な文化的要求の解説者で代弁者であることを委任された限りのインテリゲンチャの立場から、初めて正当に問題になるものだ、という点にあるのだ。――処でまず自由はどうか。
インテリゲンチャ=文化人は、一切の自由を文化的自由として理解しようとする。政治的自由は云うまでもなく、経済的な自由さえをも、文化的自由に帰着させる。この帰着のさせ方も、一切の自由を文化上の自由に還元し平面化して了うのでさえなければ、とに角間違ったことではない。そして問題が文化自身に関する時、つまり政治や経済関係から区別された限りの(連関に大切だが)文化に関する時、このように一切の自由をここに帰着させることは、当然なことでもあるのだ。でその意味から、吾々は文化的自由主義(経済的・及び政治的・自由主義から区別された処の)なる態度を採ってもいいわけだ。そうしなければ、何人も文化の自由を問題にすることは出来ないのである。
併し文化的自由主義とは何か。それが一つの主義であり、従ってそれがいつかは一つの思想体系を備えることになるならば、夫とマテリアリズムとはどういう関係に立つことになるか。文化的自由主義が一切の自由を文化上の自由という立場・立脚点・から取り上げて之を自分に帰着させたり還元したりするとなれば、之は政治活動その他の社会関係を先回りして、まず文化から話しを始める処の文化主義に他ならなくなる。自由主義は経済的自由からでも政治的自由からでもその哲学的立脚点を採って来ることが出来るが、この文化的自由主義は夫を文化から採ってくる。政治や経済の規定を文化から引き出すことになるだろう。そしてこの点は、恰も夫が哲学上の自由主義であるためには、最も都合がいいのである。経済的自由や政治上の自由から、自由主義という哲学体系を築くことは非常にムツかしい、だが文化的自由から自由主義の哲学体系・思想メカニズム・を惹き出すことは沢山の哲学者がやって来たように、極めて容易なことだ。――かくて文化的自由主義は、往々、一方に於て文化主義であり、他方に於て哲学的自由主義を意味する。こうなると夫が、史的唯物論とも弁証法的唯物論とも違ったものであることは明らかだ。それだけではなく、その正反対物でさえあり得るようになるわけだ。
文化的自由という観念は例の思想的抵抗線としてのマルクス主義線上に於ては、一つの新鮮な推進力のあるテーマであるのだが、之が文化的自由主義という一つの哲学的性格を帯びて来ると、もはやマルクス主義の単なる代用物にさえ止まらなくなるのである。――尤も文化的自由主義と云っても、之を特に一つの行動や理論の体系的衝動としてのイズムとばかり理解する必要はない。文化的自由をテーマとして展開するという動きそのものを、文化的自由主義と呼ぶことも出来る。それはそれでよいのだが、実は文化的自由主義という言葉は必ずしも世間の人達が慣用しているものではなくて、特に私が、今批難したような意味での哲学上の文化的自由主義の弱点を特色づけるために、選んだ言葉であった。
そこでつまり、例のインテリゲンチャの再論(インテリゲンチャ論はその前の時期でも一応論じつくされたから)に於て、インテリゲンチャが問題にされた仕方の弱点は、全くそれが文化的自由主義のコースの上で取り上げられたことというに由来する。インテリゲンチャは唯物論のテーマとしてではなくて、一種の自由主義(文化的自由主義)に固有なテーマであるかのように、提出されたのだ。例えば文芸作品や創作活動について、又インテリゲンチャの非社会層的超越性の主張にからんで。――例の行動主義・能動精神・のインテリ的偏極も亦、全く文化的自由主義の所産である。之を唯物論の積極的テーマとする代りに、その代行者でありその「批判者」(?)であるらしい文化的自由主義にうってつけのテーマだと信じた処に、この運動の狭隘さとピントの狂いとがあったわけだ。
こうやって、マルクス主義の「退潮期」を利して現われたものが、この種の文化的自由主義という、新しい哲学の輪郭の如きものだったのである。之は決して進歩的でないのではなかった。積極的な新しい原理の探究ではあったのだ。だがこの原理が、思想的抵抗線としての最後の兵站部たるマルクス主義から独立出来ると思い込んだのが、その一種抜き難いマヤカシ物の臭味を結果したのである。大衆の無形の期待が、あらぬ方へ持って行かれて裏切られたという感じが、この臭味だ。
次に人間性はどうか。
