私のお話致しますのは、「近畿地方に於ける神社」と申します。近畿地方は殊に神社の大變多い處でありまして、最も古社の多い處であります。それらに就て悉く話すことは到底出來ることではありませぬ。又私は一體神社のことを深く研究した譯でも何でもありませぬが、幾らか趣味を持つたのは大分古いことで、大日本史神祇志が出版になりました頃之を讀みまして、其の中に神社に關する色々の考證が時々出て居りましたのに大變興味を感じたことがあります。其の後それに類似したもの、即ち矢張り大日本史神祇志を書かれた栗田博士が色々研究されたもの、其の他のものなどを見まして、神社の研究に幾らか興味を有つた。併し私の專門に屬することでないから、大分前にさう云ふことを考へたゞけであつて、其の後一向研究は進歩して居りませぬ。唯其の頃考へたことを一二拾つてお話をする位のことであります。
近頃神社といふことが大分世間で問題になるやうになりまして、御承知でありますか知りませぬが、政府筋でもそれに關して商賣に拔目が無く、鐵道院では「かみ詣で」といふ小さい本を作つて居られる。是も貰つたから見たので、強ひて買つて見ようといふほどの考も無かつた。見ると、是は鐵道院でも半分は商賣に致したことでありませうから、學問上から色々苦情を言つても仕方がないが、殊に其の見方は言はゞ遊覽の材料に書いたやうなものでありまして、實は神社を有難く感ずる爲に書いたのか、遊び歩く序でに少し見たら宜からうといふので書いたのか判らない位であります。之を見ますと如何にも信仰のあるやうな口繪などが付いて居りますけれども、中は矢張り何處が特別保護建築物であるとか、景色も佳いとか、惡いとかいふやうなことが重に書いてあります。まア半分は遊覽の爲めである。尤も遊覽から信仰が起つたら猶更結構でありますが、兎に角さういふ風で大分神社等に注意するやうになりました。それと共に「神社と思想問題」などが屡々現はれかゝるのであります。私は思想問題の方へ觸れることは、神社の事に就て言ふよりも遙かに不得手でありますから、矢張り單に自分のやる歴史上から考へて見たいのであります。それ故私の方から言ふと神社は有難くならぬ方が多いかも知れませぬ。併し兎に角色々昔の人の研究したことに就て自分の考へたことを少しばかり話してみようと思ふのであります。
古い事を考へますと、近畿地方は神社のことだけではなく、歴史上非常に年數が永い。同じ日本としましても、近畿地方と私が生れました東北地方などゝは歴史上の年代に餘程差があります。日本の開闢は何千年か知りませぬ。普通二千五百年と言つて居る。併し私共の生れた東北地方の歴史らしい歴史の始まりは、非常に古くても八九百年位であります。それも眞に我々の地方の名が歴史に出て居るか居らぬかといふ位のものであります。多少歴史の上に分るやうになつたのは、殆ど南北朝以後のことであります。それでありますから近畿地方とは二倍も三倍も年數が違ふのであります。それだけ又近畿地方は同じ地方のことが歴史上重なつて居ります。史蹟と申しましても非常に厄介でありまして、同一の地に幾つもの事が重なつて居る。それで神社なども自然さういふ風になつて居ります。けれどもそれが又近畿地方の神社を研究するに就て最も興味の多い所であらうと思ふ。
それに就てつい此の附近の事に關して偶然色々思ひ付た事があります。今京都の附近で立派な神社と申しますと、先づ加茂であります。併し加茂の神社の存在して居る地方に於て、昔から加茂の神社があの通りの大きさ、あの通りの盛んさであつたかどうかと考へますと、餘程それは疑問なのでありまして、加茂の縁起などを見ますと、あの川の處が昔から清らかであつて、加茂の神樣の娘さんが洗濯して居つたか、遊んで居つたか、其の時に、丹塗の矢が流れて來て、それに感じて子を産んだとか、其の子が屋根を破つて飛んで行つて松尾神社になつたとか、色々面白い話があつて、初めからあの近邊が加茂の神社で以て占領して居つたやうに考へられますが、能く調べて見ますと必ずしもさうではなさゝうであります。下加茂の境内といつて宜しい所に小さい柊神社といふものがあります。それは延喜式の神名帳などで見ますと「出雲
