吾々の問題を正当に提出し得るためには、提出に先立って、次の準備が是非とも必要である。
第一に、吾々は何を概念と呼ぶか。
その説明を試みるために、理解という言葉から出発しよう。考え・思惟し、知り・判り・認識すること、即ち知識と知恵、並びに夫と直ちに一つではなくても夫に基く限りの一切のもの、一言で云うならば最も源泉的な意味でのロゴスの働きにぞくすもの、之を人々は最も広い意味に於て理解と呼んでいる。人々の言葉の内にあっても、この言葉は最も重大な役割を占め又最も必要な表現の一つであるから、従って又それだけ人々が之を語る意味は様々であるのが自然である。しかし今こう云った理由は、理解という言葉が学者達の術語として一致を欠いているからではない。吾々が或る言葉を説明する時、それがもし日常語であるならば、無論之を日常語として説明しなければならない。併し之に反してもしそれが専門語であるならば、吾々は第一にそれを或る一部の専門家が定義した名辞として、第二にその専門家のぞくす専門的世界の術語として、之を説明しなければならない。併し更に重大なことは、この術語が日常生活に於ける言葉――日常語――から、どのような手続きを経て派生して来たかを探ねることである(日常語と専門語との区別とその区別の権利は後を見よ)。尤もこの専門が realistisch な部門であるならば(例えば数学や物理学のように)、術語が発生する地盤としての日常語を探ねることは、必ずしも意味のある労作ではないかも知れない。誰も群とか環とか場とかヴェクトルとかいう術語を日常語から出発して説明出来るとは思わないに違いない(但し数などは之と趣を異にしている)。之に反してもし humanistisch な部門であるならば、術語が日常語に於て有つ地盤を検討することは多くの場合非常に必要であるであろう。そして哲学――この多義な言葉を最も普遍的に用いるとして――に於ては、どのような場合にも、このことが絶対に必要である。もしそうしなければ、哲学は常識(その正確な意味は後を見よ)からの通路を有たないこととなり、入口なき象牙の塔の内に閉じ込められて了うこととなるであろう。数学・物理学などにとって通路を形造っているものは、計算や実験であるが、哲学にとっては之に相当する通路が失われて了うことになる。そこで理解という言葉が様々に語られると今し方云ったのは、この言葉が専門家達の術語として一定していないということを云おうと欲したのではない。そうではなくして正に、それが日常語として、――そして日常語の常として――一定していないことを指摘したかったのである。さて理解という日常語はこのようにして多義である。併し多義なロゴス――言葉――の内には、おのずからロゴス――関連――がなくてはならぬ。
或る人は理解を何かしら受動的なものとして考える。何物かを例えば創造することは能動的であるが、能動的に創造されたこの物に就いて受動的に観照することが、理解である、とそのような人々は思い做す。この思い做しに基いて理解は表現――それは能動的である――から区別されるのが普通である。併し表現は記号から区別される、という意味は、表現は常に生命あるものの表現である外はない。処が生命を表現するには表現者が自己の生命を、即ち表現者自身を、何かの意味に於て既に理解しているのでなければならない。そうでなければ表現者は如何に自己を表現すべきかを決定する自由を持たないことになる、そしてこの自由を欠く時、表現は表現ではなくして模写に過ぎなくなって了う。表現するには表現者自身の理解がある筈である。この理解と表現されたものの理解(向の観照のような)とが同じであるとは、併し吾々は考えない。二つは同じ理解という言葉に値いする、それにも拘らず之を同じと考える理由はない。この関係は次のことを帰結する。表現されたものを理解することばかりが理解の名に値いするのではないということ(この場合理解は常に日常語として語られているのを忘れてはならない)。故に日常語としての理解は、必ずしも今云った意味に於て受動的なものには限られない。それには受動的ではなく従って能動的である場合も許されなければならない。理解に代り理解のこの能動性をも云い表わす言葉を吾々は把握に於て見出すのである。表現を理解すること――それは受動的であった――も、表現すること自身――それは能動的であった――も、把握である。表現されたものが把握されねばならぬと同時に、表現するためにはまず把握していることが必要である、表現すること自身が把握ですらあるのである。なる程受動的な理解であっても或る能動性(積極性)は有つ、この理解の力によって、単に深く見えたものが初めて透明にされるからである。又それと同じに、能動的な把握であっても或る受動性(消極性)は有つ、把握は無から有を把握し出すのではないから。併しそれにも拘らず所謂理解は受動的であり、把握としての理解は能動的であると考えられなければならない。けれども把握とは何か。
受動的理解は静観の立場に止まる、――観照がその適例であるであろう。受動的又は能動的理解は一般に、理解されるべきものを
理解一般は更に、理論的理解に限られない。何となれば向の例に於て、創造されたるものの理解は、もし理解が理論的に限ると考えられたならば、恐らく意味を失って了うであろうから(そして理論的でない上は尚更論理的ではあり得ない)。現にディルタイにあって理解は情意的な理解である必要があった。そうすれば把握も亦――実践性に於てのみ所謂理解から区別された把握も亦――、理論的に限られる理由はあり得ない(まして論理的である理由は尚更ない)。把握は又情意的でもあり得なければならない。――かくして二つのことが明らかにされた。一方に於て把握は静観的に止まらず実践的であり、他方に於て理論的に限らず又情意的である*(但し日常語として)。
* 理論は情意に対し、実践は静観に対する。二つは原理を異にした分類である。意志が実践であるのではなくして意志の実践が実践なのである。理論と実践とは却ってこのことによって、結び付く意味を見出すことが出来るであろう。
理解の二つの意味が区別された。理解と把握。そして後者が前者を含み、その根柢をなすことも亦説明された。尤も人々はどの意味に於てでも、理解というこの日常語を用いる権利はあるであろう。日常語に於て最も根柢的――但し日常語として根柢的な――名辞を採用する必要のある吾々は把握を択ぶ。理解とは把握(Greifen)である。けれども求めるものは理解ではなくして概念であった。
把握(Greifen)から連想されるものは概念(Begriff)である。理解は普通より多く日常語として通用するから、吾々は理解の説明に於ては日常語としての夫から出発した。之に反して、概念は普通より多く専門語―術語として通用すると思われる。吾々は今度は専門語としての「概念」から出発し、之を日常性にまで追跡することによって概念を説明するであろう*(日常性が「より多く通用すること」、普通性、でないことを後に述べる)。
* 吾々は術語としての概念を術語としての表象及び観念から区別する。日常語として三者は相似た意味を有つかも知れない、併し吾々の出発は術語としての概念であるからこの区別は最も必要である。但しこの区別を改めて述べる余地はないと思う。
概念は根本的に異った二つの種類を有つ。その一つは構成的概念である。論理学及び数学は或る論理的なる要素によって論理的に構成された体系である。というのは例えば斉しく理論的であっても、物理学は決して論理的なる要素の体系ではない(尤も特殊の哲学的立場――汎論理主義のような――に立つ時は論外である)。仮にマッハをして云わしめれば、感覚的要素――この要素自身はどのような意味に於ても論理的要素ではない――の体系こそ夫である。之に反して先ず数学は論理的要素(例えば集合論に於ける要素の如き)に基いて論理的に構成される。かくて矛盾律の整合――之はとりも直さず論理的構成を云い表わす――だけを体系の基準とする公理主義は、ただ数学のような論理的要素の構成体系に於てのみ、初めて発生することが出来るのである。かくて数学は論理的要素から論理的に構成される。そしてこのことは又形式論理学に就いても同じであるであろう。論理はこの場合、この意味に於て構成性を有つ。かく構成性を有つが故に、例えば実在から独立した論理自身の領野というものも成立することが出来る。処が又一方形式論理学及び数学は独特の意味に於ける概念の体系である。故にこの場合の概念は構成性を有つことが必然となる。既に挙げた群・環などは云うまでもなく、数又は点・線などに至るまで、近世の数学者が指摘するのを怠らない通り、数学の対象は何れも終局は「定義され得ない物」に基くのであるが、之は却って数学的概念が論理自身の独立の領野に於て構成され又は論理的要素として之を構成する処の、その構成性を告げているに外ならない。形式論理学に於ける概念は又、実在乃至存在から、或いは知覚乃至表象から、区別された「概念」という独特の存在(無論特殊の意味に於ける)を有つ処のものである。例えば自然ではなくして自然という概念――その基体は言葉でしかない――とか、直観ではなくして直観という概念とかのように、それは外見上自己以外の何物かを意味し云い表わすかのように見えながら、実は却ってそれ自身をしか云い表わさないような、もはや概念以外の何物でもない処の、概念という独立の存在を有つ(数学乃至数学的論理学に於ける文字(Charakteristik)はかかる存在の記号に外ならない)。それであるから構成的概念は、それが論理的なる領域に於て構成され、又それが論理的なる領域を構成する点を捉えて、正当に論理的として性格づけられることが出来る。さてこの論理的概念=構成的概念をば、やがて説明される理由によって、概念と呼ぶことをさし当り控えるであろう。
第二の種類の概念は把握的概念と呼ばれることが出来る。把握的概念は構成的概念のように、概念という特殊の存在を云い表わすのではない。そうではなくして常に他の何物かを――概念ならぬ何物かを――意味し、理解せしめ、把握せしめる処の概念である。例えば自然という概念ではなくして云わば自然に関する概念のように、この概念に於ける存在は概念ではなくして――向の構成的概念ではそれが概念であった――正に自然そのものでなければならないのである。それ故この概念によって最も広い意味に於ける実在――論理の世界から区別された実在――に関する概念が初めて成り立つことが出来る。把握的概念は実在を徴候づけることが出来る―― semantischer Begriff。この概念は、例えば自然概念として、無論自然それ自身ではなくして自然概念であるのであるから、その限り論理的と呼ばれる理由はなくはないであろう。けれどももし之と構成的概念の有つ論理的とを同一視し、それによって何かの結果を惹き出そうとするのであったならば、吾々は云わねばならぬ、把握的概念は論理的ではない、と。何となればそれは構成的ではないから、そして論理が構成的である時にのみ論理的という形容詞は使われ得るのであったから。
さて二つの概念、構成的概念と把握的概念を得た。処で前者はより専門的であり後者はより日常的である(日常的と専門的の区別は後を見よ)。吾々は日常語としてより根柢的な把握的概念を、概念として採用する。従って向に示した通り、構成的概念はさし当り概念ではない。蓋し構成的概念は把握的概念から派生し、従って吾々は之をただ派生的な意味に於てのみ概念と呼ぶことが出来るであろう――但し日常語としての概念として。術語としての概念としては構成的概念がより根本的であるかも知れないが。
併し概念(把握的概念)は理解(把握)によって説明される約束であった。
理解(把握 Greifen)と概念(Begriff)とは勿論一つではない。けれども仮に把握を時間的に起こる一つの働きに譬えて見よう。その時概念は第一にこの把握という働きの結果に譬えられることが出来るであろう。把握されて得た処のもの、それが概念――把握的概念――と考えられる。白い物が、白い物の概念として、即ち白い物として、把握された場合が之である。第二に概念はこの働きの出発点に譬えられるであろう。白い物として把握されるべき白い物の、概念が把握される場合。又最後に概念は把握の働きを遂行せしめる処の運動のエージェントに譬えられるであろう。把握は常に概念によって遂行されると考えられる場合が之である。この譬喩によって知られる通り、把握は把握的概念によって行なわれるのである。理解するとは概念を有つことに外ならない。前者は一つの verbum を、後者はそれに対する substantivum を云い表わす言葉と云うことが出来るであろう。ヘーゲル的術語を借りてよいならば概念は把握の F
r-sich-sein であると考えられる。把握とは概念することである。人々は吾々のこの言葉を承認しないであろうか。併し吾々はこの言葉が正しいか否かを人々に問おうとするのではない、却って吾々の概念は把握に対してこのような関係を有つものとして理解されねばならぬということを、吾々は人々に求めるのである。吾々は寧ろこの要請に基いて概念を定義してよいであろう。さてそうとすれば吾々の目的――概念を理解によって説明するという目的――にとって有利な一つの法則を得る、概念は理解の対自であるという条件の下に、吾々は常に理解と概念とを統一的に取り扱うことが出来る、という法則。理解と概念との統一、之が吾々が或いは理解、或いは概念、と呼ぶ処のものの真理である。故に理解に就いて云うことの出来たことは、その儘、但し今の条件の下に、概念に当て嵌まらなければならない。概念が理解の対自であるという今の条件を理由として恐らく人々は云うであろう、であるからたとい理解がどうあるにせよ少くとも概念は論理的でなければならない、と。理解することが論理的ではないにしてもその理解の固定した断面とも云うべき概念は論理的存在ではないか、と。処で吾々はそのような主張又は杞憂を防ぐために、特に把握的概念が論理的ではないことを指摘しておいたのである。対自性によって論理的となるもの、それは恐らく構成的概念――それは論理的であった――であろう、把握的概念の与り知ったことではない。
今や吾々は理解(把握)を借りて之に基いて概念(把握的概念)を説明することが出来る、そのための法則を今吾々は掲げた処であった。把握は静観的であったばかりではなく実践的であった。故に概念は静観的であるばかりではなく実践的でなければならない。之は人々の耳には不可思議に響くかも知れない、実践性を有った概念とは(実践的なるものに就いての概念ではなくして明らかに実践性を有った概念である)。併し今の場合の実践的は実践を必然ならしめる契機となることが出来るという意味であったのを憶い起こさなければならない。概念が行動するなどと云うのではない。尤も単に言葉を以て表現するという意味での把握的(表現的)概念だけを概念と考えるならば、それが実践的であるという言葉は、今云った意味に於いても、まだ軽率であるに違いない。併しかかる表現的概念を適当に――その日常性にまで――拡張することをこそ、吾々は把握からの口授によって教えられるのである。その時概念は単に言語的に表現するものであるばかりではなく、実践的に表現する――行動する――ことを必然ならしめる契機となるものでなければならない。実践の根柢には把握があり、その限り又把握的概念があるのである。次に、把握は理論的であったと共に情意的であり得た。故に概念は理論的であると共に情意的でなければならない(把握的概念は理論的ではあり得る、併しそれは無論論理的であることとは異る)。再び人々は疑わしげに聴くであろう、概念が情意的であるとは。一体そのようなものが何故概念の名に値いするのか、と。けれども人々を不意に襲わないためにこそ、吾々は理解の説明の迂路によって概念を説明しようとするのである。例えば人々は友人の友情を理解しないであろうか。併しこの理解は理論的であるか(吾々は常に日常語を取り扱っているのを忘れてはならぬ)。彼の友情を理解することは彼の友人となることであるが、それは彼に対して友情を持つことである外はあるまい。そうすれば彼の友情を理解することは彼に対する友情そのものでしかあり得ない。人々は理論的友情を持つと云うか。処で理解の対自性が概念であった。友情の理解の対自性は友情の概念でなければならない。尤も友情を持つことと友情の概念を持つこととは別であると云うであろう、明らかに別である。ただ人々によれば前者が恐らく情意的であるに対して後者が恐らく理論的である迄である。吾々は何も理論的概念を否定しなかった。ただ之に限らなかった迄である。かくて把握的概念は情意的であり得る。
之が吾々の「概念」である。それは或る種類の哲学に於て用いられて来ている術語「概念」ではない。もしそのような術語として之を理解するならば、吾々の概念の説明はそれ自身一つの矛盾の外ではなかったであろう。之に反して吾々の概念は出来るだけ通俗的に、日常語として理解されなければならない。その時日常語「理解」が許される処には又必ず概念という言葉が権利を有つ。所謂概念をあのように悪む芸術に於てすら作品は一つの概念の(或いはイデーの)展開として説明される、吾々はそれを何か仔細げにいぶかる理由を有たない*。
* 概念とはそれでは要するにイデーであるのか、と人々は尋ねるかも知れない。けれどもイデーは理念としても観念としても概念としても意味を有つ。その問いは問題を単純化する代りに混乱させるに過ぎない。それに又イデーという術語を以て吾々の概念を説明することを求めること自身が、無意味である。