自由と自由主義(特に文化的自由主義)との右に述べた関係は、略々そのまま、人間性(ヒューマニティー)とヒューマニズムとの関係となって現われている。一面から云うと今日のヒューマニズム論はかつての行動主義からの伝統であると云わねばならぬ。その限りヒューマニズムはより適切なより眼界の広い行動主義の新装だと云わねばならぬ。そうである限り、私は行動主義について述べたことをここにそのまま繰り返せばよいわけだ。
併しヒューマニズムは明治大正期の一派の文芸運動としての「人道主義」と、少なくとも言葉の上で連関を持っている。言葉の上で連関を持っているから、人道主義の伝統から今日のヒューマニズムが生じて来たと云うのではない。ヒューマニズムという言葉がそれ程歴史のあるものだということが云いたいのである。今日のヒューマニズムが評論家の口に上るようになったのは遂一二年程前からだと云っていいだろう。だが勿論今日のヒューマニズム論はそこから出て来たものではない。ヒューマニズムは一つの世界史的運動なのだ。今日のヒューマニズムと雖もこの運動の、現代風のそして又日本風の、一つの形態に他ならない。それは国際的運動にもぞくするのである。前に云ったフランスの文化擁護作家大会も亦このヒューマニズムに立脚した。或る作家達は之を更にコンミュニズムとも個人主義とも呼んだ。――だからその限り、之を単に行動主義の発展であるとか、又単に所謂「退潮期」の反動現象だとか云って、片づけることは出来ない。
文化上の常識によると、ヒューマニズムこそは近代文化・近世思想・の概括的な底流なのである。ルネサンス以来、文化・思想・の圧倒的な本流はここにあるのだと考えられる。それは人間の神からの解放として出発した・一切の人間の疎外化からの人間の恢復が近世文化の根本機能だが、それが即ちヒューマニズムだ、というのである。それに間違いはないのだ。
だが吾々の問題はここでも、唯物論とヒューマニズムとの関係にあるのである。唯物論に立つ社会理論及び人間理論は、勿論、人間を非人間的な疎外化から恢復する目的と、その実現の手段とを提供している。そして之は今日ではすでに大部分実証的に検証された内容にぞくする。で之を例えば文芸創作上の問題へ持っていけば、「プロレタリア的ヒューマニズム」というものにもなる。で今日の唯物論こそヒューマニズムである、或いは、今日のヒューマニズムは唯物論となって現われる、という風にも、云って云えなくはないだろう。
だが吾々の問題はそれ程簡単には片づかない。一体今日の所謂「ヒューマニズム」とは何であるか、がこの際殆んど考慮されていなかったのである。ヒューマニズムという言葉は世界史的なもので又今日国際的なものだ、その限り内容も一応世界史的な来歴と国際的な普遍性とを有っている。併し今日の日本の所謂ヒューマニズムなるものが、この大ヒューマニズムの今日に於ける信用のおける形態だということは、どこにも保証はないのだ。ヒューマニズムという言葉の内に世間の人は銘々勝手な希望をたたきこむことが出来る。そうなると魅力は言葉にあるので、もはや内容に関わりがないという、ことにもなるだろう。真のヒューマニズムは「ヒューマニズム」の反対物だというようなことでもあったら、収拾のつかないことになりそうだ。――それに、ルネサンスはヒューマニズムの発生と共に、正に唯物論の新しい形態の発生期でもあった。それ以来ヒューマニズムと唯物論とはどういう関係を保って来たか。この点常識では必ずしも明らかになっていないのである。一緒に発生したものがいつまでも一緒に手を取っているとは限らない。一方が他方を抜くとか他方を限定したり制限したりするということは、容易に想定し得るものとしなければなるまい。
では一体、まず第一に、今日の日本の所謂「ヒューマニズム」とは何か。三つの場合を区別しなければならないようである。その一つは「ヒューマニズム」というのが一つの立場や主張であるよりも、寧ろ一つの問題の提起と、その問題への興味の集中を提案する、ということを意味する。つまり人間性(ヒューマニティー)という問題を、テーマを、思想乃至文化の前面に押し出すというポーズを意味する。この際のヒューマニズムは主義主張のイズムではなくて、人間性問題の健在を指す意味でのイズムだ。して見れば之はまだ何等の思想体系でもなく又何等の文化上の説明原理でもないわけで、云わば一つの自然発生的な運動なのだ。思想や文化の動きというものに他ならない。