る。或は在來の神社を八幡樣に變へた。平家は時代は大して長くありませぬから辨財天に化する事は餘り致しませぬけれども、源氏は其處らぢうに蔓りましたから皆他の神社を八幡樣に化して了つた。それから後の事は段々鎌倉に訴訟が起りまして、文書といふものが出來ました。文書といふものゝ多數は何時でも寺と武家の訴訟から出來まして、それが鎌倉頃から始まつて居るから、我邦の文書の多數は鎌倉頃から始まつて居ります。詰り寺と武家の喧嘩になりまして、其の頃から文書がありますから、寺領が武家に占領された時のことは明に分ります、又其の前のことは神社を占領した寺の記録も相當にありますから分りますが、神社が神社を占領した、詰り一つの氏が盛になつて居る處に、後の氏が侵略して行つた爲に、自分の氏神を持つて行つて前の氏神に代へるといふ侵略の時代は文書がありませぬ。殆ど歴史がありませぬ。今日になつては神社の存在に依つて幾らかそれが分る。加茂の隅の方に柊神社があつてそれが昔の地主の神社であつたとか、叡山にある小日枝が矢張り昔比叡の氏人が持つて居つたのを、それを寺が侵略したのであるといふことが分るやうなことであります。詰り神社研究といふことは、私は餘り國學をやりませぬから專門外でありますが、歴史の方から申しますと記録のない時代の變遷を説明するといふことになります。其の點は餘程役に立ちます。それで例へば口碑の研究をするとか、神社の分布、神社の來歴、さういふことを研究することは餘程上古の歴史を知る上に於て役に立つと思ひます。又日本のやうな神代からの神社が今日まで遺つて居つて、假令それが段々變つて大きなものが小さくなり、小さいものが大きくなつたとしても、兎に角それを亡ぼさない習慣がありまして、そしてそれが今日まで存在して居るのでありますから、言はゞ人間の歴史を以て開け始まるまでの古代の樣子が判ります。私共がやります支那の歴史などに於きましては、遺蹟が日本のやうに、古いもの新しいものとも揃つて存在して居るといふことが希れであり、歴史上に於ても記録は澤山ある國でありますけれども、上古の記録には確かなものがありませぬ。それでありますから殆ど古代の状態は分らなくなつて居りますが、日本は幸にして記録の時代は若いにしても、神社といふものがあつて、神社に依つて其の記録のない時代の補ひを付けることが出來ますから、非常に國史を研究する上に於て便利であります。それを幾らかやり方を間違へると飛んだ間違つたやり方をしますものですから、其の研究は餘程微細な注意を致さなければならぬのでありますが、兎に角其の研究の方法さへ誤りがなかつたならば、古代のことは神社に於て餘程明らかになる。殊に近畿地方は昔から記録の無い時から非常に早く開け始めた地方でありますから、近畿地方に於ける神社の状態は二重にも三重にもなつて居りますから、近畿地方の神社を研究しますと日本の最も古い所が隨分分らうと思ひます。それが神社研究といふことの大體緒論みたやうなものであります。前に申しました如く私が神社のことに就て少しばかり本を讀んだ時に、神社を深く研究する積りでありませぬから文書を研究するとかいふ根本的の研究をしたのではありませぬ。人が研究したのを極く粗雜に讀んで見た位のことでありますが、人の研究したものを見た所の結果に依つて多少生じた疑問と申しますか、別に私は專門家ではありませぬから、そんなことを決着する必要はありませぬから決着して居りませぬが、色々それに就て偶然思ひ付いたことを述べて見たいと思ふのであります。
其の一つは外國から來た神のことであります。これは前から研究した人があります。伴信友の蕃神考、是は京都の平野神社の研究、即ち是は今日では國書刊行會などで版になつて居りますから御覽になつた方もありませうが、之に就て思ひ付いたことがあります。
