矢押の樋

山本周五郎





「あれはなんだ、衣類のようではないか」
 外村重太夫とのむらしげだゆうは扇子でを除けながら、立停ってあごをしゃくった。城の内濠うちぼり土堤どての上に、衣服と大小がひとたばねにして置いてある、六月早朝の大場は、ぎらぎらと刺すような烈しい光を射かけているが、まだ四方あたりには人の姿も見えない刻限だった。
加兵衛かへえ此処ここへ持って来てみい」
「はっ」
 供の者がぐに登って、衣服と大小を抱えて来た。……すると、それをみつけたのであろう、土堤の向うから慌てて呶鳴どなる者があった。
「おい、それを持って行っては困るぞ、持主は此処にいるんだ、返してれ」
「……誰かおります」
 加兵衛がうかがうように見上げると、重太夫は身軽に土堤へ登って行った。……内濠の水面にぽかりと頭を浮かして、一人の若侍が泳いでいるところだった。顎骨の張った、眉の太い眼の大きな、そして全体にどこか剽軽ひょうげた印象を与える顔だちをしていた。
不届者ふとどきもの、なにをしておる」
 重太夫が大声に叫ぶと、若者はあっと大きく眼をみはった、相手が勘定奉行かんじょうぶぎょうだということを認めたらしい、ひょいと頭を下げるような身振をしたと思うと、そのままずぶりと水の中へ潜ってしまった。土堤の上から濠の水際までは急斜面で二十尺ほどもある、だから重太夫の立っている場所からは、広い濠の水面が隅々まで一望だった、それにもかかわらず、いちど水中へ沈んだ若者はなかなか浮上って来なかった。
 ――何処どこかで見たことのある顔だ。
 そう思いながらなおしばらく待っていたが、早出仕を控えているので、やがて重太夫は土堤を下りた。
わしひとりでまいるから、其方そのほうは此処で見張っておれ、誰の組で名はなんと申すか、しか取糺とりただして来るのだ」
かしこまりました」
たしかめるまで衣類を渡してはならんぞ」
 念を押して置いて重太夫は登城した。
 彼が役部屋へ入ると、既に出仕していた蔵方くらかた長谷伊右衛門はせいえもんが、待兼ねたように、一通の書状を手にしてそばへ来た。……重太夫はそれが、数日来待っていた大坂蔵屋敷くらやしきからの書状だということを直ぐに察した。そして伊右衛門の眼色が明かに、書面の不首尾を語っているのをも※(「二点しんにょう+官」、第3水準1-92-56)みのがさなかった。
「どう申して来た、矢張りいかぬか」
「よほど奔走した様子でございますが、奥羽おおう諸藩一様に買付けが殺到しておりますのと、肥後ひご尾州びしゅう、中国諸国が今年も不作模様とのことで、現銀げんぎん仕切りならでは到底覚束おぼつかなしとの文面でございます」
「……やむを得まい」
 重太夫はふっと天井を見上げるようにしたが、「……では折返しう云ってやれ、資金については公儀へお貸下げを願っている、必ず近日中に為替を送る手筈てはずになるであろうから、いや相違なく送るから、かく買付けの約束をまとめて置くように」
「お言葉ではございますが」
 伊右衛門はそっと眼をあげながら云った。
「お貸下げ願いの事は、公儀に於てお執上とりあげにならぬという、江戸表からの書状がまいったと承わりましたが」
「……いま申した通りだ、申した通り書いてやればよい」
「然し買付け約定やくじょうを纏めまして、いざ為替が送れぬと相成りましては、蔵屋敷一同の進退きわまる仕儀に成ろうかと存じますが」
「金は送ると申しておる」
 重太夫は不必要なほど大きな声でさえぎった、伊右衛門は口をつぐんで、じっと勘定奉行の表情をみつめていたが、やがて静かに自分の席へ立って行った。
 延宝八年から天和元年、二年とひどい天候不順で、奥羽一帯は五穀不作が続き、同三年の春からは処々に飢饉状態が現われ始めていた。……羽前国うぜんのくに向田藩むこうだはんは幕府直轄に準ずる地として、松平河内守まつだいらかわちのかみが三万石余を領していたが、同じく旱害かんがいのためほとんど山野に生色なく、城下、農村の疲弊は極めて深刻だった。それでも向田藩は伊達家の押えとして置かれたものであり、一朝事いっちょうごとある場合のため幕府の命で豊富な貯蔵米を持っていたし、また平常から備荒びこう食品の研究の普及している地方なので、春まではどうやら持越して来た。しかし夏月に入ると共に窮乏はおおうべからざるものとなり、一方では僅な例外を除いて、大部分の田地が植付けも出来ぬ状態であったから、農民たちは絶望して不穏な空気がみなぎりだして来た。……そこで藩では非常倉の一部を開くと共に、江戸、大坂への糧米買付けを督促したが、是が資金の足らぬため一向にらちが明かないのである、それは米の大出廻り地方が不作模様であるのと、奥羽諸国の大藩が一時に買付けて来たので、現銀仕切りでないと商人が動かなくなっていたからであった。