人々は最後の疑問を提出し得るかのように想像するに違いない。それはこうである、なる程概念をそのように「あれもこれも」を意味するものと仮定するのは勝手であるが、少くとも理論的な概念と情意的な夫とを区別するには区別の標準がなくてはならないが、その標準が再び従来用いられて来ている「概念」の有無によって与えられるのではないか、と。人々がこれを理由として吾々の概念――それは吾々が仮構したものではなくしてただ吾々が日常生活に於て指摘した事実に外ならない――の困難を見出したと想像するならば、それは完全な誤りである。日常語としての概念の内に従来の――哲学的術語としての――概念によって特色づけられる或る部分があるということは、至極事実上ありそうなことであるし、又吾々の理論の整合から云っても充分成り立って好いことではないか。却ってこの日常語を地盤としてこそ初めて吾々はこの術語をも統一的に理解し得るのである。併し人々は叫ぶであろう、術語として普通通用している概念を捨てて特に日常語としての所謂「概念」を紛らわしくも概念と呼ばねばならない理由が何処にあるのか、と。なる程それを概念と呼ばずに外の名を以て呼ぶことは勝手であるようである。併し吾々の目的――空間概念の分析――にとってはそれを概念と呼ぶことが必要なのである。何となれば空間は吾々のような意味に於て、そして人々のような意味に於てではなく、空間概念であるであろうから。併し空間が何故空間概念である必要があるのか。空間が分析され得んがために(後を見よ)。
概念は理解と離れて理解し得ず、理解は概念と離れて概念し得ない。以後両者はただ両者の統一の真理の上に立ってのみ語られる。
理解とは常に性格を理解することである。人を理解するとはその人の性格を理解することに外ならない。理解される限りの一切のものは性格を有つ。桜は桜として梅花は梅花として、花は花として葉は葉として、木は木として草は草として、植物は植物として動物は動物として、夫々の性格を有つ(普遍は普遍として個物は個物として夫々の性格を有つのであるから、性格は普通想像され易い処とは異って、類や種――それは術語としての概念と離すことは出来ない――とは無関係である。従ってその限りの個物・個体・個性とは関係がない)。性格とは第一にものの性質である。尤も具体的なものは無限の性質を持っていると考えられる。そこで第二に、他の一切の諸性質を代表する*処の性質、特徴、が性格である。けれども特徴は事情によっては複数であるであろう(例えば或る構成的概念が上概念と比較されるような事情の下には数多の徴表が指摘されるのを普通とする)。そこでこのような凡ての特徴を更に代表する処の優越した最勝義par excellence な特徴、之を性格と呼ぶのである。理解はこのような性格を把握する**。
* 代表という概念は例えば抽象という概念と比較されるべきではない。後者は類・種の系列に関係する。処が前者は之とは無関係であった。
** 性格を理解し誤ること――誤解――の内、最も救い難く見えるものは見当違いである。後に見当違いが吾々の問題――空間概念の分析――に於て、どのような役目を演ずるかを見るであろう。
理解は某性格の理解であるから、その限り某理解はその某性格を有つという言葉が許される。従って又この意味に於て、某概念は某性格を有つと云う言葉も許される。併しもし、理解がその某性格を(模写説的譬喩を借りるならば)その儘受け容れるのでないならば、即ち理解が自己の何かの働きによってこの某性格を匡めて理解するのであったならば、それは理解ではなくして一つの人工的加工――説明――に外ならないであろう。それは一種の誤解である。理解するに先立って性格が客観的に成立しているというような考え方を吾々は許さないが、仮にそのような立場*の言葉を借りて語るならば、今のような場合は客観がその儘主観に写らなかった場合に相当する(これは所謂誤謬である)、理解が理解すべき某性格に対して、自己の持つ理解という烙印を押すならば――そして之は理解が自己の何かの働きによってこの某性格を匡めて理解することであるが――、即ち、某性格をば自己の性格――「理解されたる」と形容すべき性質――を以て覆うならば、そうすれば、某性格は消えて理解の性格だけが現われなければならない。これが向の一種の誤解である。というのは理解の性格を与えることは常に次のような承認を与えることになる、こうは理解したが実際はどうあるかを知らない、と。「私はそう思う」とか「彼の考えによれば」とか云う場合は、「私(又は彼)によって理解されたる限り」という条件を提出する場合であるのであるが、このような条件はとりも直さず理解の性格に相当する。もし或る性格を絶対に把握したと思われるならば、「私は(又は彼)が理解した限りは」という断わり書きは無用である筈である。故に理解が完全な理解であるためには理解自身は「理解されたる」という性格を、理解されるべき某性格に押しつけてはならない。かくて理解はそれ自身としては、理解されるべき性格に対しては、無性格でなくてはならないことになる(無論吾々が今理解を語る時は、その理解は理解という性格を有っている。しかし理解を理解している処の理解は無性格である)。理解が無性格であればこそ、ものの性格がありのままに理解出来るのである**。
* 主観と客観との二面の対立を仮定しこの両者の関係づけによって認識を説明する立場、之は認識論と呼ばれる。併しかかる認識は理解とは無縁である。理解は主客の対立と関わり合う必要も理由もないから。従って表象又は観念――それは主観(その限り又意識)である――は理解と関わりがない。故に又概念とも関係がない。
** もし理解が何か働きを有つとするならば、例えば理性や意志や又は自我の働きであるとするならば、理解されたものはこれ等の性格を有たねばならぬ。例えば物質は物質の性格として把握される代りに、理性・意志・自我などの所産として(それ等の性格を有つものとして)説明される。茲に形而上学が成立する。
さて理解の無性格は直ちに概念の無性格を要求する。某概念は某性格の概念であるから、その限りその概念は某性格を有つと云うことは出来る。けれどもこの概念は概念という性格を有ってはならない。概念「直観」が、直観概念が、もし概念という性格を有つならば、即ち概念でしかないならば、この概念は直観の概念ではなくして概念の概念になって了う。かくて直観は消えてそれと正反対な概念が残る。かくしては直観という概念自身が成立しなくなるであろう。概念が自己の性格を有つ時、却ってその存在を失うことすらあるであろう。概念が概念であるためには、却って自分自身は無性格でなければならない。
把握的概念は無性格である。之に反して構成的概念は性格を有つ。否、概念一般が概念という性格を有とうとすれば、それは必然に構成的概念になる外はないのである。何となれば、概念という性格を持つことによって初めて、概念は独立し、それ自身の世界を構成し得るのであるから。であるから吾々が一般に概念に就いて語る時、常に先ず、それが無性格であるかないかを決めてから語らなければならないであろう。これを混同する時、重大な結果を齎す。例えばヘーゲルの概念を、絶対的な、独立な、自己発展的な理念、と解釈し得るならば、それは性格ある概念――構成的概念となる。その時この体系は観念的なるもの――それの性格が概念である――の所産の集成として説明され、形而上学となるであろう*。
* 或る人々は静的実在を想定する哲学をのみ形而上学と呼ぶのを当然と思い做す。けれども吾々にとっては実在の絶対化・独立化こそ夫である。絶対化・独立化は必ずしも静止化ではない。
吾々の概念は無性格である。之を性格者と考える時多くの批難が吾々の概念に向けられるであろう。吾々の概念が一切のものを観念化しはしないかという質疑がその一つである。吾々の概念が一切のものを論理化しはしないかという質疑がその二である。併し再び云おう、概念は無性格である、それは観念的という性質も論理的という性質も持ちはしない。
概念は常に名称(名辞)を有つことが出来る。或る概念をどの言葉によって名づけようとも一応は勝手であるとも考えられるであろう。併し吾々が出会う殆んど総ての場合は、或る課せられた概念をば、既知の言葉を以て名づける場合であることを、注意しなければならない。或る課せられたものを観念と呼ぶことによってそれの概念を成立せしめるか、或いは物質と呼んでそうするかが、問題となるように、既知の――歴史社会的に与えられたる――言葉の内から、この概念に適すると思われる言葉を採用して、命名するのである。処がこの場合の命名は決して勝手であることは出来ない。歴史社会的に与えられた言葉は単なる発言の記号、約束、ではなくして、慣性的に一定した意味を有ち、既知の概念の表現であるから、この命名は実は、旧き概念の或る適当なるものを以て新しい概念を包摂することに外ならない。処で旧き概念は夫々一定の性格を云い表わす。故に命名とは課せられた概念が如何なる性格を云い表わすものであるかの決定である。そうすれば命名とは性格の理解でなくして何であるか。殆んど総ての場合、命名とは理解である。それ故或るものを何と名づけるかは人々の云い放つように単に「言葉の問題」ではない。その性格を理解しているかいないかの問題である。蓋し言葉は概念から独立に理解することは出来ないであろう(以下言葉は概念と同じ資格として語られる)。
処が概念の持つ名称はそれにも拘らず、それだけが独立して様々の変容を受け、遂にはそれが表現する筈の元来の概念を失って了うことが、事実上起こり得る。例えば意識という名称は様々な変容を経た揚句遂には、もはや意識と呼ぶ理由のない概念にまで就くことが出来る。この時意識という名称は意識という概念から離脱し、従って意識として理解されるべき性格を云い表わすことを止めるであろう。それは死語となる。さてこの場合変容は何処まで許され、何処から先は禁じられるか。概念は今云った通り理解されて――命名されて――成り立っている、概念の成立には性格の理解、命名の理由が潜んでいた。概念は常にその成立の動機に束縛されている。それであるから概念が一方に於て一定の性格を、又他方に於て一定の名称を手放さないためには、この概念は常にその成立の動機に忠実でなくてはならない。故にこの動機を忘却する時その名称の変容はその点に於て禁止される必要がある(この禁止を無視することは表象散漫の症状となって現われる――個人的にも社会的にも。例えば名称の戯画的適用)。又吾々が概念を行使する場合も亦、概念の動機を忘却することは許されない。もしそうでないとしたならば、例えば吾々は悪しき意味での抽象的概念を所有することになるであろう。その成立の地盤との連関――それが動機である――を省ることなくして勝手に或る概念を引き回わすならば、その概念は全く任意の人工的変容を受けるであろう(概念が捏弄される)、かく変容された概念はもはや前の連関の一環としては当て嵌まらなくなって了うであろう(概念は検証され得なくなる)、これが悪しき意味の抽象的概念に外ならない(之々の概念が抽象的であると決っているのではない。概念の取り扱い方によって如何なるものも抽象的となる。それ故具体という概念が抽象的に引き回わされるのを人々は往々見るであろう)。概念は抽象的となろうとする時その運動を禁止されなければならない。名称の変容の制限は概念の運動のこの制限に基く。この制限を与えるものが概念成立の動機である。
すでに触れた通り概念はその成立を有つ。歴史社会的に与えられることは、歴史社会的に成立することである。この与えられた概念を(命名に於てのように)採用する時、歴史社会的制約が吾々を制限する。この制約に制限されて初めてその概念は吾々に於て成立する。そして更にこの制約に基いてその概念を吾々が使用する理由が成立するのである。概念はこのようにして成立する。それは過程を有つ。そしてこの過程は歴史社会的制約に於てある。動機とはこの歴史社会的過程に外ならない。この動機を忘却する時、この概念は解体されて了うであろう、何となればその成立の過程が踏みはずされることになるから。そのようなものが概念の構造である。さて概念が成立するものとすれば、それはもはや単に与えられることは出来ない。それは与えられた既定の事実ではなくして、成立せしめるべく課せられた一つの要求であるであろう。現に吾々は単に所有しているだけでは或る概念を使いこなすことは出来ない、それを活用し得るためには、その概念の云い表わす要求を、課題を、吾々が会得していることが必要である。――概念は所有されているものではなくして常に発見されて行くものである。
概念は動機を有った。処が概念とは性格の理解であった。茲に動機と性格との関係が問題となる。性格が概念成立の動機となる、性格が動機づける、之によって初めて概念は動機を有つ。動機は概念の働きではない、何となれば一般に概念が概念として――性格者として――働くことは出来なかった筈であるから。
概念は性格を概念しそれによって動機を有つ。之が今まで得た結果である。概念の解釈は一まず止めて今は概念の分析に還る機会である。
第二に、何を概念の分析と呼ぶか。
今迄述べて来た処を次のように理解するならば、それは根本的な誤解である。性格というものがあり、そして之に対してその概念があるとして、両者を関係づけることによって、認識(理解)が如何にして可能となるか、を吾々が説明しようと欲したのである、と。第一吾々にとってはものとその概念とが客観と主観とのように対立しているのでもないし、又第二に吾々の問題は認識の基礎づけの問題でもない。このためには恐らく一つの体系を組み立てることが必要であるであろう。処が吾々は概念の(又は理解の)体系を組織したのではない。吾々は概念を以て世界やその認識を説明しようとは空想しない。それは恐らく形而上学か認識論の仕事であろう、併し吾々の仕事ではない。体系を組み立てるのに必要なものは総合である。故に吾々に必要であったものはこの総合ではない。ではなくして正に分析でなければならない。吾々の方法――それは体系ではない――は分析的であった。処でこのような分析とは何であるか。そう問われる。単に分析だけを引き離して解釈することは吾々には出来ないであろう、何となれば吾々にとっては分析は常に概念の分析なのであるから。
人々が普通何かを説明すると云う時、之を吾々の言葉に引き直して云うならば、実は概念の分析を理想としているに外ならない。そして普通単に分析と呼ばれるものも常に概念の分析でなければならない。「商品の分析」は実は商品概念の分析に外ならないであろう。なる程、商品概念を分析するのではない、商品そのものを分析するのである、と人々は云うかも知れない。併し商品ダイヤモンドを分析すると云っても、その結晶の構造を明らかにしたり、化学的分析によって炭素に還元したりすることが、その人々の商品そのものの分析であるのか。商品そのものがとりも直さず商品概念である。商品を商品概念としてではなく単に商品として理解するならば、その分析の意味は今示した通り曖昧であることを免れない。之に反して之を商品概念として理解するならば、――但し之は単に概念として理解するのではなくして商品概念として理解することである――、その分析は必然に吾々の(又人々の)云う処の分析となる。故に次のことは明らかである。商品が分析され得るためには商品概念が分析されるのでなければならない。凡そ或るものが分析され得るには、そのものは分析され得る通路を持たねばならぬ。この通路がその或るものの概念である。そしてかかる通路を有つその或るものが性格である。商品が分析され得る通路、それは「商品の概念」である。この商品の概念という通路を有つ商品、それは「性格・商品」である。そしてこの性格「商品」の分析が「商品概念」の分析である。このようなものが吾々の概念の分析なのである。――概念の分析とは結局性格の分析に外ならない。
概念の分析は単なる概念そのものの分析ではなくして常に、或るものの概念の分析である。と云うのは、或るものの単なる概念(例えば名辞)の分析ではなくして、その或るものを概念に於て分析することである。即ち、性格を概念に於て分析することでなければならない。処で一般に概念の分析はその分析が汲み取られるべき源泉を有つ必要があるであろう。もしそうでなければ分析は一歩も進められないか、もしくば強いて分析を進めようとすれば分析ではなくして内容なき捏弄に陥って了う外はない。そしてこのことはただ概念がその過程を失喪することに於てのみ発生する。処が過程を失喪することは吾々の概念に於ては許されない(構成的概念であるならば恐らく許されるであろうが)、故に概念の分析は源泉を有たねばならない。この源泉、それがとりも直さず又概念である。分析は概念に於て行なわれる、概念そのものを源泉として行なわれるのである(概念の分析は一定の目的を有つ、この目的こそ課題として掲げられたる性格である)。
今もし概念が構成的概念であるならば、その分析は進行することが出来ないであろう。これを隠蔽するためにはそれ故一つの捏弄に逃避する外に道はない。一方に於て概念に構成性を与えながら、他方に於て概念を分析し得るかのように思い做すためには、この捏弄は避けがたい。茲に概念のスコラ主義が成り立つのである*。概念と実在との同一を許さない限り、即ち概念に概念という性格を与え実在に実在という性格を与え、そして二つの性格を不思議にも同一化しない限り、このような概念の分析は何の結果をも約束するものではないであろう。結果を約束しない仕方、それは最も非方法的である。吾々の分析はかかる煩瑣的思弁と混同されてはならない。
* この場合分析の(実は捏弄の)源泉となり得るものは言葉だけである。スコラ的本体論とは「言葉の意味から分析的判断を引き出すことである」(Husserl, Philosophie als strenge Wissenschaft, Logos, Bd.
