鳳兮。鳳兮。何徳之衰。
往者不可諫。来者猶可追。已而。已而。今之従政者殆而。
西暦紀元前四百九十三年。
左丘明、
孟軻、
司馬遷等の記録によれば、
魯の
定公が十三年目の
郊の祭を行われた春の始め、
孔子は数人の弟子達を車の左右に従えて、其の故郷の魯の国から伝道の途に上った。
泗水の河の
畔には、芳草が青々と芽ぐみ、
防山、
尼丘、
五峯の
頂の雪は溶けても、沙漠の砂を掴んで来る
匈奴のような北風は、いまだに烈しい冬の
名残を吹き送った。元気の好い
子路は紫の
貂の
裘を飜して、一行の先頭に進んだ。考深い眼つきをした
顔淵、篤実らしい風采の
曾参が、麻の
履を穿いて其の後に続いた。正直者の
御者の
樊遅は、
駟馬の
銜を執りながら、時々車上の
夫子が老顔を
窃み視て、
傷ましい放浪の師の身の上に涙を流した。
或る日、いよ/\一行が、魯の国境までやって来ると、誰も彼も名残惜しそうに、
故郷の方を振り
顧ったが、通って来た路は
亀山の蔭にかくれて見えなかった。すると孔子は琴を執って、
われ魯を望まんと欲すれば、
亀山之を蔽いたり。
手に斧柯なし、
亀山を奈何にせばや。
こう云って、さびた、
皺嗄れた声でうたった。
それからまた北へ北へと三日ばかり旅を続けると、ひろ/″\とした野に、安らかな、
屈托のない歌の声が聞えた。それは鹿の裘に
索の帯をしめた老人が、
畦路に
遺穂を拾いながら、唄って居るのであった。
「
由や、お前にはあの歌がどう聞える。」
と、孔子は子路を顧みて訊ねた。
「あの老人の歌からは、先生の歌のような哀れな
響が聞えません。大空を飛ぶ小鳥のような、
恣な声で唄うて居ります。」
「さもあろう。
彼こそ
古の
老子の門弟じゃ。
林類と云うて、もはや百歳になるであろうが、あの通り春が来れば畦に出て、何年となく歌を唄うては穂を拾うて居る。誰か
彼処へ行って話をして見るがよい。」
こう云われて、弟子の一人の
子貢は、畑の
畔へ走って行って老人を迎え、尋ねて云うには、
「先生は、そうして歌を唄うては、遺穂を拾っていらっしゃるが、何も悔いる所はありませぬか。」
しかし、老人は振り向きもせず、餘念もなく遺穂を拾いながら、一歩一歩に歌を唄って止まなかった。子貢が猶も其の跡を追うて声をかけると、漸く老人は唄うことをやめて、子貢の姿をつく/″\と眺めた後、
「わしに何の
悔があろう。」
と云った。
「先生は幼い時に
行を勤めず、長じて時を
競わず、老いて
妻子もなく、漸く
死期が近づいて居るのに、何を楽しみに穂を拾っては、歌を唄うておいでなさる。」
すると老人は、から/\と笑って、
「わしの楽しみとするものは、世間の人が皆持って居て、却って憂として居る。幼い時に行を勤めず、長じて時を競わず、老いて妻子もなく、漸く死期が近づいて居る。それだから此のように楽しんで居る。」
「人は皆
長寿を望み、死を悲しんで居るのに、先生はどうして、死を楽しむ事が出来ますか。」
と、子貢は重ねて訊いた。
「死と生とは、一度往って一度
反るのじゃ。此処で死ぬのは、
彼処で生れるのじゃ。わしは、生を求めて
齷齪するのは
惑じゃと云う事を知って居る。今死ぬるも昔生れたのと変りはないと思うて居る。」
老人は斯く答えて、また歌を唄い出した。子貢には言葉の意味が解らなかったが、戻って来て其れを師に告げると、
「なか/\話せる老人であるが、然し其れはまだ道を得て、到り盡さぬ者と見える。」
と、孔子が云った。
それからまた幾日も/\、長い旅を続けて、
箕水の流を
渉った。夫子が戴く
緇布の冠は
埃にまびれ、狐の裘は雨風に色褪せた。
「魯の国から孔丘と云う聖人が来た。彼の人は暴虐な私達の
君や
妃に、
幸な教と賢い
政とを授けてくれるであろう。」
衛の国の