 ――お貸下げを願う他に策はない。
 老職たちの望みはその一点に懸っていた、そして借款しゃっかん願いを出したのだが、幕府では折から綱吉つなよしが五代将軍を継ぎ、政治改革を急いでいる時であったのと、向田藩には前将軍時代から片付かぬ借款があるため、江戸邸を通じての出頭は拒否されてしまった。然しそれで済む場合ではない、国許老職は相談のうえ、改めて矢押監物やのしけんもつを使者として江戸へ送った。
 監物はまだ二十九歳の青年だが、矢押家は家老職たる家柄で、現国老の塩田外記しおたげきには娘婿に当っていたし、後任国家老としては外記以上に嘱望されている人物だった。……彼はめとって間のない妻を弟に托し、
 ――出来る限り努力を致します。
 と固い決意を見せて出府した。
 重太夫はそのときの監物の眼をよく覚えている、そして必ず任務を果して来て呉れると信じている、だから蔵屋敷へも自信を持って買付けの督促が出せたのだ。
「唯今あがりました」
 伊右衛門が退さがって暫くしてから、濠端へ残して置いた加兵衛が上って来た。
「どうした、分ったか」
「はい、……それが」加兵衛は四辺あたりはばかるように云った、「矢押やのし梶之助かじのすけどのでございました」
 重太夫は水面に浮いていた先刻さっきの顔をはっきり思出した。矢押梶之助とは、いま江戸に使している監物の弟である。
「なにか申しておったか」
「何処の流も干あがっているのに、お濠だけは満々と水がある、遊ばせて置くのは勿体ないから水練をしているのだと申しておりました」
「不届きなことを」
 重太夫は烈しく眉を寄せたが、他言を禁じて加兵衛を退さがらせた。
 矢押梶之助は二十五歳になる。兄の監物が明敏寡黙な老成人であるのに、彼は少年の頃から我の強い乱暴者で、兄弟の亡き父監物は口癖のように、梶之助は矢押一家のこぶだとさえ云っていた。……いま家中若手の者たちは、五ヵ所に設けてあるお救い小屋の仕事や、また田地へ水を呼ぶための井戸を掘ろうとして、連日の炎暑をおかして山野に働いている、それは多くの人手と、馴れないための非常な困難の伴う労働だった。けれど体力のある若者たちは競って困難に当り、農民たちの先に立って働いた。……ところが、こういう情勢のなかで梶之助だけは別だった、お救い小屋へもすけに出ないし、水脈捜しにも出ない、そのうえ暇さえあると城外北見村の豪農、吉井幸兵衛よしいこうべえの家へ碁を打ちに通っていた。噂には取止めもないが、幸兵衛には加世かよという美しい娘があり、梶之助はその娘に執心で通っているのだとも云う、そういう穿うがった陰口は別としても、彼に対する家中の悪評は今はじまった事ではなかった。
 ――仕様のない男だ。
 重太夫は幾度も舌打をしながらつぶやいた。
 ――監物どのの留守に間違いがあってはならぬ、なんとかしなくては。
 然し事務は寸暇もなく忙しかった、お救い米が既に不足しかかっているので、一日も早く補充して呉れときたてて来る、買付け米が到着すればいいのだ、それまで藩倉の分を出して置く法はある、けれど重太夫の心の奥には、し江戸での借款が不成功に終ったらという一抹の不安があった。……向田藩の貯蔵米は幕府直轄のもので、特に許可のない限り、手を付けることは法度はっとである、今までは自分の腹一つをして開放したが、是以上は主家の安危に関する事だ、……だから重太夫はいま、老職一同の意見をしりぞけて固く藩倉の鍵を握っていた。
 午後からお救い小屋を見廻りに出た、五ヵ所に設けた施粥所せがゆじょの他に、医療所と、家を失った窮民たちのために長屋が三棟建ててある。飢餓に迫られた幾十家族、幾百人という数が、老人も幼児も、男も女も、みんな憔忰し切って、生きた顔色もなくがつがつと粥を啜り、施薬を受けていた。
 ――もう暫くの辛抱だ、我慢して呉れ。
 ――もう直ぐ大坂から米が来る、そうしたら存分に喰べられるぞ、辛抱して呉れ。
 彼は祈るような気持で心にそう呟きながら見廻って行った。


 その翌朝であった。
 例の如く早出仕で、城中内濠の土堤まで来た重太夫は、昨日と同じ場所に、同じ衣服大小が、まるで嘲弄ちょうろうするように脱捨ててあるのをみつけた。……供の者があっと云うのを、重太夫は静かに制して、
「ちょっと此処に待っておれ、誰かまいったら気付かれぬように取繕とりつくろって置くのだ」
 そう命ずると共に土堤へ登って行った。