. S. 305)。
. S. 305)。概念の分析の源泉として意識現象が択ばれる場合。現象学が夫である。「本質の照観に於て把捉された本質は、少くとも可なりの程度にまで、固定した概念として定着される*。」このような本質概念を通じて、即ち本質の照観に溶け入るべき概念的な言葉の意味を通じて、現象は記述されるのである**。現象の記述は従って、種々の本質概念の間の関係を決定する処の一つの分析であるから、之を或る意味に於ける概念の分析と呼ぶことは出来るであろう。それは吾々の概念の分析と同じであるか。実際、本質概念は――但しその概念の分析ではない――吾々の概念と一応同じに考えられるであろう。と云うのは、第一にこの概念は決して構成的概念である理由を有たない。本質を不変にして一般的なものと考えるにしてもそれが所謂概念――構成的概念――であることにはならない。ただ把握的概念と構成的概念との区別を無視する時にのみ、本質は構成的概念であるかのように誤られるであろう(例えば W. Ehrlich***)。第二にこの概念は単に言葉の意味でもあり得ない筈である――それは「概念的な言葉の意味」であった。現象学の分析は言葉として用い慣らされている呼び方から出発しはするが、スコラ的概念ではない。かくして現象学に於ける本質概念は一応吾々の概念と一つであるように思われる。処がそうであるからと云って概念の分析は吾々のそれと一つであるのではない。現象学に於ては、概念の分析の源泉を現象に求める(そして現象は現象学に従えば意識である)、しかるに吾々の概念の分析は、概念それ自身を源泉とする筈であった。現象学に於ける概念の分析――それは「本質の分析」である――は実は意識の分析である。之に反して吾々の求めるそれは、言葉通りに概念の分析でなければならない。――そして概念の分析の意味が異るだけそれだけ、概念の意味も異るわけである。実際本質概念と吾々の概念との区別を、吾々は後に至って見る機会があるであろう。
* フッセルル、同上 S. 15.
** 同 S. 14. 参照。
*** Ehrlich, Kant und Husserl 参照。
概念を概念自身に於て分析する、概念自身をその分析の源泉とする、之は言葉の内容なき反覆ではない。すでに概念は動機を有った。そしてその動機は歴史社会的制約を有った。それ故概念は歴史社会的に存在している――それは歴史社会的に成立した。そこで概念は自己の歴史社会的存在に於て、その成立の過程に於て、即ち動機に於て、分析されることが出来る。即ち又それは性格に於て分析される。概念の分析の源泉は再び性格である。而もこの性格は歴史社会的制約を以て歴史社会的に存在していなければならない。故に分析はこのような存在を源泉として行なわれるべきである。それ故今や吾々は云うことが出来る、概念は性格に従って(故に又動機に従って)、そして性格に於て(故に又動機に於て)、一言にして云えば概念自身に於て、分析されねばならない。概念の分析とは之である。
概念は、その性格は、歴史社会的存在を持つと云った。けれども、それは単なる事実としては与えられていない。吾々はそれを発見しなければならない筈であった。それ故吾々の分析は必ずしも※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、490-上-13]streng“であることは出来ないであろう。ディルタイの言葉を借りるならば、論証的ではなくして、それは divinatorisch であるとも云うべきである。併しながらこのことは概念の分析の学問性を奪うことは出来ない。何となれば、かかる場合に於て学問性を保証するものこそ、元来分析という概念ではないのか、――分析とは内容なき反覆ではなくして源泉からの分析であった。学問的とは方法的のことであり、方法的とは分析的のことである。そして分析的のみが理論的であり得る。
概念が歴史社会的制約を持つと考えられる時、同一の概念が日常語として又専門語として理解されること――それを吾々は最初に主張した――の理由が必然となるであろう。日常語とは云うまでもなく日常的な知識に於て語られる言葉を云うのであるが、常識は恰もこの日常的な知識を意味する。常識に於て成り立つ概念、それは常識的概念である。処で常識は一面に於て不完全な知識を意味する場合を有つであろう。まだ充分に専門的となることの出来ない処の、或いはそれ程専門的であることを必要としない処の、稍々不定な内容を持つ知識、それが常識の有つ一面である。かくすれば常識はやがて専門化せられるべき、専門化せられて初めて独立した知識となり得るような、非独立的な価値しか有たない知識として、消極的に理解されるに過ぎないであろう。この時、常識とは幼稚なる学識に過ぎないように見える。処が之に反して常識は他に、も一つの異った概念を有つ。その時、もはやそれは不完全な知識ではなくしてそれ自身完全なる知識となる、ただそれが学識ではないという迄である。それ自身に於て独立の価値ある日常的な知識、之が常識のもつ他の一つの意味でなければならない。もし常識に何も知識としての独立性と価値とがないならば、それはどのような理由の下にも、「迂遠なる」学識を嗤う権利を持つ筈はないであろう。常識が学識に対して知識の価値を対等に争い得るのは、ただそれがこのような独立の価値ある積極的知識としての常識である場合でしかあり得ない。人々はただこのような常識のみを専門的学識に対立させることが出来る―― bon-sens。故に又この意味の常識的概念のみがそれに対する専門的概念と対立する。吾々はかくして初めて日常語と専門語との区別――吾々が好んで用いた処の区別――を正当ならしめることが出来る。又かくして初めて常識的概念を分析すること――それはやがて必要となる筈である――に理由を発見することが出来るのである。何となれば、もし日常的な常識的概念が専門的概念の不完全なものに過ぎないならば、前者の分析は要するに後者の分析の不完全なものに過ぎないこととなり、常識的概念の分析は何等の結果を約束することも出来なくなるであろうから*。
* スコットランド学派の常識哲学はそれ故、常識の知識としての独立を主張することによってのみ成立する――“sound”common-sense.
常識的概念と専門的概念、従って日常語と専門語、との区別とその対等とを吾々は今見た。恐らくあり得べき一つの重大な誤解を警戒しておく必要があると思う。専門的概念は学識に於て知識としての価値を有ち、之に対して常識的概念は日常性に於て独立の知識としての価値を持つ。人々はこう思い做すかも知れない、日常性とは世間的により普通に行なわれること――普通性――を指すのである、と。もしそうすれば専門的概念もそれが普通一般に行なわれる時には常識的概念となり、そしてあまり普通一般に行なわれない概念は常に常識的概念ではあり得ないということにならなければならぬ。併し吾々にとっては普通性と日常性とは異る。前者は一般に行なわれているという単なる与えられたる事実であり、之に反して後者は、一般に事実として行なわれている処のものが実は何でなければならない筈であるかという課せられた課題なのである。であるから専門的概念が如何に普通一般に行なわれた処で、それであるからと云って常識的概念になるのではない。又たとい普通一般に行なわれなくても、或る普通一般に行なわれているものがそうある筈である処の概念はなお常識的概念である。あまり行なわれないということが専門的概念の資格とならないと同じに、普通行なわれるということが常識的概念の資格とはならない。元来或る一定の概念が常識的であり他の一定の概念が専門的であるとは限らない。同一の概念も常識的概念として又専門的概念として理解される筈であった。尤も或る概念はより普通に専門的概念として通用し、他の或る概念はより普通に常識的概念として通用する(普通性と日常性との無関係を注意せよ)。それ故現に吾々は「概念」に於ては術語(専門語)としての「概念」から、「理解」に於ては日常語としての「理解」から出発した。併し両者は何れも日常語(常識的概念)であると同時に専門語(専門的概念)であり得た。かくて吾々の常識的概念は普通性を持つのではなくして日常性を有つのである、――概念は一般に与えられてあるものではなくして求められ発見されるべきものであった、日常性は其処に成り立つ。
さて常識的概念は専門的概念に較べて、その歴史社会的成立に於て(性格と動機とに於て)、より根柢的でなければならない。勿論専門的概念は或る事物を把握する点に於ては常識的概念よりも根柢的であるに違いない。もしそうでなければ専門的概念としての資格を欠くであろう。併しそれは歴史社会的成立に於て根柢的であることとは別である。成立に於ては常識的概念はより根柢的でなければならない。専門的概念は常識的概念の地盤から派生する。処で吾々は常識的概念だけを独立に分析することが出来る。であるからまず常識的概念の分析を独立に行なった上で、それに基いて夫に対応する専門的概念の分析を行なうことが、概念の性格と動機とに忠実な分析の手続きの順序でなければならない。この意味に於て常識的概念は常に基礎概念であり、専門的概念は常に上層概念である。
最後に此迄の結論を繰り返えそう。概念は常に理解(把握)と共に初めて語られることが出来る。かかる概念(把握的概念)は性格を概念し動機を有つ。概念の分析は概念自身を源泉として行なわれなければならない。即ち概念は、その性格と動機とに従って又それに於て、分析される。何となれば概念は歴史社会的制約を以て存在するから。併し概念は決して事実としては与えられていない、それは発見されなければならない。分析は常識的概念の分析から出発すべきである。何となればそれは歴史社会的制約に於てより根柢的な基礎概念であるから。――さて吾々の問題、それは空間概念の分析の問題であった、を正当に提出し得るためには、以上のような準備をしておくことが是非とも必要であったと思う。併し今迄に触れるべき点に残らず触れたとは思わない、無意識に看過した点もあろうし、又故意に省いて後の機会に譲った点もある。このような点は実際に問題を取り扱うに当って、必要な限りその折々に分析されるであろう。
空間は思うに、一つの特殊なる学問又は更に一般に特殊なる文化領域に於て始めて、問題として発生するものではなくして、これ等の領域に対して云わば始めから与えられたものとして現われるものであるということが出来る。例えば近代の階級という概念は経済乃至政治の領域に於て始めて発見される、この概念は云わばこの領域の出である。之に反して空間という概念はそれが発生するこのような固有な故郷を有たない。空間という問題は特殊の領域に於て形づくられる問題ではなくして、既成の問題として、種々なる領域に於ける問題となって取り入れられることが出来るのである。空間の問題は様々の領域に渡って――併し無論領域それぞれの色彩を具して――横断する、之は注目に値いする事柄であると思う。空間の問題がそれを取り込んだ夫々の領域の色彩を帯びているために、茲には決して一定した同一の空間の問題の形態はないように見える。空間はそれぞれ特有な仕方に於て問われているかのようである。処が元来何れの領域も空間という既成の問題を取り込んだのであるから、その限り空間の問題は一定していなければならないように思われるのも亦自然であるであろう。そこで各々の領域は自己の持つ「空間の問題」を絶対的な形態と思い做し、之を他の領域に迄も強いようと試みる。物理学者は自分が対象とする空間を唯一の空間と考え、心理学者も亦自分の取り扱う空間を本来の形に於ける空間と想像し易い。けれどもこのような専門家達は、同一の問題と云われるものでも、問題にする仕方によって実は異った問題になることが出来る、ということを注意していない。なる程空間の問題は種々なる領域に共通である、けれども問題の形態は別々であることが出来る。従ってこの形態に於ける問題を解くことによって結果する空間概念は夫々異ることが出来る――而も空間概念という同一の名の下に。さてこの関係は何を吾々に教えるか。空間の問題は種々なる領域――それは専門的領域であることが出来る――に編入されるに先立って、それ自身の出生の地盤を持っているということがそれである(それの Heimatlosigkeit とは実は之であった)。之によって始めて空間は種々なる領域の問題ともなることが出来るのである。吾々の準備した言葉を用いて云い直すならばこうである、空間は一つの常識的概念である、それであればこそ或る夫々の特定の領域の専門的研究によって産み付けられることを俟たずに而もその領域の問題となることが出来る、そしてこの夫々の領域の問題となる時、空間は又専門的概念ともなるのである。
