一
己の友達で、同僚で、遠い親類にさへなつてゐる、学者のイワン・マトヱエヰツチユと云ふ男がゐる。その男の細君エレナ・イワノフナが一月十三日午後〇時三十分に突然かう云ふ事を言ひ出した。それは此間から
「好い思ひ付きだ。その鰐を一つ行つて見よう。全体外国に出る前に、自分の国と、そこにゐる丈のあらゆる動物とを
さて細君に臂を貸して、一しよに新道へ出掛ける事にした。己はいつもの通り跡から付いて出掛けた。己は元から家の友達だつたから。
この記念すべき日の午前程、イワンが好い機嫌でゐた事はない。これも人間が目前に迫つて来てゐる出来事を前知する事の出来ない一例である。新道へ這入つて見て、イワンはその建物の構造をひどく褒めた。それから、まだこの土地へ来たばかりの、珍らしい動物を見せる場所へ行つた時、己の分の見料をも出して、鰐の持主の手に握らせた。そんな事を頼まれずにした事はこれまで一度もなかつたのである。夫婦と己とは格別広くもない一間に案内せられた。そこには例の鰐の外に、
「これが鰐ですね。わたしこんな物ではないかと思ひましたわ。」細君は殆ど鰐に気の毒がるやうな調子で、詞を長く引いてかう云つた。実は鰐と云ふものが、どんな物だか、少しも考へてはゐなかつたのだらう。
こんな事を言つてゐる間、この動物の持主たるドイツ人は高慢な、得意な態度で、我々一行を見て居た。
イワンが己に言つた。「持主が
「もし。あなたの鰐は生きてはゐないのでせう。」細君がドイツ人に向つて、愛敬のある微笑を顔に見せて、かう云つたのは、ドイツ人が余り高慢な態度をしてゐるので、その不愛想な性質に、打ち勝つて見ようと思つたのである。女と云ふものは兎角こんな
「奥さん。そんな事はありません。」ドイツ人は
そこで横着な動物奴は、やつと自分が生きてゐるのを知らせようと決心したと見えて、極少しばかり尻尾を動かした。それから前足を動かした。それから大食ひの嘴を少し持ち上げて、一種の声を出した。ゆつくり
「こら。おこるのぢやないぞ。カルルや。」ドイツ人はそれ見たかと云ふ風で、鰐に愛想を言つたのである。
細君は前より一層人に媚びるやうな調子で云つた。「まあ、厭な獣だこと。動き出したので、わたしほんとにびつくりしましたわ。きつとわたし夢に見てよ。」
「大丈夫です。食ひ付きはしません。」ドイツ人は細君に世辞を言ふ気味で、かう云つた。そして我々一行は少しも笑はないに、自分で自分の
細君は特別に己の方に向いて云つた。「セミヨン・セミヨンニツチユさん。あつちへ行つて、猿を見ませうね。わたし猿が大好き。中には本当に
「そんなにこはがる事はないよ。フアラオ王の国に生れた、この眠たげな先生はどうもしやしないらしいから。」イワンは細君の前で、自分の大胆な所を見せ付けるのが愉快だと見えて、猿の方へ歩いて行く細君と己との
先づこゝまでは万事無事に済んだ。誰一人災難が起つて来ようとは思はずにゐた。細君は大小種々の猿を見て夢中になつて喜んでゐる。そしてあの猿は誰に似てゐる。この猿は彼に似てゐると、我々の交際してゐる人達の名を言つて、折々愉快で溜まらないと見えて、
丁度ドイツ人が不機嫌になつたのに気の付いたと同時に、突然恐ろしい、殆ど不自然だとも云ふべき叫声が小屋の空気を震動させた。何事だか分からずに、己は固くなつて立ち留つた。そのうち細君も一しよに叫び出したので、己は振り返つて見た。なんと云ふ事だらう。気の毒なイワンが
の恐ろしい口で体の真ん中をかう云つてしまへばそれまでだが、この記念すべき出来事を、己は詳細に話さうと思ふ。己はその時死物のやうになつて、只目と耳とを働かせてゐたので、一部始終を残らず見てゐた。想ふに、己はあの時程の興味を以て或る出来事を見てゐた事は、生涯又となかつただらう。その間多少の思慮は働いてゐたので、己はこんな事を思つた。「あんな目に逢ふのがイワンでなくて、己だつたらどうだらう。随分困つたわけだ。」それはさうと、己の見たのはかうである。
は先づ横に銜へてゐたイワンを口の中で、一
の口から飛び出さうと思つて、一しよう懸命盤の縁に両手で搦み付いた。
は二度目に物を呑む運動をした。イワンは腰まで隠れた。又
の腹中に這入つて行くのである。とう/\最後の一呑で友人の学者先生が呑み込まれてしまつた。その時
の体が一個所膨んだ。そしてイワンの体が次第に腹の中へ這入り込んで行くのが見えた。己は叫ばうと思つた。その刹那に運命が今一度不遠慮に我々を愚弄した。
は
の下顎の外へ食み出したイワンの鼻から、目金がブリツキの盤の底の、一寸ばかりの深さの水の中へ、ぽちやりと落ちた。なんだか絶望したイワンがわざ/\この世の一切の物を今一度見て暇乞をしたやうに思はれた。併しぐづ/\してゐる
はもう元気を快復したと見えて、又呑む運動をした。そしてイワンの頭は永久に見えなくなつた。生きた人間の頭が、その時突然現はれて又隠れたのは
この出来事の間、細君がどれだけ興奮してゐたと云ふ事を話したいが、恨むらくはそれを詳細に言ひ現はす程の伎倆を己が持つてゐない。兎に角細君は、最初一声叫んで、それからは全身が痲痺したやうになつて、ちつとも動かずにゐて、この出来事を、傍観してゐた。
が。ああ、内の可哀いカルルが。おつ母さん、おつ母さん、おつ母さん。」その時奥の戸が開いて、
を子のやうにして、カルルと云つてゐたので、持主がおつ母さんと呼んだと見える。年増は亭主の周章してゐるのを見て、顔色を変へて駆け寄つた。そこで大騒が始まつた。細君エレナは嘆願するやうな様子で、小屋の持主の傍に駆け寄つたり、年増の傍に駆け寄つたりして、「切り開けて、切り開けて」と繰り返した。誰が切り開けるのだか、何を切り開けるのだか分からないが、夢中になつて我を忘れて叫んでゐる。
併し小屋の持主夫婦は細君にも己にも目を掛けずに、ブリツキの盤に引つ付いて、鎖で繋がれた犬のやうに吠えてゐる。
持主は叫んだ。「助かるまい。もう直ぐにはじけるだらう。人一疋、まるで呑んだのだから。」
女房も一しよになつて叫んだ。「どうしよう、どうしよう。内の可哀いカルルちやんが死ぬだらう。」
ドイツ人は又叫んだ。「あなた方は我々夫婦を
「どうしよう、どうしよう」と女房は繰り返す。
「切り開けて、切り開けて。あの
の腹を切り開けて。」細君は嘆願するやうな、命令するやうな調子で、ドイツ人の上着の裾に絡み付いて、かう云ふのである。ドイツ人は叫んだ。「あなたの御亭主が内の
をおこらせたのだ。なぜおこらせたのです。もしそれで内のカルルがはじけたら、あなたに辨償して貰はなくてはなりません。裁判に訴へます。わたしの子ですから、一人子ですから。」このドイツから帰化した男の利己主義と所謂おつ母さんの冷刻とを見て、随分腹が立つたと云ふ事を、己は白状せずにはゐられない。それにエレナがいつまでも同じ要求を繰り返してゐるのも、己には気になつてゐる。丁度この新道の隣で誰やらが素食論の演説をしてゐる。そいつがこの室へ這入つて来るかも知れないと云ふ心配が、一層己を不安にする。エレナが嘆願するやうな、煩悶するやうな調子で、今のやうな要求を、いつまでも繰り返してゐる所へ、あんな人間が這入つて来ようものなら、どんな間違ひが起るかも知れない。己のかう思つたのが決して
髯男は体の平均を失はない用心をしてゐて、かう云つた。「奥さん。あなたの今言つてお出になる事は、どうもあなたの精神上の発展が不足だと云ふ証拠になりさうですね。詰まりあなたの脳髄には燐の量が不足してゐるのです。進歩主義と人道との代表者が発行してゐる諷刺的の雑誌がありますが、その雑誌であなたの只今言つてお出になる事を批評しても、あなたは苦情を言ふわけには行きますまい。そこで。」
髯男はこの口上をしまひまで
持主は叫んだ。「なんですと。可哀いわたしのカルルの腹を切り開けて貰ひたいと云ふのですか。それよりあなたの御亭主の腹でも切り開けて、お貰ひなさるが好いでせう。一体わたしの
をなんと思つてゐるのです。わたしの父も
を見せ物にした。祖父も
を見せ物にした。息子も