処で云うまでもなく、こうした文化上のポーズや課題がなければそれに基く文化内容や思想組織としてのヒューマニズムもないわけだから、ルネサンス以来のヒューマニズムには、まず第一にこうした根柢があったのは当然だが、併しこの問題が特に今日の日本で問題となり始めたというには、理由がなくてはならぬ筈だ。問題は常にあるのだが、その問題が特に問題にされるには特別な原因がある。日本のファッショ化過程の進行ということがそれだ。尤も日本だけに偶々このファッショ化過程が行なわれたとすれば、それだけでは必ずしもこの問題は問題にならなかったろう。だがファシズムは世界の至る処にその先駆者や又は先着者を有っているのである。そしてその結果は人間性(ここでは特にその文化的自由だけを見てもいい)の新しい形に於ける蹂躙である。そこでは日本に於ても亦他人ごとではないということになる。人間性の恢復、これが多少の先回り(?)をして日本でも予防的に問題にならざるを得ない。それがこの形態のヒューマニズムでなくてはならぬ。
だから少なくともこの形態のヒューマニズムは、之を退潮現象の一つ、つまりそれだけ反動期を利する処の一種の反動的文化ポーズと見ることは、焦点を誤るものだ。却って反ファシズムの広範な包括線を意味する処の、文化上の抵抗線をこそ意味しなければならない。だがそうすれば、それだけに、マルクス主義乃至唯物論と別に離れてあるものではない筈だ。ヒューマニティーというテーマが、文化・思想・にとって現下の吾々にぬきさしならぬテーマであることは、本当だ。従来マルクス主義が之を積極的な主題とすることが少なかったのは嘘ではない。特に文化理論の領域に於てそうであった。処で今、之こそが現代に於ける唯物論の当面のテーマでなくてはならぬ、とそう云うなら、ヒューマニズムこそ現代唯物論の最大の課題だ。その意味で、言葉は不正確であるにしても、この形態のヒューマニズムは唯物論に立脚している。
いや、ヒューマニズムは唯物論以外のものには立脚し得ないのだ。なぜならヒューマニティーという問題を最も連関的にそして実際的に解決し得るものこそ、現代に至る唯物論であったからだ。そうでなければ社会主義の科学性なるものはどこにもあり得なかった筈ではないか。――従って、もしヒューマニズムという名を持つ人間性問題を解くのに、夫がヒューマニズムという名を持つという処からして、それ故に唯物論以外の何かヒューマニズムというような思想上の立脚点を要請しようという者があるとすれば、之はどうなるか。ヒューマニズム(即ち人間性問題)を唯物論によって解答することが、今日の真のヒューマニズムだ。処がヒューマニズムをヒューマニズムによって解答しようとするものは、もはやヒューマニズムではなくて、「ヒューマニズム」主義以外のものではあるまい。だがこれは後にして、第二番目の場合を見よう。
之は文化的政治的スローガンとしての、合言葉としての、「ヒューマニズム」である。前に述べた場合は単に課題としての、テーマとしての、ヒューマニズムであったが、今度は之が政策を規定するものとなって、一般的政策乃至文化運動に対する合言葉となる。同じくヒューマニティー=リュマニテであるが、それがスローガンの役目を果すのである。之が思想体系や文化上の立場を意味するのでないことは当然だ。之は文化的理想となり又モラルともなる。フロン・ポピュレールの観念的背景として取り出される文化的用語が正に之でなくてはならない。その意味でこの形態のヒューマニズムはおのずからフロン・ポピュレールと直接している。だがこのスローガンとしてのヒューマニズムは吾々日本人にとっては決して伝統的なものではない。フランスではヒューマニズムは一つの国民文化的伝統にぞくする。従って夫は民衆を捉える何よりもの言葉だ。丁度日本に於ける忠君愛国や武士道の類であろう。リュマニテは人類文化の進歩を直接に連想させる。リュマニテの名を頂く文庫や、リュマニテという名の党の機関紙が存在し得る理由はここにあるのだが、処が日本ではヒューマニティーの観念はまだそこまで大衆的な人気を有っていない。だがそれ故にこそヒューマニズムは、一つの政治的文化的スローガンとして、新しい態度と新しい理想を象徴する。従来の日本の大衆は生活擁護のこうしたスローガンを殆んど全く持ち合わさなかった。今それが発見された、というわけである。ヒューマニズムがこの第二の形態に於て、台頭する所以である。