 水際の石垣の上に、下帯したおびひとつの裸で、昨日の若者が立っていた。二十五歳の健康な体を、斜に射しつける朝の日光に惜気もなくさらしたまま、しきりに紙片を小さく千切っては濠の水面へ振撒いている、……さっきからやっているものとみえて、風に飛ばされた紙片は、まるで落花の流れ漂う如く、かなり広い範囲の水面に散らばっていた。
 ――らちもない、なんという馬鹿な、悪戯いたずらを。
 重太夫はそう思いながら、なお暫く黙って見ていると、やがて若者は静かに両耳へ唾を含ませ、石垣を伝いながらずぶりと水の中へ入って行った。……正に矢押梶之助である、むろん彼の方では、重太夫が見ていることなどは知らない、巧に濠の北側の方を泳ぎ廻っていたが、やがてひょいと身をひるがえして水中へ潜った、十呼吸ほどして浮上ったと思うとまた潜る、如何にもひとり悠々と水に戯れている感じだ。
 三度めに浮上ったとき、
「なにをして居られる、矢押どの」
 重太夫が鋭く呼びかけた。……梶之助は振返って、慌てて潜ろうとしたが、もういちど烈しく名を呼ばれたので観念したか、ひどく具合の悪そうな泳ぎ振りで戻って来た。
「早く上って来られい」
「……唯今」
 急きたてられるのを構わず、悠々と上って来た梶之助は、其処でまた髪毛を押絞ったり、耳の水を切ったりしている、……重太夫は斜面を下りて行った。
「場所柄をはばからずなんという事をなさる」
「……はあ」
「世間の有様を考えたら、ひとり水練などしている場合ではござるまい、それも野外遠くででもあれば格別、この内濠で水浴びなどとは不心得せんばん、余人に見られたらなんとなさる」
「まことにどうも」梶之助は低く頭を垂れた、「早朝ではあり、人眼にはつくまいと存じて」
「馬鹿なことを申されるな、当お城の内濠構えは、他国のどんな城濠とも違って重要なものだ、それゆえ水の深さ、落口の造りなどは秘中の秘にされている、そのもとの家柄は藩の老職、それらの事情を知らぬ筈はござるまい」
「……はあ、まことにどうも」
「監物どのの留守中、斯様な事が役向へ知れたらどうなさる。家中一統、領民の末に至るまで困窮と闘っている時だ、我儘勝手も程にせぬと申訳の立たぬ事になり申すぞ」
 黙って頭を垂れている梶之助を暫くめつけていたが、やがて重太夫は土堤を登って立去った。
 梶之助はそれを見送ってから、大きな眼をもういちど濠の方へ振向けた。……そして水面の一部をじっみつめながら、肌着を取って体を拭い、土堤を登って着物を着た。……背丈が五尺八九寸もあるので、袴を着け大小を差すと、いま裸で叱られていた恰好とは見違えるように立派な姿だった。
 屋敷へは帰らず、城外へ出た彼は、りつけるような日射しのなかを、北見村の豪農吉井幸兵衛の家へ訪ねて行った。
 吉井家は土着の豪農で、領内随一と云われる大地主だし、その屋敷へはしばしば藩主がかごげ、また名義だけではあったが士分扱いとして扶持ふちを貰っていた。……五十余歳になる当主幸兵衛は常に病気勝ちであるため、広い屋敷内に別棟の家を建て、家政は一子幸太郎こうたろうに任せきりで、自分は娘の加世に身のまわりの世話をさせながら、殆ど隠居のような暮しをしていた。
 来つけている屋敷で、殊に出入りの自由だった梶之助は、裏門から入って隠居所の方へ庭を横切って行った。……すると梨畠なしばたけの脇のところで、向うから水手桶を提げて来た一人の娘と出会った。娘は梶之助を見るとさっと頬を染めた、そして直ぐに手桶を下へ置き、たすきを外しながら、
「おいであそばせ」
 と叮嚀ていねいに挨拶をした。……然し梶之助は娘の様子など気付かぬ風で、軽く目礼を返したまま大股に通過ぎて行った。
 娘はそっと男の後姿を見送った。十七八であろう、どちらかと云うと小柄なひきしまった体つきで、睫毛まつげの長い眼許めもとに心のあたたかさの溢れるような表情がある、然しいま梶之助の後姿を見送る眸子ぼうしには、哀れなほど悲しげな、頼りなげな光が滲出にじみでていた。……此家の娘加世であった。


「ございましたか」
「有った、それも二ヵ所はたしかだと思う」
 前庭に赤松の林を配した簡素な住居である。主人幸兵衛は膝の上に両手を揃え、病身らしい痩せた体を前跼まえかがみにしている。……梶之助は畳の上に懐紙かいしを拡げ、硯箱すずりばこを引寄せてさらさらと図を描きながら語をいだ。
「此処に一ヵ所、それから此方に一つ、かなり強く噴出ているようだ」
「そうかも知れませぬ、一の濠から四の濠まで、例年より水位は多少低くなっても、あれだけの水量が絶えぬところを見ますと、……噴口から出る量は相当でございましょう」
「それで樋口ひぐちを此処へ附け、馬場の上から斯う畷手なわてへ引いて来るとして、樋作りの木は直ぐに集ろうか」