を見せ物にするでせう。わたしは生きてゐる間
を見せ物にする事を廃めようとは思ひません。わたし共は
を見せ物にするのが代々の商売です。わたしの名はヨオロツパ中に知らない者はない。あなたなんぞを、ヨオロツパで誰が知つてゐますか。さう云ふわけですからあなたはわたしに罰金を出さなくてはなりません。分かりましたか。」憎らしい目附をした上さんが尻馬に乗つて云つた。「さうだよ/\。可哀いカルルがはじければ、この奥さんを裁判所へ連れて行かずに済まされるものかね。」
己はエレナを
の腹を切り開けたところで駄目でせう。察するにイワン君はもうとつくに天国に行つてゐるのでせうから。」この時思ひ掛けなくイワンの声がしたので、一同はぞつとした。「君、それは間違つてゐるよ。第一この場でどうすれば好いかと云ふに、何より先に区内の警察署に知らせなくては行けない。どうせ警察権を楯にしなくては、そのドイツ人に道理を呑込ませる事は出来ないからね。」
イワンはこの詞をしつかりした、自信のある声で言つた。この場合でそれが出来たところを見ると、イワンは実に物に慌てない男だと云ふ事を証明してゐる。併し我々の為めには如何にも意外なので、声が耳には聞えても、自分で自分の耳を疑つた。併し我々は兎に角ブリツキの盤の側へ駆け寄つて不審に思ふと同時に敬意を表して、
の腹中に囚はれてゐる気の毒なイワンの詞を敬聴した。この土地では婚礼の前の晩に色々ないたづらをする風習があるが、さう云ふ晩に己は妙な事をするのを見た。河を隔てゝ
の腹の中でイワンの饒舌るのが、丁度その物真似の声のやうに聞える。エレナは体を顫はせて云つた。「イワンさん。そんならあなたはまだ生きてお出なさるのね。」
例の遠方で叫ぶやうな声をして、イワンは答へた。
「生きてゐるとも。しかも極壮健でゐるのだ。為合せな事には、呑まれる時体に少しも創が付かなかつた。唯一つ気に掛かる事がある。外でもないが己がこんな所に這入り込んでゐるのを、上役が聞いたら、なんと云ふかと云ふのが問題だ。外国旅行の許可を得てゐながら、
の腹の中に這入つてぐづ/\してゐると聞いては、どうも気の利いた人間のやうには思はれまいて。」「あの。人に気が利いてゐると思はれようなんぞと云ふ事はかうなればどうでも好いでせう。それよりか、どうにかして早く外へ引き出してお貰ひなさらなくつてはなりませんわ。」
ドイツ人は殆ど怒に堪へないやうな語気で云つた。「引き出すのですと。そんな事はわたしが不承知です。かうなつた日には、わたしの見せ物は前の倍位
「まあ、好かつたのね」とエレナが云つた。
イワンは落ち着いて云つた。「持主の云ふ通りだ。どうしても経済的問題が先に立つのだて。」
己は熱心に、成るたけ大きい声をして云つた。「君。待つてゐ給へ。兎に角僕がこれから急いで君の上役の所へ駆け付けて見よう。どうせ我々がこゝで彼此云つても
イワンが云つた。「僕もさう思ふ。ところでこの不景気な時で見れば、どうしても金銭上の辨償をせずに、
の腹を切り開ける事は出来まいよ。そこでかう云ふ問題が起る。持主が
の代価として幾ら請求するかと云ふのだ。この問題に次いで、直ぐに第二の問題が起る。その金を誰が払ふかと云ふのだ。君も御承知の通り、僕は富豪ではないからね。」己は遠慮勝に云つて見た。「どうだらう。俸給の内から少しづゝ払ふわけには行くまいかね。」
の持主は急に己の詞を遮つた。「この
を売る事は絶対的に出来ません。もし売るにしても三千ルウベルからは一文も引かれません。四千ルウベルと云つたつて好いでせう。今に見物が押し掛けて来るのです。五千ルウベルと云つても好いでせう。」持主は恐ろしく得意である。目玉が慾で光つてゐる。己は腹の立つのを我慢してイワンに言つた。「そんなら僕は行つて来るよ。」
エレナが取り
「おい。そんな事をしては困るよ。」イワンは急にかう云つた。イワンは余程前から
「あなた検査して見るなんて、そんなに明るいのですか。」エレナは嬉しさうな顔をして、物珍らしげに云つた。
気の毒な囚人は答へた。「大違ひだよ。己の周囲は真つ暗だ。だが手捜りで検査して見る積りだ。そんなら又逢ふから、内へ帰るが好い。心配するには及ばないよ。何も己に気兼をして好な事をせずにゐなくても好い。あす又来ておくれ。」イワンは又己に言つた。「君はね御苦労だが、晩にもう一遍来てくれ給へ。君は忘れつぽいから、直にハンケチに
己はこの場を立ち去る事の出来るのが、心の内で嬉しかつた。第一余り長く立つてゐたので足が草臥て来る。それに対話も次第に退屈に感ぜられて来たのである。そこで早速エレナに会釈をして肘を貸して、見せ物部屋を出た。エレナは興奮してゐるので、いつもより美しく見えた。
「まあ、なんと云ふ慾張根性の強い事でせう。」エレナはかう云つて溜息を衝きながら、新道の見せ窓にある鏡に顔を写して見てゐる。多分自分の顔がいつもより美しく見えるのを知つてゐるのだらう。往来の人も別品だと思ふと見えて、頻りに振り返つて見る。
己は夫人に肘を貸してゐるので、得意になつて歩きながら云つた。「例の経済上の問題ですね。」
「経済上の問題ですつて。あの時宅が申した事は、まるでわたしには分かりませんでしたの。その問題とか云ふのなんぞはなんの事だか知りませんが、どうせ詰まらない理窟なのでせう。」エレナは媚びるやうな調子で、わざと語気を
「さうですか。それは僕が直に説明して上げませう。」かう云つて、己は目下の経済では、外債を募るのが一番好結果を得る方法だと云ふ説明を
細君は暫く聞いてゐたが、急に詞を遮つた。「そんなものですかね。妙な理窟です事。だがもうお廃しなさいよ、そんな人困らせの議論なんか。一体あなたけふは下らない事ばかり仰やるのね。あの、わたしの顔は余り赤くはないでせうか。」
「なに。赤くはありません。美しいです。」好機会を得て、お世辞を一つ言ふ積りで、己は云つた。
「まあ、お世辞の好い事。」細君は得意げに云つた。それから少し間を置いて、媚びるやうな態度で、小さい頭を傾けて言つた。「ですけれど宅は可哀さうですね。」それから突然何事をか思ひ出した様子で云つた。
「おや。大変だ。あなたどうお思ひなさるの。宅はお午が食べられないでせう。それに何かいる物があつても、どうもする事が出来ないでせうねえ。」
己も細君と一しよになつて途方に暮れた。「成程。それは予期してゐない問題ですね。僕もそこまではまだ考へてゐなかつたのです。それに付けても人生のあらゆる問題に対して、どうも婦人の方が男子より着実な思想を持つてゐるやうですね。」
「まあ、どうしてあんな所へ這入つたものでせうね。今では誰と話をする事も出来ないで、ぼんやりして坐つてゐる事でせう。それに真つ暗だと云ふぢやありませんか。ほんとにこんな事があると知つたら、宅に写真を撮らせて置くのでしたつけ。わたし今は一枚も持つてゐませんの。ほんとにかうなつてみれば、わたしは後家さんのやうなものですね。さうぢやありませんか。」人を迷はせるやうな微笑をして云ふのである。細君は自分が
細君は続いて色々な事を話した。無理もない。若い美しい奥さんの事だから、別れた亭主を恋しがるのは当り前である。彼此話してゐる内に、我々はイワンの家に来た。細君が
これまでは非常な出来事を書く為めに、多少
二
チモフエイは妙に
己が一都始終を話してしまつた時、主人は云つた。「最初に考へてお貰ひ申さねばならないのですが、全体わたしは上役でもなんでもないのですね。あなたともイワン君とも同等の人間です。して見ればさう云ふ事件が生じたに付いて、何もわたしが立ち入つて彼此申さなくても好いやうなものですね。」
己は異様に感じた。何より不思議なのは、主人が最初から一切の事を知つてゐるらしいのである。それでも己は念の為め今一度繰り返して、始終の事を話した。二度目には前より
最後に主人は云つた。「実は
「それはなぜでせう。中々容易に想像の出来ない、非常な事かと思ふのですが。」
