ほうっとする程長い白浜の先は、また目も届かぬ海が揺れてゐる。其波の青色の末が、

我々の血の本筋になつた先祖は、多分かうした島の生活を経て来たものと思はれる。だから、此国土の上の生活が始つても、まだ
郵便船さへ月に一度来ぬ勝ちであり、島の木精がまだ一度も、巡査のさあべるの音を口まねた様な事のない処、
其が又、一年の中にも、二つの年の型を入れて来た。国家以後の考へ方と思ふが、一年を二つに分ける風が出来た。此は帰化外人・先住漢人などの信仰伝承が、さうした傾向を助長させたらしい。つまり中元の時期を界にして、年を二つに分ける考へである。第一に「大祓へ」が、六月と十二月の
其が後には、仏説を習合して、七月の盂蘭盆を主とする様になつた。だが、其以前から既に、秋の
だが、其一つ前の暦はことしだけであつた。さう言ふ一年より外に、回顧も予期もなかつた邑落生活の記念が、国家時代まで、又更に近代まで、どういふ有様に残つてゐたかを話したい。
鹿島の
洋中の孤島に渡らずとも、おなじ「つれ/″\」は、沖縄本島にも充ち満ちてゐる。首里王朝盛時なら、生きながら
加納諸平の「鰒玉集」には、島の貴族の作つたやまと歌が載つてゐる。薩摩の八田氏などから供給せられた材料であらう。其頃からもう、伊勢物語をなぞつた様な、島の貴族の自叙伝も出来てゐた。源氏や古今や万葉も、手に触れた人は尠くなかつた。国の古蹟・家の由緒を語る
おもろ草紙の古語にも、生きた首里の
島の木立ちに、
此頃になつて、又一つの島人の誇りが殖えて来た。鮎と言ふ魚は、日本の版図以外には棲まぬものである。其南部だけに、此魚の溯る川ある樺太も、だから、日本の領土になつた。かう言ふ噂が伝つて来たところが、沖縄にも唯一个処ながら鮎の棲む川があつた。宿命的にいや、血族的にやまと人たる証拠に違ひない。かうした考へが起るに連れて、支那と薩摩を両天秤にかけた頃のくすんだ気持ちは、段々とり払はれて行く様である。
其の鮎の獲れる場処と言ふのは、
東京へ引き出しても、
源河
私は其前年かに、宮古島から戻つて来て、今大阪外国語学校に居るにこらい・ねふすきいさんから、一つの好意に充ちた抗議を受けてゐた。私の旧著万葉集辞典と言ふのは、今では人に噂せられるさへ、肩身の窄まる思ひのする恥しい本である。其中に「
宮古方言しぢゆん――日本式に言ふと、しでる――は、若返ると言ふのが、其正しい用語例である。沖縄諸島の真の初春に当る清明節の朝汲んだ水は、神聖視せられてゐる。ある地方では「
なんでも月がまつ白に照つて、ある旧王族の
『末吉さん。此間も聞いたよ。
かう川平さんも、口を挿んだ。私は、残念でもねふすきいさんの説が、段々確かになつて来るのを感じた。
『お二人さん。私の考へはかうです。今のお話で、しぢゆんに二義ある事が知れました。孵る義と、沐浴に関する義とです。此は一つの原義から出たので、やつぱり先から言うてゐる「若がへる」と言ふ事に帰するのでせう。清明節に若水を国王に進める時に言うた語で「若がへりませ」の義であつた。其が、水をまゐらせる時のきまり文句として、常の朝の手水にも申し上げた。いつか「若やぎ遊ばせ」位の軽い意にとられて、国王以外の人々にも、鄭重な感じを以て言はれる様になつて「顔手足をお洗ひなさい」の古風な言ひまはしと考へられてゐるのです。教へて頂いた源河節なども、清明節の
こんな話などをして那覇の宿へ引きとつた。其後四五日経つて、先島の方へ出掛けた。宮古島でもやはり孵る事らしい。八重山の
氏其他が申し合せた様に証歌をあげて説かれた。「やくぢゃま節」などにある「まれる(=うまれる)かい、すでる(=しぢる)かい」のすでるは、まれるの対句だから、やはり「生れる甲斐」である。しぢゆんの孵るも、実は生れるといふ義から出たのだ。かう言ふ主張は、四五人から聞いた。此島出の最初の文学士で、琉球諸島方言の採訪と研究とに一生を捧げる決心の宮良当壮君の「採訪南島語彙稿」の「孵る」の条を見ると、凡琉球らしい色合ひのある島と言ふ島は、道の島々・沖縄諸島・先島列島を通じて、大抵しぢゆん・しぢるん・すでゆんなどに近い形で、一般に使はれてゐる事が知れる。謂はゞ沖縄の標準語である。宮良君の苦労によつて訣つた事は、しぢゆんが唯の「生れる」ことでないらしい事である。今度、宮良君が島々を歩く時には、「若返る」「沐浴する」「禊する」などに当る方言を集めて来てくれる様に頼まう。