「急場のことで木さえ選みませんければ、わたくし共へ貯えてあるだけでもどうやら間に合おうかと存じまするが。……然し矢押さま」幸兵衛はふと眼をあげて云った、「今になって斯様かようなことを申上げるのは如何いかがかと存じますが、この樋掛けは本当にお上からお許しが出るとお思いでございますか」
「出る、お許しは必ず出る」
「お城というものは、石垣の石一つ動かすにもむつかしい掟があると伺いますが、この樋掛けは大切なお濠を干すのも同様。わたくしにはどうもお許しは出まいと考えられてなりません」
「それは是までも繰返して申した通り、必ず拙者が引受ける、大丈夫お許しは出る。……だから幸兵衛どのは出来るだけ早く樋作りを始めて貰いたいのだ」
 幸兵衛は凝乎じっと膝の上の手をみつめていたが、やがて静かに顔をあげた。
「宜しゅうございます、直ぐ人手を集めて仕事を始めると致しましょう」
「それから、表向お許しの出るまでは、なるべく仕事も人眼につかぬように頼む。こういう事は先に洩れると失策しくじり易いから」
「承知致しました、わたくし自分で差配をすることに致します。……若しこの樋掛けが首尾よくまいりますれば、百姓共も他国へ逃げようなどという考えは捨てることでございましょう」
 幸兵衛の声は哀訴するような響を持っていた。
 いま彼が云う通り、城下近傍きんぼう十二ヵ村の農民たちは、窮乏に耐え兼ねてこの土地を捨去ろうとしていた。元来この地方は十年ほどの間隔をおいて、周期的に旱害かんがい、冷害に見舞われている。それが今度は三年も続けざまの旱害で、見る限りの田地は干あがっている、唯一ヵ所、北見村の一部に十町歩ばかり、辛うじて植付けの出来た田があった、彼等は食に飢えている以上に青いものに飢えていた、青い稲田に飢えていた。彼等はそのわずかな十町の稲田を見ることで、どうにか希望をつないで来たのである、然しその十町田も、水の不足からまさに枯死しようとしている。
 ――もう駄目だ、北見の田もいけない。
 ――幾ら苦労してもこの土地では無駄だ。
 みんな絶望してそう思いはじめた。
 ――もっといい土地へ行こう、農作に安全な土地へ行こう。
 梶之助は幸兵衛からその事情を聞いた。十余ヵ村の農民が結束して退国するような事が、若し実現したとしたらどうなる、更にそれが伝わって領内到るところに波及したとしたら、……恐らく拾収のつかぬ騒動になるだろう、どんな方法をもってしても、是は未然に防がなければならぬ事だ。梶之助はいま幸兵衛の助力で、その必至の方法を実行しようとしているのである。
「粗茶でございます」
 ほどなく着替えをした加世が、静かに入って来て茶と菓子とを勧めた。
「これは珍しい」梶之助は娘の方へは眼も呉れずに、無造作に手を伸ばして菓子をつまんだ。
「砂糖漬けの杏子あんずとは久方振りだ」
「お口には合いますまいが」幸兵衛は笑って娘を見やりながら云った、「加世めが自慢の手作りでございます、はしたない物でついぞお出し申したこともございませんが、こんな物も斯様な折にはお口汚しにはなりましょう」
「是が拙者には子供時分からの好物だった。武家は貧乏なものだから、砂糖漬けの菓子などは中々口に出来ないものです」
「お口に合いましたら、別にお屋敷へお届け致します、娘はこのような事が好きで、いつも手まめに作っておりますから」
「それはかたじけないが」と梶之助はにべもなく云った、「こういう美味うまいものを始終食べつけると、口におごりがついていけないものだ、邪魔にあがる折々頂ければそれで充分です」
「そう仰有るほどの物でもございませんが」
 走って来る人の跫音あしおとがしたので、幸兵衛はそう云いかけたまま振返った。……母屋の方から幸太郎が、矢押家の若い家士を導いて来たのである。
「お客さまにお使いでございます」


「なにか急な用か、平馬」
「江戸表より急使でござります、方々お捜し申しました、直ぐお帰りを願います」
「兄上からの使者か」
「……はい」若い家士はと近寄り、ひどく震える声でささやくように云った、「江戸表にて、旦那さま御切腹と……」
「なに! 兄上が御自害」
 梶之助の大きな眼がりんのように光った。
 直ぐに幸兵衛の許を辞して出た彼は、烈しい炎天の道を夢中で急いだ。……いきなり真向を殴りつけられたような気持である、然し予想しなかった事ではない、出府して行く時の兄の眼が、どんな決意を示していたか梶之助は忘れはしない、兄の気質の隅々まで、く知っていた彼は、努めて打消しながら実はこうなる事をおそれていたのである。
 屋敷の中は混雑していた。