「それはあなたの云はれる通りかも知れません。併しあのイワンと云ふ男は役をしてゐる間中見てゐますと、どうもこんな末路に陥りはしないかと懸念せられたのですよ。兎角物事に熱中する癖があつて、どうかすると人を凌駕するやうなところもあつたのです。二言目には進歩と云ふ事を言ふ。それから種々な主義を唱へるのですな。あんな風な思想を持つてゐるとどうなるかと云ふ事が、これで分かるやうなものです。」
「どうもさう仰やつても、この度の事件は実際非常な出来事ですから、それを進歩主義者の末路が好くないと云ふ証拠にするわけには行かないやうに思ふのですが。」
「ところがさうでないですよ。まあ、わたしの言ふ事をお聞きなさい。一体かう云ふ事は余り高等な教育を受けた結果です。それに違ひありません。兎角余り高等な教育を受けると余計な所へ顔を出したくなる。出さないでも好い所へ出すですね。まあ、そんな事はあなたの方が好くお分かりになつてゐるかも知れません。」かう云ひ掛けて、主人は突然不平らしい調子になつた。「わたしなんぞはもう年が寄つたし、それに余り教育も受けてゐないものですから、何事も分かりませんよ。わたしは軍人の子でしてね、下から成り上がつたものです。丁度今年で在職五十年の祝をする事になつてゐるのです。」
「いや/\そんな事はありません。イワンも是非あなたの御意見が伺ひたいと云つてゐました。詰まりあなたの御指導に依つてどうにでも致さうと云ふのです。なんとか云つて戴かうと思つて、そのあなたのお詞を待つてゐるのです。目に涙を浮べて待つてゐるのです。」
「目に涙を浮べて。ふん。それは多分
の目の涙でせう。なにもそれを「いや。旅費だけは貯金してゐたのです。それにたつた三ヶ月間の旅行ですからね。シユワイツへ行くのです。ヰルヘルム・テルの故郷へ行くのです。」己は友達を気の毒がる心持で云つた。
「ヰルヘルム・テルの故郷に行くのですね。ふん。」
「それからナポリへ出て春を迎へようと云ふのでした。博物館を尋ねたり、あつちの風俗を調べたり、変つた動物を見たりしようと云ふのですね。」
「ふん。動物ですか。どうもわたしの察しるところでは、あれは高慢の結果で企てたのですね。動物なんて、どんな動物を見るのでせう。ロシアにだつて、動物は幾らもゐまさあ。それに見せ物もある。動物園もある。駱駝もゐる。熊なんぞはペエテルブルクの
の腹なんかに。」「どうぞさう仰やらないで、少しは気の毒だとお思ひなすつて下さい。あの男は
チモフエイは
煙草「へえ。あの妻君の噂をせられたのですか。」
「さうです、さうです。しかも大層褒めてゐましたよ。胸の格好が好い。目附が好い。それから
「併しどうも不運で非常な事に逢つたのですから。」
「それはさうです。併し。」
「ところでどうしたものでせう。」
「さあ。一体これをわたしがどうすれば好いと云ふのですか。」
「兎に角どうしたら宜しからうか、その辺のお考を仰やつて下さい。御経験のおありになるあなたの事ですから。どう云ふ手続にいたしたら宜しいでせう。上役に申し出たものでせうか、それとも。」
「上役にですか。それは断然行けますまい。」チモフエイの語気は急であつた。「わたしの意見では、先づ成るたけ事を大きくしないで、万事内々で済ますですね。さう云ふ事はどんな嫌疑を受けまいものでもないです。なんにしろ新事実ですからね。これまで例のない事ですからね。その
「でもいつまで待つたら宜しいと云ふお見込でせうか。もしその内に窒息でもいたしたら。」
「そんな事はないぢやありませんか。先刻のお話では、至極機嫌好くしてゐると云ふではありませんか。」
己は前の話を今一度初から繰り返した。
チモフエイはそれを聞いて、手に
煙草入を持つて、それをくるくる廻しながら思案をした。「ふん。成程。わたしの考へでは外国なんぞをうろ付き廻るより、暫く現位置にぢつとしてゐた方が好いですな。丁度暇が出来たと云ふものだから当人もゆつくり反省して見たが好からう。無論窒息なぞをしては行けないから、多少の摂生上の注意をするが好いでせう。
はその男の所有物です。イワンはその中へ、持主の許可を得ずして入り込んだと云ふものです。これが反対の場合だとさうでもありませんがね。そのドイツ人がイワンの持つてゐる
の中へ潜り込んだのだとすれば、場合が違つて来ます。勿論イワンは
なんぞは持つてゐなかつたのですがね。兎に角
は人の所有物ですから、それを「併し人命を助けるのですから。」
「さやう。併しそれは警察権に関係します。その問題は警察へ持つて行かなくては駄目です。」
「ところでイワンの
「あの人にとはイワンにですか。ふん。なに、休暇中の事ですから、どこにゐようと、何をしてゐようと構はぬが好いです。ヨオロツパを遊歴してゐようが、ゐまいが、構ふ事はありません。それは時が立つてから、あの男が帰つて来ないとなると、それは別問題です。その時捜索もし取調べもすれば好いです。」
「それは三月も先の事です。余りあの男に気の毒ではありませんか。」
「されば。どうも自業自得ですからな。一体誰があの男に、
の中へもぐり込めと云つたのです。どうにかして遣ると云へば、政府が
の中へ這入つた男に介抱人でも付けなくてはならんと云ふのですか。そんな費用は予算に見込んでありませんからな。それはさうと要点はかうです。
は個人の所有物ですから、所謂経済問題が起るです。何より先に経済問題を考へなくてはなりません。一昨日もルカ・アンドレエヰツチユの宴会の席で、イグナチイ・プロコフイツチユがその点を委しく論じましたつけ。時にイグナチイは御承知ですね。資産家で事業家です。御承知かも知れませんが話上手ですよ。こんな風に云つてゐました。産業を起すのが急務だ。それがロシアでは欠けてゐる。それを起さなくてはならない、新しく生まなくてはならない。それには資本がいる。それには所謂中流社会が先づ成立たなくてはならない。ところで内地にはまだその資本がないから、外国に資本を仰ぐより外ない。現に外人の会社が出来てゐて、盛んに内国の土地を買入れようとしてゐる際だから、彼に十分の利益のあるやうな条件で、土地を買はせて遣るが好い。現在の自治体で、共同工事をしたり、共同財産を持つてゐたりするのは、その所謂財産が無財産と同一だから詰まり毒だ。詰まりロシア人の破産だ。まあ、こんな風に、熱心に云つてゐましたよ。なんにしろ資産家ですから、そんな議論も出来るのですね。官吏なんぞとは違ひますからな。それからかう云ふです。現在の自治体では、工業を起す事も農業を盛んにする事も出来ない。外人の立てゝゐる会社に、出来る事なら全国の土地を買はせるが好い。その上で広い地区を「へえ。併しイワンはどうして遣りませう。」己はチモフエイに十分
チモフエイは云つた。「イワンですか。その事をわたしは言つてゐるのです。その
の持主の資本が、イワンが腹の中へもぐり込んだ為めに二倍になつた。ところでその機会に乗じて、我々はその外国人を補助して遣るべきである。然るに却てその
の腹を切り開けようとするですな。どうです。そんな事をすべきでせうか。わたしの考では、イワンに愛国心がある以上は、自分を犠牲にして、外国人の持つてゐる
の
を三疋も四疋も持つて来る。そこでその「併し如何にも気の毒ですが。どうもあなたの仰やるところでは、あのイワンを犠牲にすると云ふやうになりますが。」
「いや。わたしは何もイワンに要求するところはないのです。先刻も云つた通り、わたしはあの男の上役ではない。ですから、何もあの男にかうしろと云ふ事は出来ない。わたしは只ロシアと云ふ本国の一臣民として云ふのです。或る大新聞の言草とは違ひます。只本国の普通の臣民として云ふのです。それに問題は、誰があの男に頼んで、
の腹へ這ひ込ませたかと云ふにあるですな。真面目な人間、殊に役人として相当の地位を得た人間が、妻子まで持つてゐながら、突然そんな事をすると云ふ事があるものですか。まあ、あなただつて考へてお見なさるが好い。」「併し何も好んでしたわけではありません。つひ過つてしたのです。」
「さうですかな。それもどうだか知れたものではありませんね。それにドイツ人に