所が私は能く申しますが、國學、例へば神社の研究にしても、古代の研究にしても、國學といふものは明治以前の方が大分發達して居ります。明治以後は頓と發達しませぬ。神社のことでも明治以前の方が大分微に入つて研究しました。其の後明治以後になつては頓とさういふ方の人が餘り研究をしませぬので、どうかすると進歩しないのみならず、色々書いたことが皆後戻りをして居る。平野神社なども同樣でありまして、平野神社の伴信友の研究といふものは餘程良い頭で研究したものであります。非常に感服すべき所のものであります。今日平野神社で其の祭神が如何なるものかといふことに就て考へて居ることは信友の考へたよりも遙かに退歩して居るではないかと思ふ。平野神社に就て研究したのではありませぬが古事類苑といふ大きな本があります。あれに官國幣社のことを書いてありますが、あれで見ますと平野神社に就て伴信友の研究したやうなことは、丸で書いてありませぬ。信友の研究した中で詰らない所の一部分五六行のものが載せてありますが、眼目とした事は殆ど何も述べてない。矢張り昔からの詰らない傳説を土臺として、何だか分らないやうになつて居ります。別にそれで差支があるといふ譯ではありませぬが、平野神社といふものは途中から色々變りまして、後になつて皇室が繁昌されなくなつた時代に大分衰へた。兎に角中古は神社といふものは保護者が無くなつたら往々自分の自營策を講じた。伊勢の大神宮でも其の時分に皇室の保護が無くなり、氏族の神社でも氏子が繁昌しなくなると自營策を講じた。其の爲に色々のことをやる。神社の自營策の結果として氏子を取込むことを考へる。平野の神社も八姓の神樣の合祀と言はれて、源氏もあれば平家もあり、何もかも皆取込んで、大凡京都に居る名族の人達は皆平野神社に詣らなければならぬやうに仕組んである。さういふことは自營策としてなか/\巧く考へたもので、さういふことを中古に神社はやりました。それで其の頃出來た八姓の神といふ説でありますが、今日ではどの位の程度で平野神社といふものを考へて居るかと申しますと、斯ういふ鐵道院の方で書いた本に出て居ることも好い加減のものであります。それで折角伴信友といふやうな學者が非常な苦心をして研究したのが何の役にも立たない。學問の權威を無視すること夥しいものである。
それでは伴信友はどういふ風に研究したかと申しますと、平野神社といふものは今木神、久度神、古開神、比
神、斯う四つの神樣となつて居ります。鐵道院の神詣でには何の神樣か分らないといふことになつて居ります。伴信友の説では是は一體平野神社といふものは桓武天皇樣が平安京を開かれた時に此の平安京へ持つて來られたものであるとしてある。桓武天皇の母方の家といふものは、百濟の王の末孫であります。百濟の聖明王は日本へ佛教を欽明朝の時に送つて寄越した王であります。此の王の末孫であります。それで此の今木神等は百濟の王家の神樣と考へられたのであります。此の今木神といふのは即ち聖明王だと考へた、久度神、古開神といふのは何だか分らない、兎に角久度神社といふものは大和の龍田の附近にあつたので一緒に來た。古開神といふのは矢張り外國から來た家柄ではありませぬけれども、桓武天皇樣の母、皇太后の又母方の家の神樣だ、比
神といふのは母方の神樣だと斯うしました。多分久度神といふのは、今の竈のことを私の國などでも「くど」と申して居りますが、竈の神であつて同時に大和の國で桓武天皇の皇太后の母方の家の方で祀つて居つた竈の神があつて、それを勸請して來たとある。斯ういふ考へである。兎に角其の中、今木神といふのは聖明王に違ひないと考へた。是は餘程面白いことでありますけれども、それは誰方でも國書刊行會の伴信友全書を御覽になりますれば分りますから、私がくはしく述べる必要はありませぬ。併し伴信友の考證に幾らか不滿足なことがありますので、それに餘計なことを付加へて見たいと思ふ。それは今木神といふのは大和の地名だと考へた。久度といふのも方々にありますから矢張り地名と稱してあるのであります。併し大和邊りで