 国家老であり、あによめの実父である塩田外記をはじめ、北園五郎兵衛きたぞのごろべえ赤松靱負あかまつゆきえ森井大蔵もりいたいぞう、それに勘定奉行外村重太夫などが、すでに客間へ集っていたし、なおまた後から次々と人が馳けつけて来つつあった。……嫂のなつじょは、極めて落着いた態度で客の接待をしていたが、梶之助の顔を見た刹那に、泣くような表情を颯とそのひとみに走らせた。
「何処へ行っていたのだ」塩田外記は銀白の眉の下から鋭く睨めつけながら、梶之助が坐るのも待たずに叱りつけた。
「留守を預る責任の重い体で、いつもそう出歩いていてどうするのだ、おまえが気楽に遊んでいるあいだに、兄監物は江戸表で切腹して果てたぞ」
「それでお役目はどう致しました、お役を果して死にましたか」
「役目が果せれば切腹には及ばぬ」
「……では、では」
伊十郎いじゅうろう、話して聞かせい」外記がそう云って振返ると、末席にいた内野うちの伊十郎が顔をあげた。……急使にせつけた疲労であろう、蒼白く憔忰しょうすいして、痙攣ひきつったような眼をしていた。彼は監物に附いて江戸へ行った家士の一人である。
「……申上げます」伊十郎は手をついて云った、「旦那さまには御出府以来、さまざまに御苦心をあそばしましたが、公儀の御意向は中々以って動かず、恐れながらお上にも、もはや諦めよと再三仰せあった由に承わります。……それでも旦那さまは望みを捨てなさらず、大老堀田備中守ほったびっちゅうのかみさまはじめ、老中ろうじゅう若年寄の方々を一々お訪ねのうえ、膝詰めのお掛合いをあそばしました――けれどそれも是も」伊十郎は喉へなにか衝上つきあげて来るのを、懸命に抑えながら語を継いだ、
べての御努力が無駄となり、旦那さまには責を負って、今月十二日のの刻四つ(午前十時)、……遂に御切腹でございました」
「死ぬことはなかった」外記がうめくような声で云った、「既にいちどお執上とりあげにならぬと決ったものを押返して二度の願いに出たのだ、不首尾は初めから分っていた、死ぬことはなかったのだ、然し余人なら知らず、監物は生きて帰る男ではない、……惜しい事をした」
「惜しい人物を殺しました」
 外村重太夫が声を震わせて云った。
 みんな粛然しゅくぜんと声をのんだ。
 梶之助の頭は舞狂う光の渦でいっぱいだった。兄がどんな気持で死んだか、彼にはたなごころの物を見るように理解することが出来る、……兄は努力したのだ、努力したが遂にそれは不首尾に終った。然し兄が自殺したのは不首尾の申訳のためではない、主命の重さを示したのだ。主家の使命を帯びた者がどう身を処すべきか、その唯一の道を示したのだ。
 ――兄上、お見事でございました。
 梶之助は心で泣きながら叫んだ。
 弔問の客がすっかり帰り去ったのは、もう黄昏たそがれに近い頃であった。……最後に塩田外記を送り出したなつと梶之助は、急にひっそりとなった家の中で、新しく盛上って来る大きな悲歎を、初めてまざまざと互いの心のなかに感じ合った。
 二人は仏間へ入って行った。仏壇には燈明あかしが瞬いていた、そして、香の煙がその光暈こううんのなかでゆらゆらとしまを描いていた。……なつ女は水晶の数珠じゅずを指に掛け、小蝋燭ころうそくを代えながら静かな声で云った。
「お仏前が寂しゅうございますのねえ」
「…………」
「お花を上げたいのですけれど」
 梶之助はそっと嫂の後姿を見上げた。
「まだいけないのだそうでございますの。……お通夜の済まぬうちは、お花を上げるものではないと申します」
 落着いた静かな声音こわねであったが、手が泣いていた。……わなわなと震える指につれて、水晶の数珠が微かに冷たい音を立てている。梶之助は膝の上でぐっと拳を握緊にぎりしめた。


 監物の死は大きな波紋を描きだした。
 借款が失敗に終ったとすれば、差当って糧米の買付けが出来なくなる。唯一のたのみを絶たれた家中の狼狽もひどかったが、早くもそれを伝え聞いた領民は騒然と動揺し始め、一刻もゆるがせにならぬ状態となって来た。……そこで外村重太夫は、勘定奉行の責任を以て藩倉の米を開くと触出したが、然しそれより早く、城下近郷十余ヵ村の農民が結束して、正に土地を去ろうとしているという報知が老職たちを驚かした。
 ――若しそれが事実なら一大事だ。
 ――他処よそへ広がらぬ内に取鎮めねばならん。
 ――然しどうしたら喰止められるか。
 国老塩田外記はじめ、全重職が城中黒書院に集って緊急の協議を開いた。……だが事ここに至ってなんの策があろう、今日までに有らゆる手段を尽して来た。唯一つの希望が絶たれたという抜差しならぬ感じが、誰の頭にも重たくのしかかっていたのである。