の代価を払ふとしたところで、その金はどこから出るです。その辺のお見込が附いてゐますか。」「どうでございませう。あの男の俸給で差引いては。」
「そんな事で足りますか。」
己は窮した。「どうも覚束ないです。実はドイツ人も最初
がはじけはすまいかと、大層心配しました。併し無事に済んだと見るや否や、ひどく高慢になりました。入場料を倍にする事が出来さうだと云ふので。」「倍どころではありますまい。三倍にも四倍にも出来るでせう。多分見物が入場券を争ふやうになるでせう。さう云ふ機会を利用する事を知らないほど、
の持主は愚昧ではありますまい。わたしは繰り返して云ふが、兎に角イワンは差当りぢつとしてゐるですな。何も慌てるには及びません。まあ、あの男が
の中にゐると云ふ事は、自然に世間に知れるとしても、我々は表向知らない顔をして遣るですな。それには外国旅行の許可を得てゐるから、好都合ですよ。もし誰かが来て、あの男が
の中にゐると云つたつて、我々はそれを信用さへしなければ好いです。さうしてゐるのは、造作はありません。要するに時期を待つですな。何も急ぐにも慌てるにも及びません。」「併しひよつと。」
「なに。心配しないが好いです。あの男は物に堪へる
「ところが
「さあ。わたしだつてこの場合が困難な場合だと云ふ事は認めてゐます。思案した位で、解決は付きません。兎に角難渋なのは、これまで似寄の事もないのです。先例がない。もし只の一つでもさう云ふ例があると、どうにも工夫が付きませうがな。どうも如何んとも
この時己はふと思ひ付いた事があるので、チモフエイの詞を遮つた。「どうでせう。かうするわけには行きますまいか。兎に角あの男は
の腹の中にゐて、その
の寿命は中々長いと見なくてはなりませんから、あの男の名前で願書を差出して、
の腹の中にゐる年月を勤務年月に加算してお貰ひ申す事は出来ますまいか。」「ふん。さやう。休暇と
「いいえ。給料も払つて貰ひたいのですが。」
「はてね。なんの理由で。」
「それはかうです。まあ、今ゐる所へ派遣せられたと見做しまして。」
「なんですと。どこへ派遣せられたと云ふのです。」
「無論
の腹の中へ派遣せられたと見做すのです。チモフエイは暫く思案した。「どうも官吏を
の腹の中へ、特別な任務を帯びさせて派遣すると云ふのは、わたしの意見では無意義です。そんな予算はありませんからな。それにその任務がどうも。」「さやうですね。学術上に実地検査をさせるとしては如何でせう。当世自然科学が盛んに行はれてゐますから。本人が現在の位置に生活してゐて報告いたしたら宜しいではありますまいか。
「成程。して見るとそれは一種の分析的統計と云ふやうなものですな。一体そんな事はわたしには好く分からない。わたしは哲学者ではない。併しあなたは事実の材料と云ふ事を云はれたが、それでなくても我々は目下事実の多きに堪へないで、その処置に困る程です。それに統計と云ふものも随分危険なもので。」
「どうして統計が。」
「危険ですとも。それにイワンに報告をさせるにしても、その報告は横に寝てゐてするのでせう。一体横に寝てゐて勤めると云ふ事がありますか。それなんぞも頗る危険な新事実です。それにどうも先例のないのに困りますよ。何か只の一つでも似寄つた事があつたのを、あなたでも御承知なら、それはそんな所へ派遣すると云ふ事も出来るかも知れませんが。」
「併しどうも生きた
はチモフエイは暫く思案した。「ふん。成程。その点は反駁の理由として有力だとしても好い。それに依つてこの事件をなんとか処分する基礎が成り立つとしても好い。ところで一方から見ると、次第に生きた
が入り込んで来る。その腹の中は温かで、居心が好いので、役人が段々もぐり込むとなつたらどうです。とんだ悪例を開くと云ふものではありますまいか。誰も彼もその例に
の腹の中に隠居して骨折らずに、月給を取るとなつたら、国家が立ち行きますまい。」「併し兎に角気の毒なわけですから、お
「さやう、さやう。それは先頃ニキフオル・ニキフオオリツチユの所で、あの男が負けたのです。上機嫌で、洒落を言つたり、笑つたりしてゐたのですが、飛んだ事になつたものですな。」主人は感動した様子である。
「そんならどうぞお詞添を。」
「いや。承知しました。まあ、そつと其筋の意図を捜つて見ませう。ところで一体持主は
の代を幾ら欲しいと云つてゐるか、それを内々聞いてお貰ひ申すわけには行きませんかな。」チモフエイは余程機嫌が好くなつてゐる。己は嬉しくなつて云つた。「それは是非問ひ合せて見ます。いづれ分かり次第、申し上げに出ませう。」
「そこであの細君は今一人で留守宅にゐるでせうね。さぞ退屈して。」
「お暇に見舞つてお遣りになる事は出来ますまいか。」
「出来ますとも。実はきのふもちよつと見舞はうかと思つた位です。それにかう云ふ好機会が出来ましたからな。ああ。なんだつてあの男は
なんぞを見に行つたのですかな。それはさうとわたしも一度は見たいものだが。」「ええ。気の毒ですからイワンをも一度お見舞ひ下さいまし。」
「好いです。無論わたしが行つたとしても、それを意味のあるやうに取つては困ります。只個人として行くのですからな。そこでわたしはこれで御免蒙ります。今日もちよつとニキフオオルの所へ参る筈ですから。あなたはお出なさらんですか。」
「いいえ。わたくしはもう一遍
の所へ参らなくてはなりません。」「成程。
の所へ。まあ、なんと云ふ軽はずみな事をしたものでせうな。」己はチモフエイに暇乞をして出た。頭の中には種々の考が輻湊してゐる。併し此時己は思つた。「兎に角チモフエイは正直な善人である。あの男が今年在職五十年の祝をするのは結構だ。さう云ふ風に勤める男は当世珍らしいから。」
己は急いで新道へ出掛けた。経験のあるチモフエイとの対話を、イワンに伝へようと思つて出掛けたのである。それには無論どうなつてゐるかと云ふ物見高い心持も交つてゐて、己の足を早めたのである。
の腹の中にどんなにして居着いたか、
の腹の中で人間がどうして暮して行かれるか知りたいと思ふ心持も交つたのである。己は歩いてゐて、時々は夢を見てゐるのではないかと云ふ考をも起した。さう云ふ考はあの
と云ふ動物が化物じみた動物だから、一層起り易いのである。三
併しそれが夢ではなくて、争ふべからざる事実である。さうでなかつたら、己だつてこんな事をしないだらう。兎に角その後を話すとしよう。
新道に行き着いたのは、もう大ぶ遅かつた。彼此九時頃であつただらう。持主がもう見せ物をしまつてゐたので、己はやつと裏口から小屋に這入つた。持主は古い、汚れた上着を着てゐるが、世の中にも満足し、自分にも満足してゐるらしい様子で、小屋の部屋々々を歩き廻つてゐた。なんの心配も無いと云ふ事、夕方にも見物が大勢這入つたと云ふ事が一目この男の態度を見れば、察せられる。例のおつ母さんと云ふ女は、余程後になつてから現はれて来た。その様子が己を監視する為めに出たやうに見えた。夫婦は度々鉢合せをするやうにして囁き合つてゐる。もう見せ物はしまつてゐたのに、己には定めの二十五コペエケンを払はせた。一体物事を余り極端に厳重にすると云ふものは厭なものだ。
「どうぞこれからもお出なさる度に間違ひのないやうに御勘定をしてお貰ひ申しませう。普通のお客からは一人前一ルウベルの割で払つて貰ふのですが、あなただけは二十五コペエケン出して下されば好いのです。あなたはあの先生の御親友ですからな。わたしだつて友誼と云ふものを尊重すること位知つてゐますよ。」
「まだ生きてゐますか、あの男は」と、己は大声で云つて置いて、持主のドイツ人に構はずに、急いで
の側へ行つて見た。己が大声でそんな事を言つたのは、その声がイワンに聞えたら、イワンが自分の事を思つてくれると信じて、喜ぶだらうと、内々考へて言つたのである。かう思つたのは
「生きてゐるよ、
