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図書カード:No.52357

作品名: アルカプトン尿の発現
作品名読み: アルカプトンにょうのはつげん
副題: 化学的個人差の研究
副題読み: かがくてきこじんさのけんきゅう
作品集名:
作品集名読み:
著者名: ギャロッド アーチボルド
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作品データ

分類: NDC 467
作品について: アルカプトン尿症は数十万人に一人の稀な病態であり尿が黒変することによって十六世紀ごろから知られていて、十九世紀中葉に異常物質はアルカプトンと命名され、十九世紀末にはこれがホモゲンチジン酸と同定された。アーチボルド・ギャロッドはそれまでも尿中の異常色素の研究を行っていたので、患者を診察し尿を分析するとともに、この病態の人たちの家族関係を調べ、これが1)生まれつきのものであり、2)兄弟姉妹にも同じ病態のものの居ること、3)両親にいとこ結婚の多いこと、を明らかにした。彼はこれらの観察を1901年に発表した。さらにこれらがメンデル法則によって説明できることを加えて1902年のランセットに刊行した。それが本論文「アルカプトン尿の発現 化学的個人差の研究」(1902)であり、人類遺伝学の最初の論文と言うべきものである。メンデル法則が再発見されたのは1900年のことである。彼はまた化学的変異が進化論的に重要なことを指摘し、種の間だけでなく一つの種の中でも代謝に個体差(individuality)のあることを論じた。アルカプトン尿症だけでなく、白皮症、シスチン尿症、ペントース尿症もこのような個体差による可能性を示した。これらの考えをさらに発展させたのが「「先天性代謝異常」(1909)である。(水上茂樹) 訳者による、作品の解説と著者の紹介はこちらへ。
文字遣い種別: 新字新仮名
備考:

作家データ

分類:著者
作家名: ギャロッド アーチボルド
作家名読み:ギャロッド アーチボルド
ローマ字表記:Garrod, Archibald
生年:1857-11-25
没年:1936-03-28
人物について: アーチボルド・ギャロッドは人類遺伝学、先天性代謝異常学の創始者であるとともに、今より1世紀前に分子生物学の基本原理「一遺伝子・一酵素」を考え出した先駆者でもある。彼はオクスフォード大学で自然科学を学んだ後にロンドンの聖バーソロミュー病院で医学を学び卒業後の1年はウィーンに留学した。最初しばらくはハーレー街(専門医の街)で父親アルフレッドの開業を手伝ったが研究から離れることができず病院に戻った。父親は高尿酸血症と痛風の関係を明らかにした著名な研究者でもある。アーチボルドはまず分光器を使ってポルフィリン尿症の研究を行った。この時に研究を手伝ったのは後のケンブリッジ大学生化学教授のフレデリック・ホプキンズであり生涯のあいだ互いに尊敬しあった。次に彼は1895年ごろからアルカプトン尿の分析および遺伝の研究を行い、論文「アルカプトン尿の発現 化学的個人差の研究」(1902)および著書「先天性代謝異常」(1909)を刊行した。彼の名声は高かったが病院における地位は30年近く上がることなく、50才を過ぎても著書(1909)の肩書きは化学病理学の副医師、講師とある。一次世界大戦では軍医としてマルタ島で勤務した。この戦争で彼は悲しい運命に見舞われ、3人の息子のうちの医師である2人は戦死し、末息子は休戦直後にスペイン風邪によって死亡した。帰国して臨床研究および医学教育の改革に努力して成果をあげたが、オクスフォード大学の欽定教授に招聘されて気乗りはしなかったが就任した。63才のことであった。7年ほどで退職しケンブリッジ大学で最初の女性正教授であった娘の家で生涯を終えた。退職後に自由な身となって刊行した"Inborn Factors in Diseases"(1931)は病気素因の生化学的基礎を論じたエッセーであり長いあいだ無視されていたが、最近になってリプリントが刊行されて読まれるようになったと言われている。ギャロッドは広く臨床医学、生化学、遺伝学を研究し、活動は多岐にわたるので、その生涯を書くのは困難である。詳しくは人類遺伝学者でありギャロッドの生涯を研究し伝記(1993)や幾つもの論文を書いたBearnによる2つの評論 [1],[2]を参照されたい。年代記的な短い伝記としては[3]が参考になる。(水上茂樹) wikipediaアイコンArchibald Garrodwikipediaアイコン一遺伝子一酵素説

分類:翻訳者
作家名: 水上 茂樹
作家名読み:みなかみ しげき
ローマ字表記:Minakami, Shigeki
生年:
没年:
人物について: 大恐慌の申し子(1930年生まれ)。最初の確かな記憶は1936年2月26日の大雪。小学校、中学校の記憶は軍事教練、勤労動員、家と学校の焼失、飢餓であって勉強でもクラブ活動でもない。医学生になり英語の医書を求めて日比谷の占領軍図書館に行きシゲリストの本に出会う(1949)。シゲリストの影響で医学史とソヴィエット医学に興味を持つようになる。栄養失調をみてきたので卒業後は栄養学を専攻したが結局は赤血球や白血球などの生化学の研究を行った。1961年にフィラデルフィア(フォートラン発祥の地)に居たときにコンピュータに興味を持った。大学紛争初期(1967)に発端となった大学から福岡の大学に移り26年間を生化学の教育と研究で過ごした。定年後に移った私立大学ではまず1995年頃に外に通じないウェブを作り、インターネット網に繋がってからは図書館に公開してもらっている(貝原益軒アーカイブなど)。2000年にここも定年となり別の私立大学で2006年まで栄養学科新設に協力した。ここでは米国栄養学雑誌に連載されていた栄養学小史を翻訳し大学ウェブで公開してもらっている。その後は晴耕雨読の生活で半世紀以上前に興味を持った医学史関係の文献を対訳の形で個人ウェブに公開している。(水上茂樹)

底本データ

工作員データ

校正者: Juki

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