都に入ると、巷の人々はこう云って一行の車を指した。其の人々の顔は
饑と
疲に
羸せ衰え、家々の壁は
嗟きと
愁しみの色を湛えて居た。其の国の麗しい花は、宮殿の妃の眼を喜ばす為めに移し植えられ、肥えたる
豕は、妃の舌を
培う為めに召し上げられ、のどかな春の日が、灰色のさびれた街を
徒に照らした。そうして、都の中央の丘の上には、五彩の虹を
繍い出した宮殿が、血に飽いた猛獣の如くに、屍骸のような街を
瞰下して居た。其の宮殿の奥で打ち鳴らす鐘の響は、猛獣の
嘯くように国の四方へ轟いた。
「由や、お前にはあの鐘の音がどう聞える。」
と、孔子はまた子路に訊ねた。
「あの鐘の音は、天に訴えるような
果敢ない先生の
調とも違い、天にうち任せたような自由な林類の歌とも違って、天に背いた歓楽を
讃える、恐ろしい
意味を歌うて居ります。」
「さもあろう。あれは昔
衛の
襄公が、国中の
財と汗とを絞り取って造らせた、
林鐘と云うものじゃ。その鐘が鳴る時は、
御苑の林から林へ
反響して、あのような物凄い音を出す。また暴政に
苛まれた人々の呪と涙とが封じられて居て、あのような恐ろしい音を出す。」
と、孔子が教えた。
衛の君の霊公は、
国原を見晴るかす
霊台の欄に近く、雲母の
硬屏、
瑪瑙の
榻を運ばせて、
青雲の
衣を纒い、
白霓の
裳裾を垂れた夫人の
南子と、香の高い
秬鬯を酌み交わしながら、深い霞の底に眠る野山の春を眺めて居た。
「天にも地にも、うらゝかな光が泉のように流れて居るのに、何故私の国の民家では美しい花の色も見えず、
快い鳥の声も聞えないのであろう。」
こう云って、公は不審の眉を
顰めた。
「それは此の国の人民が、わが
公の仁徳と、わが夫人の美容とを讃えるあまり、美しい花とあれば、悉く献上して宮殿の
園生の
牆に移し植え、国中の小鳥までが、一羽も残らず花の香を慕うて、園生のめぐりに集る為めでございます。」
と、君側に控えた
宦者の
雍渠が答えた。すると其の時、さびれた街の静かさを破って、霊台の下を過ぎる孔子の車の
玉鑾が
珊珊と鳴った。
「あの車に乗って通る者は誰であろう。あの男の額は
尭に似て居る。あの男の目は
舜に似て居る。あの男の
項は
皐陶に似て居る。肩は
子産に類し、腰から下が
禹に及ばぬこと三寸ばかりである。」
と、これも
側に
伺候して居た将軍の
王孫賈が、驚きの眼を見張った。
「しかし、まあ
彼の男は、何と云う悲しい顔をして居るのだろう。将軍、
卿は
物識だから、彼の男が何処から来たか、
妾に教えてくれたがよい。」
こう云って、南子夫人は将軍を顧み、走り行く車の影を指した。
「私は若き頃、諸国を遍歴しましたが、周の史官を務めて居た
老
と云う男の他には、まだ
彼れ程立派な相貌の男を見たことがありませぬ。あれこそ、故国の政に志を得ないで、伝道の途に上った魯の聖人の孔子であろう。其の男の生れた時、魯の国には
麒麟が現れ、天には
和楽の
音が聞えて、
神女が
天降ったと云う。其の男は牛の如き唇と、虎の如き
掌と、亀の如き背とを持ち、
身の
丈が九尺六寸あって、文王の
容体を備えて居ると云う。彼こそ其の男に
違ありませぬ。」
こう王孫賈が説明した。
「其の孔子と云う聖人は、人に如何なる術を教える者である。」
と、霊公は手に持った盃を乾して、将軍に問うた。
「聖人と云う者は、世の中の凡べての智識の鍵を握って居ります。然し、あの人は、専ら家を
斉え、国を富まし、天下を平げる政の道を、諸国の君に授けると申します。」
将軍が再びこう説明した。
「わたしは世の中の美色を求めて南子を得た。また四方の財宝を
萃めて此の宮殿を造った。此の上は天下に
覇を唱えて、此の夫人と宮殿とにふさわしい権威を持ちたく思うて居る。どうかして其の聖人を此処へ呼び入れて、天下を平げる術を授かりたいものじゃ。」