の側まで駆け付けてゐたのである。その声が又かう云つた。「だがそんな事は跡でも好い。どんな様子だね。」己はイワンの問を聞かないやうな風をして、忙しげに親切らしく、却て己の方から種々な事を聞いて見た。気分はどんなだか、
の腹の中はどんなだか、胃の中には外にまだどんな物が這入つてゐるかと云ふやうな事である。こんな事を問ふのは、友人に対する礼儀として当然の事だと信じたからである。併しイワンは腹立たしげに、強情に、己の詞を遮るやうにして云つた。「一体どんな様子だね。」その声は声を
己は腹の立つのを我慢して、チモフエイの言つた事を
イワンはいつも己と話す時の癖で、手短に云つた。「ふん。親爺の言つた事はそれだけか。用事は用事できちんと話す人間が好きだ。センチメンタルないく地なしは、見ても癪に障る。併し今の身の上を、職務上こゝへ派遣せられてゐるものとして取り扱つて貰ひたいと君の云つたのは、全然無意義でないと云ふ事だけは認めても好い。報告をして好い事なら、学問上にも風俗上にも、幾らも新事実を挙げる事が出来るよ。併し今になつて見ると、事件が意外な方向に発展して来たから、もう俸給の多寡なんぞを論じてはゐられない。まあ注意して聞いてくれ給へ。君、腰を掛けてゐるかい。」
「いや。僕は立つてゐるのです。」
「そんならどこかそこらへ腰を掛け給へ。なんにもないなら、
己は癪に障つたから、側にあつた椅子を掴んで、椅子の脚ががたりと大きい音をするやうに置いて、腰を掛けた。
イワンは矢張り命令するやうな調子で云つた。「聞いてゐるかね。そこでけふの見物は非常に
と云ふ動物の事に就いて、自然学上の事実を話すばかりでも、世間の為めにどの位有益だか分からない。さう云ふわけだから、こんな所へ這入つて来た運命を歎くに及ばないことは無論で、却てこの偶然のお蔭で、非常な出世をすると云つても好いのだ。」己はこの長談義を聞いてしまつて、無愛想な調子で云つた。「併し君、退屈になつて困りさへしなければ好いがね。」一番己の癪に障つたのは、イワンがいつも云ふ「僕」と云ふ事をまるで省いて、代名詞なしに自分の事を
退屈さへしなければ好いがと、己が云ふのを聞いて、無愛想にイワンは云つた。「退屈なんぞをするものか。なぜと云ふにこの胸には偉大な思想が一ぱいになつてゐる。やつと今度
から発表せられる事になるだらう。遠からず経済上の新しい理論を建設する事が出来るに違ひない。天下に対して誇つても好い理論が出来るだらう。これまでは「たしかに返したから、さう思つてくれ給へ。僕のポケツトから返したから。」自分の銭で、イワンの借財を返したと云ふ事を、はつきり聞かせるやうに、己は答へた。
イワンは高慢な声で云つた。「それは今に君に返すよ。いづれ遠からず俸給が一等だけ上がるだらう。かう云ふ場合に進級させないやうでは、誰を進級させる事も出来まいからなあ。これからこつちはどの位世間に利益を与へて遣るか分からない。それはさうと、
「エレナさんが機嫌好く暮してゐるかどうか、聞きたいと云ふのかね。」
「妻だよ。妻はどうしたと云ふのだ。」その声はまるで婆あさんが小言を言ふやうである。
己はどうも為方がないから、心中では
併し皆まで聞かずに、イワンは苛々した調子で己の詞を遮つた。「あいつの事も考へてゐるて。こつちがこゝで名高くなれば、あいつも内で名高くなつてくれなくてはならん。
奴が気まぐれに呑んでくれたので、多年の宿望が一時に達せられたと云ふものだ。何かこの口で饒舌れば、人がそれを直ぐに筆記する。その内容を批評する。人口に
の
を持出すやうになるかと思ふ。さうなれば立派な座敷の真ん中に、このブリツキの盤を据ゑさせて、こつちは
の腹の中から気の利いた事を饒舌るのだ。無論朝の内から
の腹の中にゐれば、嫌疑を蒙るイワンは随分無意味な事を饒舌る男ではあつたが、この長談義を聞いた時は、どうもひどい病気にでもなつてゐはすまいかと、正直を言へば、己は思つた。少くも熱が高くて
己は成るべく優しい声で云つた。「君、そんな風にしてゐて長生が出来ると思つてゐるかね。一体君、たしかに健康でゐるのかい。何を食べてゐるね。寝られるかね。息は出来るかね。いろんな事を聞くやうだが、実に非常な場合だから、友人の立場として聞いて見たいのだがね。」
イワンは腹立たしげに答へた。「それは君、全く余計な好奇心と云ふものだよ。それ以上になんの意味もない質問だ。併しそれに拘らず言つて聞かせよう。君はこの
の腹の中でどうしてゐるかと問ふのだね。第一に意外なのは、この
と云ふものは体の中がまるで空虚なのだ。それ、あのモルスカヤだの、ゴロホワヤだの、それから僕の覚え違へでないなら、あのヲスネツセンスキイ区にもあるが、好く大きな店の窓に飾つてあるゴム細工があるね。あの大きい空虚な袋のやうな工合だよ。さうでなかつたら、君、考へて見たつて分かるだらうが、かうしてゐられたものではないからね。」己は不思議に思はずにはゐられなかつた。
「さうかねえ、
と云ふものはそんなにからつぽなものかね。」イワンは厳格な調子で、詞に力を入れて云つた。「全然空虚だよ。而も察するにそれが自然の法則で、
と云ふものはさうしたものなのだらう。そこで
と云ふものは、あの鋭い牙の植ゑてある、大きな顎と、長い尾とから成立つてゐる。それが
の全体だと云つても好いのだ。そこでその二つの部分の中間には、大なる空隙がある。それが硬ゴムに類した物質で包まれてゐるのだ。事に依つたら実際硬ゴムから成り立つてゐるかも知れんよ。」己は殆ど自分を侮辱せられたやうに感じて、イワンの詞を遮つた。「併し君、
「そんな物はこゝにはない。絶無だ。察するに昔からそんな物がこゝにあつた事はないだらう。そんな物があるやうに言つたのは、軽卒な
をふくらます事が出来るのだ。この
の腹の中は実に想像の出来ないほど伸縮自在だからね。君に好意があつて、僕の無聊を慰めてくれようと思ふなら、直ぐにこゝへ這入つて貰ふだけの場所は楽にあるのだよ。実は万止むを得ない場合には、内のエレナにこゝへ来て貰はうかとも考へて見たよ。兎に角
の内部がこんな風に空虚になつてゐると云ふ事は、学問上の記載に一致してゐるやうだ。まあ、仮に君でも頼まれて、新に
と云ふものを製造しなくてはならないと云ふ場合を考へて見給へ。その時第一に起る問題は
の生活の目的はなんであるかと云ふ問題だらう。そこでその答は明白だ。人間を呑むのが目的である。さうして見ると
が自己の性命に危険を及ぼさずに、人間を呑む事が出来るやうに拵へなくてはならない。それには
の内部をどうしたら好いかと云ふ事になる。その答は前の答より一層容易だね。即ち内部を空虚にすれば好いのだ。ところが君も御承知の通り自然は空虚と云ふものの存在を許さない。それは理学が証明してゐる。そこで
を空虚に製造して置けば、自然がそれを空虚の儘で置く事を許さないから、
の功用が生じて来る。空虚なものを、空虚の儘で置く事は、自然の単純な法則が許さないから、そこへ何物かが這入つて来なくてはならない。そこで
はなんでも手当り次第に呑まなくてはゐられない事になる。どうだね、分かるかね。さう云ふわけで
は人間を呑むのだ。詰まり空虚の功用の法則だと云つても好い。この法則は無論あらゆる生物に適用すると云ふわけには行かない。己は「これは熱病だ、余程熱度が高いに相違ない」と思つて心配でならないので、覚えずかう云つた。「君、何か少し気の鎮まるやうな薬を飲まうとは思はないかね。」
イワンはひどく己を馬鹿にしたやうな調子で、答へた。「馬鹿な。それに仮に下剤なんぞを用ゐるとした所で、どうもこの場合でそれが利いてくれては少し困るよ。まあ、君の事だから、その位な智慧を出すだらうと、僕も予期してゐたのだ。」
「それはさうと薬にしろ
「午食なんぞはしない。併し僕はちつとも腹はへつてゐない。多分今後もなんにも食はなくても済みさうだ。なにもそれに不思議はないよ。僕の体が
の内部を全然充実させてゐるのだから、それと同時に僕自身も腹がへると云ふ事はないのだ。
だつてもこれから先
の方では僕を呑んでゐて満足してゐるし、僕の方では又