一定であると想像する理由のある常識的概念「空間」も、専門的概念となる時、向に示した通り、決して唯一であることは出来ない。吾々は幾つかの専門的な空間概念を知っている。第一に挙げられるべきは幾何学的空間概念でなければならない。幾何学が空間の学(数学)であるという理由によって、幾何学に於て空間と見做されるもの――幾何学的空間――を、吾々が日常その内に生活して経験している空間と同じに見ようとする人々は、それ程多くは見受けられないであろう。すでに幾何学的空間は経験的ですらない、況して吾々の云う処の常識的概念であることは出来ない。次に経験的空間という概念のもとに人々は異った多くのものを理解する。第一に経験し得る処の空間――之を empirischer Raum と呼ぼう。之は英知的乃至幾何学的空間ではないという意味に於ける消極的規定しか持たない空間概念である。積極的内容を有たないから之は除こう。第二に経験という認識形態に於て成立する空間――之を Erfahrungsraum と呼ぼう。もし経験を一定の法則に従って構成されたる学問的体系乃至その素朴な形態と考えるならば、経験的空間は物理的空間となる。物理的空間は経験に於て与えられなければならない――それは「実在的」と呼ばれる。けれどもこの意味に於ても亦、経験に於て与えられるということが常識的概念であることになるのでは決してない。事実それは一つの物理学的概念、従って正に一つの専門的概念に外ならないであろう。もし又経験を知覚と解するならば――知覚はまだ前の意味での経験ではない――経験的空間は感覚的に与えられた空間表象となるであろう。この時空間は一つの心理学的概念に外ならない。心理学的空間がたとい原始的な空間知覚と考えられる場合であっても――例えば一定の大きさを持った空間部分の表象と考えられるような場合であっても――、それを吾々の所謂常識的空間概念と呼ぶ理由を吾々は有たない。何となれば空間知覚と空間概念とは全く成立の動機を異にする二つの概念規定であるであろうから。前者は心理学に於ける専門的概念に外ならない。さてこのようにして吾々は少くとも三つの専門的空間概念を知っている。幾何学的、物理的、心理学的。常識的空間概念はこの何れでもなく、そしてこれ等の地盤となり基礎となることの出来るものでなければならない。
吾々は常識的空間概念の分析に先立って予め二つの誤解を警戒しておく必要を感じる。第一に空間概念――以下常識的空間概念を略してかく呼ぶ――は、それ自身を目的として(per se)理解されるべきであって偶然的(per accidens)に理解されてはならない。どのような概念も per se に理解出来ると共に又 per accidens にも理解出来る性質を持っている。沙翁を語るためにハムレットを語るならばハムレットは per accidens に取り扱われる。之に反してハムレットを語るために沙翁を語るならば今度は沙翁が per accidens に、そしてハムレットは per se に取り扱われるであろう。もし神を理解するためにそれに付随して偶然に空間が問題となるならば、そしてその限り空間の問題が解かれるならば、之によって明らかとなるものは、空間の性格ではなくして実は神の性格でなければならない筈である*。無論偶然に解くことによっては問題が全く解けないと云うのではない。却ってそれが一応解かれ得るが故に解き尽し得たかのように思い做す危険を人々は有つのである。偶然は性格を逸する、それが見当違いである。このような誤解の最も一般的なものは、一つの哲学的体系を組織するのを目的として、その視点に立って空間概念を云わば義務的に取り入れるか、又は之を利用する態度である。かくすれば空間は例えば論理的範疇として説明されたり、或いは光として説明されたりすることが出来る**。――処が吾々は空間を他の何物かによって説明するのではなくして、空間そのものを分析することを欲する。第二に空間概念はアナロギーとして理解されてはならない。例えば「色の幾何学」「音の幾何学」などに於ける色・音の空間、人々が好んで問題にしようとする絵画に於ける空間、その他任意の何々に於ける空間など(そしてヘルバルトの英知的空間の如きも亦)、何処までが本来(per se)の空間概念であり、何処からがアナロギーとしての空間概念であるかを、注意深く見分けることが必要であるであろう。アナロギーとしての空間は之を常識的空間概念と混同してはならない。かくて空間概念は常にそれ自身として、即ち他の概念に従ってではなく空間概念自身を支点として、取り扱われなければならない。――空間概念だけを前景に持ち出し、之を独立の問題として正面的に臨む時に始めて、空間概念の分析の意味は成立するのである***。
* 空間を神に付属せしめて理解することは昔から行なわれた処であるが、その最も著しいものはヘンリー・モーア、及びニュートンであろう。
** 空間を範疇として始末した代表的なものはコーエンである。又空間を光と同一視することはプロクロスに始まる。後に至って Witelo が之を承け継いだ。
*** 空間概念の分析が「空間の演繹」と正反対であることをこの機会に注意して置こう。後者の代表者は※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、494-下-23]geistreich“なるシェリングである、彼は空間(それは又物質である)を物理的諸力から構成した。処がかかる構成こそは分析の正反対である。
空間概念はその性格に従って分析されねばならない筈であった、何がその性格であるか。空間という常識的概念が要求される時、その時は必ず存在を問題にしている時である。存在という概念には様々の解釈が施されるであろうが、茲では最も平凡な一つの存在――空間的存在――をさし当り理解しておけば充分である。この意味に於て机は存在するが机の表象は存在しない(但し表象されたる机は尚或る意味に於て空間的存在ではないかという疑問は一応尤もであるが之は最後に解かれるであろう。吾々の今云おうとする区別はこの疑問と無関係に明らかである)。この机と机の表象とを区別しようと欲する時、実際上、必ず空間概念が要求されるのである。人々は或いはこう云って反対するかも知れない、実在と表象との区別は、或いは主観の普遍的必然的構成であるか否かによって、或いは自我の奥底に於ける統一であるか否かによって、始めて与えられるのであって、其処に空間を持ち出すことは何の説明にもなりはしないと。けれども再び吾々は繰り返そう、吾々の云う空間概念は常に一つの常識的概念である、それは実在と表象との区別を哲学的に説明することは出来ないし又しようとも思わない、ただ実在と表象とを人々が普通何によって区別しているかということだけに答えることが出来ればよいし、又それだけには答える義務があるのである。人々は実際机と机の表象とを区別する為に空間概念を要求するのである。人々は両者の区別の深遠なる――そして専門的なる――意義を教えられるよりも、両者の区別を確保することが更に必要なのである。この必要を満足せしめるものが人々の持つ、従って吾々の求める、空間概念でなければならない。こういうと又文学者達は批難して云うであろう、人々は何も改めてそのような概念を借りなくても、すでに机と机の表象との区別は明らかに知っているのではないかと。併し之は吾々の言葉に対する批難ではなくして却って保証であるに外ならない。何となれば、この二つのものの区別を明らかに知っていること、それこそ吾々の云おうとする空間概念なのであるから。けれども又云うかも知れない、人々は何もかかる概念に於て理論的にこの区別を知っているのではなくして単に実践的に之を把捉しているのであると。正にその通りである、処で一般に吾々の概念は実践的であり得なかったであろうか――前を見よ。今人が机に坐って手紙を書こうとする時、その机が表象されたものであるか実在であるかの区別が、その人の実践を決定する力を持たねばならない。空間概念とはこの実践を決定する力となることの出来るものを指す(紙の上に――空間的に――描かれた机は、空間的存在であるにも拘らず、実在する机ではないと云うであろうか。併し描かれた机は元来机ではない。机の表象は「机」の表象であり、描かれた机の表象は「描かれた机」の表象である。机と描かれた机との関係は今の区別に関わる処はない)。かかる空間概念は日常生活に於て常に要求されている処のものであり、又日常生活を常に指導して行く任務を有っている。研究故の概念――専門的概念――ではなくして活動故の概念――常識的概念――で吾々の空間はなければならない。人々は表象に頼らずして常に実在――存在――に頼って生活している、かかる信頼を裏書きするものが夫でなければならない。このような意味に於て空間は一つの存在の概念であることが明らかとなった。
存在を向の約束に従って空間的存在に限定しても、存在の意味はまだ決して一様ではない。第一は机という存在者を、第二は机の持つ存在性を、存在は云い表わすことが出来る。人々は普通、空間をこの二つの規定の何れともして説明する。吾々は――性格に従って(動機に従って)空間概念を理解すべき吾々は――、之に反してただ後者のみを採る。何となれば存在者(物)と存在者との間が空間的存在にとって是非とも必要であるからである。故に吾々の空間概念――それは常識的である――にあっては、空間が物体的であるか無いかという問題、従ってより一般に、空間が実であるか虚であるかという問題は、成立する動機を持つことが出来ない筈である(たとい物理的空間概念に於てそれが成立するとしても*)。何となれば実も虚も物体性を基準として成り立つのであるが、この物体性はとりも直さず存在者の概念にぞくする、処がそれは存在性の概念とは別なのであるから(併しそれであるからと云って空間が物体的ではない、虚である、ということは出て来ない。存在者の概念に於て与えられた区別を存在性の概念にぞくするものが守らなければならない義務はないから)。之に関連して空間は運動し得るか否かと云う問題も亦今と同じ理由によって成立しない。空間は一つの存在性の概念である。
* 一般に物理的空間は実空間として説明され、之に対して幾何学的空間は虚空間と呼ばれる。心理学的空間に於て実空間に相当するものは空間知覚(感覚によって充実されたるもの)であり、虚空間に相当するものは例えばカントの Anschauungsform であると云えるであろう。――凡てこれは専門的空間概念に於て発生する区別に外ならない。
存在性の概念として理解される時、空間概念は先ず始めに少くとも次のような名辞と訣別しなければならぬ。第一は R
ume。何となれば空間の複数は空間を物体性として説明することの残影であるか、それでなければ物理的空間に於ける所産であるかであるが、何れもそれが今の場合にとって見当違いであることを今吾々が述べた処である*。第二は das R
umliches。何となれば之は存在(Raum)に対して恐らく空間的に表象されたるものを意味するのであるが、それと空間概念とを結ぶ理由は何処にも示されていない**。第三は R
umlichkeit。空間性は空間の存在性を云い表わすのに至極都合よさそうに見えるかも知れない。普通人々の有っている空間という概念――人々が普通有っている概念が必ずしも常識的概念ではないことを忘れてはならぬ――が、例えば「空間は何処にあるか」と問われる場合のように***、物体性として説明され易い点に注意すれば、それに較べては、空間性の概念はなる程吾々にとって有利であるようである。又空間を吾々のように空間として(空間性としてではなく)理解するとしても、場合によってはこの空間を説明する為めに空間性という概念を欠くことが出来ないと考えられるかも知れない。このことが必然性を有たないということを吾々は最後に見る筈である****。仮にこのような場合を除いても、人々は多くの場合、空間性によって、空間ではなくして空間のアナロギーに過ぎぬものを意味しようと欲することも亦事実であるであろう。そしてこの空間のアナロギーを以て逆に空間そのものを空間性として説明するとすれば、空間の性格は疎外されて了わなければならない。アナロギーが性格を誤ることを吾々は前に指摘して置いた。それ故空間性を以て空間に代えることは出来ない。空間のみが空間である。* カントは経験的空間(それは物理的観測の座標に外ならない)をば空間の複数を以て呼び、理念としての絶対空間に之を対立せしめた。故に R
ume はカントに於ても Raum ではない。――相対的空間と絶対的空間との区別は多くの場合かかる経験的空間の問題として始めて起こる。
ume はカントに於ても Raum ではない。――相対的空間と絶対的空間との区別は多くの場合かかる経験的空間の問題として始めて起こる。** 「空間と時間は実際には成立するものではない、ただ空間的なるものと時間的なるもののみが成立するのである」、云々(Brentano, Psychologie vom empirischen Standpunkt, Bd.