だが吾々はこういう意見を時々耳にする。ヒューマニズムこそマルクス主義に代るものだ。ヒューマニズムこそマルクス主義を止揚=廃棄するものだ、ヒューマニズム万歳、其の他其の他。ここでは明らかにヒューマニズムは唯物論に代る処の、従って唯物論を不用とする処の、効験あらたかな一つの哲学体系と見立てられている。ヒューマニズムは四百年以上の昔から存在するし、その言葉はいやという程世界中の人間の耳に這入っている、処が一九三六年度になって日本に於て、初めてこの哲学が発見された。まことにお目出たいことと云う他はないのである。――之がヒューマニズムの第三形態である。
併しこうした露骨なヒューマニズム主義は、思いつきとして以外にあまり相手にされない。もう少し信用を博しているものは、例の文化的自由主義の形態の下に現われる。と云うのは、自由主義が元来、単純に自由を求めるポーズという風にも理解される処から、いつの間にか人々を安心させながら所謂自由主義なる一種の理想主義=観念論の哲学体系に近いものへ持って行くのだったが、丁度この自由主義(特に文化的自由主義)のこのメカニズムを利用して、ヒューマニズムという一つのポーズ(第一形態のヒューマニズム)をまず是認させた上で、やがていつの間にかヒューマニズム主義(第三の今の形態のヒューマニズム)へ持って行くからである。この際第二形態のヒューマニズム、政治的文化的スローガンとしてのヒューマニズム、の魅力は云わば有力な政治的効果を有つのであり、悪く云えばこの効果をデマゴギッシュに利用するのが、今の場合なのである。自由→自由主義、文化的自由→文化的自由主義、そして同様なやり方で、ヒューマニティー→「ヒューマニズム」=ヒューマニズム主義というのである。
こうした「ヒューマニズム」は勿論唯物論と矛盾したり之を排除したりはしない、と弁明する。だがそれが単なる弁明に終らないためには、少なくとも「ヒューマニズム」を以て唯物論の何等かの基礎だというような風に考えてはならないだろう。唯物論にとっては、ヒューマニズム=ヒューマニティー問題は一つのテーマなのだから、夫は勿論唯物論を基礎とし、唯物論が之に先立たねばならぬ。テーマがあって夫を解決する立場が要求されるから、テーマの方が先だというなら、基礎だというなら、いい。だがそれならば、ヒューマニズムが唯物論に先立ち又はその基礎や根柢をなすというのは、つまり唯物論なるものを一つのテーマとして取り扱い得る哲学上の立場がヒューマニズムというものだ、ということになるだろう。唯物論は之まで幾度も、一つのテーマとして他のものの立場から愛撫されたりはたかれたりした、経験を有っている。マルクス主義をカント主義や社会学や歴史哲学や又人間学によって、基礎づけたり批判したりするのは、皆この仕方によったのである。――特に、ヒューマニティーをテーマとするということが、ヒューマニティーを立場とするということになり、従って人間の立場から社会や自然を省察するという論理になるかも知れないが、所謂ヒューマニズムがもしそういう人間学主義にでも帰着するなら、ヒューマニズムのヒューマニズム主義たる所以は、再び可なり露骨になるものだということを、注目すべきである。
でこうして要するに、所謂ヒューマニズム論の多くのものが、例の文化的自由主義のからくりに帰するのである。して見れば之は文化的自由主義の一つの新種として、行動主義其の他の亜種に他ならなかった、ということにもなるわけだ。――文化的自由主義を論理学的に特色づければ、文学主義となると思う。文学主義についてはすでに方々で触れたから改めて説明することは省略しよう。ただその結果、文化的自由主義に立つ思想は、事実上多分に文学的な色彩と、文学的な力点とを有っているのである。だからそれは文芸現象を説明するには一見極めて恰好のようにも見える。だがそうすれば唯物論は文芸と初めから一貫する連関を持ち得なかったというわけだ。一派のロマン主義(ロマン派主義)はそのように考えている。で又事実、ヒューマニズムは、特に「ヒューマニズム」主義として、文学青年達の間に人気があるように見える。処が、ヒューマニズム論議はそうした人達の文芸批評其の他に於て喧しいに拘らず、一向まだヒューマニズムの文学作品乃至文学運動そのものが現われないのは、理由のあることである。要するに、そこではヒューマニズムが真のヒューマニズム(第一形態)として捉えられずに、無雑作にもヒューマニズム主義(第三形態のヒューマニズム)として、即ち結局、文化的自由主義として、捉えられているからだ。――「ヒューマニズム」は、こうした中間文学的無思想の真空をうめるための、在り合わせの液体のような観がないでもあるまい。