清明節のしぢ水に、死んだ蛇がはまつたら、生き還つて這ひ去つた。其がしぢ水の威力を知つた初めだと説くのが、先島一帯の若水の起原説明らしい。此語は其以前ねふすきいさんも、宮古・離島に採訪して来た様である。ある種の動物にはすでると言ふ生れ方がある。蛇や鳥の様に、死んだ様な静止を続けた物の中から、又新しい生命の強い活動が始まる事である。生れ出た後を見ると、卵があり、殻がある。だから、かうした生れ方を、母胎から出る「生れる」と区別して、琉球語ではすでると言うたのである。気さくな帰依府びとは、しぢ水とも若水とも言ふから、すでる・しぢゆんに若返ると言ふ義のある事を考へたのである。さう説ける用例の、本島にもあつたことを述べた。
さう説くのが早道でもあり、ある点まで同じ事だが、論理上に可なりの飛躍があつた。すでるは母胎を経ない誕生であつたのだ。或は死からの誕生(復活)とも言へるであらう。又は、ある容れ物からの出現とも言はれよう。しぢ水は誕生が母胎によらぬ物には、実は関係のないもので、清明節の若水の起原説明の混乱から出てゐる事を指摘したのは、此為である。すでることのない人間が、此によつてすでる力を享けようとするのである。
なぜ、すでることを願うたか。どうしてまた、此から言ふ様に、すでる能力のある人間が間々あつて、其が人間中の君主・英傑に限つてあることなのか。此説明は若水の起原のみか、日・琉古代霊魂崇拝の解説にもなり、其上、暦法の問題・祝詞の根本精神・日本思想成立の根柢に
すでると言ふ語には、前提としてある期間の休息を伴うてゐる。植物で言ふと枯死の冬の後、春の枝葉がさし、花が咲いて、皆去年より太く、大きく、豊かにさへなつて来る。此週期的の死は、更に大きな生の為にあつた。春から冬まで来て、野山の草木の一生は終る。翌年復春から冬までの一生がある。前の一年と後の一年とは互に無関係である。冬の枯死は、さうした全然違つた世界に入る為の準備期間だとも言へる。
だが、かうした考へ方は、北方から来た先祖の中には強く動いてゐても、若水を伝承した南方種の祖先には、結論はおなじでも、直接の原因にはなつてゐない。動物の例を見れば、もつと明らかに此事実が訣る。殊に熱帯を経て来たものとすれば、一層動物の生活の推移の観察が行き届いてゐる筈だ。蛇でも鳥でも、元の殻には収まりきらぬ大きさになつて、皮や卵殻を破つて出る。我々から見れば、皮を蛻ぐまでの間は、一種のねむりの時期であつて、卵は誕生である。日・琉共通の先祖は、さうは考へなかつた。皮を
南島では屡、蝶を鳥と同様に見てゐる。神又は悪魔の
朝鮮では、鳥の卵を重く見るやうになつてゐた。卵から出た君主・英雄の話がある。古代君主の姓から、卵からと言ふより瓠から出たと解せられてゐるのもある。日本では朝鮮同様、殻其他の容れ物に入つて、他界から来ることになつてゐる。他界と他生物との違ひであるが、生物各別の天地に生きて、時々他の住居を訪ふものと見てゐた時代である。だから、畢竟おなじ事になるのだ。
かうした殻皮などの間にゐる間が死であつて、死によつて得るものは、外来のある力である。其威力が殻の中の屍に入ると、すでるといふ誕生様式をとつて、出現することになる。正確に言へば、外来威力の身に入るか入らぬかゞ境であるが、まづ殻をもつて、前後生活の岐れ目と言うてよい。だから別殊の生を得るのだ。一方時間的に連続させて考へる様になると、よみがへりと考へられるのである。すでるは「若返る」意に近づく前に「よみがへる」意があり、更に其原義として、外来威力を受けて出現する用語例があつたのである。
大国主は形から謂へば、七度までも死から蘇つたものと見てよい。夜見の国では、恋人の入れ智慧で、死を免れてゐる。此は死から外来威力の附加を得たことの変化であらう。智恵も一つの外来威力を与ふるところだつたのである。