. S. 272 ―― F. Meiner)。
. S. 272 ―― F. Meiner)。*** この問いはアリストテレスが之を一つのアポリアとして提出して以来屡々繰り返えされる(Physica, 209 a.)。
**** 「世界に於てあることに依って、空間はまず第一にこの空間性に於て見出される。かく見出された空間性の地盤に立って、空間そのものが認識への通路を有つことになる。」(Heidegger, Sein und Zeit, 1te H
lfte, S. 111)
lfte, S. 111)空間概念は、存在性の概念として理解される時、歴史上、最も普通に次のような名辞として現われる性質を持っている。第一は「何処」(ubi)として*。この問いの形を具えた範疇は「此処」又は「彼処」の範疇に於て答えられる。これ等の範疇が存在性の概念を云い表わすことは一応之を承認しなければならない。――「何処」とは、「何」であるかという存在者を問うのではないから。けれどもかく問われかく答える時、已に吾々は、かく問うことが出来又かく答えることが出来ることを理解していなければならないであろう。問われるものが空間的に存在し得ることを知って始めて「何処」を問う動機を吾々は持つ。空間的に存在し得ないものに就いてこの問いを発することには意味がない――動機がない――筈である。併し或る物が空間的に存在し得、之に反して或るものはそうあり得ない、ということを知るには、少くとも已に空間概念を理解しているのでなければならない。この空間概念――それは常に常識的である――が有つ動機に従って始めてこの範疇は範疇として成り立つことが出来る。凡て語ること――その普遍的形態が範疇である――は概念=理解の上に於てのみ可能である。そうすれば「何処」は――最も普通であるという意味に於て最初にして直接である処の空間的なるもののこの概念は――直ちには常識的ではあり得ない。常識的概念は最も基礎的であるが故に、却って最後にそして最も間接に与えられなければならないのが普通である。常識的概念――それは日常性である――は普通の仕方では発見されない。それであるから「何処」という言葉は空間概念を云い表わすことに於て充分であると云うことは出来ない。第二に空間概念は場処(locus)として現われる。アリストテレスに従えば(彼に於ては空間は場処τ※[#鋭アクセント付きο、U+1F79、498-上-1]πο
に外ならない)、場処とは限界である。という意味は一定の境界を以て包むこと、それが場処である**。これも亦確かに存在性を云い表わす概念には相異ないであろう。場処は「此処」「彼処」を以て呼ばれる外はない、処が「此処」「彼処」は前に示された通り「何処」の範疇に外ならない。であるから場処とは要するに範疇「何処」に対応する処の存在を云い表わす言葉なのである。そしてこの存在とは無論空間的存在性でなければならない。それ故空間が場処として最初にとり出されたことは至極当然であるであろう。併しながら、範疇「何処」が範疇として成り立つために空間概念の理解が予め必要であった通り、之に対応して、場処が場処として理解されるためには又予め常識的空間概念の理解が必要でなければならない。場処が最初に最も直接にとり出され得るということは、それが常識的空間概念であることを、少しも保証するものではない。場処は空間に於ける場処である。場処を占める――限界する――ということは空間に於て場処を占めることに外ならないであろう(場処 locus と離すことの出来ないものは定位 localization である)。かくて場処という言葉も亦空間概念を正当に吾々に齎すことは出来ない。第三に空間概念は位置(situs)として現われる。位置が空間概念にぞくすることを何人も承認しなければならないと共に、又この言葉が空間概念を代表し得ないということもあまりに明らかであると思われる***。さてかくして以上三つの名辞は何れも空間そのものを云い表わし尽すことは出来ない。残るものはただ空間(Spatium)であるであろう****。以上の四つのものはスコラ哲学に現われた空間の代表的名辞であることを茲に注意して置こう。* アリストテレスの範疇の一つが之である。
** 「故に限界されたるものの直接の不動の限界、かくの如きが場処である。」(Physica, 212 a. 21 f.)爾後空間をかかる意味に於ける場処として理解することはスコラ哲学を一貫する本流であった。例えば Gent, Die Philosophie des Raumes und der Zeit 参照。
*** 位置も亦アリストテレスの範疇の一つである。位置と空間との概念規定の相異は、位置解析(Analysis Situs)と幾何学との相異から間接に想見することが出来るであろう。
**** プラトンのティマイオスに於ける空間(χ※[#鋭アクセント付きω、U+1F7D、498-下-12]ρα)――所謂「プラトンのヒューレー」、prim
re Materie ――はかかる空間と考えられる。これが限界されたるアリストテレスの場処の如きものではなくして単なる延長であること、及び単にアナロギーや譬喩によって空間と呼ばれたのではないということ、その考証に就いてはボエムカーの研究を信じてよいであろう(Baemker, Problem der Materie in d. griechischen Philosophie, S. 174-5 及び S. 181 参照)。
re Materie ――はかかる空間と考えられる。これが限界されたるアリストテレスの場処の如きものではなくして単なる延長であること、及び単にアナロギーや譬喩によって空間と呼ばれたのではないということ、その考証に就いてはボエムカーの研究を信じてよいであろう(Baemker, Problem der Materie in d. griechischen Philosophie, S. 174-5 及び S. 181 参照)。さて最後に挙げた四つの名辞が何れも空間概念の夫々一つの特徴のみを指し示す処のものに過ぎないことを、吾々は見た。このことからして次のことが帰結して来る。空間概念は、以上に掲げられた名辞に於てその一部分を云い表わされるような夫々の事態を凡て含む処の、或るものでなければならない。そして名辞の分析は今之を試みた。事態の分析が次の仕事である*。処で已に述べた処に基いて、この事態は空間概念のかの存在性である外はなかった。そして空間概念は――吾々は何回でも繰り返す――常識的概念であった。故に常識的空間概念の存在性の事態の分析、之が次の仕事になる。というのは、単なる事態の分析ではなくして存在性の事態の分析であり、又存在性という名辞の分析ではなくして存在性という事態の分析である。さて併しこの分析は例えば物理学的或いは幾何学的な、専門的知識を借りてそれに基いて行なわれることは出来ない(尤もこれ等の知識を参照する便宜を利用することは望ましいが)。何となれば吾々の概念は常識的であったから。併し又それであるからと云って、世間普通に行なわれる空間に就いての説明をそのまま借りて之に基いて分析を進めることも許されない。何故ならばもしそうすれば、世間一般に行なわれることを意味する普通性を以て、常識的概念の持つ日常性に代えることになるからである。又更に、この分析は意識の分析からも独立でなければならない理由がある。無論概念の内容――分析によって吾々は之を明らかにするに外ならない――が、同時に意識にぞくしその意味に於て意識の内容であることを、吾々は否定するのではない。併しながら概念の分析――今の事態の分析はその一部分である――によって明らかとされる内容が、そのまま意識の分析によっても亦明らかにされるに違いないという保証は何処にもなかった筈である。そして現に空間意識の分析に於て最初のもの――恐らく形とかそれに結び付いた色とか――は、空間概念に於ける最初のものではあり得ない。吾々は云わば材料を意識に仰ぐかも知れない、併し材料の処理――それが分析である――は意識の支配を俟ってはならない。かくて空間概念が有つ存在性の事態は全く特異の仕方に於て分析されねばならないのである。――そこで概念に於ける分析、之が吾々の用意しておいた言葉であった。今や空間概念の事態は空間概念の性格と動機とを標準として分析されるべきである。常識的空間概念という言葉の下に元来吾々が如何なる事態を表象していたかが始めて茲に至って明らかにされるであろう。けれども吾々は決して何か目新しいものを提供しようとするのではない。それは人々が日常最も好く知っている筈のものに外ならないであろう、ただ人々が普通それを自覚し確保していないというまでである。この最も当然なるもの――それであればこそ常識的概念である――をそのものとして把握する代りに、人々はただあまりに多くの説明(専門的或いは非専門的な)に慣らされて来たというまでである。例えば人々はこの最も当然な空間概念をば、或る単純と想像される要素――場処(Platz)、方位(Gegend)、距り(Entfernung)、方向(Ausrichtung)など――によって説明しようと試みる。併しかく説明し得るということがすでに空間概念を理解していることであるのを正確に注意したのである。吾々はこれとは反対の道を択ぶことを約束した。吾々は何の体系も構成しない、従って吾々は何の説明を与えることも出来ない、ただ分析し得るだけである。而もこの分析によって既知なるものから未知なるものが、又は未知なるものから既知なるものが出て来るのではない――吾々は演繹することは出来ない、ただ既知なるものが愈々確保されて行くというまでである。
* 概念に於ては名辞と事態とが対立する。そしてこの両者に対立するものは性格である。机という名前と机という物質と、及びこの物質をこの名を以て呼ばしめる性格と。
常識的空間概念の有つ存在性の事態の分析。
場処(「何処」)、位置などの名辞を以て呼ばれる事態を含み、之等を始めて成立せしめ得るもの、それは延長である。常識的空間概念の最も基礎的な概念はこの延長でなければならない。であるから空間的存在を有つもの――物体――と、それを持たぬもの――精神――との区別は、殆んど常にこの extensio によって与えられて来ているのである(その代表的なるものはデカルトとスピノザである)。強いて云うならば延長(又は広延)は二つの意味を有つことが出来るであろう。例えばロックは之を expansion と extension とに区別し、前者を虚空間としての延長、後者を実空間の延長と考えた。けれども存在性ではなくして存在者にぞくす処の物体の概念によって、始めて虚空間と実空間とのこの区別が成立する動機を有つこと、従って吾々の空間概念にとってはこの区別が見当違いであること、を吾々は已に見て置いた。従って吾々はこの区別を無視して延長の一義的な概念を有つことが出来るであろう。人々が感性的と呼び慣わして来ているものも、注意して検討する時、多くはこの延長を有つもののことであるのを発見することが出来る(意識の内に継起すると云うことの出来るようなものは、たといそれが経験的であるにしても――例えば内部知覚の如く――、之を必然的に感性的と呼ぶことを人々は何かしら躊躇しないでもないであろう。それが断然感性的と考えられる場合は、恐らく延長せるものとの交渉をそれが本来もたねばならぬ運命が発見された時である)。少くとも眼で見手で触れることの出来るもの――それが感性的なるものの第一義的特徴であると考えられる――は常に延長を有つ。延長によって或る人々は確実堅固なるものの保証を発見し、又或る人々は不安薄弱なるものの適例を見出す。このようにして善い意味に於ける又は悪い意味に於ける感性を、最も端的に与える事態が恰も延長である。延長は空間の基礎的概念である。
延長の事態に第一に含まれているものは次元の概念である。但し茲に云うのは延長の次元であることを忘れてはならない。というのは次元は様々の概念を持つことが出来るからである。一般に次元の概念は多様性の概念を要求する。何となればもし次元者と仮想されたものが真に単一者であるならば次元は成立しない、一次元ということも常に多次元を可能なものと予想し之に対して始めて成り立つことが出来るのであるから。次元は多様性を必要とするが、なお之は更に多様性の統一を必要とする。茲に於て多様性はこの統一の分となる。さてかかる分が夫々他の分と独立である時次元は始めて可能となるのである。各分が独立であるから他の分に還元されることが出来ない。重さは長さに還元出来ず、又長さは重さに還元出来ない、その意味に於て重さ・長さ其の他は独立の分である。それ故重さ・長さ其の他は計量の次元となるのである。以上は一般の次元である。処が延長の次元に於てはこの分それ自身が延長を有つのでなければならない。この時延長は三次元の統一となって事態の事実上表われて来る特徴を有っている。人々はこの三次元性を合理的に説明しようと試みる、或る人は延長を非感性化することによって延長そのものをこの感性的なる三次元性から救おうとし、又或る人は之を他のものから演繹しようと企てる*。けれどもこのような説明が一般に如何に吾々にとって無意味であるかは繰り返し指摘された。人々は事実を「合理化」そうと欲するが、併し事実とは事実として承認されるべきことそれ自身を意味するとすれば、之を合理化しないことこそ合理的ではないのか。或る人々はこういうであろう、空間が三次元であることは抽象の結果に過ぎないのであって、直接に与えられた空間はそのような次元を持つものではないと。けれどもその直接とは何か、恐らく表象へか又は人々が普通に持つ処の観念――普通性に於ける――へか、直接に与えられることであろう。吾々の求めた常識的概念は日常的でこそあれ、普通性でもなければ表象の直接性でもなかった。三次元が抽象の産物であると云うのか、分析は常に抽象的である。延長は三次元である。延長の三次元の各次元は交換し得る(vertauschbar)ことをその特色とする(例えば複素数の次元――之は無論延長の次元ではない――は交換し得ない、a+bi の次元を交換すれば ai+b となるであろう。それにも拘らず尚交換し得ると考えられるならば、その時は実は延長の次元が考えられているのに外ならない)。又この三次元は変換し得る(transformierbar)性質を持つ。この交換性と変換性に於て等方性の概念の生じる基礎があるのである。恐らく人は問うであろう、上下と左右は交換し得るかと。その人を横たえれば質問は撤回されるであろう。
* あるカント学徒は三次元性と空間=延長とを切り離すことによって、又シェリングは演繹によって、延長の三次元性を説明した。ポアンカレは之に反して之を分析している(Poincar
, Derni
res Pens
es, p. 55 f.)。
, Derni
res Pens
es, p. 55 f.)。延長の次元は次に等質性を有ち直線性を有つ。物理的、幾何学的、心理学的空間は場合によってこれ等の性質を持たないし或いは持たないと考えられるが、そのような専門的概念を今茲で問題にしているのではない。吾々の空間がこのような専門的規定に先立って特に等質的でなく又直線的でないと考える動機を、吾々の空間概念に於て発見することが出来ないであろう。なくはないということがあることにならないことは云うまでもないが、等質的であるか否かが問題とならない――常識的空間概念に於ては一応そうである――ということが已にその等質性を物語っているに外ならない。その証拠にはもし誰かが吾々の常識的空間が等質的であってはならないと主張するならば、恐らく彼はその「証明の責」を負わされるであろう。之に反してもし彼が空間は等質的であると主張するならばその主張は当然なものとして人々に承認されるであろう。そしてこの主張は、空間は等質的でもなければ等質的でないのでもないというような、やや不必要なる主張に較べては、遙かに意味を有つであろう。ここに空間概念の動機が働いているのを人々は見ないであろうか。後者の(不必要なる)主張は却って説明的であり、前者の(当然なる)主張は分析的である。このような分析に於て、延長の次元は等質性及び同様に直線性を有つ(再び云おう、この等質性・直線性は専門的空間概念の非等質性・曲線性によって妨げられるものではない、却って前者の概念の事態に基いて始めて後者の概念の事態は成立するのである)。――さて又延長の次元を基礎としてこそ始めて方位とか方向とかいう名辞を以て呼ばれる事態が発見されるのである。処が多くの人々の説明する処は正にこの逆であるであろう。
延長に於て第二に含まれる事態は連続である*。連続も亦次元と斉しく延長の連続には限られない。というのは吾々は数の連続・時間の連続・運動の連続などを知っている。のみならず連続の概念は往々にして専門的であるであろう。数学者は幾何学的に又は解析的に連続の数学的概念を与えた。併しこの常識的空間概念=延長に於ける連続はかかる専門的規定を有つ連続では無論ない。数学に於ける連続の概念は如何なる普通の連続的なるものにも当て嵌まらなければならないには違いない、その意味に於て連続概念に専門的と常識的とを区別することは許されないと云われるかも知れない。けれども繰り返し指摘したように、専門的概念を常識に当て嵌めることとそこに於て常識的概念をその動機に従って発見し分析するということとは両立はするが併し全く別のことでなければならないのである。そして現に人々は(ポアンカレに従って)数学的連続を物理的連続から区別している。さて延長の、そして常識的なる、連続概念は、どのような性質を有つか。この時連続を無限に関係づけて理解することが有効であるであろう。無限も亦数学的概念として成立し、そして数学的連続概念と結び付いている。吾々はかかる概念から独立に、そして特に延長の無限として之を理解することが必要である筈であった。而も同じく延長の無限又は有限であっても吾々の求めるものはかの数学的空間の夫、又は物理学の所謂宇宙の持つ夫であることは出来ない。それ故吾々の常識的無限概念は――リーマンの言葉を借りるならば、――却って「無限」ではなくして「無際限」でなければならないのである。そこでアリストテレスは、無限に就いて、そして夫と連続との関係に就いて、語っている。「無限はヒューレーとしての原因であり、そして無限の本性は欠如であり又その基体それ自身は知覚し得る連続である、ということは明らかである**」と。この言葉は恰も今の吾々の場合にとって非常に適切であるであろう。即ち無限とは延長的(空間的)原因であり――延長としてのプラトンのヒューレーを茲に憶い起こすべきである――、それは際限なきことであり、そしてかかる無限の基体となるものが連続であるのである。それ故延長は連続を有ち、この連続の上に於て延長の無限が成り立つのである。かかる連続の上に於て始めて吾々は限りなきものを限ることが出来る。形は茲に成立の基礎を持つ。
* 空間を不連続的なものと考えた代表的なものは Boscovich 及びヴォルフである(Poppovich, Die Lehre vom diskreten Raum in der neueren Philosophie 参照)。――そして不連続性が多くの場合空間の有限性を伴うたのはそうありそうなことである。