それから久度でありますが、是は信友も朝鮮の書物を讀みましたけれども、到頭それに氣が付かなかつたと見えます。私の考へでは聖明王の先祖を祀つたのだと思ひます。それは百濟の國の開闢に就て餘程有力な王があります。朝鮮の歴史の中で尤も古い三國史記では百濟の國の先祖と言はれて居るのは温祚王といふことになつて居ります。其の數代後を肖古王といふ、それから其の次を仇首王。それで此の肖古、仇首といふ二代の時に百濟の國が大變大きくなりまして、其後此の王の頭に近の字を冠せた近肖古王、近仇首王といふ人がありまして、其の時に又非常に盛になりました。兎に角肖古王、仇首王といふ時は百濟の國が大變に發展した時代であります。所で此の仇首王といふ人は三國史記にも或は貴須といふとありまして、日本の姓氏録でも、「貴首王」と書いてあります。或は「陰太
が付いて仇道となつたのもあります。それから百濟の國のことを支那の方で書きました後周書、隋書、北史などに依りますと、百濟の國の起り初めを温祚でなくして、仇台といふ人が百濟の國を起したのである。元來百濟といふものは高句麗と同じ先祖で夫餘から分れたのでありますが、其の分れた時に仇台といふ人が分れた。是が百濟の國を起したといふことになつて居ります。又もう一つ遡りますと高句麗といふものは夫餘國と同じ種族であるとなつて居りますが、夫餘國の主な王の名前に尉仇台といふものがあります。「尉」といふのは人の名前ではありませぬ。支那で漢の時代の地方行政區劃は郡と國で、郡の頭は太守でありますが、太守の領分を二つか三つに分けて都尉といふものが之を支配し、又縣には尉がありました。尉仇台といふのは都尉又は縣尉の仇台といふ意味でありまして、其の時代に支那に境を接した夷狄の土着民は都尉や縣尉といふものを大變に偉いものだと思つて居りましたから、尉といふ語を自分の頭に冠るのが皆大變偉いことゝ思つた。日本でも左衞門尉とか右衞門尉とか左兵衞尉、右兵衞尉といふやうなものは朝廷では極く低い官ではありますが、それが鎌倉時代頃に田舎へ行くと豪族などは偉いものだと思つて、何兵衞尉と名のることを大變名譽であると思つたと同じことであります。尉の字を冠るのが名譽として居つたので、それを名前の上に付けたので、名前は仇台であります。三國史記には又優台ともしてありますが、是は尉仇台のつまつた音だと思ひます。兎に角仇台といふ者が夫餘並に百濟で國を起したといふことが昔からあるのであります。其の名前の人は後になつても偉い王が出て來ると屡々現はれて來ます。詰り仇首も仇道も同じ音であつたので、「くど」の音であつたと思ひます。又仇台が「くど」と讀まれるのは、「台」の字は日本紀などには「と」と讀んであります。それで仇台も「くど」仇首も仇道も「くど」で其の音がどうかした關係から、貴首又は貴須とも響くのでありますが、要するに「くど」といふ音の變化だと思ひます。それで今日朝鮮の方に遣つて居る歴史に據ると、温祚が元祖、貴須王が中頃の王でえらく仕事をしたといふに過ぎませぬけれども、支那の歴史上の話では次に古開といふものは伴信友も持て餘して居る。私も少々持て餘す神であります。是が古開かどうかといふことさへ疑問であります。伴信友の説では「開」の字だか「關」の字だか分らない。假名の付たものに「ふるあき」といふのがあつたからさうしたので、何か分らないといふことになつて居ります。それで私も色々な異説を出して見ようと思ふ。「古關」の方で考へて見ようと思ふのであります。神樣を玩弄にするやうで相濟みませぬけれども、ともかく考へて見たいと思ひます。それは古と關とは之を一つにしても、或は二つにしても差支がない。二人の人を一人に、一人の人を二人に分けたやうなことが外にもあります。日本の姓氏録にある貴須王といふ王さんでも陰太貴須王となつて、陰太の方を考へて見ると温祚の方に當る譯でありますので、朝鮮の歴史では温祚と貴須と別々になつて居りますが、姓氏録では一緒になつて居ります。古關も強ひて之を一つに考へなくても宜いと思ふ。二つに分けて考へて見ようといふことになります。
