未見の人

正宗白鳥




 或る日私は急な相談事があつて、友人末永を訪ねた。いつもの通り案内をも乞はず、庭木戸から聲を掛けて座敷の障子を開けると、彼れの細君や母や妹やが一所になつて、腹を抱へて笑つてゐる。私は相變らず氣樂な家庭だと、少しあきれ氣味で、
「どうしたんだい。」と、座敷に突立つたまゝ、皆んなを見廻した。すると末永は一人笑ひを止め、
「何でもないんさ、今武部といふ男が來てね、變な眞似をして行つたもんだから。」
「武部?……聞いたことのあるやうな名だが。」と、私は首をかしげて考へて、「さうだ/\、何かの折に河野が話してたが、一種猛烈な社會主義みた事を云つてる男ぢやさうぢやないか。そして何處へ行つても長く勤まらんさうぢやないか。」
「君は此家ここで會つたことはなかつたかね、よく來る男だが。」
「いゝや知らんよ。」
「さうかねえ、君とはまるで肌合ひの違つた男だよ、顏にも特色があつて、一度見たら忘れられん顏立ちだ。額が出て目がくぼんでゝ、あまり人相がよくない。」
「私、あの方があんな眞似をなさらうとは思はなかつたわ。」と、細君はやうやく笑ひを收めたが、名殘りはまだ口元に漂うてゐる。
「どんな眞似をしたんです。」と、私は問うた。
「どんなつて、貴下あなた何時いつも苦蟲噛み潰したやうな顏をして、むづしい理窟ばかり云つてる方が、今日けふはどうしたんだか、お酒も召し上らないのに、犬の遠吠えの眞似だの鷄の眞似だのなさるんですもの。」
「四つ這ひになつて、あの長い首を振つた樣子たら、本當に何ていふんでせう。」と、妹は細君を見て、又二人で笑ひ出した。
「さう云へば、あの人も樣子が變だよ、此頃は。」と、母はもつともらしく云つて、矢張り目にも口にも微笑を帶びてゐる。
 私も一座の笑ひに引き込まれて、ツイ笑つたが、その實可笑をかしくも何ともなかつた。で、人々の注意は目の前にゐる私よりも、既に歸つた後の武部に向つてゐるので、私は眞面目な相談事を持ち出す機會がなく、
「ぢや餘程變だつたんだね。」と、詮方せんかたなしの相槌を打つて、「その武部は今何をしてるんだ。」と、問ひたくないことを問うた。
「相變らずの無職業で、氣の毒は氣の毒だがね。しかしあれも貧乏馴れてるから、さうヤキモキしてもゐない。ほかで思つてるほど苦にもならんのだらう。」と、末永は胡坐あぐらを掻いて、ひげひねりながら、片膝で貧乏ゆるぎして「武部は一寸ちよつと英語が出來て、會話も巧いんだから、通辯でもやるといゝんだが、どうも人間が片意地だからいかん。僕はあの男とは子供の時からの友達で、よく氣風を知つてるんだが、何時いつまで立つても直らんよ。」と云ふ。
「昔からあんな方なんですか、貧乏ばかりして。」と、細君が可愛らしい目を更に可愛らしくして問ふ。
「なあに武部も相當の家に生れて、學資だつて人並に遣つて學問したんだが、氣風があゝだからね、つまり死學問しにがくもんさ。」と、末永は仔細らしく眞顏になつて、
「僕等が小學校の卒業間際だつたらう、寒い日に兔狩りをやつたことがあるがね、今でもよく覺えてるが、彼奴あいつ一人は、近道だと云つて、皆が留めるのも聞かないで、僕等と離れてけはしいとこを駈け下りてね、道を迷つて何時まで立つても宿へ歸らんから、獵師を搜しにやつたことがあるよ、そして彼奴歸つて來ると、平氣な顏で、どうせ夜が明けたら道が分るから今夜は羽織を被つて、松の根で寢るつもりだつた、彼所あすこにや野宿するのにいゝ所があるつて澄ましてやがる。すべてそんな風で、滅多に物に驚いたことのない奴だつた。それから中學校を出るともう、學校生活は止めだと云つて、一二年間は何もしないでゐたが、又考へ直したのか、慶應義塾へ入つて來て、僕等より二年遲れてゐても、別に氣にもせず、あせりもしないで、コツ/\勉強してゐた。どうも學校時代にはえらいのだか、ノロいのだか、分らないで、友人仲間でも評判がまち/\だつたが、今になつて見りや、つまり融通ゆうづうの利かん才氣のない變人たるに過ぎないのだ。通辯以上の價値はないね。卒業後に僕等の商店へも入つたのだが、ちつとも働けんので、自分から負け惜しみを云つて止してしまつた。それからは取り留めもないことばかりして、たうとう財産のなくなるまで喰ひ潰してしまつたのだ。これからどうすることか。先月もよくよく思案につきて、保險會社の勸誘員になつたのはいゝが、僅か三日でおさらばと來るんだから心細いさ。」
 と、私に話すのか、細君に話すのか、或ひは獨り言を云つてるのか、きまりのつかぬ態度であつた。私はさして面白味も感じない。