** Physica, 207 b ― 208 a.
延長に於て第三に含まれるものは長さである。距離又は間隔の概念を以て之に置き代えることも出来るであろう。遠近概念は之を基礎として始めて理解される。併し素よりこの長さは数量を以て何かの意味に於て測定された結果を云い表わす概念ではない。どれ程長いかと問う前に吾々は一体それが長さを持つか否かを知らねばならないであろう。そのようなものが今の長さである。それ故数学的概念を借りるならば、この場合の長さは計量に基くそれではなくして順序に基くそれである―― Messung と Ordnung とは数学に於て対立せしめられるのを常とする。AはBの右にありBはCの右にある時、ABの長さはACの長さに含まれている。ABCの関係は計量の関係ではなくして正に順序の関係であるが、それにも拘らずABとACは長さの関係となって現われることが出来る。このようなものが吾々の長さの概念に相当する。
さてかくして人々が空間に就いて有つ殆んど凡ゆる概念――但し専門的諸概念は除いて――は延長に帰着するものとして理解することが出来た。常識的空間概念の事態は延長の概念によって分析された。このようなものが吾々の常識的空間概念である。――それは必ずしも人々が普通に有っている空間概念ではないであろう、けれども又他の意味に於て、之は極めて平凡な日常性を有っている概念に外ならないのである。
空間概念の事態のこの分析を、強いて既成の知識に結び付けるならば、之はあたかも※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、503-下-2]Ontologie des Raumes“と呼ばれるべきであるかも知れない。というのはこの分析は空間概念の事態に於ける不変にして一般的なる「本質」の分析であると思われる一面を有ち、そしてその限り「形相論」、従って又 Ontologie の名に値いするからである*。けれども何故に「強いて」であるか。問題の成立と方向とを異にしているからである。吾々の得た処は成程、決して多様にして変化極りない「事実」の展開ではなくして、その事実に於て見られたる本質、――自由なる変更に於て残留する処の本質――であるには相異ない。その限り之は「本質論」であると云っても不都合はない筈である。併しながら吾々の今の分析が如何にして要求されたかと云えば、それは空間概念の分析の一つの段階として始めて成り立つ理由を与えられたのであった。この空間の「形相論」は常に始めから空間概念に制約されている、この分析は常に空間概念の性格と動機に従って遂行された。それ故この場合の本質=形相は単なる夫ではなくして概念に制約された本質=形相でなければならない。であるから例えばこの概念が吾々の発見しようとして来た処の概念とは異った概念として発見されるならば――何となれば概念は与えられてはなくして発見される筈のものであったから――、これ等の形相が指摘される代りに他の形相が見出されるかも知れない。そうすれば延長ではなくして例えば同時存在の順序が空間の根本的規定として挙げられるかも知れない(ライプニツに於てのように)。このようにして茲に発見された本質は一応不変性を有つものと考えられるにも拘らず、それが発見される過程に於て、その仕方に於て、決して一定不変であることを保証されてはいない。こう云った処で、吾々の得た結果がどのような風にでも考え替えることが出来るというのではない。ただそのような考え替えることの出来ないような結果も、その考えを制約する処の過程によって制限されていると云うまでである。処が又この過程自身も、吾々の採用して来た処のものが、勝手に他の仕方と差し替えが出来るというのではない。吾々の採った仕方を無論吾々は唯一のものと信じているのでなければならない。ただ或る人々がこれとは異った仕方を採用しないとも限らないという可能性を承認するに過ぎない。而もこの可能性を承認することによって、吾々の仕方と他の人々の仕方とを共通の地盤の上に立て、その上で対決を迫ろうと欲するに外ならないのである。それ故得られるものが本質的であるということと、それを得る仕方も亦本質的であるということとは、今の場合一つに考えることの出来ない理由がある。もし之を一つと考えること―― Wesensschau のように――が「本質論」の欠くことの出来ない条件であるとすれば、吾々の分析はその成立に於て「本質論」と区別されなければならない。尚また成立に於て異るばかりでなく、その方向に於ても二つを同一と考える理由を吾々は有たない。「本質論」――「形相論」、「本体論」――は、「現象論」に対し、之に向うている。処が吾々の空間概念の事態の分析は、現象論ではない処の何物かに向っているのであるから。
* フッセルルはこう云っている、「最も広い意味に於ける個物的存在の、領域的に一定し得べき凡ゆる段階には、一つの Ontologie がぞくする。例えば物理的自然には Ontologie der Natur が、動物界には Ontologie der Animalit
t がぞくする、云々」(Ideen … , S. 112)。
t がぞくする、云々」(Ideen … , S. 112)。それでは空間概念の事態の分析は何に向うのか。之に対するものは、空間概念の性格それ自身の分析である。というのは、事態の分析は性格(従って之に基く動機)に従って行なわれた。性格に従って行なわれる分析はその限り性格の分析を結果する――空間概念の事態が分析されればそれだけ空間概念の性格が分析される以外の何物が起こるのでもないから。併し之はまだ、性格を性格として取り出して行なう分析ではない、性格は性格として――性格それ自身――別に分析される必要があるのである。性格の分析によって事態の分析も(又之に先立った名辞の分析も)その基礎を得ることが出来る。
何が空間の性格であるか。
一般に性格に就いて少しばかり補う必要を認める。性格が多くの特徴――これは又、代表的なる性質である――を代表する処の優越な(par excellence)特徴であることを吾々は茲に知った。或るものは如何なる性質に依るよりも、まず第一に、何にもまして、その性格を以て考えられなければならない。性格によって他の性質は代表され、支配され、併呑される。性格は優越性を有つ。机は読み又は書くものとしてその性格を持ち、今朝の新聞は刊行物としてその性格を持つ。それにも拘らず、机は之に腰かけ得る性質を有ち、新聞はそれで物を包むことの出来る性質を持っている。その上で書くもの読むものであるという机の性格と机の他の性質とは少しも互いに排斥し合わない、却って机はその上で書き読むことの出来るべき性格を有つが故に、又その上に腰かけることも出来る性質を持つであろう。性格は他の諸性質を排斥するのではなくして、之を代表し、支配し、併呑する。それであればこそ机に腰かけることは誤りであり、その日の新聞を以て物を包むことは間違いであると云うことが意味を有つことになるのである。処が他方に於て机は腰かけ得る性質を持つが故に、一般に腰かけ得るものの内に列することが出来るであろう。腰掛ばかりではなく火鉢、書架、棚、など凡そ腰かけ得るものは、机と同じ同属として並ぶことが出来る。新聞紙は包み得るものとして風呂敷ばかりでなく、毛布、羽織、などと同列することが出来る。そればかりではない、机は木として新聞は紙として夫々の entities にぞくする。人々は之を否定しようとは思わない、それにも拘らず、机の性格は机であり、新聞の性格は新聞である。凡そ総てのものはこのようにして適当なる任意のものに還元され得る。それにも拘らず還元されても性格の優越は失われない。還元性と優越性とは別である。吾々は念のために社会的な一例を引こう。国民皆兵であるならば軍人でない国民はないであろう、国民は凡て軍人に還元される、けれども総ての国民が軍人という性格を有つのではない。軍人を以て任じ得るものは特殊の地位の人々だけである。他の人々は還元性に於ては軍人であるが優越性に於ては軍人ではない。この場合還元性と優越性との混同は、事実一つの社会的誤謬として知られているであろう。次にこの意味に於て或るものに還元され得るということは、その或るものから構成されているということではない。現に吾々の概念は確かに還元性を有っている、一切のものは概念に還元される、商品は商品概念であり、某は某概念である。然るに概念は構成性を持ってはならない筈であった。かくして構成性と還元性とも亦別である。処で次に、構成性を有つものは必ずそれに基いて優越性を有つ。構成的概念は現に論理的という性格を――優越性を有った。之に反して優越性を持つもの必ずしも構成性を有つとは限らない。というのは構成性が始めから問題となり得ない場合に於ても、――何となれば概念とか判断とか意識とかが問題となる特殊な場合に限って構成性は問題となることが出来る、――性格はなければならない。即ち優越性は成り立つのである。そればかりではない、構成性が問題となることの出来るこのような特殊の場合に於てすら、構成性はなくても優越性は成り立つことが出来るのである。その実例を吾々は後に意識に就いて見出すであろう。優越性・還元性・構成性は各々別である。ただ構成性が成立する時、それに基いて優越性が伴う。
さてこれだけを決めて置いて、性格の分析に這入る。空間の性格が判断の性格によって優越され得ない理由を、私は他の機会に已に、指摘した*。純粋論理学に於ける判断とは、判断作用又は判断意識ではなくして、判断という一つの独立の領域を意味する。この判断の領域を通じて人々は存在乃至真理に通達し得ると考えられる。判断はかかる通路として掲げられるのが普通である。それ故判断をこのようなものとして理解する人々にとっては、一切の認識は判断されたるものとして、従って認識の内容は判断されることに於て始めて成り立ったものとして、理解されるのは尤もである。存在とは「存在すると判断される」ことであり、真理とはこの判断が正しい場合に外ならない。かくして判断は構成性――判断されることによって判断されたるものの内容が構成されるという意味に於ける構成性――を有つ。故に今用意しておいた処に従って、判断は優越性を有つ。即ち判断は一つの性格を有つのである。一切の認識は判断という性格を担う。そこで吾々の問題に帰れば、空間的存在は空間的に存在するものと判断されて始めて夫であることになるであろう。その時空間的存在の有つ性格は要するに判断という性格に過ぎなくなるであろう。そうすれば空間は独立の性格を有つのではなくして判断という性格に包摂されて了う外はないであろう。処が空間的存在を定立する処の判断――存在判断の代表者が夫である――は、恰も、判断としての性格の破綻を暴露している最も著しい一例でなければならない。というのは、普通、判断は主語と客語との結合をその特色とするものと考えられるのであるが、この特色は恰も非人称判断――その代表者は向の存在判断である――に於て破綻を生じなければならないからである。この際適当な主語を択び出すことの出来ないのは例えばブレンターノが之を指摘している**。それ故残された唯一の道は判断の特色をば主語と客語との結合とすることを止める外にはない。併しかくしても存在判断(一般に非人称判断)と属性判断(一般に人称判断)との区別がなくなるのではない。而もその区別は判断そのものの性質の有つ必然性によって成り立つのではない、何となれば存在判断に於て判断としての性格は破綻したのであったから。そうすればこの区別は是非とも判断以外のものの性質から来るのでなければならない。そしてこの判断以外のものを承認する時始めて主語に相当するもの――例えば現象(併しそれは判断現象ではない)――も発見されることが出来るであろう。さてそうすれば茲に存在判断は判断以外のもの――それは存在である――の力を借りることによって始めて成り立つことが出来るということが暴露される。それ故存在判断は実はもはや構成性を有つ判断ではないのである。存在判断の判断の構成性と見えたものは実は構成性ではなくして還元性に過ぎないことが明らかとなった。かくて判断はこの場合他の場合に於てのように充分に優越性を示すことは出来ない――之が性格としての判断の破綻である。このような破綻を齎したものは存在であった、そして吾々の空間はこの存在にぞくす処の一つの存在であった。かくて存在判断に於てすでに、空間が判断の性格によって優越され得ない証拠を見ることが出来る。空間の性格は判断ではない。
* 『思想』第七十二号、「性格としての空間」〔本巻収録〕。細かい点はそれ故反覆することを控える。
** Psychologie vom empirischen Standpunkt, Bd.
, S. 183 ff. ― F. Meiner.