と、公は卓を隔てゝ対して居る夫人の唇を
覗った。何となれば、平生公の心を云い表わすものは、彼自身の言葉でなくって、南子夫人の唇から洩れる言葉であったから。
「妾は世の中の不思議と云う者に遇って見たい。あの悲しい顔をした男が
真の聖人なら、妾にいろ/\の不思議を見せてくれるであろう。」
こう云って、夫人は夢みる如き瞳を上げて、遥に隔たり行く車の跡を眺めた。
孔子の一行が
北宮の前にさしかゝったとき、賢い相を持った一人の官人が、多勢の供を従え、
屈産の
駟馬に
鞭撻ち、車の右の席を空けて、
恭しく一行を迎えた。
「私は霊公の命をうけて、先生をお迎えに出た
仲叔圉と申す者でございます。先生が此の度伝道の途に上られた事は、四方の国々までも聞えて居ります。長い旅路に先生の
翡翠の
蓋は風に綻び、車の
軛からは濁った音が響きます。願わくは此の新しき車に召し替えられ、宮殿に駕を
枉げて、民を安んじ、国を治める先王の道を我等の
公に授け給え。先生の疲労を癒やす為めには、
西圃の南に水晶のような温泉が沸々と
沸騰って居ります。先生の咽喉を
湿おす為めには、御苑の園生に、
芳ばしい
柚、
橙、橘が、甘い汁を含んで実って居ります。先生の舌を慰める為めには、
苑囿の檻の中に、肥え太った
豕、熊、豹、牛、羊が
蓐のような腹を抱えて眠って居ります。願わくは、二月も、三月も、一年も、十年も、此の国に車を
駐めて、愚な私達の曇りたる心を
啓き、
盲いたる眼を開き給え。」
と、仲叔圉は車を下りて、慇懃に挨拶をした。
「私の望む所は、荘厳な宮殿を持つ王者の富よりは、三王の道を慕う君公の誠であります。萬乗の位も
桀紂の奢の為めには尚足らず、百里の国も尭舜の政を布くに狭くはありませぬ。霊公がまことに天下の禍を除き、庶民の幸を
図る御志ならば、此の国の土に私の骨を埋めても悔いませぬ。」
斯く孔子が答えた。
やがて一行は導かれて、宮殿の奥深く進んだ。一行の黒塗の沓は、塵も止めぬ砥石の床に
戞々と鳴った。
※々[#「てへん+參」、U+647B、34-8]たる女手、
以て裳を縫う可し。
と、声をそろえて歌いながら、多数の女官が、
梭の音たかく錦を織って居る
織室の前も通った。綿のように咲きこぼれた桃の林の蔭からは、苑囿の牛の
懶げに呻る声も聞えた。
霊公は賢人仲叔圉のはからいを聴いて、夫人を始め一切の女を遠ざけ、歓楽の酒の沁みた唇を
濯ぎ、衣冠正しく孔子を一室に招じて、国を富まし、兵を強くし、天下に王となる道を
質した。
しかし、聖人は人の国を傷け、人の命を
損う戦の事に就いては、一言も答えなかった。また民の血を絞り、民の財を奪う富の事に就いても教えなかった。そうして、軍事よりも、産業よりも、第一に道徳の貴い事を
厳に語った。力を以て諸国を屈服する覇者の道と、仁を以て天下を
懐ける王者の道との区別を知らせた。
「公がまことに王者の徳を慕うならば、何よりも先ず私の慾に打ち克ち給え。」
これが聖人の
誡であった。
其の日から霊公の心を左右するものは、夫人の言葉でなくって聖人の言葉であった。朝には
廟堂に参して正しい
政の道を孔子に尋ね、夕には霊台に臨んで
天文四時の運行を、孔子に学び、夫人の
閨を訪れる夜とてはなかった。錦を織る織室の梭の音は、
六藝を学ぶ官人の
弓弦の音、蹄の響、
篳篥の声に変った。一日、公は朝早く独り霊台に上って、国中を眺めると、野山には美しい小鳥が囀り、民家には麗しい花が開き、百姓は畑に出て公の徳を讃え歌いながら、耕作にいそしんで居るのを見た。公の眼からは、熱い感激の涙が流れた。
「あなたは、何を其のように泣いていらっしゃる。」
其の時、ふと、こう云う声が聞えて、魂をそゝるような甘い香が、公の鼻を
嬲った。其れは南子夫人が口中に含む