処で最後に、ルネサンス以来のヒューマニズムと唯物論との連関はどうかということに来る。だがルネサンス以来の所謂ヒューマニズムとは、一体どのような形態のそれであったのか。人間を人間として非人間的な疎外から恢復すること、つまり中世的カトリック的な秩序からの人間の救い出し、之は一方に於てギリシア古典研究と市民的ロマン語的な文芸活動を意味したが、他方に於て自然観察とアラビア哲学の摂取とを意味した。前者が特にヒューマニズムとなるものであり、後者が所謂唯物論となった処のものなのだ。処が前者はこの唯物論とどういう連関にあったか。それは簡単には明らかにならないのである。
これはまだ私の一応の常識的理解を出ないものだが、唯物論とヒューマニズムとの間にはルネサンス以来、それ程のっぴきならぬ連帯関係があったとは到底信じられない。勿論二つは同じ時期に同じ社会的条件によって発生したものなのだから、文化史的に云えば必然的な連関があるべきことは、判り切ったことだが、併し吾々の問題は、単なる思想史や単なる文化史の問題ではなくて、その内に築かれている論理的な関係にあるのだ。と云うのは、一体唯物論のシステムとルネサンス的ヒューマニズムなるものとが、その論理的キャッシュ・ヴァリューに於て、同一本質に帰着するものか、それとも対立するものか、ということだ。処が少なくとも二つが同一本質のものだという思想的論理的な根拠を私はまだ知らない。
もしそうとするなら、現代唯物論を以て、ルネサンス以来のヒューマニズムの床上に於ける一つの形態と見るものがあるなら、それは相当の牽強付会となりはしないか。単に現在の日本の所謂「ヒューマニズム」と現代唯物論との関係だけではない、ルネサンス的ヒューマニズムと現代唯物論との関係から云ってそうなのだ。――唯物論的世界観は世界観としてのヒューマニズムと、可なり対立したアトモスフェアを持っていることに、もう少し注目することが必要だ。唯物論的世界観は人間から独立な客観的な物質的存在から、初めて人間性とその自由の実現とを問題にすることが出来ると直覚する。処でヒューマニズム的世界観に於て、この物質に相当する根本観念は何か。人間乃至人間性か。もしそうなら夫は明らかに唯物論ではない。――ヒューマニズムは限定すべからず、という常識もあるようだが、限定ということが何を指すのか私には一寸判り兼ねる。ヒューマニズムの意義の含蓄を狭めることも限定かも知れぬが、ヒューマニズムの観念をより以上に展開することも限定だ。だがつまり限定は制限だ(デテルミナチオはネガチオだ)。でヒューマニズムの(少なくとも)世界観は、唯物論ではない。
もし又ルネサンス以来、唯物論とヒューマニズムとが手を携えたり又は平行したりして進んで来たとするなら、今こそ唯物論がヒューマニズムを追い抜く必要のある時だ、ヒューマニティーを唯物論的に解決すべき時こそは今なのだ。之まで唯物論は少しヒューマニズムと歩調を合わせ過ぎた、それというのも之までの文化・思想・が、要するにヒューマニズムの夫だったからである。之からマテリアリズムの文化・思想・の時代に這入るのではないか、とさえ考えられるのである。
私は田辺元博士のナショナリズムをまだよく理解していないので、之とヒューマニズムとの対立をよく理解していない。だがヒューマニズムの哲学としての無論理的な文学主義的欠陥をついた一つの例として、博士の分析は意味を有っているだろう。T・E・ヒューム(Hulme)のヒューマニズム批判(「芸術とヒューマニズム」)は、そのカトリック主義にも拘らず、ヒューマニズムがもはや近代的思想であり得ない点をついているので、明快な部分を含んでいる。彼は素より悪魔の唯物論に反感を有っているが、それにも拘らず、論理としては(決して社会理論や文化理論の内容からではない)、唯物論に対して攻撃を加える術を有たないように見える。それというのも、どっちもヒューマニズムに対立しているがためなのだ。