, S. 183 ff. ― F. Meiner.空間的存在が判断の性格を有つかのように思い做す理由を、吾々は、構成的概念からの影響に於て発見することが出来るであろう。判断は概念の敷衍と考えられるのが普通であるが、その場合の概念を――普通そう考えるように――構成的と考えるならば、その敷衍である判断も亦構成性を有つことになるのが、必然でなければならない。そしてこの必然性の赴く処の運命を今吾々は存在判断に於て見た。さて判断の論理性(Logizit
t)、それは判断の構成性を云い表わす言葉であるが、この論理性の蒙る筈の今のこの運命を無視して、この論理性を追求するならば、そこに表われるものは正に妥当の概念である。「妥当の領域」に於ては、「判断」に於て現われたような性格の破綻はもはや見出されないかのように見える。けれども吾々は妥当の概念をその成立の動機に於て理解する必要があるであろう。なる程妥当は判断に先立って妥当し、そして判断に固有な肯定否定の対立を超越していると説明される(吾々はラスクの判断論に於てそう教えられている)。判断の主観性に対して妥当の客観性が説かれる。併しながらそれにも拘らず、妥当という問いは実は決して判断に於いての関心と独立に成り立ったのではない。却って判断というテーマに一旦立ち之を否定することによって始めて妥当の概念は歴史的に成立する。処が判断を否定するというのも決してそれの完全なる否定ではなくして、実は却って判断が持つ処の論理性の徹底に外ならない。結局この徹底は判断の客観化に外ならない。この客観化に於て判断に於て認識の通路として役立った論理性は通路としての任務を捨てて「領域」となって了う。之によって結果する処は通路の完全なる紛失と、論理性の完全なる独立とであるのは当然であるであろう。というのは妥当は全く主観への関係を絶った超越的客観となると共に、それは又「論理的なるもの」そのものの理想的王国となるのである。このようなものが判断から妥当への動機である。それ故妥当はその動機を反省することによって、再び判断と結び付くべき任務を帯びずにはいられない、それは始めから約束された課題であった。故に妥当はただ判断に於てのみ、再びその通路を拾い上げることが出来るのである。従って妥当の概念は判断の概念によって、而もその構成性(論理性)によって、動機づけられている。ただこの構成のみを独立化して、破綻の懼のあった判断をば妥当にまで転位するが故に、判断が蒙ったかの破綻を黙殺し得たまでである。その代りこの妥当は存在とは全く独立な概念として現われて来なければならない。かくして空間――それは存在にぞくした――の性格は明らかに妥当の性格とは独立でなければならなくなる。空間概念の性格は判断でもなく妥当でもなく況して構成的概念でもないことは茲に於て明らかとなった*。
* 空間を論理的範疇として理解することが不可能であることは、之によって証明されることが出来る。もし一般に範疇を何かの意味に於て条件――カントに於てのように――と考えるならば。
空間は対象論的なるものであると想像され易いように思われる。それは一応、対象論的意味に於ける対象であるように見えるであろう。処でマイノングの対象とは何であるか。「凡ゆる対象そのもの」「対象それ自身」に於ては「本質的には存在も非存在も認めることが出来ない*」。「対象はその性質から云って存在外である」――「純粋対象存在外の命題**」。もしかかる対象がそれにも拘らず或る意味に於ける存在を持つとすれば、その存在は Sosein と呼ばれるべきである。「対象にとって決して外的ではなく寧ろ対象の真の本質を形成する処のものは、対象の Sosein に於て成立する」のである**。かくて対象はマイノングによればかかる Sosein ――それは「存在」と「状態」とに対しては「可能性」と呼ばれる***――として性格づけられる。処が吾々の空間概念は存在性を有たねばならなかった。それ故空間は対象論的「対象」であり得ないことを最も著しい特色とさえしなければならない、ということになる。尤もこう考えられるであろう、かかる「可能性」は、ただ「凡ゆる対象そのもの」、「対象それ自身」として理解される限りの対象一般の性格であって、その内の特殊の対象が、例えば存在を有つことを、それは妨げるものではない、と。けれども、もし仮にそうとすれば、或る対象は対象一般としては可能性の性格を有ち、その特殊の対象としては存在の性格を有つことになるのでなければならない。処が、特殊なるものが一般的なるものに含まれる――それに還元される――からと云って、特殊なるものの性格は一般的なるものの性格によって優越されることは出来ない筈である。それ故今の仮定に於ても、特殊なる対象の性格である存在はその対象が含まれる対象一般の性格である可能性によって優越されることは許されない。従って今の場合には、たとい、空間という対象――それは対象一般ではない――がその特殊なる対象としては存在の性格を有つが、対象一般としては可能性の性格を有つと云っても、空間の性格が可能性であるということにはならない。それ故この場合でも空間は対象論的「対象」であると云って了うことは出来ないのである。空間がかかる対象の一つであるという言葉を許すとしても、空間そのものの性格を第二として、空間がこの対象の一つであるという点だけを第一に取り出すのでなければ、――そして性格を第二に回すということがすでに性格の概念に矛盾する――、空間を可能性として性格づけることは出来ない筈である。
* Meinong,
ber Gegenstandstheorie(※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、508-下-15]in Abhandlungen …“)S. 492-3.
ber Gegenstandstheorie(※[#下側の右ダブル引用符、U+201E、508-下-15]in Abhandlungen …“)S. 492-3.** 同 S. 494.
*** 同 S. 488 参照。
このようにして吾々の空間――それは常識的概念である――は対象論的「対象」の有つ可能性乃至 Sosein の性格を有つことは出来ない。かかる性格を有つことの出来るものはただ専門的空間概念の或るもの――幾何学的空間だけであるであろう。「数学は本質上対象論の一部である」、或いは寧ろ、「数学の対象は、対象論も亦その全体に渡って取り扱う固有の権利を有つ処の領野に、在るのである*」。即ち幾何学の対象である幾何学的空間は、対象論の取り扱うべき領野にぞくすることとなる。処がこのような「幾何学の空間」は彼に於ても亦決して「吾々の空間」ではない。「吾々の空間」は「実在的空間」であるか「空間直観の対象」としての空間であるかであるが、前の場合ならばそれは「存在」を持ち、又後の場合であるならばそれは「吾々の表象の内に存在する」のであると云っている**。空間は対象論的可能性をその性格とはしない。
* 同上 S. 508 及び S. 509.
** Meinong,
ber die Stellung der Gegenstandstheorie im System der Wissenschaften, S. 92 参照。
ber die Stellung der Gegenstandstheorie im System der Wissenschaften, S. 92 参照。併し対象とは何の対象であるのか。「心理的生活」に対する、即ち凡ゆる心理的能力にとっての、対象である。事実対象論は意識の問題から派生した。吾々は最後に、空間概念が意識としての性格を有つかどうかを見よう。
幾何学的空間又は物理的空間に於て人々は導き出されたる、専門化されたる、空間概念を見出す。之に対してより根柢的にしてより根源的なるものとして、人々が普通掲げるものは、空間表象である。人々は無言の内に、空間を空間表象として問うことをばその最も尤もらしい問い方であると思い做しているであろう。空間表象と云っても人々の理解する処は決して一定しているのではない。多くの心理学者達は之をより基礎的な知覚乃至感覚から導き出そうとした、之に反して空間表象が導き出されることの出来ないそれ自身独立の根源性を有つ知覚であることを明らかにしたのはシュトゥンプフの功績であった*。何れにしても空間表象はこの場合空間知覚として取り扱われる。この場合、空間は知覚の性格を有つ。之は心理学的空間表象と呼ばれて好いであろう。空間表象を知覚から分離したものはカントである。カントによれば空間表象は第一に純粋直観である――カントの言葉に従うならば「形而上学的」空間表象。第二にそれは直観形式と考えられる――「先験感性論的」空間表象。第三にそれは形式的直観であることが明らかにされる――「先験論理学的」空間表象**。何れにしてもカントに於ては空間表象は空間直観として取り扱われる。このようにして空間概念が一つの直観として性格づけられる時、このことは最も普通であり又最も正当であるらしく思われるであろう。処が空間が知覚であるにせよ直観であるにせよ、それが空間表象である以上は、空間が常に空間意識であることを注意しなければならない。それであるからもし空間が空間表象として性格づけられるのが本来であるならば、空間は意識という性格を有たなければならないのである。そこで、空間の性格は果して意識であるか。
* Stumpf,
ber den psychologischen Ursprung der Raumvorstellung を見よ。
ber den psychologischen Ursprung der Raumvorstellung を見よ。** カントの形式的直観は現象論の範疇的直観の内に含まれることが出来るかも知れない(但し現象学に於ては直観と知覚とはカントに於ける意味の区別を持たない)。そうすれば空間は一つの範疇的直観であることになるかも知れない。之に反してカント自身の言葉に従うならば、空間は感性的直観でなければならない。
意識という言葉の意味程不定なものはない。或る人は之によって物体に対する精神という実体を意味し、又或る人は之によって認識能力としての主観を意味する。或る時は一つの社会現象を又或る時は自覚をすら意味することが出来る。併し吾々にとって今問題となるのはこの何れでもなくして正に現象としての意識である。現象性としての「純粋意識」、之が「純粋現象学」に於ける意識に外ならない、――以下フッセルルの現象学を標準として吾々の分析を行なうことが有利である。併し意識が現象であるということは何を意味するか。凡ゆるものは現象に還元されることが出来る、何となればそのように一切のものを還元し得るものこそ現象に外ならないのであるから。処が意識のみは当然かかる還元を許さないものでなければならないような特殊の特長をそれ自身の内に持っているのである*。意識が現象と考えられる所以が之である。処で問題はこの還元に横たわっている。還元はフッセルルによれば自然的世界の、自然的テーゼの、自然的立場の、「除外」を意味する。このような世界・テーゼ・立場を「働くことの出来ぬようにする」ことがこの還元である。それ故吾々の言葉を以て之を云い換えるならば、自然的(之が何を意味するかは後にして)という性格を有っていた処の世界・テーゼ・立場はなる程消滅しはしないが――それは「括弧に入れ」られるに過ぎない――、併しそれの自然的という性格自身は消滅しなければならないであろう**。なる程吾々はこの世界を無視するのではない、却ってそれを現象の一部分として採用するのではある。けれどもこのような現象の一部分は自然的という今の性格を有つのではなくして正に現象的という性格を有たされなければならないであろう***。それ故この還元は以前にあった性格を他のものに還元することに外ならない。即ちこの還元性は以前にあった処の性格の有つ優越性を否定する処の還元性でなければならない筈である。他の性格の優越性を否定するものは一般にそれ自身又優越性でなければならない。故にこの場合の還元性とは実は一種の優越性なのである。自然的立場に立つ時、ものの有った処の性格は、現象学的方法を通じて、現象の性格によって優越される。処が吾々が已に用意しておいた処の還元性は優越性であることは出来ない筈であった。前の場合に於ては或るAなる性質に還元されることによってBなる性格が失われる憂いはなかった。然るに今の場合に於ては、現象に還元されることは自然の性格を失喪することである。それであるから、現象学に於ける還元性は吾々の所謂還元性ではない、それは優越性である(還元することが何故優越することでなければならないか。併しそれであればこそ現象学的方法であるのではないか。方法としての還元は、その方法の優越が主張される限り、単なる還元ではなくして還元による優越を意味せずにはいられない、それは当然であるであろう。それ故この還元によって――即ちこの方法によって――かの除外されるべき性格によって提出の動機を与えられる処の一群の問いは、除外される、その問いという働きを停止されるであろう)。さて還元が優越であれば優越されるべき以前の性格を優越する筈の新しい性格が必要となる(之によって、以前の性格によって提出される理由のなかったような一群の新しい問いが提出されるということも生じて来るであろう)。還元とは以前の性格の失喪であり、新しい性格の導入であることを記憶する必要がある。
* Husserl, Ideen zu einer reinen Ph
nomenologie und ph
nomenologischen Philosophie, S. 113 及び S. 59 参照。
nomenologie und ph
nomenologischen Philosophie, S. 113 及び S. 59 参照。** ソフィストの如くこの世界を否定するのでもなく、又懐疑家のようにこの世界の存在を疑うのでもない、ただ空間的・時間的存在に就いての一切の判断が全く閉されるのである、という(同上 S. 56 参照)。処が世界に於て何かが存在するかしないかという判断こそ、自然的なるこの世界の性格の云い表わしなのである。
*** 同上 S. 187 参照。
けれども還元を一概に論じることは許されない。還元は除外であったが、除外されるものが何であるかをもう少し立ち入って査べて見よう。それは「空間的・時間的実在」である。「吾々にとってそこに在るもの」、「目の前にあるもの」、一言にして云うならば「Da 性格[#「Da 性格」に傍点]」を有するものと考えられる。還元とはこのような実在が除外されることを意味した*。併しながら実在(Wirklichkeit)とは何を指しているのであるか、と吾々は問わねばならない。それは事実(Tatsache)であるのか、或いはそうではなくして、存在(Dasein)であるのか。或いは又両者の総和であるのか。何となれば一般的なる原理に対する個別的なる経験が事実であり、之とは異って、無いものに対する在ることが存在であるのであって、仮に両者が常に結び付いているにしても、両者は全く動機を異にした二つの概念であるからである。もしこの区別を承認するならば、一方の除外は必ずしも他方の除外を伴うことを保証しない。処でこの区別をフッセルルがどう与えているかを吾々は知ることが出来ないように思われる。実在と呼び存在と名づけているものも結局事実を指すに外ならぬように見える**。それ故実在の除外は個別的な事実の除外を意味し、この還元によって得られるものは本質である――形相的還元。還元は新しい性格を導き入れる筈であったが、この還元によって得られる性格は可能性である。形相的還元に依って可能性の性格は実在の――実は事実の――性格を優越する。けれども吾々はこのような還元にはあまり関心を有たないで済むであろう。というのは、元来空間は到底、今云ったような意味での事実にぞくするのではなくして、已に述べた通り存在にぞくす筈であった***。従って形相的還元――それは事実の除外である――によって空間は何の影響をも受けないのである。空間は或る意味に於て(前を見よ)本質的関係ですらあった。それに吾々の今の問題は意識と空間との関係であった。
* 同上 S. 53 及び S. 54 参照。
** 「根本に於ては、フッセルルは自ら云うように実在を除外したのでは全くない。寧ろ一切の個体的・具体的所与一般を除外したのである。」(W. Ehrlich, Kant und Husserl, S. 149)
*** 事実乃至事実(real=wirkungsf
hig)と存在(Objekt)とを区別したのはマルティである。彼によれば空間は Objekt ではあるが Realit
t ではない(Marty, Raum und Zeit, S. 97 及び S. 148)。
hig)と存在(Objekt)とを区別したのはマルティである。彼によれば空間は Objekt ではあるが Realit