よみがへりの一つ前の用語例が、すでるの第一義で、日本の「をつ」も其に当る。彼方から来ると言ふ義で、をちの動詞化の様に見えるが、或は自らするををつ、人のする時ををく(招)と言うたのか。さうすれば、語根「を」の意義まで溯る事が出来よう。をちなる語が、人間生活の根本を表したらしい例は、をちなしと言ふ語で、肝魂を落した者などを意味する。柳田国男先生は、まななる外来魂を
ちはやぶるの語原は「いちはやぶる」であるが、皇威の畏しき力をふるまふ事になる。此をうちはやぶるとも言うてゐるから、をちといつ・いちの仮名遣ひの関係が訣る。引いては、神の憑り来る事も動詞化していつと言ひ、体言化していつかし・いちにはなど言ふ様になつたものか。いつは、後世みたまのふゆなど言ひ、古くはをちと言うたのであらう。をとこ・をとめなども、壮夫・未通女・処女など古くから当てるが、村の神人たるべき資格ある成年戒を受けた頃の者を言うたのが初めであらう。
うずめと言ふ職は、鎮魂を司るもので、葬式にもうずめが出る。此資格の高いものを鈿女命と言ふ。臼女ではない。
血族の総体を一貫して筋と言ひ、其義から分化して線・点・処などに用ゐる。沖縄でもやはりすでには「完全に」の意である。すつ・うつ・うつるも皆「をはる」の意から、投げ出すの義になつたものである。すだくは精霊などの出現集合することであらう。
かうして見ると、をつ・いつに対するすつがあつた様である。奥津棄戸のすたへも霊牀の意であらう。をつ・いつに当る琉球の古語「すぢ」は、せち・しちなど色々の形になつてゐる。先祖などもすぢと言うた様である。よく見ると、神の義がある。
私は、すぢぁといふ「人間」の義の琉球古語の語原を「すでる者」「生れる者(あは名詞語尾)」の義に解してゐたが、
すぢぁに見える思想は、日本側の信仰を助けとして見ると、「よみがへるもの」でも訣るが、根柢は違ふ。一家系を先祖以来一人格と見て、其が常に休息の後また出て来る。初め神に仕へた者も、今仕へる者も、同じ人であると考へてゐたのだ。人であつて、神の霊に憑られて人格を換へて、霊感を発揮し得る者と言ふので、神人は尊い者であつた。其が次第に変化して来た。神に指定せられた後は、ある静止の後転生した非人格の者であるのに、それを敷衍して、前代と後代の間の静止(前代の死)の後も、それを後代がつぐのは、とりもなほさずすでるのであつて、おなじ資格で、おなじ人が居る事になる。
かうして幾代を経ても、死に依つて血族相承することを交替と考へず、同一人の休止・禁遏生活の状態と考へたのだ。死に対する物忌みは、実は此から出たので、古代信仰では死は穢れではなかつた。死は死でなく、生の為の静止期間であつた。出雲国造家の伝承がさうである。ほかでの祓へを科する穢れの、神に面する資格を得る為の物忌みであるのとは大分違ふ。家により地方により、此すでる期間に次代の人が物忌みの生活をする。休止が二つ重るわけである。皇室のは此だ。だから神から見れば、一系の人は皆同格である。日本の天子が日の神・
すでるの原義は、謂はゞ出現する事であつた。日本で言へば、出現の意のあると言ふ語である。或はいづである。すぢのつく動作を言ふ語で、即、母胎によらぬ誕生である。あると言ふ日本語も、在・有の義と言ふよりは、すでる義があつたのではないか。荒・現・顕などの内容があつた。あら人神など言ふのも、すぢぁにして神なる者と言ふことで、君主の事である。地方の小君主もあら人神なるが故に、社々の神主としての資格に当るので、其を回して、其祀る神にも言うた。併し古文の用例としては、神主を神なるものとして言うたと見る方がよい様だ。あれ(幣)に対して、いち・うた(歌)があり、いつ何と言ふ用語例も、厳橿・厳さかきなどになると、神出現の木と言ふ義を持つのかも知れぬ。神名のうしなどもうちの転化ではなからうか。日本の最古い神名語尾むちはうちであらう(おほなむち・おほひるめむち・ほむちわけなど)。
神人・巫女などに日を称したのもある。にぎはやび・たけひ、後世の朝日・照日などもある。ひとのとも、
むちは獣類の名となつて、
さて、をつはどうして繰り返す意を持つか。外来魂が来る毎に、世代交替する。さうして何の印象もなく、初めに出直すと見てゐたのが、段々時間の考へを容れた為、推移するものと観じて来た。出雲国造神賀詞の「