 同じところを堂々巡りするだけで、協議は直に行詰りへ来た。
「事態はさし迫っている、なにか手段はないか」
 外記は焦り気味に声を励ました。
「捨置けば大事に成るのだ、然もそれは目睫もくしょうに迫っている、仕方が無ければ、法を用いて退去する者を縛らせてもよい」
 ――外記がそう云いながら、手にした扇子を荒々しく置いたとき、
「恐れながら申上げたい事がございます」と矢押梶之助が初めて膝を乗出した。……彼は亡き兄の跡目として協議の席へ出ていたが、自分の発言すべき最も良い機会を掴むためにそれまで黙って待っていたのである。
「……申してみい、なにか思案があるか」
「唯一つだけございます」外記の不快そうな眼を見上げながら、梶之助は確信のある調子で云った、「十余ヵ村の農民が結束して退去しようとしますのは、ただ飢餓に迫られている、糧米が無いというだけの理由ではございません。彼等は水が欲しいのです、青い稲田が欲しいのです。幾周年めかには凶作に見舞われ、その度に手も足も出せなくなるというこの根本をどうにかしたいのです、この点に新しい的確な希望を与えない限り、例えいま余るほど糧米を恵んだところで、彼等の決心は動きは致しません」
「それでどうしろと云うのか、この地方が幾周年め毎に凶作に見舞われるのは事実だ、然しそれをどうする事が出来る、……百姓たち自身に手も足も出せぬ事が、我々の力でどう解決出来るのだ」
「いま差迫っての問題を申上げます、内濠の水を彼等に与えて下さい」
 外記も列座の人々も、言葉の意味を疑うように、振向いて一斉に梶之助の顔を見た。
「内濠の水を、どうせいと云うか」
「城壁の一部を壊して樋を通し、先ず北見村の田へ水を引くのです、すれば」
「馬鹿なことを申す!」外記が膝を打って烈しく遮った、「城壁へ樋を通して内濠の水を干せと? 其方それを正気の沙汰で申すのか、梶之助、如何に其方が物知らずでも、武士として城縄張りの重大さを心得ぬ筈はあるまい」
「如何にも、よく存じて居ります」
「知っていてなぜ左様なことを申す、城壁の石一つ動かすにも、公儀のお許しを得なければならぬ厳重な掟があるのだぞ、殊に当城の内濠は格別のもので、いざ合戦の場合にはこうと、軍略のうえに大きな役割を持って居る、その大切な濠へ樋を通し、水を干すなどという馬鹿な事が出来ると思うのか」
「例えまた矢押どのの申す通り」外記の怒りを執成とりなすように、老職の一人赤松靱負が口をはさんだ、「若し内濠へ樋を掛けることが出来るとしても、高の知れたお濠の水量ではどれ程の役にも立たぬであろう」
「いや水の多寡たかではない、当城の護りは内濠に懸っている、濠を空にすれば、伊達藩の押えとして置かれた城の意味が無になってしまうぞ」
 人々は口を揃えて非難し始めた。
 向田の城は高城である、丘陵の上に在って陸前りくぜん国境に連る山塊を負っている、だから敵に攻撃された場合には、その高い位置を利用して、濠の水を一時に切って落すという策が秘められていた。……そんな戦法がどれだけ実際の役に立つか、考えるまでもなく分りきった話である。然し封建的な当時の人々は実際の価値判断をするより先に、「城」という存在の全部を無条件で受容れていた、彼等にとって、その「城」は既に神聖そのものだったのである。
「御意見はよく分りました、然しお待ち下さい」
 梶之助は些かも確信の動かぬ調子で、非難の声を遮りながら語を継いだ。


「仰せの通り城縄張りは重いものです、それはたしかに間違いありません。けれど農民たちはいま一滴の水でも欲しいのです、そして城にはそれが満々とあるのです。……彼等の干割れた田と、この濠にある満々たる水をお考え下さい、この二つだけをずお考え下さい…………若し農を以て国のもととするのが事実なら」梶之助は押被せるように続けた、「彼等の苦しみをよそにして、いたずらに濠の水を守っている時ではありません。今こそ是を切って、彼等と苦しみを共にすべきです。彼等と苦しみを共にするということを、事実を以て示すべきです。濠の水がどれ程の役立ちをするかと仰せられた、如何にもそれはやってみなければ分りません。然し差当って北見の田を救うには充分だし、旨く引けばそれ以上に使える事も慥めてあります。御家老、……樋掛けをお許し下さい、是をお許し下されば、拙者が必ず彼等を取鎮めてみせます」
 外記は唇をひきゆがめ、じっと梶之助の面を見戍みまもっていたが、やがて白い眉をくっとあげながら云った。
「ならん。……」
「然しその他に手段がございますか」
「それとこれとは別だ」
 食いつくような梶之助の眼から、外記は静かに顔をらしながら云った。