t ではない(Marty, Raum und Zeit, S. 97 及び S. 148)。存在(Dasein)と事実(Tatsache)との結び付きは実在(Wirklichkeit)の概念である。実在はこの二つの契機を有つからして、時にはそれが事実と同じに取り扱われ、又時には存在と同じに見做される場合も出て来るのである。けれども吾々にとっては存在と事実との区別が今の場合是非必要であるということに気付かねばならない(但し今問題となる実在は「空間的・時間的実在」とも呼ばれるべきものに限られる、心理的実在とも云うべきものは論じる限りではない。それ故又事実も存在も云わば空間的・時間的なそれに限られる。――吾々は前から存在を空間的存在に限定していた)。処で事実の除外は必ずしも存在の除外を伴わない。例えば机が在る代りに椅子が在るとする。この場合事実としての机と椅子とは無論別個な事実である。併しこのような個別的事実を除外すれば恐らく物一般が在るということが残るであろう。事実は除外された、併し存在は除外されない。之に反して存在の除外は必然に事実の除外を伴わなければならない。もし在るともないとも云う理由がない――それが存在の除外の結果である――ならば、机が又は椅子が在るとか無いとか云う理由もあり得ないであろう。かくして存在は事実よりも根本的である。それ故実在に於て存在は事実に較べてより根本的な契機をなす。この契機を失う時実在は実在であることが出来なくならねばならぬ。この意味に於て実在は存在であると云う言葉には充分の理由があるであろう。存在は実在そのものではない、併し実在をして始めて可能ならしめる契機がそれである。それではそれはどのような契機であるか。実在の最も著しい特徴はその超越であるであろう。実在は――それが空間的・時間的実在である以上――到底内在ではなくしてその正反対である処の超越であることをその特色とする。何となればこのような超越を有たぬものは明らかに今の場合の実在の名に値いすることは出来ないから。処でこの超越という実在の根本的な契機は恰も存在の概念である。存在とは超越である。そこで現象学はこの超越――吾々によればそれにこそ存在の名が適わしい――を如何しようとするか。
「超越的」なるものは「先験的」なるものに還元されるのである。超越的なるものは個別的でもあり得るし(存在が事実と結び付いている場合)、又本質的でもあり得る(事実が除外された場合)。併し今、形相的還元――それは事実の除外である――によって得られた超越的本質に就いて、その超越性を先験性に還元する場合を考えて見よう*――先験的還元。この還元に於て、超越的なるものはその超越的という性格を失喪しなければならない――中和化。そして之に代るべき新しい性格が現象、即ち意識なのである。なる程この還元によって自然的世界は或る意味に於て少しも変容を受けるのではないであろう、庭前の林檎樹はその存在を否定されたり無視されたりするのではない。併し他の意味に於ては還元前の林檎樹と還元後のそれとは全く別である。というのは還元前に於てはその林檎樹は存在するものとして、その外的存在がそれの性格である処のものとして、存在した。処が還元後に於ては、存在するかしないかは問題にならぬものとして、その外的存在が別にそれの性格ではないものとして、即ち意識現象としての性格のみを有つものとして、それは現象する。尤も吾々はこう云おうと欲するのではない、林檎樹の存在がこの還元に於て意識に依って構成されたことになるとか、又はその存在はただ意識内に於ける存在に過ぎないとか、云おうと欲するのではない。吾々は今そのような意識の構成性を主張しているのではない。併しそれにも拘らず存在は還元に依ってその性格を失って意識としての――現象としての――性格を帯びる、この場合意識はこのような優越性――それは構成性ではない――を有つ。この意味に於て還元前の超越的林檎樹は還元によって内在的となるのである。超越的存在はそのまま内在化せられる。この場合なる程存在者そのものは少しも変容を蒙らない。併し超越的存在そのもの(存在性)はその性格――超越性――を失喪するのである。何となれば超越的存在のテーゼを一瞬たりとも離すことの出来ないものこそ、存在の、超越性の、性格でなければならないのであるから。――現象学に於ける純粋意識は優越性を有つ、それは一つの性格である。この性格が存在の性格を優越すること、それが現象学的還元に外ならない。現象学的還元を施さない時にのみ――それが自然的立場である――、存在の性格は保たれる。存在概念は一つのドクサ(これが常識的概念にどれ程近いかを注意せよ)である。
* フッセルル同上、S. 114 参照。
存在は現象学に於て除外される、存在は存在の性格を失って意識の性格を有つ存在となる、そしてその限りに於てのみ存在は現象学にとって問題となることが出来る。従って又実在は実在する限りに於てではなくして実在という現象として始めて問題となる機会を与えられる。現象学に於ては存在(従って又実在)の性格――存在ではなくして存在の性格――は意識の性格によって優越される(故に茲に於ては存在の性格は始めから問題となる機会を与えられていない)。今まで明らかにしたことはただこの一つの事柄であった。さて空間はかかる存在の性格にぞくす。空間は Tatsache でもなく又 Wirklichkeit それ自身でもない、そうではなくして Dasein が正にそれの性格でなければならない。向に注意したように存在が実在それ自身であるのではない、併し存在は実在の根本的な契機である、そしてその意味に於て存在は又実在である。空間はそれ故この意味に於て又実在であるという言葉も許されるのである。即ち空間は実在ではないにしても、実在性を有たなければならない処のものなのである。或る人々は空間の実在性を信じないかも知れない、けれども恐らくその人々は実在性の下の事実を理解しているのであろう。吾々の空間は無論事実ではないと云う意味に於ては実在的ではない。又或る人々は空間の実在性を吾々の欲する以上の程度に主張するかも知れない。恐らくそのような人々に向っても亦吾々は存在乃至実在と事実との今の区別を示せば充分であるであろう。この意味に於て――そしてただこの意味のみに於て――空間が実在性を有つことは次のことによって最も明らかに見られるであろう。表象されたる空間――空間表象――の問題がそれである。吾々が単に或る存在を表象しただけで、たといそれが実在する存在ではないにせよ、すでに空間概念がそこに横たわるように思われる*。そうすれば空間は明らかに実在的ではなくして非実在的――例えば表象――であると考えられそうである。処が実在しないものに関する空間表象――ケンタウロイ表象――も決して実在的でないのではない。なる程ケンタウロイの形を有った、その事実を備えたものはないであろう。けれども凡そケンタウロイが形を有つと表象することはそれが実在の空間に於て形を取って存在すると表象することしか出来ない筈である。例えば吾々は之をスヴェーデンボリの天国に於て表象するのではない**。ケンタウロイは実在しないが、もし実在するとすれば、このような形をとって存在するであろう。ということがとりも直さずケンタウロイの表象でなければならない。それは事実としては非実在的である、併し存在としては実在的である。かくて空間表象の空間は実在的である。空間が表象されるということ――表象に還元(吾々の意味に於て)されるということ――は空間の実在性(存在)としての性格を覆うものではない。況して空間が表象である――空間の性格は表象という意識である――などと云うことにはならないことを注意して置こう。さてこのようにして空間は存在の性格にぞくす。処が現象学的還元はこの存在の性格を否定した。故に又空間の性格も之によって否定されないわけには行かない。即ち茲に於ては空間の性格は意識の性格によって優越される。かくして空間の性格は存在であって従って意識ではあり得ないことが結果した***。空間を表象として、知覚として又直観として理解することは少しも不都合ではない。ただ併しそれは決して空間の正当なる概念ではない。何となればそれ等のものは空間の性格・優越を理解せしめる代りに空間の任意の一つの特徴に於ける還元性――吾々の意味に於ける――を云い表わすに過ぎないから。
* 例えばエールリヒ、前掲書 S. 103 参照。
** 「天国に於ては一切の物は吾々の世界に於けると全く同じに空間に位置を占める。併し天使等は場処とか空間とかの観念を持たない。……霊界の場処の変化は状態の変化に外ならぬ。何となれば茲では場処の変化は凡ての心の状態の変化によって作用されるのであるから。……かくして接近は心の状態の類似に、遠隔はその相異に外ならないことは明らかである」云々(Swedenborg, Heaven and Hell, §191-3.)。
*** 吾々の概念がそうあったように、もし意識が又は現象が無性格であるならば、問題は全く別になるであろう。
空間の性格は意識ではないから、意識の性格に於て現象を理解する現象学的還元によって、空間は本来の問題として提出される機会を失って了う外はない。無論この場合、空間が全く問題になることが出来ないなどと云うのではない。却って空間はすでに吾々が見たように、殆んどどのような立場・方法に立っても常に何かの形態に於て問題となり得る性質を持っていた。ただ空間概念がその本来の問い方に於て、空間自身の要求する問題提出の仕方に於て、更に云い換えるならば、空間概念の性格に従って、問われる動機を、現象学的方法は不可能ならしめる理由があるのであった。それ故現象学的方法に依って空間を取り扱う時、例えばそれは空間直観として、従って空間概念の性格を不問に付して、研究されることになるであろう。之は恰も O. Becker の貴重なる論文に於て見受けられる処に外ならない*。
* 「それ故吾々は空間性の現象学的諸層を(第二の)個別化原理として性格づけることが出来る。これの諸要素は全部同時に根源的に与えられることが出来、従ってそれは特殊の直観性を有つ。」(O. Becker, Beitr
ge zur ph
nomenologischen Begr
ndung der Geometrie und ihre physikalischen Anwendungen. Jahrbuch 6, S. 77.)因みに彼は次のような空間性の諸層を区別した。
ge zur ph
nomenologischen Begr
ndung der Geometrie und ihre physikalischen Anwendungen. Jahrbuch 6, S. 77.)因みに彼は次のような空間性の諸層を区別した。
┌A. Die pr
spatialen Felder od. Ausbreitungsfelder
│ A1 Sinnesfelder (Seh-, Tast- und Geh
rrichtungsfelder)
┤ A2 Die Organbewegungsfelder
│B. Der orientierte Raum(Hier-Ich)
└C. Der homogene(unbegrenzte)Raum
spatialen Felder od. Ausbreitungsfelder│ A1 Sinnesfelder (Seh-, Tast- und Geh
rrichtungsfelder)┤ A2 Die Organbewegungsfelder
│B. Der orientierte Raum(Hier-Ich)
└C. Der homogene(unbegrenzte)Raum
吾々が空間概念の性格に就いて今まで分析し得た処を繰り返せば、こうである。空間の性格は第一に判断乃至妥当の性格ではない、第二にそれは対象論的可能性の性格でもない、第三にそれは意識の性格でもあり得ない。従って空間概念は、この三つの場合に従って、論理学的、対象論的、現象学的に取り扱われることによって、その性格を見失って了わなければならない。空間の性格は存在(Dasein)である。今の三つの立場に立つ夫々の空間概念は何れも専門的空間概念に外ならない。吾々の求める空間概念は常識的空間概念であった。存在としての空間はかかる常識的概念に外ならない。もしこの常識的空間概念を正当に――その性格(存在)に従って――取り扱おうとするならば、それ故、独特の取り扱い方が必要であるであろう。このような取り扱い方を吾々は存在論と呼ぶことが出来る。何となれば、茲に必要であるのは存在の性格を取り扱い得る取り扱い方であるのであるから。
空間概念の性格――存在としての性格(Dacharakter)――を最もよく云い表わす言葉は世界である。空間概念はその性格の上から世界概念にぞくすと云うことが出来る。之を世界性として理解する時、例えば之を表象と考えたり又は論理的範疇として片づけたり又は単なる形相と云い放ったりすることが、如何に見当を逸したことであったかを吾々は最も直接に覚ることが出来るであろう。吾々がその内に住み、それと交渉し、それと共にあるもの、そのようなものを吾々は世界として理解する。かかる世界の概念の一つが即ち空間なのである。それ故始めて吾々はそのような空間概念に基いて日常生活を営むことが出来るのでなければならない。空間は或る一定の専門的な問題に於て始めて成立する概念ではなくして、世界がそうあると同じく、常に不断に与えられている概念に過ぎない。ただそれであるからこそ却って、吾々がそれを把握するには一つの発見が必要であるに外ならない。空間はこのようにして常識的概念である。それ故又それは一つの根本概念と云うことが出来るであろう。空間が多くの立場に於て問題となることの出来る所以はそれがこのような根本概念であることを証拠立てている。
併し茲に注意しなければならないのは、吾々の所謂存在は常に云わば空間的存在に限られていることである。それに従って吾々の所謂世界も亦常に云わば空間的世界――自然的世界に限られる。何故そのような制限が必要であったかと云えば、吾々の問題は空間であって、存在又は世界それ自身ではなかったからである。存在又は世界が語られるのはただそれが空間の問題に必要であったからに外ならない。決して存在又は世界が語られるために空間が問題となったのではない。吾々――空間概念の分析を仕事とする吾々――にとっては、存在乃至世界そのものの問題は per accidens な問いでなければならない。であるからもし一般的に存在概念を分析しそれに付随して空間概念が取り扱われる場合があったとすれば、その結果と吾々の分析とが必ず一致し得るという保証はないであろう。そしてもしその存在なるものが、物質的――空間的存在はかく呼ばれてよい理由がある――と形容し得るものではなくして、正にその反対なものとして理解される時、空間概念の解釈は必然に吾々の夫と異って来なければならない。元来空間の性格であると考えられた世界――自然的世界――は、このような場合の自然の概念がそうであるように、物質的として理解されるべき要求を有つ。物質的という言葉が不明瞭であるならばこう云い改めることが出来る、空間的世界は客観として理解されるべき性格を持つと。尤も主観と客観という二つの面を対立せしめて、空間的世界がこの客観にぞくすというのでは決してない。吾々は元来空間の問題に於て――それは存在論的である――そのような主客の対立を許すことをしない。ただ、このような二面の対立を云い表わす概念としてではなく、独立な規定として、しかもそれも物質的という言葉を注解する目的の下に、客観という言葉を用いることを許されるならば(そしてそれは主観の反対である)、そのような客観であることを吾々の空間・存在・世界の概念は要求するのである。そこでもし存在がかかる客観ではなくして正にその反対である処の主観として理解されるならば、そのような解釈は吾々の空間概念と分析と一致することは出来ないであろう(客観としての存在は云わば物体的存在である、之に対して主観としての存在は云わば人間的存在である。両者の対立は所謂主客の対立ではない)。そしてこのような場合を吾々はハイデッガーの空間理論に於て見出す*(この立場に於て始めて空間は空間性を用いて説明されることも出来る。之に反して吾々にとっては空間は空間性から訣別しなければならなかった。――前を見よ)。
* 「空間が主観の内にあるのでもなく、又主観が世界を空間の内にあるかのように見做すのでもない。そうではなくして、存在論的に好く理解されたる主観、即ち存在、が空間的なのである。」(Heidegger, Sein und Zeit, S. 111)
最後に二つの課題が残る。第一、このようにして得られた常識的空間概念を基礎概念として、上層概念である処の専門的空間諸概念の分析――解釈を行なうこと。第二、空間概念を之と離すことの出来ないような他の根本概念――例えば物質、自然など――との交渉に於て分析すること。この二つを吾々は他の機会に譲らなければならない。
(一九二八・四・一)