「古」といふのは私が能く申しますが、朝鮮の上古の傳説では自分の國の元祖を「
貴さういふことにして今の平野神社を片付けたいと思ひます。比
神といふのは色々ひねくりますけれども、何れの古社でも祭神二三座の外に、多く姫神といふものがある。神を祀るには日本でも支那でも同じことで皆女が祀ることになつて居ります。後になつてから矢張り其女は祭神として必らず祀られることになる。それが比
神であつて信友のやうに色々の説を付ける必要はないので、主なものは三體であつて、それが皆朝鮮の神だ、斯ういふことに仕末をしたいと思ふ。まア斯うすると信友より一段進めた積りでありますが、平野神社の神主さん達の考へて居るのよりも距離が遠くなつて、益々分り惡くなりますけれども、今の神主さん等ももう少し、少なくとも信友時代まで進歩して貰ひたいと思ふ。あの位の人より遙かに後戻りをするやうでは心細い。それで、一つこじ付けをやつて見たのであります。もう一つ近畿地方にある神社で「兵主神社」といふものがあります。是は隨分昔から難物で皆持餘して居つたものであります。此の一番主なるものは大和國の城上郡にあります。城上郡に穴師坐兵主神社といふのと、も一つ穴師大兵主神社といふのがあります。これが一番主なものであらうと思ひます。其の外方々にあるといふことでありまして、信友の延喜式の神名帳の考證に據りますと、大分是が其處らぢうにある、近江國の野洲郡、同國伊香郡の兵主神社、播磨國の飾磨郡の射立兵主神社、「いだて」が付くことがあります。射立兵主神社といふものが播磨の廣峰といふ所にあつてそれが勸請されて來たのが京都の祇園社だといつて居ります。「いだて」といふのは色々の字に書いて例へば射楯とも、「伊太
」とも書きます。是は極く普通の説では大國主命である、又は
といふ所でありますが、其處で祀つて居ります。臨
に天齊淵といふものがあつて、それを祀つて居る。天齊といふ齊の時は臍といふ字と同じ、天の臍といふことで、天の眞ん中と考えたのである。一體齊の方の傳説では、齊の國は臍だ、支那の眞ん中で、天の臍のある所にあるから齊の國だといふことになつて居りまして、齊の國の都に天の臍があると考へた。泉が幾つか涌いて居つて、それを天齊の泉といつて居る。さういふ風で地方に依つて色々に祀つて居る。で此の兵主神は其の中でも一番山東の西の方で祀つて居るのであります。今日でも山東人といふものは山東の内地から滿洲何處へでも喜んで移民する所の者であります。移民が滿洲地方へ參ります、又外國へも行く。それで古代の山東人が朝鮮半島を經て日本へ來たなども山東の内地から來たのではあるまいか、さういふものが段々日本へ來て秦氏になつた。それ故に齊の國で八神を祀つて居るのであるから其神を持つて來たのではあるまいか。日本の姓氏録を見ますと何氏々々の末孫と書いてありますが、支那では其の時分では氏族の勢力が衰へまして、漢の高祖のやうに平民から天子になつた人もありますから大分衰へて居るのでありますが、日本では非常に氏を尊んで居りましたので、何か氏此の二つは外國から來た神樣のことでありますが、もう一つ近畿地方に多數ある神樣で、日本の大變偉い神樣に關係のあることでありまして、今まで餘り人が問題にして居りませぬですから、私には判斷をすることは難しいのでありますが、唯さういふ問題を一つ提供して見たいと思ひます。