の体からあらゆる滋養を取つてゐるわけだね。君は話に聞いてゐるかどうか知らないが、器量自慢の女は或る方法を以て自分の容貌を養ふものだ。それはどうするのだと云ふに、晩に寝る時体中に生肉を食つ付けて置く。それから翌朝になると香水を入れた湯に這入つて綺麗に洗ひ落す。さうするとさつぱりして、力が付いて、しなやかになつて、誰が見ても惚々するのだ。それと同じ事で、僕は
の滋養になつてやるから、
の方から滋養物を己に戻してくれる。詰まり互に養ひ合つてゐるのだ。無論僕のやうな体格の人間を消化すると云ふ事は出来ないから、
も多少胃が重いやうには感じてゐるだらう。胃は無いのだがね。それはまあどうでも好い。そこを考へて僕はこゝで余り運動をしないやうにしてゐる。なに、運動しようと思へば、勝手だがね。僕は唯人道の考から運動せずにゐて遣るのだ。併し兎に角勝手に動かずにゐるのだから、僕の現在の状態を不如意だと云へば、先この点位が思はしくないのだ。だからチモフエイが僕の事を窮境に陥つてゐると云つたのも、形容の詞だと見れば承認せられない事もないね。かう云つたからと云つて僕が困つてゐると思ふと違ふよ。僕はこれでもゐながらにして人類の運命を左右する事が出来るものだと云ふ事を証明して見せる積りだ。全体当節の新聞や雑誌に出てゐる、あらゆる大議論や新思想と云ふものは、あれは皆窮境に陥つてゐる人間が吐き出してゐるのだ。だからさう云ふ議論を褒めるには、動かない議論だと云ふぢやないか。まあ、それはなんと云つても好いとして、僕はこれから全然新しい系統を立てる積りだ。それがどの位造作もないと云ふ事が、君には想像が付くまいね。新しい系統を立てるには、誰でも世間の交通を断つて、どこかへ引つ込めば好い。
の腹の中に這入つても好い。そこで目を
の腹の中から遣ると造作はないよ。万事
の腹の中から見れば、外で見るより好く見えるよ。それはさうと僕の今の境遇にも、贅沢を云へば多少遺憾な点はあるさ。なに、けちな事なのだがね。先こゝは少し湿つてゐて、それからねと/\してゐる。それに少しゴムの匂がする。丁度去年まで僕の穿いてゐた脚絆のやうな匂だ。苦情を云つたところでそんなもので、それ以上には困る事はないよ。」己は友人の詞を遮るやうにして云つた。「君ちよつと待つてくれ給へ。君の今云つてゐる事は、僕には実に不思議で、自分で自分の耳を疑ふ位だよ。そこで少くもこれだけの事を僕に聞かせてくれ給へ。君はもうなんにも食はずにゐる積りかね。」
「いやはや。そんな事を気にしてゐると思ふと、君なんぞは気楽な人間と云ふものだね。実に浅薄極まるぢやないか。僕が偉大な思想を語つてゐるのに君はどうだい。君には分からないから云つて聞かせるが、偉大な思想は僕を
飫
の持主は、存外好人物で、あの人の好いおつ母さんと云ふ女と相談して、これから
の
と云ふものは千年生きると云ふ事だが、それが本当なら、僕も千年生きる積りだ。あゝ。さうだつけ。もう少しで忘れるところだつた。君に頼んで置くがね、あしたで好いから誰かの博物書を調べて見てくれ給へ。
は何年生きるかと云ふ問題に就いてだね。事に依ると僕は何か洪水以前の古い獣と間違へて考へてゐるかも知れないからね。唯僕にも多少懸念がない事もないよ。御承知の通り僕は服を着てゐる。ロシア製の羅紗で裁縫した服だね。それから足には長靴を穿いてゐる。どうもそのせいで
が僕を消化する事が出来ないらしい。それに僕は生きてゐて、意志の力を以て消化に反抗してゐるのだ。なぜと云ふにあらゆる
の中へ這入つて来た時、その服が自然の悪影響に抗抵して長く持つだらうと云ふものだ。己は腹の中で、「
イワンは意外にもかう云つた。「君は馬鹿だよ。自由だの独立だのと云ふ事は、それは野蛮人の愛するものだ。智者は秩序を愛するね。もし秩序がないとなると。」
「君、それは」と、己はイワンの詞を遮らうとした。
イワンは己の
「それは揃へて持つて来るよ。」
「併し実はまだ早いな。あしたの新聞に僕の事が論じてあらうと期待するのは少し無理だ。大抵このロシアでは新事件の論評は、四日目位立つてからでなくては出ないのだからね。それから君は今後は毎晩裏口から僕の所へ来る事にしてくれ給へ。君に僕の書記を勤めて貰ふ積りだからね。君が持つて来た新聞を読んで聞かせてくれる。さうすると僕がそれに対する意見を述べて君に筆記させる。それから必要な処分があれば、それを君に命ずるのだ。何より大切なのは最近の外国電報だから、それを忘れないやうに持つて来給へよ。最近のヨオロツパの電信だね。それは是非毎日いるよ。まあ、けふはこれだけにして置かう、君ももう眠たくなつただらうから。もうそれで好いから君は帰り給へ。そしてさつき僕の言つた批評の事を好く考へて見てくれ給へ。実は僕はさほど批評をこはがつてはゐない。批評家だつて皆窮境にゐるのだからね。兎に角こつちに智慧があつて、それで品行を好くしてゐればあいつ等が持ち上げてくれるに極まつてゐる。まあ、ソクラテエスでなければ、ヂオゲネスと来るのだ。或ひは両方を兼ねたやうな風にするが好いかも知れない。まあ、将来人類の為めに働くには、僕はさう云ふ立場にゐて働く積りだ。」
女が年を取つていく地がなくなると秘密と云ふものを守る事が出来ないと云ふが、イワンの軽卒に、相手がなんと思つても構はずに、自分の議論を急いで話さうとする様子は、丁度その女のやうに思はれた。なんでも余程高い熱が出てゐさうである。
の内部の構造に就いて、イワンの言つた事なぞは、殊に怪しい。
だつて胃も心の臓も肺も無いと云ふ事は受け取りにくい。あんな事を言ふのは、人に誇る為めに出たらめを言ふのではあるまいか。事に依つたら、己をへこます為めに言ふ気味もあるかも知れない。併しイワンは病気に相違ない。病人は大事に取り扱つて遣らなくてはならない。かうは思ふものゝ正直を言へば己は昔からイワンと云ふ男を気に食はなく思つてゐた。己は子供の時から、この男に見くびられて、余計な世話ばかり焼かれてゐた。一その事絶交してしまはうかと思つた事は何度だか知れない。それでもとう/\今まで附き合つてゐるが、それにはいつも返報をして遣る時期が来るかも知れないと、心の奥で殆ど無意識に思つてゐるらしくも見える。実にイワンと己との交際は不思議だと云はなくてはならない。なんだか二人の間の交誼の十分の九は忿懣から成立つてゐるとでも云ひたい位である。それに拘はらず己はこの晩にはイワンに優しく別を告げた。
の持主のドイツ人は己の側へ歩み寄つて、「あなたのお友達は己はドイツ人のまだ何か言ひさうにしてゐるのを遮つて聞いて見た。「それはさうと忘れない内にあなたに聞いて置きたいのですが、もしあの
を買ひ取るものがあつたら、幾ら位で手放して下さるでせうか。」己のこの問を発したのを、
の中にゐるイワンも聞いて、己よりも熱心にドイツ人の答を待つてゐるらしかつた。察するにイワンの心では、ドイツ人に余り低い
の腹の中から、豚のうなるやうな、一種特別なドイツ人は己の問に答へたくない様子であつた。そんな事を問うて貰ひたくはないと、腹を立てたらしかつた。顔が

を売ると云ふ気はわたしには無いのです。よしやあなたが百万タアレル出すと云つても、わたしは売りません。けふなんぞは見料が百三十タアレル取れたのです。あしたは一万タアレル取れるかも知れない。追々毎日十万タアレルも取れるやうになるかも知れない。いつまでも売るわけには行きませんよ。」
の腹の中でイワンが愉快げに笑ひ始めた。己は腹の立つのを我慢して、成るべく冷静な態度を
だつてどうかしてはじけまいものでもない。中に這入つてゐるイワン君だつて病気になる事もあらう。死なないにも限らない。まづざつとこんな事を言つた。ドイツ人は十分考へたらしく、とう/\かう云つた。「いやわたしは
に飲ませて、死なないやうにしますよ。」「薬が利けば好いが、それは受け合はれないでせう。それはどうでも好いとして、あなたは警察や裁判所から彼此言はれる事があるかも知れない。そこを考へて見ましたか。早い話があの腹の中にゐるイワン君には、御承知の通り法律上立派な細君がありますよ。あの細君が法廷に訴へて夫の返却を請求したらどうです。あなたは収入の事ばかり考へて、金持になる料簡でゐるやうですが、イワン君の細君に償金を出すとか、恩給を仕払ふとか云ふ事を考へて見ましたか。」