「私も三年越しちよい/\あの方にお目に掛かるんですけど、ちつとも氣心が分らんのですよ。」と、細君は私の顏を見て云つて、「でも今日の樣子だと惡い人ぢやないわね。」と、今度は末永を顧みた。
「さうだとも。あれで愛宕あたご町の鳥屋のあまり奇麗でもない女中に熱中して、なけ無しの金をはたいたことがあるんだよ。あの時は女のために盡したもので、何日の何時に來いと云へば、それこそ火が降らうがやりが降らうと、ちやんと時間を間違へないで行く。身體からだの加減が惡いから、藥を買つて來て呉れと云へば、正直に買つて行つてやる。そして女の方ぢやかへつて馬鹿にしてるんだらう。僕等も見兼ねて意見もしたし、冷笑ひやかしもしたがね、あの男のことだから、丸で馬の耳に風だ、れたんだから仕方がないと云つて、臆面もなく、せつせと通うて、その揚句が自分の物にやならないで、その女は何でも遊人の女房になつたさうだ。しかし武部は失望はしてたけれど、別に恨んではゐなかつたらしい。」と、末永が云ふ。
「おや、あの方でも女に迷つたことがあるのですか、あんな恐い顏をして。」と、細君はあきれてる。
 私はこの夫婦等が下らんことを云ひ合つて、面白がつてるのを片腹痛く感じ、
「可愛さうに、武部といふ人だつて、男だから、たまにや女にも惚れるだらうよ。」と、云つた。そして何となく武部のために辯護してやりたいやうな氣がした。
「だつて、貴下、一度會つて御覽なさい、そりや女に縁のありさうな柄ぢやないんですよ。」と、細君は私を壓しつけるやうに云ふ。
「全く柄にないさ。」と、末永は呑氣のんきさうに相槌打つて、「さう云へば武部が函館にゐた時だつたか、露西亞ロシヤから虚無黨の男が逃げて來てね、何かの※(「夕/寅」、第4水準2-5-29)つてで武部と知り合ひになつて、二人とも意見が合ひさうだから、話したくてならんのだが、向うは日本語も英語も知らんし、此方こつちは露西亞語を知らんし、仕方がないから、毎日會つては默つて顏を見合つては首俯うなづき合つて別れてたさうだ。睨み合つてるだけでも、多少意志が通じるといつて、十日も十五日も根氣よく往來ゆききしてたさうだが、成程露西亞人と武部となら、向ひ合つてると兄弟のやうな氣がするだらう。」
「さうね、その二人が睨みつくらをしてる所をそばから見てたら、どんなに恐かつたでせう。」と、細君や妹が又笑ひ出した。
 私は急に武部に對して好奇心が起つて、「面白い男だね、遇つて見たいね。」と云つた。
「ぢやこの土曜あたり武部を呼ぶから、君も來玉へ。彼奴あいつは暇だから御馳走でもすると云へば、何時いつでも飛んで來るだらう。」と、末永が云ふと、
「又犬の眞似でもさせるんですね。」と、細君はなほ侮蔑さげすんだやうな口を利く。
 私は用事を濟ませて歸つたが、歸る道々武部はどんな男だらうと、獨り勝手な想像をたくましくした。
 そして土曜の晩、武部に會ひたいばかりに、用事をも繰り合はせ、末永の招きに應じて行つたが、肝心の武部は待てども/\遂に顏を見せなかつた。
「あの男が差支へのある譯はないんだが……是非といつてやつたのに來ないのは怪しからん。」と、末永は食事の終るまで殘念がつてゐた。武部を御馳走のツマにして、私を喜ばし、一家の笑ひの種ともしようと思つたのが、當てがはづれたのであらう。
 その後しばらく私は末永の家へも寄つかず、武部の噂をも聞かなかつたが、或る日新聞で武部三郎といふ男が不穩の行爲によつて、拘引こういんされたといふ簡單な記事を見た。あの武部の名は聞かなかつたが、どうもこれと同人ぢやないかと思はれる。そして、色々と想像して見たが私には犬の眞似をしたといふ武部が道化た男とも、意氣地のないツマラヌ男とも思はれず、何となくエライ、場合によつてどんな事でもしかねぬ男のやうに思はれてならぬ。
 但し會つて見たら、末永一家の思つてるやうな下らない人間かも知れぬ。





底本:「正宗白鳥全集第一卷」福武書店
   1983(昭和58)年4月30日発行
底本の親本:「白鳥集」左久良書房
   1909(明治42)年5月23日発行
初出:「文章世界 第四巻第一号」
   1909(明治42)年1月15日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:najuful
2025年10月23日作成
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