「繰返して申すが、濠の水はもとより石垣の石一つ動かすにも重い掟がある、国老としてその掟を破ることは出来ぬ、その意見は無用だ」
 梶之助はぶるぶると拳を震わせた。
 必ず通す、通さずには置かぬ、確信を以てそう考えていた事が徒労に終った。此処まで来れば彼のるべき法は一つしかない、決心はとくに出来ているのだ。……梶之助は席を立って退出した。
 下城して内濠の土堤へかかった時である。
「矢押どの、……矢押どの」
 そう呼びながら足早に追って来た者があるので、振返ると外村重太夫だった。急いで来たとみえて、肌着を徹した汗が帷子かたびらまで滲出にじみでている、……そして側へ近寄るといきなり、「唯今は立派でござった」と感動した声で云った。
「先日は詰らぬ小言を云って、お詫びを申さなければならぬ。なにも知らなかったのだ、さぞ笑止に思われたであろう」
「そう仰せられるのは……」
「水練の意味がはじめて読めた、他の人々は知らぬが、拙者は御意見に感服したのです、それでお詫びがしたくてまいったのだが、……矢押どの、濠の水量は云われた通りでござるか」
「拙者は前後幾度も底へもぐって調べました、一の濠には噴口が二ヵ所あって、かなり強い勢いで噴出しております」
「どうしてお調べになった」
「千切った紙片を水面に撒きました。噴口の上に当るところは、浮いた紙片が円を描きながら散大します、それで噴口の位置も分り、また水の深さと、水面の紙片の散大する速さを考え合せて、おおよそ噴出す量の見当をつけたのです」
 紙片を飛ばしているのを見て、ただらちもない悪戯をすると思った、……あのときの自分を、重太夫はいま新しく思出した。
「拙者は半月ほどまえに、農民たちが退国しようとしている事実を、北見村の吉井幸兵衛から聞きました。そしてそれを防ぐ手段はこうする他にないと思ったのです。然し兄の人望とさかしさが無ければ、老職方の同意を得ることはむつかしい、兄が帰ったら助力を乞おうと考えていたのですが、……結局はこんな事になってしまいました、矢張り拙者では駄目だったのです。死んだ父からよく、貴様は矢押家の瘤だと云われましたが、こうなると矢張り、瘤は瘤らしくやるより他に仕方がありません」
「……矢押どの」
 重太夫は燃えるような眼で、梶之助の顔を見上げた。……二人は暫く互いの眼と眼を見合せていたが、やがて重太夫は呻くように云った。
「後の事は引受けましたぞ」


「どうあそばしました」
 その夜である。……突然訪ねて来た梶之助の表情を見て、出迎えた吉井幸兵衛ははっと胸を衝かれた。
「いけなかった」
「矢張り、そうでございましたか」
「それで別れに来た」
 馬を飛ばして来た梶之助は、片手に持った樋をぐっと突出しながら、然し眉宇びうには微笑さえたたえて云った。
「幸兵衛どのは直ぐに人数を集め、樋掛けの用意をして馬場上まで出て貰いたい」
「……承知致しました」
 梶之助がなにをしようとしているか、幸兵衛には分り過ぎるほど分った。
「誰にも迷惑は掛けぬ、始末は拙者が引受けるから、安心して仕事に掛るよう皆に伝えて呉れ、あとの事は勘定奉行が旨くやる。……では急ぐからこれで」
「お待ち下さいまし」
 直に去ろうとする梶之助を、幸兵衛はすがりつくように呼止めた。
「是からお働きなさるのにいい物がございます、お手間はとらせません、ひと口召上っておいで下さいまし」
「……うん」
 幸兵衛の眼を見て、梶之助は苦しそうに頷いた。……幸兵衛は次の部屋へ入ったが、直ぐに娘の加世を伴って現われた。娘はよろめくような足取で縁先へ出ると、……盆の上に載せた琥珀の杯を、静かに梶之助の方へ押進めた。
「手作りの杏子の酒でございます」
「……かたじけない」
 梶之助は手を伸ばして杯を取った。
 娘は思詰めたように、睫毛まつげの長いつぶらなひとみをあげて、男の顔を見た。梶之助もその眸を見返した。……二人は今日まで、満足には言葉もわしたことがない。娘に執心で通っているという世評とは凡そ逆に、梶之助は出来るだけ加世の心を無視して来た。けれどそうする気持の底には、制することの苦しい愛情が育っていたのだ。
 ――いつかは。
 いつかは娘を妻と呼ぶ日が来るだろう、そして別にそれは困難なことではないと思っていた、然し、今はもうそれも夢である。
 ――ゆるせ、悪いめぐりあわせだった。
 梶之助はそう呟きながら、杯をあおって、もういちど娘の眸をひたとみつめた。
美味うまかった、加世どの。……杏子の酒は初めてです、梶之助は生れて初めて、杏子の酒を口にしました。若しまたこれが欲しくなったら、必ず貴女の手作りを馳走になります」
「……冥加みょうがでござります」