鶏舌香と、常に衣に振り懸けて居る
西域の香料、
薔薇水の匂であった。久しく忘れて居た美婦人の体から放つ香気の魔力は、
無残にも玉のような公の心に、鋭い爪を打ち込もうとした。
「
何卒お前の其の不思議な眼で、私の瞳を
睨めてくれるな。其の柔い
腕で、私の体を
縛ってくれるな。私は聖人から罪悪に打ち克つ道を教わったが、まだ美しきものゝ力を防ぐ術を知らないから。」
と、霊公は夫人の手を拂い除けて、顔を背けた。
「あゝ、あの孔丘と云う男は、何時の間にかあなたを妾の手から奪って了った。妾が昔からあなたを愛して居なかったのに不思議はない。しかし、あなたが妾を愛さぬと云う法はありませぬ。」
こう云った南子の唇は、激しい怒に燃えて居た。夫人には此の国に
嫁ぐ前から、宋の公子の
宋朝と云う
密夫があった。夫人の怒は、夫の愛情の衰えた事よりも、夫の心を支配する力を失った事にあった。
「私はお前を愛さぬと云うではない。今日から私は、夫が妻を愛するようにお前を愛しよう。今迄私は、奴隷が主に
事えるように、人間が神を
崇めるように、お前を愛して居た。私の国を捧げ、私の富を捧げ、私の民を捧げ、私の命を捧げて、お前の
歓を
購う事が、私の今迄の仕事であった。けれども聖人の言葉によって、其れよりも貴い仕事のある事を知った。今迄はお前の肉体の美しさが、私に取って最上の力であった。しかし、聖人の心の響は、お前の肉体よりも更に強い力を私に与えた。」
この勇ましい決心を語るうちに、公は知らず識らず額を上げ肩を
聳やかして、怒れる夫人の顔に面した。
「あなたは決して妾の言葉に逆うような、強い方ではありませぬ。あなたはほんとうに
哀な人だ。世の中に自分の力を持って居ない人程、哀な人はありますまい。妾はあなたを直ちに孔子の
掌から取り戻すことが出来ます。あなたの舌は、たった今立派な言を云った癖に、あなたの瞳は、もう
恍惚と妾の顔に注がれて居るではありませんか。妾は総べての男の魂を奪う
術を得て居ます。妾はやがて
彼の孔丘と云う聖人をも、妾の
捕虜にして見せましょう。」
と、夫人は誇りかに
微笑みながら、公を
流眄に見て、衣摺れの音荒く霊台を去った。
其の日まで平静を保って居た公の心には、既に二つの力が
相鬩いで居た。
「此の衛の国に来る四方の君子は、何を措いても必ず妾に拝謁を願わぬ者はない。聖人は礼を
[#「礼を」は底本では「礼をを」]重んずる者と聞いて居るのに、何故姿を見せないのであろう。」
斯く、宦者の
雍渠が夫人の旨を伝えた時に、謙譲な聖人は、其れに逆うことが出来なかった。
孔子は一行の弟子と共に、南子の宮殿に伺候して
北面稽首した。南に面する
錦繍の
帷の奥には、僅に夫人の
繍履がほの見えた。夫人が項を下げて一行の礼に答うる時、頸飾の
歩揺と腕環の
瓔珞の珠の、相搏つ響が聞えた。
「この衛の国を訪れて、妾の顔を見た人は、誰も彼も『夫人の

は
妲妃に似て居る。夫人の目は
褒
に似て居る。』と云って驚かぬ者はない。先生が
真の
[#「真の」は底本では「真に」]聖人であるならば、三王五帝の古から、妾より美しい女が地上に居たかどうかを、妾に教えては呉れまいか。」
こう云って、夫人は帷を排して晴れやかに笑いながら、一行を膝近く招いた。
鳳凰の冠を戴き、黄金の
釵、
玳瑁の
笄を挿して、
鱗衣霓裳を纒った南子の笑顔は、日輪の輝く如くであった。
「私は高い徳を持った人の事を聞いて居ります。しかし、美しい顔を持った人の事を知りませぬ。」
と孔子が云った。そうして南子が再び尋ねるには、
「妾は世の中の不思議なもの、珍らしいものを集めて居る。妾の
廩には大屈の金もある。
垂棘の玉もある。妾の庭には
僂句の亀も居る。
崑崙の鶴も居る。けれども妾はまだ、聖人の生れる時に現れた麒麟と云うものを見た事がない。また聖人の胸にあると云う、七つの
