何月ぶりかに来た若い客が、迷わずに来たといって自慢そうな顔をした。
「途中でききましてね、あのお宅は垣根を作りましたかというと、いや元のままですといって、その人はにやにやしましてね」などと、さも賢こそうに自分もにやにやした。
わが家には垣根がない、ひと並べ灌木がぼさぼさ植わっているだけである。家も北方へひっ傾がって(持主の大橋さんは佐佐木茂索氏の前夫人の母堂であって、このまえ「ひっ傾がって」と書いたらすっかり怒られてしまったが、これは持主の責任ではなく、専ら店子である私の責任であります)ときに寝ていて月をながめられるという風流な家を、風流なままに住みこなしている。私はこの家が好きだし、近ごろでは訪客も馴れてあんまり迷わなくなった、先に述べた若い客のように、もしかして垣根でも作ればそのほうがかえってまぎらわしくなるだろうと思う。
もっとも今年は夏に門を立てた。門などというと笑う人があるかもしれないが出入り口を表示するため棒グイを二本立てたのである。直径三寸ばかりの公明正大な丸太ん棒で、折から道路工事に来ていた人夫諸君(わが妻きんべえがうまくおだてたらしい)が協力して立ててくれたものである。これが出来たときは家じゅうでげらげら笑った。きんべえは自分が主謀者だもので、「この上へ電気を付ければ夜なんかでも門だということがわかるわよ」などと主張するのであるが、棒グイの上の門燈では関東配電の工事担当者も乗り気になれないだろう。私もまだそこまでは手が回らない。
だれそれが家を建てたとか買ったとかいうことをよく聞くが税金を払ったうえにそんなことができるかと思うとケゲンの念にたえない。私などはむろん数の内には入らないだろうが、正直に告白すると、お情けで税金が加わってくるので、死ぬまでに払いきれるかどうかわれながら疑わしいというのが現実である。
昔は文筆家などが家を建てると、建つか建たないうちにちょいちょい死んだものであった。知っている人は知っていると思うが、
「だれそれが家を建てるそうだ」
「じゃあそろそろ死ぬな、一杯やろうか」
すぐさま飲む口実にされたものである。そしてふしぎに的中したものであった。
ばん近はそんなことはない。家を建てたぐらいで死ぬような腰抜けではとうてい文筆家は勤まらないらしい。よもやと思うような人でもどしどし建てたり買ったりしているようだ。ひだりまえになったら売っとばして間借をすればいい、などと豪快に割り切っている向もあるというが、私の少年時代には相場師といわれる人たちがそんなふうな生活をしていたようである。こんなことをいうとおべっかを使うと思われるかもしれないが、私としては文筆家にだってそのくらい豪快な士が出てきたんだといいたいだけである。
年末になると思いだすのだが、十数年まえの十二月三十日に、尾崎士郎さんがわざわざやって来られて「少ないが君これを使ってくれたまえ」といって小切手をくれた。額面三百七十五円八十銭という小切手である。振出人は尾崎士郎五郎とかなんとか書いてあったようだ。そんなはずは絶対にあり得ないので悪ふざけだということはすぐにわかったが、それでも胸のところがどきどきしたことはたしかであった。士郎さんは「十年たったら額面だけの金を君にやる」といばっていた。それからついでにいうが黒糸おどしのよろいも「必ず」くれる約束であった。
一般に帳面が利くようになったので、今年の暮は昔のように勘定取が押掛けて来るもようである。帳面の利かないのも困るが利くのも困るというのはおかしなものではないか。馬込時代にみんなでこんなうたをうたった。「――文学時代は締切で博文館はまにあわず急げや急げ講談社」というのであるが、どうやら同じような年末が復活して来そうである。
「朝日新聞」(昭和二十七年十二月)