日本で一番崇高の神樣と申しますと天照大神であります。是は延喜式には單に伊勢國度會郡の處に大神宮としてあつて天照とも何とも書いてありませぬ。ところで「天照」といふ二字を冠つた神社が割合に近畿地方に多數ある。それが大神宮と果して關係のあるものか無いものかといふことを、人が是まで考へたことがあるかどうかといふことが第一疑問であります。山城の國から申しますと、つい近い處に木島坐天照御魂神社即ち木島明神といふのがある。此の神樣はなか/\粹な神樣でありまして、日本に遊仙窟と稱する、今日出版したら風俗壞亂で禁止されるやうな支那から早く渡りました有名な本がありますが、嵯峨天皇の時かに其の本が來たが、どう訓點を付けて宜いか讀めなかつた時に、此の木島明神が老人になつて顯はれて其の讀方を伊時といふ學士に教へた。それで遊仙窟の訓點が出來たのだといふ傳説がある位でありまして、なか/\隅に置けない神樣であります。それから大和國には類似の神が二つもあります。城上郡に他田坐天照御魂神社といふのがあります。それから城下郡に鏡作坐天照御魂神社といふのがある。それから河内國の今は何處になりますか昔の高安郡に天照大神高座神社と稱するものがあります。それから攝津の國の島下郡に新屋坐天照御魂神社、それから丹波の國天田郡に天照玉命神社といふものがあります。それから播磨國の揖保郡に揖保坐天照神社、斯ういふのがあります。大體是だけであります。まだ併し類似のが他所にも天照神社といふのがありますが、まあ是だけで話して見ようと思ひます。是は一體どういふ神樣を祀つて居るかといふことは分らないのでありまして、一方を片付けようとすると一方に差支が出來る。それが又天照大神と全く關係があるのか無いのか餘程分り惡い神樣であります。皆是が能く分ると色々又古代史の説明に多少何か理窟が付けられるかも知れぬと思ふのでありますが、私にはそこまで到りかねます。たゞさういふものに注意することが出來ることだけを申して置きたいと思ひます。栗田博士の神祇志料、神祇志を書く前に之を書かれて、其の上で研究されて神祇志を書かれたのでありますが、栗田博士は之を割合に簡便に片付けて居ります。それは此の中で河内の高安郡の天照大神高座神社だけは天照大神高御産巣日命を祭るとしてありますが、其の外は皆天火明命を祀つて居るのだと片付けてしまつた。舊事本記に據りますと火明命の名は天照國照天火明命とあるので、總て之で片付けてしまつた。そして總て此の近畿地方に昔榮えて居つた氏の中の最も大きな氏は尾張氏であります。尾張國には天照御魂神社といふものはありませぬけれども眞墨田神社といふものは矢張り天火明命を祀つたのである。近畿地方の此の神社は皆尾張氏或は尾張氏と同じ系統の家の祖神であると決めてしまひました。栗田博士には色々發明の説があります。たとへば舊事記に尾張氏と物部氏の元祖の系圖のことが出て居りまして、古代のことを研究するに有益なものでありますが、それが色々混雜して居るといふことを栗田博士は考へられて、尾張氏と物部氏の系圖を引分けました。それが良いか惡いか疑問でありますが、巧く本の中で分けた。尾張氏といふのは天火明命の末孫、物部氏は饒速日命の末孫とした。舊事記の方はそれが一つになつてしまつて、尾張氏も物部氏も同じ神から出たことになつて居るのを、栗田さんは巧く分けて、天火明命の末孫は尾張氏、饒速日命の末孫は物部氏と分けた、非常な手際であります。上古史は手際さへよくやれば大抵の事は片付く、手際よくやつた者は大抵勝つに決つて居る。そこで此天照御魂も手際よくやらうと思ふのでありますが、私の學問では出來ませぬ。餘り手際よく行きますと却つてそこらぢう差合が出來ます。それで片つ端から一とわたり當つて見ますと、木島明神、是は何も大したことはありませぬ。是は從來の説では唯天日神命で高産靈の子であるといふことになつて居ります。栗田さんは天照御魂といふものを、全體今の天火明命と決めようといふことで此の説を採らずに火明命と決めたらしいのであります。併し又土地の傳説に依りますと矢張り是は天照大神を祀つたのだというて居る人もあるやうであります。それから其の次の大和の城上郡の他田坐天照御魂神、是は伴信友は志貴連の祖神天照饒速日命だとして居ります。其の次の鏡作坐天照御魂神社といふのが昔からの説では天火明命だといふ説があります。