ドイツ人はきつぱり答へた。「いや、そんな事は考へてゐません。」
「そんな事を考へて溜まるもんですか。」
「さうでせう。さうして見るとあなた方の考は周到だと云はれますまい。未来がどうなるか分からないのに、うか/\としてゐるよりは、今の内に一度に金を手に入れた方が好くはないでせうか。
ドイツ人は所謂おつ母さんを引つ張つて、見せ物場の一番奥の隅の所に連れて行つた。一番大きい、一番醜い猿の籠に入れてある所である。そこで二人は囁き合つてゐた。
イワンは意味ありげな調子で己に言つた。「まあ、どうなるか見てゐ給へ。」
己はうんとドイツ人をなぐつて遣りたかつた。それから所謂おつ母さんを、亭主よりも一層ひどくなぐつて遣りたかつた。最後に所謂おつ母さんよりも一層ひどくなぐつて遣りたかつたのは、高慢なイワンである。
まだドイツ人の返事を聞かないうちに、己はその位に思つてゐたが、貪慾なドイツ人の返事は又想像より甚しかつた。ドイツ人は上さんと十分相談したものと見えて、見せ物場の隅から出て来てかう云ふ請求をした。
の代価としては五万ルウベルを最近の内国債証券で払つて貰ひたい。それからゴロホワヤの石造の家屋を一軒貰ひたい。但しその家屋には薬局が一つ付いてゐなくてはならない。それから今一つは自分をロシアの陸軍大佐にして貰ひたいと云ふのである。イワンが凱歌を奏するやうに叫んだ。「それ見給へ。僕の思つた通りだ。陸軍大佐に任じて貰はうと云ふのは行はれない事だが、その外の要求は至当な事だよ。中々わけの分かつた男で、自分の所有品の値踏をする事は心得てゐるね。兎に角何事に依らず経済問題が先に立つのだて。」
己は腹を立てゝドイツ人に言つた。「一体あなたは陸軍大佐になつてどうしようと云ふのですか。それにそんな上級の軍人にならうと云ふには、これまでどんな履歴があるのですか。どんな軍功を立てたのですか。どこの戦争に参与して、ロシアの本国の為めにどんな手柄をしてゐますか。まさか気が変になつてゐるのではないでせうね。」
ドイツ人はさも侮辱せられたと云ふやうな態度で答へた。
「わたしを狂人だと云ふのですか。わたしは狂人どころではない。普通よりも気がしつかりしてゐるのだ。さう云ふあなたこそどうかしてゐると見えます。まあ、考へて御覧なさいよ。腹の中に生きた官吏を入れてゐる
を持つてゐて、人に見せる事の出来る人間なら、大佐位にしたつて好いです。このロシアに一人でも生きた官吏を腹に入れてゐる
を持つてゐて、人に見せる事の出来るものがありますか。わたし位智慧があれば、大佐になるには十分です。」己は体が震ふほど腹が立つたので、「イワン君、さやうなら」と言ひ放つて、見せ物場を駆け出した。己は殆ど我慢がし切れなくなつてゐた。ドイツ人もドイツ人だが、イワンもイワンである。二人とも途方もない夢を見てゐるではないか。それを考へると、どうも我慢がし切れないのである。
見せ物場の外へ出て、冷たい夕暮の空気に触れたので、己の腹の立つのが少し直つた。己は
横になつてからつく/″\考へて見ると、イワンが己を書記に使ふと言つた時、己はそれに反対しなかつた。さうして見ると、もう書記になる事を承諾したも同じ事である。これから先毎晩あの見せ物小屋へ出掛けて行つて、あいつの饒舌る事を書くのだらうか。その苦みをする報に何があるかと云ふと、唯友人の為めに尽すと云ふ満足を感ずるだけの事である。己は腹が立つて、自分で自分をなぐりたくなつた。実際己はランプを吹き消して、掛布団を掛けた跡で
四
猿の夢を見たのは前日に見せ物小屋で、
と一しよに飼つてある猿を見たからである。それとは違つて、イワンの妻君エレナを夢に見たには、別にわけがある。己はこの場で正直に言つてしまふ。己はあの女を愛してゐる。かう云つても、己の詞を誤解して貰つては困る。己があの女を愛すると云ふのは、親父が娘を愛すると同じである。どうしてあの女を愛してゐると云ふ事が己に分かつたかと云ふに、己は度々あの女の小さい頭を引き寄せて、接吻をして遣りたく思つたのに気が附いたのである。接吻をするにはあのふつくりした桃色の頬つぺたでも好いと思つた。併し己はそんな事を実行した事はない。白状の
エレナは
己の這入つて来たのを見て、気の散つてゐる様子で
「それではあなたはきのふ仮装舞踏にお出でしたか。一体僕は舞踏会には行かない流義です。それにゆうべは
「どこですと。誰の所に入らつしやつたのですと。俘になつてゐるとは誰の手ですの。ああ、さうさう。あの人の事ですか。何をしてゐましたの。退屈だと云つてゐましたか。それはさうとわたしあなたに伺ひたい事があつてよ。どうでせう。わたし今の身の上で離婚の訴訟を起す事は出来ないでせうか。」
「離婚ですと。」かう云つた己の手からは茶碗があぶなく落る所であつた。そして腹の中では「あの
髭黒と云ふ男がある。八字髭が黒いから、己がさう云ふ名を付けてゐる。この男は建築局の役人で、近頃頻にエレナの所へ尋ねて来る。それがエレナに頗る気に入つてゐるらしい。察するに髭黒奴は昨晩どこかでエレナに逢つただらう。舞踏会ででも出逢つたか、それともこの部屋に来て話をしたのかも知れない。兎に角ゆうべあたり入智慧をしたのだなと思ふと、己は腹が立つてならなかつた。
エレナは急にじれつたいやうな様子をして言ひ出した。「だつてあなた考へて御覧なさいな。どう云ふものでせう。あの人は
の腹の中にゐて、事に依つたら生涯帰つて来ないかも知れないでせう。それなのにわたしがこゝに此儘ぢつとしてゐて待ぼけにならなくてはならないのでせうか。一体夫と云ふものは内にゐる筈のものではないでせうか。
の腹の中なんぞに澄ましてゐて好いでせうか。」この詞は己にはなんだか人が言つて聞かせたのを受売をしてゐるやうに聞えた。そこで己は少し激して云つた。「そんな事を仰やつても、
に呑まれたのは予期すべからざる偶然の出来事ではありませんか。」己が反対しさうになつたのを見て、細君も腹立たしげに己の詞を遮るやうに
己は殆ど荘重な語気で云つた。「エレナさん。一体今のお詞はたしかにあなたの口から出たのでせうか。どこかの悪党があなたに入智慧をしたのではないでせうか。それに俸給が出なくなる位な事実が、離婚の理由なんぞになるものですか。まあ、考へて御覧なさい。イワン君はあなたの事を思つて病気にもなり兼ねない様子ですよ。気の毒ではありませんか。ゆうべも、あなたの方では舞踏会なんぞへ行つて楽んでゐたのに、イワン君はさう云つてゐました。万已むを得ざる場合には、正妻たるあなたの事だから、一しよに
の腹の中に住つて貰ふやうにしようかと云つてゐました。それは
の腹が存外手広で、二人どころではない、三人でもゐられさうだからと云ふのです。」かう云つて、己は細君は不思議がつて聞いてしまつて云つた。「おやおや、まあ。あなた真面目でわたしにもあの
の腹の中へ這ひ込めと仰やるの。あの中に宅と一しよにゐろと仰やるの。まあ、御親切様ね。どうしてそんな事が出来ると、お思ひなさるの。帽子を被つて、わたしの着てゐるやうな馬の毛の這入つた
の中で何か慰みになる事があるでせうか。芝居も見られませんわ。それにゴムの匂がするのですつて。溜らないぢやありませんか。それからあの中で宅と喧嘩をし出かしたらどうでせう。喧嘩をしても、引つ付いてゐなくてはなりませんのね。おう、厭だ。」己は細君の詞を急に遮つた。誰でも人と争つて、自分の方が道理だと思ふと、人の詞を聞いてはゐられないものである。
「分かりました、分かりました。併しあなたは只一つ大切な事を忘れて入らつしやるのです。それをなんだと云ふと、イワン君がどう云ふ場合にあなたをあそこへ引き取るかと云ふ事です。イワン君が万已むを得ざる場合と云つたのは、もうあなたに逢はずには生きてゐられないと云ふ時期の来た場合ですよ。それは恋愛の為めにさうなるのです。熱烈な、誠実な恋愛ですよ。あなたは恋愛と云ふ事を忘れてお出なさるのです。」