出雲国造は親任の時二度、中臣は即位の時一度だけであつたが、氏ノ上の賀正事になると毎年あつた。天子の魂のをつることを祈るのが初めで、其が繰り返すことを祈るのである。生者だから蘇るといふのでなく、生も死も昔は魂に対しては同待遇だつたのだ。其為、同じ語も生者に対しては「くり返す」ことになるのである。此が時代の進むに連れて若返る事になる。そして其霊力の本は食物にあつた。即、呪言のほを捧げるのである。
中臣天神寿詞には、天つ水と米との事が説かれてある。米の霊と水の魂とが、天子の躬に入るのであつた。此がをつるのであり、若返る意になる。誄詞に用ゐられると、蘇生を言ふ。正月の賀正事にも、氏ノ上はほを奉つて寿する。氏々を守つた此ほの外来魂を、天子が受けて了はれるのである。天子は氏々の上に事実上立たれたわけだ。
降伏の初めの誓詞も、此寿詞である。処が、をつと言ふ語が、段々健康をばかり祝ふ様になつて、年の繰り返しを言ふのを忘れて行つた。飯食に臨む外来魂をとり入れる信仰から、よるべの水の風習も出て来る。魂と水との関係である。人の死んだ時水を飲ませるのも、此霊力観が段々移つて行つたのだ。死屍に跨つてする起死法も水のない寿詞だ。唯身分下の人の為にする方式だつたのだ。
呑む水の信仰が、従つて洗ふ水になつた。初春の日には、常世から通ずるすで水が来る。首里朝時代には、すで水は、国頭の極北
但、神が若水を齎すのは、日本では、臣になつた神が主君なる神の為にであつた。島の村々の中では、或は五穀の種の外に、清き水をも齎し、壺のまゝ漂したこともあらう。沖縄の島では、穀物の漂著と共に、「うきみぞ・はひみぞ」の由来を説いてゐる。此も常世の水が出たのである。人が呑むと共に、田畠も其によつて、新しい力を持つのだ。
すでることの出来る人は、君主であつた。日本にも母胎から出なかつた神は沢山あつた。いざなぎの命
神皇正統記の神代巻の終りなどを教へると、若い人たちは笑ふ。なまいきなのは、人皇の代の年数までも其伝で、可なり為政者等が長めたものだらうと言ふ。こんな入れ智慧をする間に、歴史学研究の方々はも一度すで水で顔も腸も洗うた序に、研究法もすでらせるがよい。日本人には、そんな寿命の人を考へる原因があり、歴史があるのだ。そして、同じ名の同じ人格の同じ感情で、同じ為事を何百年も続けてゐた常若な
日本人が忘れたまゝで若水を祝ひ、島の人々がまだ片なりに由緒を覚えてすで水を使うてゐる。日・琉双方の初春の若水其は、つれ/″\を佗ぶる事を知らぬ古代の村人どもが、春から冬までの一年の外は、知らず考へずに居つた時代から、言葉を換へ/\して続けて来た風習である。考へて見れば、其様にくり返し/\、日本の国に生れた者は日本国民の名で、永くおのが生命を託する時代の事だと考へて来もし、行きもするのだ。我々の資格は次の世の資格である。人の村や国或は版図に対しては、その寿詞を受ける度に其外来魂をとり入れ/\して、国は段々太つて来た。長い伝統とは言ふが実は、海の村人の如く、全体としては夢の一生を積み/\して来た結果である。すで水を呑むのは、選ばれた人だけだつた。其にも係らず、人々は皆其にあやからうとした。せめては自家の井戸からでも、一掬の常世の水を吊らうと努力して来た。さうして家や村には、ともかくこんな人が充ちてゐたのだ。すで人からのあやかりものである。此機会に「おめでたごと」の話を言ひ添へて置かう。
下品な語だが「さば」を読むと言ふ。うつかりと此話にも「さば」を読んだところがある。「さば」は
春の初めと盆前の七日以後、後の藪入りの前型だが、さばを読みに出かけた。親に分れて住む者は、親の居る処へ、舅・姑のゐる里へも、殊に親分・親方の家へは子分・子方の者が、何処に住まうが遠からうが、わざ/\挨拶に出かけた。藪入りの丁稚・小女までが親里を訪れるのは、此風なのだ。だから日は替つても、正月・盆の十六日になつてゐる。
閻魔堂・十王堂・地蔵堂などへ参るのは、皆が魂の動き易い日の記念であつたので、魂を預かる人々の前に挨拶に出かけたのだ。此は自分の魂の為であらう。また家へ帰るのは、蕪村が言うた「君見ずや。故人太祇の句。藪入りのねるや一人の親のそば」。さうした哀を新にする為に立ちよるのではなかった。親への挨拶よりも、親の魂への御祝儀にも出かけたのだ。