(退潮期現象として、モラル論や恋愛論が盛んになったと云われている。だが、モラル論や恋愛論を論じることによって退潮現象を少しでも深めるのでない限り、之は退潮現象を利した干潮現象とでも云うべきだろう。つまりこういう時期にこういう問題を整理しておかなくてはいけないのである。だがモラルをモラル主義によって、恋愛を凡ゆる種類の恋愛至上主義によって、取り上げることは、それこそ退潮期現象に他ならぬ。モラルは唯物論の(文芸学上・哲学上・の)一つの発展的な主題として取り上げられねばならぬ。恋愛論も亦、所謂「恋愛論」としてではなく、社会に於ける性関係とその心理的上部構築として、社会科学の一つの発展的な主題として取り扱われるべきだろう。この点唯物論に於けるヒューマニティー・ヒューマニズム・がテーマとなるのと全く同様なのである。)
[#改段]
社会科学(又は歴史科学)は名の通り自然科学から区別される(歴史科学と社会科学とは同一科学の二つの側面にすぎない)。二つの区別は古来様々な形で与えられて来た。近代では Windelband-Rickert 等による自然科学と文化科学、Dilthey による自然科学と精神科学、W. Wundt による自然科学と精神科学乃至現象論と発生論等。これ等の区別は研究対象乃至研究方法の相違によって与えられている。
近代の哲学乃至科学論では専らこの区別が強調される。実証主義に立つ歴史理論・社会理論(Comte, Buckle, Qu
telet等)に対抗するために、一種の歴史主義・歴史哲学・文化哲学の要求から特に之が強調されて来たのである。だが社会科学乃至歴史科学の認識目的は、歴史哲学や社会哲学の建設にあるのではなくて、何よりも先に歴史的社会の科学的分析にある。この分析によって初めて近い将来に関する客観的予見と歴史的社会的行動の客観的な課題とが決定される。この意味で社会科学乃至歴史科学は、一種の実証的な・検証的な・実践的「科学」である必要がある。歴史の「理解」や「解釈」はこの目的に貢献しない限り、何等科学的意義を有たない。
この認識目的から云うと、必要なのは社会科学と自然科学との区別と共に、それより先に二つのものの間の根本的な連絡関係なのである。二つのものの区別にばかり注目して、二つのものの間の一種の根本的同一性を注意しないものは、一方に於て自然科学を機械論的に理解するものであり、他方に於て同時に、社会科学乃至歴史科学を単に審美的に理解するものに外ならぬ。今日の問題は二つのものの「科学的」な「実証的」な一種の同一性にある。
自然科学と社会科学とを通じて、両者を一貫する方法上の哲学的原理を必要とするばかりでなく、対象から云って自然と歴史的社会とは歴史的・発生的に一貫した発展の二つの段階以外の何物でもない。だから社会科学の方法的原理は自然科学の夫が、展化したもの以外のものではあり得ない。この展化の過程から、両者の区別も対立も出て来るのであって大事なのは同一原理のこの形態転化の過程を理解することなのである。
社会科学と自然科学との方法が根本的には同一の原理に基く点を明らかにしよう。
科学的方法の一般的構造は、現実→経験→思惟→認識の順序に従う。現実という概念の内容は哲学者の世界観によって様々であるが、今必要なのは客観的事物(それは感覚が出来・検証が出来・感性的に変革し得るものである)に接触した限りの現実のことである。経験は常に実践を通して得られる。経験とは一般に吾々と吾々の祖先との生活活動とその集積とを意味する。思惟も亦実践によって実行され実践によって是正される、と共に実践を指導する。思惟は経験的に与えられたものから経験を要約し経験を先回りする処の原理的なもの(先天的なもの)を引き出し、之を駆使する。之によって統一的な認識内容が成立する。
さて社会科学の方法に特有な点は、現実と考えられるもの自身が生活実践の形式を採っているということにある。微細考察によれば現在人類の知っている自然もそうなのだが、粗大に考えて見ても、歴史的社会という現実は所謂自然とは異って、人為的な形式を有っている。戦争とか革命とか各種の社会運動とか、相場の上り下りまで、凡て主体のイニシャティーブが事実這入っているのである。
之は決して忘れてならぬ事実だが、この事実から変な解釈を引き出してはいけない。歴史的社会の現実は人間の所産に相違はないが、個人や任意の人間群の観念主義的意企や願望から独立な客観性を有っている。歴史的社会は人間の随意な精神力によって運動するのではなくて、客観的与件のもつ必然性によって限定された精神力を媒介として運動するのである。歴史的社会に於ける人間の実践生活は元来自然を検証の地盤として営まれる。生産や生産技術がその端初的な代表者である。社会とは自然の展開だったのである。