 加世は肩を震わせながらうち伏した。……さかしくも二世を約する言葉だと分ったのだ。
 ――本望だ、あの方は加世の心を知っていて下すったのだ、女と生れた甲斐があった。
 去って行く梶之助の跫音あしおとを聞きながら、娘は激しくむせびあげていた。

 くわが閃めき、杉丸太が飛んだ。
 転げ落ちる石、崩れる土砂、闇をかして濛々と立昇る土埃、二十余人の半裸の人々は、夜半の城壁に向って、いま必死の戦を挑んでいる、指揮する梶之助も、二十余人の家士たちも、頭から土埃を浴び、淋漓りんりたる汗に浸っていた。……家士たちは梶之助のために死を賭した。数は僅か二十余人であるが、その死を賭した力は圧倒的にものを云った。夜半十二時に第一鍬を下ろしてから一刻あまり、内濠の北側に沿った石垣は、既に六尺ほどの幅で、上から下へ大きく切崩されている。
「もうひと息だ、これだけ切ればあとは水の勢いで崩れる、みんな頑張ってくれ」
 梶之助はひそめた声に力を籠めて云った。するとその時、二の曲輪の方から、提灯の火と人影がふらふらと此方へ馳けつけて来た。……塩田外記であった。
「梶之助、梶之助はおらぬか」
「此処におります」
 しわがれた声で叫ぶ外記の前へ、梶之助が大股に進み出た。……外記の後には横目附よこめつけと、その下役が五人いた。
「其方、……なにを、なにをしおる」
 外記はあえぎながら叫んだ。
「協議の席でならぬと申したに、こんな馬鹿な事をしおって、其方、向田藩三万石を取潰すつもりか」
「それはおめがね違いです御家老」
 梶之助は微笑を含みながら云った。
「将軍家の御威勢を以って築いた江戸城も、つい先年土地の緩みで、多くの石垣が崩れたではございませんか、このお城の石垣も、ながいひでりで崩れだしたのです、拙者どもはいま、崩れた石垣を積直しているところです」
「止めい、問答無用じゃ、止めぬと容赦なく取押えるぞ」
「……みんな急げ」
 梶之助は家士たちの方へ叫びながら、大きく一歩ひらいて云った。
「御家老、……繰返して申しますが、拙者どもは崩れた石垣を積直しているのです。僅な人手ゆえ或は防ぎ切れず、内濠の水を切落すかも知れません、その罪は、……矢押梶之助の腹ひとつで申訳を致します、後で石垣を修築するときには、元から『樋』が掛っていたという事実を忘れないで下さい」
「待て、待て梶之助」
「江戸城の石垣も崩れる、向田の城の石垣も崩れる、自然の力は防ぎきれません、これで公儀への申開きは立つと思います」
「切れた、切れた!」
 という家士の絶叫を聞いて、振返った梶之助の眼に、いきなり天空からのしかかるような、恐ろしく大きな黒いものが見えた。
「危い! 逃げて下さい!」
 梶之助は力任せに外記を突飛ばした。
 どうっという凄じい地響きと共に、石と水と土とが一緒になって、その強大な翼を力いっぱい拡げながら崩落して来た。……頭から泥水を浴びて、危くも逃げ延びた塩田外記は、その崩落する濁流と石垣の直下に、梶之助の逞しい体をはっきり認めたように思った。
 ――兄も弟も。
 外記は奔流の暴々しい叫びを聞きながら、呆然と心に呟いていた。
 ――兄も弟も、……こうと決めると後へ退かぬ奴だった。然し覚えて置くぞ、内濠の石垣には樋があったのだ、矢押の樋が。
 梶之助は崩壊する石垣の下になって死んだ、そして再びその石垣が築上げられたとき、其処には城外へ引く大樋が掛けられていた。……梶之助の予想はかなり正確で、その水は北見村の十町田を生かし、更にその附近の田地を広く潤すことが出来た。考えようによれば、無論それは局部的な僅な効果でしかない、然し、……そういう場合には城濠の水も切ろうという、藩政の方向を示した事が重大であった。
 農民たちの退国騒ぎは鎮った、事実をもって示された政治の方向が、彼等に新しい希望を植付けたのである。……それから幾春秋、人々は「矢押の樋」と呼ばれる樋口の畔で、一人の美しい尼僧が静かに誦経ずきょうしている姿をよく見かけた。吉井幸兵衛の娘加世であった。





底本:「白石城死守」講談社文庫、講談社
   2018(平成30)年2月15日第1刷発行
底本の親本:「菊屋敷」講談社
   1970(昭和45)年9月
初出:「キング」大日本雄辯會講談社
   1941(昭和16)年3月号
※表題は底本では、「矢押やのしとい」となっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:noriko saito
2028年7月28日作成
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