「おめでたう」はお正月の専用語になつたが、実は二度の藪入りに、子と名のつく者
此日可なり古くから、夏の
こゝまで来てやつと、前の天皇の賀正事や神賀詞・天神寿詞の話に続くことになる。あゝした長い自分の家が、天子の為に忠勤を抽づるに到つた昔の歴史を述べた寿詞を唱へ、其文章通り、先祖のした通り自分も、皇祖のお受けになつたまゝを、今上に奉仕する事を誓ふのである。さうして其続きに、そのかみ、皇祖の為に奏上した健康の祝辞を連ね唱へて、陛下の御身の中の生き御霊に聞かせるのであつた。
此風が何時までも残つてゐて、民間でも「おめでたう」は目下に言うたものではなかつたのである。「をゝ」と言つて、顎をしやくつて居れば済んだのだ。
幾ら繁文縟礼の、生活改善のと叫んでも、口の下から崩れて来るのは、皆がやはりやめたくないからであらう。「おめでたう」の本義さへ訣らなくなるまで崩れて居ても、永いとだけでは言ひ切れぬ様な、久しい民間伝承なるが故に、容易にふり捨てる事は出来ないのである。
町人どもの羽ぶりがよくなる時代になつて、互に御得意様であり、ひいきを受け合うてゐるやうな関係が出来上つて来た。職人歌合せや絵巻の類の盛んに出てゐた頃は、保護者階級と供給者の地位とは、はつきり分れてゐた。職人と言ふのが、世間には檀那ばかりで、どちら向いても頭のあがらぬ業態で、他人の為の生産や労働ばかりしてゐた人々なのである。中臣祓へばかり唱へてゐる様な下級の神主・陰陽師、棚経読んで歩く様な房主をはじめ、今言ふ諸職人・小前百姓・猟師・漁人などに到るまで、多くは土地に固定した基礎を持たない生計を営む者である。上古の部曲制度の変形をしたもので、檀那先は拡つても、職の卑しさは忘れて貰はれない時代であつた。
職人の大部分が浄化せられて町人となり、町人の購買力が殖えて来て、お互どうしの売り買ひが盛んになつた。どちらからもお得意であり、売り手であると言ふ様になると、需要供給関係が、目上目下を定めて居た時代のなごりで、年頭の「おめでたう」は、両方から鉢合せをする様になる。かうして廻礼先がむやみに殖えて、果は祝福のうけ手・かけ手の秩序が狂うて来たのであつた。
其「おめでたごと」をどこかしことなく唱へて歩いた一団の職人があつた。謂はゞ祝言職である。此とても元は、一つの家なり、一つの社寺なり、隷してゐる処が厳重にきまつて居たのだが、中には条件つきで、わざ/\さうした保護の下にのめりこんで来た連中もあつて、段々自由が利く様になつて行つた。寺から言へば
かうした連衆の中、うまく檀那にとり入つて、同朋から侍分にとり立てられたものもあるが、さうした進退の巧に出来なかつたものは、賤の賤と言ふ位置に落ちて了うた。此階級から能役者・万歳太夫・曲舞々・神事舞太夫・歌舞妓役者などが出た。もつと気の毒なのは、とても浮ぶ瀬のなかつた者と一つにせられた。
だが、一度唱へると不可思議な効果を現す其文句は、千篇一律であつた。後には色々の
千篇一律なるが故に効果のあつた祝言は、古い寿詞の筋であつた。後世の祝祭文の様に当季々々の妥当性を思はないでもよかつたのが、寿詞の力であつた。寿詞を一度唱へれば、始めて其誓を発言したと伝へる神の威力が、其当時と同じく対象の上に加つて来る。其対象になつた精霊どもは、第一回の発言の際にした通りの効果を感じ、服従を誓ふ。すべてが昔の儘になる。此効果を強める為に、其寿詞の実演を「わざをぎ」として演じて、見せしめにした。文句は過去を言ふ部分が多く加り変つて来ても、詞章の元来の威力と副演出のわざをぎとで、一挙に村の太古に還る。今日にして昔である。村人は、今始めて神が来て、精霊に与へる効果をも信じたのである。其力の源は、寿詞にある。寿詞は、物事を更にする。更は、くり返すことである。さらは
さらはさるの副詞形である。去来の意のさるは、向うから来ることである。春の初めの猿楽も、古くから行はれたらうと思ふが、さる――今は縁起を嫌ふ――がをつと同意義に近かつたのではなからうか。猿女君のさるも、昔を持ち来す巫女としての職名であつたのではないか。