竅を見た事がない。先生がまことの聖人であるならば、妾に其れを見せてはくれまいか。」
すると、孔子は
面を改めて、厳格な調子で、
「私は珍らしいもの、不思議なものを知りませぬ。私の学んだ事は、
匹夫匹婦も知って居り、又知って居らねばならぬ事ばかりでございます。」
と答えた。夫人は更に言葉を柔げて、
「妾の顔を見、妾の声を聞いた男は、
顰めたる眉をも開き、曇りたる顔をも晴れやかにするのが常であるのに、先生は何故いつまでも其のように、悲しい顔をして居られるのであろう。妾には悲しい顔は凡べて醜く見える。妾は宋の国の宋朝と云う若者を知って居るが、其の男は先生のような気高い額を持たぬ代りに、春の空のようなうらゝかな瞳を持って居る。また妾の近侍に、雍渠と云う宦者が居るが、其の男は先生のように
厳な声を持たぬ代りに、春の鳥のような軽い舌を持って居る。先生がまことの聖人であるならば、豊かな心にふさわしい、麗かな顔を持たねばなるまい。妾は今先生の顔の憂の雲を拂い、悩ましい影を拭うて上げる。」
と、左右の近侍を顧みて、一つの
函を取り寄せた。
「妾はいろ/\の香を持って居る。此の香気を悩める胸に吸う時は、人はひたすら美しい幻の国に憧れるであろう。」
かく云う言葉の下に、金冠を戴き、蓮花の帯をしめた七人の女官は、七つの香炉を捧げて、聖人の周囲を取り
繞いた。
夫人は
香函を開いて、さま/″\の香を一つ一つ香炉に投げた。七すじの重い煙は、金繍の帷を這うて静に上った。或は黄に、或は紫に、或は白き
檀香の煙には、南の海の底の、幾百年に亙る
奇しき夢がこもって居た。十二種の
鬱金香は、春の霞に
育まれた芳草の精の、凝ったものであった。
大石口の沢中に棲む龍の
涎を、練り固めた
龍涎香の
香、
交州に生るゝ
密香樹の根より造った
沈香の気は、人の心を、遠く甘い想像の国に誘う力があった。しかし、聖人の顔の曇は深くなるばかりであった。
夫人はにこやかに笑って、
「おゝ、先生の顔は漸く美しゅう輝いて来た。妾はいろ/\の酒と杯とを持って居る。香の煙が、先生の苦い魂に甘い汁を吸わせたように、酒のしたゝりは、先生の
厳しい体に、くつろいだ安楽を与えるであろう。」
斯く云う言葉の下に、銀冠を戴き、
蒲桃の帯を結んだ七人の女官は、様々の酒と杯とを恭々しく卓上に運んだ。
夫人は、一つ一つ珍奇な杯に酒を酌んで、一行にすゝめた。其の味わいの
妙なる働きは、人々に正しきものの
値を卑しみ、美しき者の値を
愛づる心を与えた。
碧光を放って透き徹る
碧瑶の杯に盛られた酒は、人間の嘗て味わぬ天の歓楽を伝えた甘露の如くであった。紙のように薄い青玉色の
自暖の杯に、冷えたる酒を注ぐ時は、
少頃にして
沸々と熱し、悲しき人の
腸をも焼いた。南海の
鰕の
頭を以て作った
鰕魚頭の杯は、怒れる如く紅き数尺の
鬚を伸ばして、浪の
飛沫の玉のように金銀を鏤めて居た。しかし、聖人の眉の顰みは濃くなるばかりであった。
夫人はいよ/\にこやかに笑って、
「先生の顔は、更に美しゅう輝いて来た。妾はいろ/\の鳥と獣との肉を持って居る。香の煙に魂の悩みを
濯ぎ、酒の力に体の
括りを
弛めた人は、豊かな食物を舌に
培わねばならぬ。」
かく云う言葉の下に、
珠冠を戴き、
菜※[#「くさかんむり/哽のつくり」、U+8384、42-5]の帯を結んだ七人の女官は、さま/″\の鳥と獣との肉を、皿に盛って卓上に運んだ。
夫人はまた其の皿の一つ一つを
一行にすゝめた。その中には
玄豹の
胎もあった。
丹穴の
雛もあった。
昆山龍の
脯、
封獣の

もあった。其の甘い肉の一
片を口に
啣む時は、人の心に凡べての善と悪とを考える
暇はなかった。しかし、聖人の顔の曇は晴れなかった。
夫人は三度にこやかに笑って、