自然という現実が歴史的社会という現実にまで歴史的に展開して来た。そこで初めて生活実践という形式を有った現実が生れたのである。問題は二つの現実の区別や均等化ではなくて、一つの現実から他の現実の発生にあるのである。
アリストテレスに始まる所謂形式論理は、現実の検討に用いるために大体二つの操作(Operation)を用意している。演繹と帰納。前者はアリストテレス以来学一般乃至哲学のための操作で、後者はベーコン以来特に自然科学のための操作と考えられている。だがT・S・ミルと雖も社会科学に就いて特に自然研究と異った点を指摘していないのである(A system of Logic)。併しこの共通性は、操作が全く形式的なものに止まっていることから来た結果である。
次に実質的な操作には色々ある。今日の社会科学は之等幾つかのものを或いは適切に組み合わせ、或いはどれか一つだけを使っている。まず一般に社会科学に限らず科学にはどういう操作があるか。
A 概念に於ける分析(数学的解析に対す)。経験された現実(事実)を、表象又は概念を確定することによって分解し再結合(この点では総合と呼ばれる)する操作である。社会科学ではA・スミスの『国富論』、リカードの Principles of political economy and taxation, 哲学ではアリストテレスの『ニコマコス倫理学』とか Politica の如き。自然科学と雖もこの操作がなければ一つの理論も成り立たないことは明らかである。
B 弁証法的操作。概念に於ける分析が特に技術的に具体化されたものがこの操作。科学研究の具体的実行には、いつも弁証法的論理(之こそ本当に方法である)が必要だが、今は操作としての弁証法のことである。哲学に於ける例としてはプラトンの『ソピステス』、ヘーゲルの『エンチクロペディー』、社会科学ではマルクスの『資本論』に於ける商品の分析の項。自然科学に於ける弁証法的操作はその根本概念の理論的整理の上に現われる。
C 解析的操作。Cournot の『Recherche……』や Walras, Pareto の『数理経済学』、マルクスの『資本論』第二巻に於ける W―G―W 式の処理法等。数学的解析の操作は数学的符号を用いる分析であるが、この数学的文字はどれ程象徴的なものにせよ一つの定義された概念を云い表わすから、要するに概念に於ける分析の特殊に抽象された場合にすぎぬ。自然科学では之が如何に重大な操作であるかは説明するまでもない。
D 実験。一切の社会的歴史的(過去の又現在の)出来事は階級・政府・インスティチュート・政党・又個人・等々の実践の結果だという資格から、一つの試みであり、又それが後々の同一性質の出来事の先例となる。その限り実験の効能を有っているのである。実験の操作は自然に就いてばかりではなく歴史的社会に就いても行なわれるのである(戦争・革命・政策一般の如き)。蓋し所謂実験とは認識に於ける実践の最も要素的な形態に外ならず、やがて産業・政治運動・にまで発展する要素だからである。
E 統計的操作。個々の事象が経験出来ず単に集団的にしか観察出来ない場合、又は個々の事象が経験出来るにも拘らず、個々の事象自身には見られない集団法則を見出すことが必要な場合に用いられる操作。社会科学に於て、最もよく使われることは人の知る通りであるが、自然科学に於てもそれに劣らぬ重大な操作となっている。自然科学では Maxwell, Boltzmann の古典力学的統計操作。Bose-Einstein の統計操作。Fermi-Dirac の夫(何れも量子論的統計操作)等の区別がある。
以上の実質的な諸操作は、必要なモディフィケーションを以てであるが、自然科学にも社会科学にも共通に使われているのが事実である。――だがまだ結論するには早過ぎる。なぜなら以上挙げた諸操作は全く断片的なもので、諸科学の実際の機構から無関係に取り出されたものであって、科学手段ではあるがまだ必ずしも科学の本当の方法ではなかったからである。
科学の方法では一般に研究方法と叙述方法との区別が必要である(マルクス『資本論』第一巻第二版跋参考)。之によると、ABCは両方法に属し得る手段=操作であるが、DとEとは単に研究方法にしかぞくし得ない手段=操作である。
