作品について: |
原題は「あるテーマの変形」。椿姫のヴァリエーションであるから、訳名はあっさりと「椿姫」とした。ラティガンがマーガレット・レイトンのために書き、レイトンに捧げられ、またレイトンが演じた作品。原稿を書き終わるとすぐ、ボーマンとギルグッドに送った。ボーモンは興行を引き受け、ギルグッドも演出をしてみたいと言ってきた。ギルグッドの30年越しの約束がここで果たされることになった。「ウィンズロウ・ボーイ」の弁護士サー・ロバート・モートンはギルグッドのために書かれたのだったが断られ、(ギルグッドは「役不足(he thought the part too small)」だと思った。5年後に、その役の重要性を認めた。(rather underestimated the quality of Terry s work)それ以後もすれ違いが続いた。また25年前にもギルグッドは「私は新しい芝居にはひどく臆病になっている。(I ve got to be so careful about new plays)」と言っている。それなのに引き受けてくれたのだ。ラティガンは興奮した。またラティガンにとっても、「銘々のテーブル」以来、3年半ぶりの舞台だったのだ。1958年3月初めに、ロード・チェンバレンの検閲を受けた。「ラティガンの最高傑作である。これは本当の褒め言葉である。(Rattigan s best play, which is high praise indeed)」と評された。ラティガンは、検閲により指摘された部分、「F. U. Jack」の台詞を削り、Lady Huntley を Lady Hunterscombe に直すことに同意した。女主人公ローズは上記のようにすぐ決まったが、ローズと同じバーミンガム出のバレーダンサー、ロン・ヴェイルを誰にやらせるか、が問題だった。レイトンの夫、ローレンス・ハーヴェイに打診したところ、あっさりと断られた。曲折の末、若い役者トム・スィーリイが選ばれた。1958年3月31日マンチェスターでの地方巡業は大成功だった。その後、グラスゴー、ブライトン、ストゥリーサム、ゴールダーズ・グリーンでも好評だった。しかしラティガンとギルグッドはスィーリイに不安を抱き始めた。若く、あまりにハンサム過ぎるのだ。ある地方紙は書いた「中年女とツバメの話(cradde snatching)」と。二人は青くなった。代えなければ駄目だ。ジェレミー・ブレットという若い役者が選ばれた。ラティガンによると、ローレンス・ハーヴェイによく似ていると。1958年5月8日(木)グローブ座で初日が開いた。しかしラティガンはロンドンの観客がすっかり変わってしまったことに気づいた。「ウィンズロウ・ボーイ」「深く青い海」「眠りの森の王子」で、幕ごとに割れるような拍手を送ってくれた観客は消えていた。その代りに、「ゴドーを待ちながら」「怒りを込めて振り返れ」アーノルド・ウェスカーの「ルーツ」ピンターの「誕生パーティー」に拍手を送る観客がそこにはいた。4人の財産家と次々に結婚し死に別れ、金持ちになった中年女、と、自意識の強いことだけが取り柄の若いバレーダンサーの恋愛は、到底彼らの想像力をかき立てることは出来なかった。ロン・ヴェイルは昔ならロマンティックな男として理解出来る人物である。しかし1958年の観客には、このテーマはあまりに古くさく、退屈で、ヴァリエーションを作る値打ちなどないものであった。批評家はさんざんたたいた。「この大時代のまがい物のロマンス(This shoddy, novelettish romance)」「ラティガンはもう時代おくれだ。(Mr Rattigan is out of form)」タイナンは、「バーミンガム訛りさえ贋物じゃないか。現実味がちっとも感じられない。いや、現実など最初からどこにもありはしないのだ。(Even the Birmingham accents are phony …… I didn t spot much real acting going on, but then there wasn t much reality there to begin with)と。後に劇作家になった若い弁護士ジョン・モーティマーは好意的に、「ロン・ヴェイルはラティガンの angry young man である……マーガレット・レイトンがきらびやかなドレスから軽装になった時、素敵だと思った。」と書いた。ある写真家の助手をしていたシェラー・ディレイニーという女性が、偶々地方巡業にかかっていた「椿姫」を見た。そしてこの芝居は、「同性愛に対する奇妙な態度」であると、カンカンになって怒った。怒りはおさまらず、ついに二週間の休暇を利用し、自宅の台所のテーブルで、自分の芝居を書いた。題名を「密の味(Taste of Honey)」とし、ジョウン・リトルウッド(Joan Littlewood)に送った。リトルウッドは、自分の試験劇場(Theatre Workshop)にかけた。彼女はこの芝居が「椿姫」に刺激されて作られたものであることを隠さなかった。「蜜の味」は「椿姫」の三週間後にかかり、大人気となった。ロンドンでこの二つの芝居が一騎打ちとなった。が、勝負は明らかだった。「椿姫」は4箇月で閉じ、「蜜の味」は次の年の2月まで続き、次にウエスト・エンドで引き続きかけられることになった。興行主がなんとブロンソン・オールバリーの息子、ドナルドであった。(ブロンソンはラティガンの初ヒット作「涙なしのフランス語」をかけた興行主である。)(この「椿姫」は132回であった。)(St. Martin s Press社, Geoffrey Wansell著 Terence Rattigan による。能美武功、平成11年6月2日記)
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