「あゝ、先生の姿は益立派に、先生の顔は愈美しい。あの幽妙な香を嗅ぎ、あの辛辣な酒を味わい、あの濃厚な肉を
啖うた人は、凡界の者の夢みぬ、強く、激しく、美しき荒唐な世界に生きて、此の世の憂と悶とを逃れることが出来る。妾は今先生の眼の前に、其の世界を見せて上げよう。」
かく云う終るや、近侍の宦者を顧みて、室の正面を一杯に
劃った
帳の蔭を指し示した。深い皺を畳んでどさりと垂れた錦の
帷は、中央から二つに割れて左右へ開かれた。
帳の彼方は庭に面する
階であった。階の下、芳草の青々と萌ゆる地の上に、暖な春の日に照らされて或は天を仰ぎ、或は地につくばい、躍りかゝるような、闘うような、さま/″\な形をした姿のものが、数知れず
転び合い、重なり合って
蠢いて居た。そうして或る時は太く、或る時は細く、哀な物凄い叫びと
囀が聞えた。ある者は咲き誇れる牡丹の如く
朱に染み、ある者は
傷ける鳩の如く
戦いて居た。其れは
半は此の国の厳しい法律を犯した為め、半は此の夫人の眼の刺戟となるが為めに、酷刑を施さるゝ罪人の群であった。一人として衣を纒える者もなく、完き膚の者もなかった。其の中には夫人の悪徳を口にしたばかりに、
炮烙に顔を
毀たれ、頸に
長枷を
篏めて、耳を貫かれた男達もあった。霊公の心を惹いたばかりに夫人の嫉妬を買って、鼻を

がれ、両足を

たれ、鉄の鎖に繋がれた美女もあった。其の光景を恍惚と眺め入る南子の顔は、詩人の如く美しく、哲人の如く厳粛であった。
「妾は時々霊公と共に車を駆って、此の都の街々を過ぎる。そうして、若し霊公が情ある眼つきで、
流眄を与えた往来の女があれば、皆召し捕えてあのような運命を授ける。妾は今日も公と先生とを伴って都の市中を通って見たい。あの罪人達を見たならば、先生も妾の心に逆う事はなさるまい。」
こう云った夫人の言葉には、人を壓し付けるような威力が潜んで居た。優しい眼つきをして、
酷い言葉を述べるのが、此の夫人の常であった。
西暦紀元前四百九十三年の春の某の日、黄河と
淇水との間に挟まれる
商墟の地、衛の国都の街を
駟馬に練らせる二輛の車があった。両人の
女孺、
翳を捧げて左右に立ち、多数の文官女官を周囲に従えた第一の車には、衛の霊公、宦者雍渠と共に、
妲妃褒
の心を心とする南子夫人が乗って居た。数人の弟子に前後を擁せられて、第二の車に乗る者は、
尭舜の心を心とする
陬の田舎の聖人孔子であった。
「あゝ、彼の聖人の徳も、あの夫人の暴虐には及ばぬと見える。今日からまた、あの夫人の言葉が此の衛の国の法律となるであろう。」
「あの聖人は、何と云う悲しい姿をして居るのだろう。あの夫人は何と云う
驕った風をして居るのだろう。しかし、今日程夫人の顔の美しく見えた事はない。」
巷に
佇む庶民の群は、口々にこう云って、行列の過ぎ行くのを仰ぎ見た。
其の夕、夫人は殊更美しく化粧して、夜更くるまで自分の
閨の錦繍の蓐に、身を横えて待って居ると、やがて忍びやかな
履の音がして、戸をほと/\と叩く者があった。
「あゝ、とうとうあなたは戻って来た。あなたは再び、そうして
長えに、妾の抱擁から逃れてはなりませぬ。」
と、夫人は両手を擴げて、長き袂の
裏に霊公をかゝえた。其の酒気に燃えたるしなやかな
腕は、結んで解けざる
縛めの如くに、霊公の体を抱いた。
「私はお前を憎んで居る。お前は恐ろしい女だ。お前は私を亡ぼす悪魔だ。しかし私はどうしても、お前から離れる事が出来ない。」
と、霊公の声はふるえて居た。夫人の眼は悪の誇に輝いて居た。
翌くる日の朝、孔子の一行は、
曹の国をさして再び伝道の途に上った。
「
吾未見好徳如好色者也。」
これが衛の国を去る時の、聖人の最後の言葉であった。此の言葉は、彼の貴い論語と云う書物に載せられて、今日迄伝わって居る。