研究方法は第一に、概念に於ける分析(A)を専用することは出来ない。そういう自然科学は今日ではすでに存在しないが、社会科学もそういう概念的方法に立脚することは出来ない。蓋し概念による分析を研究方法として定着せしめれば、極端な場合として言葉による分析になるので、之はスコラ主義に外ならぬ。第二にそうかと云って数学的解析(C)という手段=操作を直ちに研究方法と考えることも許されない。自然科学に於ける所謂「数学的方法」というものも本当は方法ではないので単に操作=手段に外ならない。方法は之を含んだ或るものなのである。数理経済学に於ける数学的方法も亦、それ以上の要求を持つことは出来ない。弁証法的操作(B)と雖も、それが単なる操作である限りまだ研究方法ではない。
実験(D)も決してそれだけでは科学の研究方法ではない。実験物理学とか実験動物学とか実験心理学とか云っても、別に実験的方法というものに立脚するのではなくて研究方法が理論の外に実験という操作を含むということにすぎない。統計(E)も亦そうである。統計は全く、理論のための材料の収集・整理・関係づけ・等々という材料提供手段であってまだ研究方法ではなく、況して往々考えられるように叙述方法などではない。
で、自然科学に於けると社会科学に於けるとの、諸操作が仮に異っていてもそれが二つの科学の研究方法の相違の証左にならないと同じに、共通の諸操作が行なわれるということは、まだ必ずしも、二つの科学の研究方法の同一性を示すものではない。
概念に於ける分析(A)、弁証法的操作(B)、解析的操作(C)は又叙述方法に含まれるが、ここでも亦、概念的(叙述)方法とか、弁証法的(叙述)方法とか、数学的(叙述)方法とかいうものの権利を生じない。文学的に叙述しようが数学的に叙述しようが、それは実は叙述方法の区別にはならぬ。経済学が数学的に叙述されたからと云って、経済学の叙述方法が自然科学のそれと同一だという証左にならぬと同じに、経済学が弁証法的に叙述され得るからと云って、夫と自然科学と根本的に別なものだという証拠にはならぬ。
自然科学と社会科学とに於ける、研究方法及び叙述方法の、根本的な同一性は、それに使われる手段=操作の異同によっては左右されない。而もこの手段=操作さえが、二つの科学に於て殆んど共通なのであった。
諸科学に共通な、而も諸科学に取って最も根本的な、一貫した方法(研究の及び叙述の)は弁証法的方法だと云うことが出来る(弁証法は併し唯物論を離れては意味がないのである)。この方法の一つの契機を取り出して検べて見れば、研究方法に於ける与件からの抽象ということを第一に注意しなければならぬ。この際抽出されるものは公式(Formula)である。与件は特殊性を有ち之に反して公式は普遍性を有っているが、前者は経験的なもので之に反して後者は、公式として活用される限り経験を指導する筈のものであるから原理的なものである。この抽出された普遍的な公式を使用するのに、特殊的な例の与件から絶縁して孤立し抽象化されたものとして使われると、之が所謂公式主義になるので、公式を抽出した目的とは凡そ正反対な結果を招く。本当に普遍的な公式は、特殊的な与件からの抽象過程を忘れない処の所謂具体的な普遍性を有っている。そういう公式が初めて法則の名に値いする。之が法則の発生であるが、この発生の歴史が初めて法則の通用性に権利を与える。このようなものが研究方法に於ける弁証法的方法の一つの著しい、モメントなのである。
この関係は叙述方法に於ても亦反復される。蓋し現実そのものがディアレクティークの運動をなすから、その或る意味に於けるコピーたる科学的叙述はそうなくてはならぬ。
自然法則と歴史法則乃至社会法則とは、決して機械的に同一ではない。それは明らかな事実だ。併し後者は前者の展開したものであることを忘れるならば、両者の区別さえ正当には与えられ得ないだろう。問題は前者が後者へ、即ち自然科学の方法が社会科学の方法にまで、如何に転化するかという過程にある。正にこの過程に科学の方法の生命があるのだがそれを云い表わす言葉がディアレクティークというのである。
社会科学の方法は弁証法である。その故に夫が自然科学の方法と根本的に一貫していることが最も重大な特色をなす。各々の科学は云わば共軛的に共通なこの方法の下に、様々な手段=操作を様々に使うことが出来る。だがこの手段=操作さえが、殆んど共通だったのである。