そして又饒速日命の末孫が鏡作氏になつて居るので、そこは栗田さんの説と違つて來まして、鏡作といふものが饒速日の末孫であるとすれば、それは栗田さんのやうに尾張氏と物部氏とをはつきり分けた説が少し怪しくなつて來ます。兎に角鏡作が之を祀つて居つたことがあるといふことになつて居ります。攝津國島下郡の新屋坐天照御魂神社は栗田さんの説では天火明命に決めてしまつた。けれども是は三座に神樣がなつて居りまして、其の中の一座だけは土地の昔からの傳へでは天照大神としてあります。是は其の土地の傳説では神功皇后が三韓征伐で歸られた時に天照大神の御靈を祀つたのだといふ説になつて居りまして、詰りはつきり分らないのであります。それから丹波の天田郡にありますのは是は栗田さんの説が餘程たしかな所がありますので、元來丹波の國造といふものは尾張氏と同じ家から出て、皆天火明命の末孫だといふことになつて居ります。尤も丹波氏といふものは二通りありまして、外國から來た丹波氏といふものは後漢の靈帝の末孫と言はれて居るのでありますけれども、是は丹波の國造の所にあるのでありますから、之を外國へ持つて行くやうな心配はないと思ひます。兎に角是だけは天火明命といふのが餘程根據のあることになるのであります。播磨の國の揖保になりますと最も厄介なのであります。揖保坐天照御魂社といふのは其の土地では伊勢の宮と稱して居りまして、又伊勢村といふ所にある。伊勢の大神宮に關係があるのぢやないかといふことを考へますと、又一方にそれと反對のことも出て來る。それは三代實録に據りますと、此處に伊福部氏が居つた。揖保郡人伊福某と出て居ります。伊福部は又之を五百木部とも書きます。此の伊福部といふのは火明命の末孫である。其處の氏人が其の火明命を祀つたといつて宜しい。又現に地名などを見ますと伊勢村といふ所にあつて、伊勢の宮に關係があると考へることも出來る。兎に角斯ういふ大變煩はしいものが畿内並に其の附近地方の周圍に幾つかありまして、大和の國には二つありますが、主な國々に一つ位殆ど天照といふ字を冠つた神社があります。一方から云ふとそれが伊勢の皇太神宮に關係があるやうにもあり、一方から云ふと關係がなくて火明命に關係があるやうにもある。丹波の國のなんぞは是は天照大神を方々の國を擔いで歩いた時に、倭姫命などが其處へ持つて來たので其處に天照大神があるのだといふ風のことを言つて居る。兎に角近畿地方にある天照といふ字を冠つた神社といふものはさういふやうな疑問の下に置かれて居りまして、果してそれが伊勢の皇太神宮に關係があるか尾張氏の先祖の天火明命を祀つたものであるか判斷がつかぬ。此の研究をしますと詰り尾張氏並に物部氏といふものが神武天皇が大和の國に入られる前に此の地方で非常に盛であつた氏でありますから、其の氏の確かな研究が少し出來かゝつて來たら、其の氏といふものゝ當時のことが餘程分ると思ふ。それから又皇太神宮との關係ももう少しはつきりしたならば、此の土地へ神武天皇が入つて來られてから今の皇室が大きく發展して、そして此の地方を完全に統御するまでの其の來歴が各神社の状態に依つて分るのであらうと思ひます。それで大に研究すべきものだと思ひますが、私は無論それ等の材料を有ちませぬし、是から國史をやつて材料を集めて研究しようといふ程の考もありませぬ。唯之を研究しないといふと近頃のやうに唯神樣を拜めといふことを無暗に言つても實際此の土地が皇太神宮の威徳に服するまでの由來が分らないと思ふ。さういふことを少し國學をやる人、神職などの人が研究して見たら宜からうと思ふので、此の問題を茲に提供したのであります。是は私は必ずしも今日結論を有つて居りませぬから、たゞ問題を提供するまでに止めます。斯ういふやうな色々な疑問は神祇志、又は神祇志料、其他の本を讀んだりなんぞした時に、まだ/\澤山有つたことがありますので、其の中に近畿に關係あるものゝ又一部分を茲に御話して見たゞけのことであります。
(大正八年八月史學地理學同攻會講演)