細君は小さい、
の腹の中がお好きなら、御自分で這ひ込んで入らつしやるが好いわ。あなた宅のお友達でせう。恋愛の為めに這ひ込むのが義務なら、友誼の為めに這ひ込むのも義務でせうから、あなたが這ひ込んで、生涯宅と一しよにゐて、たんと喧嘩をなさるとも、いつもの退屈な学問のお話をなさるともなさるが好いわ。」己は細君の余り思慮のないのを
の体は非常に伸縮自在だから、二人には限らない、三人でもゐられると云つたのです。それはあなたと僕とを引き取る事も出来ると云ふ意味でせう。」妻君は呆れた様子で、妙な目をして己の顔を見た。「三人一しよに這入つてゐるのですつて。まあ、どんな工合でせう。あの、宅とわたしとあなたと三人ですね。おほゝゝ。まあ、宅も宅だが、あなたもとぼけて入らつしやる事ね。おほゝゝ。さうなれば、わたしのべつにあなたをつねつてゐてよ。ようございますか。おほゝゝ。」余程
その細君の笑つて涙を
細君は別に厭がる様子もなく、接吻させてゐたが、しまひに和睦の印とでも云ふわけか、己の耳を指で
己は妻君の機嫌の直つたのを見てきのふイワンの話した将来の計画を
細君は熱心に云つた。「さうなりますと、着物がいろ/\入りますわね。あなたさう云つて下さいな。さうするには是非成るたけお金をたんとよこさなくては駄目だと、さう云つて下さいな。それは好いが。」妻君は物案じをする様子で語調を
「それはさうと、僕は忘れてゐた事があります。きのふチモフエイさんはあなたの所へ来やしませんか。」
「えゝえゝ。参りましたの。わたしを慰めてくれるのだと云つて、参りましたの。そして長い間トランプをして帰りましたわ。あの方が負けるとボン/\入をくれますの。わたしが負けると手にキスをさせて上げますの。可笑しいぢやありませんか。も少しで一しよに舞踏会へ来る所でしたの。可笑しいぢやありませんかねえ。」
「それはあなたに迷はされたのです。誰だつてあなたに迷はされないものはありません。あなたは
「またお世辞を仰やるのね。わたし
「なに、そんなにいろ/\な事は言はれませんでした。わたしの見た所では、イワン君はおもに人類一般の運命と云ふやうな事を考へてゐるのです。」
「さう。そんな事を幾らでも考へるのが好うございます。もう伺はなくつても沢山。いづれひどく退屈してゐますのね。いつかわたしもちよつと行つて見て遣りませう。事に依つたら、あすでも参つて見ませう。けふは駄目ですわ。わたし頭痛がするのですから。それに沢山見物人が寄つてゐる事でせうね。大勢で、あれがあの人の女房だと云つて、わたしに指ざしをするかも知れませんのね。わたし厭だわ。そんなら又入らつしやいな。晩には宅の所へ入らつしやいますの。」
「無論です。新聞を持つて行く筈ですから。」
「ほんとに御親切です事ね。新聞を持つて入らつしやつたら、少しの
「ははあ、今夜は髭黒が来るのだな」と腹の中で己は思つた。
役所では己は誰にも気取られないやうにしてゐた。世間に心配と云ふものがあるか知らと云ふやうな顔をしてゐたのである。そのうちふと気が付いて見ると、けふに限つて或る進歩派の新聞が忙しげに手から手へ渡されてゐる。そして同僚が皆厭に真面目な顔をしてそれを読んでゐる。最初に己の手に渡つたのはリストツク新聞である。この小新聞はどの政党の機関と云ふでもなく、広く人道を本として議論をすると云ふ風である。さう云ふわけで同僚はいつも馬鹿にしてゐるが、其癖読まずには置かない。己はリストツク新聞に次の記事のあるのを見出した。
「吾人は昨日帝都中に一種の不可思議なる風聞あるを耳にせしが、幾ばくもなくして、その風聞の事実なる事を確認したり。都下知名の紳士にして料理通を以て聞ゆる某氏は有名なる某倶楽部の割烹にも満足せざるらしく、昨日午後突然外国より輸入して、同所に於て公衆に示す事となり居る
を見るや否や、
の持主の承諾をも経ず、即座にその
を
の体の柔かき所を選びて、ナイフにて切り取り、漸次に食ひて、終に
の全体を食ひ尽したり。想ふに某氏は猶飽かずして見せ物師をも食はんとしたるならん。何となれば
を
の
を食ふ事を排斥すべきにあらず。否、吾人はこの旨味ある新食品の愈々盛んに我国に輸入せられん事を希望して
を捕へて食する事我国人の熊を捕へて食ふと異る事なし。聞く所に依れば、英人は
猟の組合を組織して
を捕へ、その
を嗜み、英人の背肉を食ふに反して、
の短く且太き脚の肉を食ふと云ふ。一説に依れば仏人の
の脚を
肉
肉食用の行はれざるは大欠点と云ふべし。既に
の輸入せらるゝ時期もまた恐らくは一年を出でざるべし。且将来我国に於ても
を繁殖せしむる事必ずしも不可能にあらざるべし。
の游泳するを見て楽む事を得べく、少年児童は早く熱帯動物に関する知識を得る便あるべし。食用に供したる
の皮革は種々の製作の原料となる。例之ば行李、巻煙草入、折鞄その他種々の容器となす事を得べし。吾人は現今商家の為めに尊重せらるゝ旧紙幣の千ルウベルを
革の札入より取り出すを見る時期の遠からざるを想はずんばあらず。吾人は時期を見て更にこの問題に関して論ずる事あるべし。」己はどんな事が書いてあつても驚かない積りで読んだのだが、この文章には少からず驚いた。己の右左にゐる役人には、意見を交換するに適当な人物がゐないので、己は向側に坐つてゐるプロホル・サヰツチユの方を見た。ところがプロホルの顔は余程前から己の様子を覗つてゐたと見えて、手にはヲロス新聞を持つてゐて、己のが済んだら取換て見ようとしてゐる。己に顔を見られると、プロホルは黙つてリストツク新聞を受け取つて、代りにヲロス新聞を渡したが、渡す時指の
「吾人は進歩主義を奉じ、人道的に
を携へ来り、新道に於て公衆に示す事とせり。斯の如き有益にして人智開発上
を飼養しあるブリツキ盤に近づき、
の口内に闖入せり。
はその儘彼の人物を口内に置く時は窒息すべきを以て、自営上止むを得ず彼の人物を
の胃中に入りてこゝに住居を卜し、
の持主の嘆願を容れず、
の胃中に滞留せり。警察の力を借りて退去を命ぜんと威嚇するものありしが、該人物は依然聴許せず。
の胃中よりは笑声洩れ聞え、又
の腹を切開せんと脅迫するに至る。憫むべき
は斯の如き長大なる物を呑みたる為め頻に落涙しをれり。我国の
は
の為めには非常に困難なるべき事論なし。
は長大なる物を腹中に貯へ、寸毫も身を動かすこと能はずして盤中に横り、己は
「なにが。」
「どうも
に呑まれたイワンに同情せずに、却て呑んだ
に同情してゐるぢやありませんか。」「それが不思議ですか。動物にまで同情するのです。理性のない動物にまで同情するのです。これでは西欧諸国にも負けてゐませんね。あつちもそんな風ですから。へゝゝゝ。」
己は二枚の新聞をポツケツトに捻ぢ込んで序にペエテルブルク新報やヲロスの外の日のをも集めて持つて、この日にはいつもより早く役所を出た。まだ約束の時刻までには、大ぶ時間があるが、己は急いで新道に往つて、せめて遠方からなりとも、
とイワンとの様子を見たり、見物人の話してゐる事を聞いて、人心の観察をしたりしようと思つたのである。いづれ見物人の数は多からうと思つたので、己は用心の為め外套の
ergew
hnliche Begebenheit oder eine Passage in der Passage.
mtliche Werke. 2. Abteilung, 17. Band. Onkelchens Traum und andere Humoresken. (Onkelchens Traum. Die fremde Frau und der Mann unter dem Bett. Das Krokodil.) Deutsch von E. K. Rahsin. M
nchen und Leipzig, Verlag von R. Piper u. Co. 1909.